2014年8月30日土曜日

日曜日もやれやれ終わった、ママンはもう埋められてしまった。J’ai pensé que c’était toujours un dimanche de tiré, que maman était maintenant entrerée,(L'étranger 「異邦人」Albert Camus, 新潮文庫p27)

また私は勤めにかえるだろう。結局、何も変わったことはなかったのだ、と私は考えた。que j’allais reprendre mon travail et que, somme toute, il n’y avait rien de changé. It occurred to me that anyway one more Sunday was over, that Maman was buried now, that I was going back to work, and that, really, nothing had changed.


現代資本主義は、厳しい競争社会です。生業を確保し、それを維持していくだけでも大変な労力と精神力が必要です。

社会の中で自分の位置を確保し、それを続けるために皆必死なのです。そのうち身も心も消耗し、何もかも投げ出したくなってしまう気分になることは珍しくありません。

こんなことをやって一体何になるのだろう。つまらないことでしかない。

そんな気分になったとき、私はAlbert Camusの「異邦人」のいろいろな場面を思い浮かべます。

人は他人の死を実感できにくい―世界の優しい無関心(la tendre indifférence du monde, the gentle indifference of the world)


Albert Camusは人々が、それぞれが生きていくために毎日の仕事をひたすらこなして行く姿こそ、限りなく貴いと考えたのでしょう。

そこに、不条理(absurdité)を克服している人々がいると考えたのではないでしょうか。

各自は自分なりに夢や希望を持ちつつも、生業に励んでいます。そしていずれは死んでいくのです。

自分が死ぬのは嫌ですから、誰でもいろいろな抵抗をするものですが、死ぬときは誰でも一人です。他人は自分の死に無関心ですが、それは他人が薄情だからではありません。

人は他人の死を実感をもって受け止められないだけです。死んでいく自分も、かつては他人が死んでいくことに無関心だったのです。

人は誰しも、死ぬという宿命を背負っていることを直視すれば、生きていくと降りかかってくる様々な困難や心の苦しみを乗り越えられるのではないでしょうか。

様々な困難や心の苦しみを抱えつつも、生業に励んで生き抜く人々の姿こそ素晴らしい。「シーシュポスの神話」(Le mythe de Sisyphe)にも、そんな文章があります。

「異邦人」の主人公ムルソーの母親への想い―ママンはもう埋められてしまった―


Albert Camusの「異邦人」の最後に出てくる「世界の優しい無関心」を、主人公ムルソーは母親が亡くなった後に感じていたのでしょう。

母が亡くなっても、世間はでいつもと同じように物事が進行していくのです。自分も同じように過ごしていくしかありません。

母親が亡くなったことに心の痛み、空虚さを噛みしめつつ、以前と同じように生きていけばそれで良いのでしょう。それが母親の願いかもしれません。

「ママンはもう埋められてしまった」というムルソーの心中の呟きは、母親が亡くなってしまったことへの哀しみ、母親への愛の言葉です。

ムルソーはアルジェリアの街を限りなく愛していました。ムルソーが亡き母との思い出に耽りつつ眺めているアルジェリアの街の風景は、Camusの心の中にあったのでしょう。

下記はその一つです。ムルソーが「世界の優しい無関心」を感じているのではないでしょうか。

Les lampes de la rue se sont alors allumeés brusquement et ells ont fait pâlir les première étoiles qui montaient dans la nuit.
 
J’ai senti mes yeux se fatiguer à regarder les trottoirs avec leur chargement d’hommes et de lumière.
 
Les lampes faisaient luire le pavé mouillé, et les tramways, à intervalles réguliers, mettaient leurs reflets sur des cheveux brillants, un sourire ou un bracelet d’argent.
 
異邦人 窪田啓作訳 新潮文庫 pp.25
街灯がこのとき突然にともり、夜の中に上った、最初の星々を青ざめさせた。
 
こんな風に、歩道とその上の人影や光をながめることに、私は眼が疲れるのを感じた。街灯は粘つく舗道をきらめかせ、電車は、規則的な間隔をおいて、輝く髪や微笑や銀の腕輪の上に、光を映した。
 
The Stranger, by Mattew Ward, Vintage Books, pp. 24
 
Then the street lamps came on all of a sudden and made the first stars appearing in the night sky grow dim.
 
I felt my eyes getting tired from watching the street filled with so many people and lights.
 
The street lamps were making the pavement glisten, and the light from the streetcars would glint off someone’s shiny hair, or off a smile or a silver bracelet.

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

 
 
 
 
 
 
 

 



2014年8月28日木曜日

ZazのOn ira (We'll go) とLed ZeppelingのThe Immigrant Song (移民の歌)―見果てぬ夢を追い続ける人々―

Edith Piafの再来、仏歌手Zaz


朝晩は暑さがだいぶ和らぎました。蝉が少なくなってきたようです。秋が近づいているのでしょう。

いろいろとやることが多く、ブログを更新できませんでした。合間に仏歌手ZazのOn ira (We'll go) などを聴いています。

ZazのOn iraを、私は遥かなる旅路を行く人への讃歌のように感じました。人は皆旅人、そんな言葉を昔どこかで聞いたように思います。

ZazのOn iraと井上靖「天平の甍」、The Immigrant Song


誰しも毎日の暮らしで精一杯ですが、それでも何かを求めて生きているものです。それは所詮、叶わぬ夢なのかもしれません。

人は叶わぬ夢の実現のために日々苦心しながらも、何かより生じた突然の事態から全てが水泡と化す。遥かなる昔から、人はそんなことを繰り返してきたのではないでしょうか。

井上靖の「天平の甍」を私はそのように読んでいます。

ZazのOn iraの歌詞から、見果てぬ夢を追い続ける人々の姿を思い起こすことができます。

この歌を聴いていたら、ふとLed ZeppelingのThe Immigrant Song (移民の歌)を思い出しました。

この歌は曲も歌詞もZazのOn iraとは全く異なっていますが、どちらからも見果てぬ夢を追い続ける人の哀しさを感じます。

The Immigrant Song 冒頭のアーアーアッ、アーアーアッという高音が印象に残ります。

ZazのOn iraからは砂漠を旅するラクダに乗った隊商の姿。あるいは、馬に乗って大草原を行く人々の姿を私は思い起します。

The Immigrant Songからは、高波の中、上陸地点を求めて船旅を続ける人々の姿。北風の下、流氷が流れていそうです。

人は皆、旅人なのでしょう。

On iraから、中島みゆきの「地上の星」を思い出す方もいるかもしれませんね。

2014年8月20日水曜日

仏歌手Coralie ClémentのC’est la vie(It's Life)とZazのTon Rêve(Your Dream)を聴いて

鉄棒(逆上がり)とJoggingで体を鍛えよう!


猛暑が続いていますが皆様はお元気ですか。私はまだ夏休み中ですので、鉄棒(逆上がり)とJoggingに励んでいます。Joggingをやるようになってもう十年以上経ちます。

8年くらい前の市民マラソンで、自分としては最も良いタイムを出していたように思います。加古川市でのフル・マラソンに参加し、完走しました。市民ランナーとしてはまあまあのタイムでした。

しかし、それだけのタイムを出すためにも日曜日ごとに相当な距離を走らなければならなかったので、今にして思うと時間と体力をそちらに使いすぎたようです。

その後もジョギングと朝の腕立て伏せと腹筋、スクワットを続けてきました。少し前に逆上がりをやったところできたので、気分が良くなっています。

ごく最近は論文の締め切りに追われて忙しく、ブログをあまり更新できませんでした。またこの猛暑でジョギングと逆上がりをやるとかなり疲れてしまい、次の仕事になかなか取りかかれません。

まあ、夏休みは毎年そうなっていたのですが。

Coralie ClémentとZazを聴こう!ZazはEdith Piafの再来か


ごく最近は、勉強の合間に仏歌手Coralie ClémentのC’est la vie(It's Life)とZazのTon Rêve(Your Dream)を聴いています。

Coralieのこの歌では、縦笛の音色とリズム感のある歌い方、Coralieの可愛らしい風貌が印象に残ります。

Zazは、Edith Piafの再来とも言われている若い女性歌手です。私は、Zazのリズム感あふれる歌い方からJazzを連想します。

La vie en rose(バラ色の人生)を何気なく歌ってしまうところがすごい。ZazはHusky Voiceなので、私は宇多田ヒカルを思い起こしました。

Ton Rêve(Your Dream)のリズム感は素晴らしい!

私のフランス語の力ではそれなりに辞書を使わないとこれらの歌の歌詞の意味はわかりませんが、勉強だと思って口ずさむようにしています。

英語の歌詞がインターネットに出ているので、そちらを参照するようにしています。

Coralie Clément、Zaz共にInternetで簡単に探せますので、皆様御時間のあるときに聴取されたらどうでしょうか。

Vox AngeliのSi Seulement Je Pouvais Lui Manquerは「彼が私を愛しく想ってくれたら」


Vox AngeliのSi Seulement Je Pouvais Lui Manquerも引き続き聴いています。この歌は、英語ではIf only he could be missing meと訳されています。

彼が私を愛しく想ってくれたら、という意味です。

Lola Berisら子供たちの澄んだ高音の歌声を聴くと、心が洗われるような気がしてきます。いろいろと疲れている中年の方々に良いかもしれませんね。

2014年8月12日火曜日

仏映画「さらば友よ」(Adieu L'ami, Alain Delon, Charles Bronson, Brigette Fossey, directed by Jean Herman,1968年製作)より思う

逆上がりとジョギングで体を鍛えよう!米国俳優Charles Bronsonを見習って―


先ほど、芦屋浜沿いを走ってきました。蝉が大合唱していました。真夏ですね。

Joggingの途中、公園で逆上がりを数回やりました。体に応えますが、良い運動になります。

私は昭和36年生まれ、53歳ですが何事を成し遂げるにも根性と健康が第一と思っていますので、トレーニングを続けています。

ところで、米国俳優Charles Bronson(1921-2003)を皆さんは御存知でしょうか。

私と同年代か年長の方なら、「ウーン、マンダム」というCMを覚えているかと存じます。この人の渋さと、鍛え上げられた上半身は素晴らしい。

インターネット記事を見るとBronsonはペンシルバニア在住のリトアニアからの移民の家庭に生まれました。Bronsonは若い頃炭鉱で働いていました。ペンシルバニアに炭鉱があったのでしょうか。

Charles Bronsonは中年になってから注目された


1921年生まれのCharles Bronsonは俳優としては遅咲きでした。

「荒野の七人」(1960年, The Magnificent 7)、「大脱走」(1963年,The Great Escape)に出たころは40歳くらいになっていました。

仏映画「さらば友よ」は1968年の映画ですから、46,47歳でこの映画に出ていたことになります。

私はこの映画を40年近く前、中学生の頃テレビで観ました。そのときは単なる金庫破りの話のように思えてあまり面白くなかったのですが、Charles Bronsonの鍛え上げられた上半身が印象に残りました。

Bronsonの太い腕は若い頃、炭鉱で働いていたことを思わせます。

この前の日曜日、台風が去った後に散歩に出かけ、近くのある店でこの映画のDVDを購入し久しぶりに部屋で観ました。この映画はフランス映画だったのですね。

「さらば友よ」の「真犯人」の動機は何か


Charles Bronsonがアルジェリアに派遣されたフランス軍を退役した米国人という役柄で出ています。

Bronsonは映画の中でフランス語をきちんと話していますが、Bronsonのフランス語発音はどの程度の水準なのでしょうね。私のフランス語の力ではよくわかりません。

Bronsonは「雨の訪問者」(Le passenger de la pluie)というフランス映画にも出ています。こちらでも恐らく、フランス語を話しているのでしょう。

「さらば友よ」は、BronsonとAlain Delon演じる元軍医(アルジェリアで同じ部隊に所属)による金庫破りたちの心のふれあいを描いていますが、意外な人物たちが「真犯人」です。

私にはなぜ、「真犯人」たちが危険を冒して金庫破りを策したのかよくわかりませんでしたが、サスペンスとしては良くできていると思いました。

ヒロインはBrigette Fosseyで、「禁じられた遊び」で戦争孤児の女の子を演じた方です。この映画の後、米国映画Red SunでBronsonとAlain Delonは再度共演しています。

三船敏郎もこの映画に出ていました。

愛妻家Bronsonの晩年-愛妻Jill Irelandが大病に―


Bronsonは他に、「狼の挽歌」(1970年)、「バラキ」(1972年)等が知られていますが、これらはBronsonが50歳頃の作品です。

50歳を過ぎても、Bronsonは種々のトレーニングを続けていたのでしょう。頑丈な体を維持していました。Bronsonには到底及びませんが、私も頑張るぞ!という気持ちです。

「さらば友よ」でも、Bronsonが懸垂のようなことを軽くやるシーンがあります。逆上がりくらいは50を過ぎても簡単にやったでしょう。

Bronsonは妻のJill Irelandをとても大事にしていたらしく、彼が大スターになってからの映画にはJillが頻繁に出ています。

残念なことにJillは1984年に乳癌と診断され、1990年に亡くなってしまいました。インターネットには、underwent a mastectomy(乳房切除を受けた)と出ています。

6年間の闘病生活ですから、大変だったでしょう。愛妻の闘病と死を見守ったBronsonはどんな気持ちだったでしょうか。

頑丈だったBronsonは最晩年、アルツハイマーを患っていたようです。大過なく生きていくのは難しいものですね。

個人の努力では、どうにもならない大きな運命があるのかもしれません。神がサイコロをふるのでしょうか。

2014年8月10日日曜日

原始キリスト教についてのメモ(「キリスト教の誕生」佐伯晴郎監修、「知の再発見双書70」より。Premiers chrétiens, premiers martyrs by Pierre-Marie Beaude)

ユダヤ教は数多くの宗派に分かれていた。エッセネ派、サドカイ派、ファリサイ派などである(同書p24)より―


欧米社会を知るためには、基督教について基礎的な知識が必要と思います。私にはこれが不足しているので、同書などにより少しずつ知識を蓄積していくつもりです。

そのため、基督教に関するメモを本ブログに少しずつ書き留めていきますので、宜しく。

イエスが現れた頃、ユダヤ教は数多くの宗派があったそうです。エッセネ派は修道士のような生活をし、村で共同生活を営んでいました。

祈りと農作業を日課とし、朝晩の食事を皆でとりました。食事は椀一杯のおかずと、パン1切れだけでした(同書p24)。

共同の食事、友愛精神、財産の共有など「使徒言行録」に述べられている原始きリスト教の特徴は、エッセネ派の戒律を思わせるものが多いとあります(同書p25-28)。

しかしエッセネ派や死海のほとりの地、クムランの遺跡を残した宗教団体(エッセネ派らしい)は異邦人や他のユダヤ人と接触を持ちませんでした。

サドカイ派と呼ばれる貴族出身の高位聖職者たちは、イエスの弟子たちに不信感を持っていました(同書p28-29)。ファリサイ派は中産階級出身の人たちによる宗派でした。

ファリサイ派はローマ帝国内に多くの会堂を持っていた


ファリサイ派の人たちによれば、モーセの律法は神からの奇跡の賜物で、下層階級も含めたあらゆる人々に教え伝えるべきものでした。

ファリサイ派はローマ帝国内に多くの会堂をもち、宣教活動を行うことを許されていました。ファリサイ派により多くの異邦人が、会堂に集まってユダヤの神を知るようになりました(同書p29)。

地図を見ると、エルサレムのあるユダヤの地の北にはサマリア、その北がガリラヤです。ガリラヤにイエスの出身地、ナザレがあります。

サマリアに住んでいたサマリア人はユダヤ人の隣人ということになります。

サマリア人はゲリジム山というところに神殿を建て、エルサレムの神殿と張り合っていましたが紀元前108年にユダヤの王によりこの神殿は破壊されてしまいました。

エルサレムの住民とサマリアの住民には根深い敵対感情がありました。ユダヤ人たちはサマリア人を異端呼ばわりしていました。

サマリア人の中に、ヨハネやイエスの教えに耳を傾ける人がいました(同書p31)。

原始キリスト教団には社会から疎外されて生きる人々が集まってきた


イエスの説いた教えが、人を差別したり、罪びとと呼んだり、社会的・宗教的な分類をすることに疑問を呈していたので、原始キリスト教団には社会から疎外されて生きる人々が集まりました(同書p31)。

原始キリスト教団に属した誰もが、イエスこそ神に遣わされたキリスト(ヘブライ語でメシア、救世主をギリシア語に訳した)であると信じていました。

「使徒言行録」の著者ルカによれば、原始キリスト教団が最初に成立したのはエルサレムです(同書p33)。

旧約聖書によればいつの日にかエルサレムに、全ての民が結集することが預言されているそうです。この地域の当時の人々にとって、エルサレムこそ聖なる都だったのでしょう。

原始キリスト教団の人々は食事をともにし、パンと葡萄酒を前にしてイエスが語ったことや、行ったことを真似た


原始キリスト教団の人々は信者の家に集まり、賛美歌を歌い、イエスから教わった「主の祈り」を唱え、旧約聖書の律法書や預言書を読み返しました。

原始キリスト教団の活動はエルサレム中心でしたが、教団は次第に成長し、生前のイエスを知る人々が指導的立場となり、十二使徒と呼ばれるようになりました。

その中の中心はペテロでした。ペテロは、「開明的なユダヤ人主義」を代表する人物でした。モーセの律法は守るが、異邦人を排除することはしないということです(同書p31)。

紀元30年から70年にかけて、原始キリスト教内部に深刻な対立が生じます。ペテロとパウロの対立です。

争点は、ユダヤ教の戒律を異邦人の信徒に強制すべきか否かでした(同書p37)。

紀元1世紀に、エルサレムでは後の欧米世界に大きな影響を与えることになる人々がこのような暮らしをしていたということですね。

この本には、カタコンベ(地下墓地)内に描かれた絵が冒頭に掲載されています。ローマ帝国による過酷な弾圧下での、信者たちの思いが伝わってくるような絵です。

後世の、権力そのものになったころの絵画は技術上はずっと上なのでしょうが、私にはカタコンベの絵のほうが訴えるものがあるように感じられます。

今回のメモはこれぐらいにします。次には、ペテロとパウロの対立やパウロの布教について要約するつもりです。

2014年8月8日金曜日

このしるしと星々に満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた(Albert Camusの異邦人、窪田啓作訳、新潮文庫)の最後の節より

これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った(「異邦人」、新潮文庫p127より)―


人には、ちょっとした運命のいたずらでどうしようもない状況に追い込まれていくことがあるようです。遠藤周作のいくつかの小説はそれを主なテーマにしていました。

少し前に、ある著名な学者が無念の死を迎えました。私はその方と知人ではありませんが、同年代で近隣在住の方だったようでもあり、真に残念でです。

それは神がサイコロをふった結果なのでしょうか。後に振り返ると、自分とはさほど関係のない他人の判断、行動が自分に大きな影響をもたらしてしまうようなことがあります。

その結果、大きな災禍にあってしまう人もいます。その災禍は、その人にはさほど責任のないことに由来しているかもしれません。

何であの人がそんなことに、と良く知っている人なら思わざるを得ないが、事情を知らない世間の人はそう思わない。自業自得だとみられてしまいがちです。

そんなとき、窮地に追い込まれた本人はどうやって苦境から脱すれば良いのでしょうか。Albert Camusは「異邦人」でその問いを読者に投げかけたのでしょう。

「異邦人」の主人公ムルソーはふとしたきっかけから死刑囚に―「それは太陽のせいだ」


「異邦人」の主人公、ムルソーは死刑を求刑され、処刑の日を待っている人物です。「異邦人」の最後の、ムルソーの内面を描いた部分は、心に残るものです。

ふとしたきっかけから、ムルソーは死刑囚となってしまいました。ムルソーは狡猾に身を処するようなことが全くできない人物なのです。

アラビア人を殺めた理由を裁判長に聞かれると、「それは太陽のせいだ」と答えるのですから。確かに、アルジェリアの焼けつく日射しは、人の判断と行動を歪めてしまうのかもしれません。

不幸な死に方を迎えることになってしまったムルソーの前から、恋人も友人も去っていきました。処刑の日を待つムルソーに、皆が無関心になってしまったのです。

「世界の優しい無関心に、心をひらいた」とは


そんなムルソーが語る「世界の優しい無関心に、心をひらいた」とは、どんな意味なのでしょうか。

誰しも最期は死ぬのですから、皆「死刑囚」です。自分が「死刑囚」であることに皆、気づいていないだけです。自分が死に直面するまで、他人の死にさほどの関心を抱きにくいものです。

あまり縁のない他人の死に無関心だからと言って、薄情な人間とは言えません。皆、自分が生きていくだけで精一杯なのですから。

死ぬときは誰しも一人なのですが、誰かに看取られながら死にたいものです。

それならば、処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて自分を迎え入れてくれたら、愛しい人たちに看取られて死を迎えることはできなくてもまだよいかもしれません。

ムルソーは、どうしようもない運命の悪戯に抗いつつ、勇気をもって最後まで生き抜く気高い心を持つことができたのです。

「しるしと星々」が死んでいく自分を静かに見つめてくれればそれでよい、という心です。

「しるし」(仏語でsigne, 英語ではsigns)にCamusはどんな意味を込めたのでしょうか。じっくり考えたいものです。

「異邦人」の最後の部分は、マリー・アントワネットの死に方と重なってくるように思えます。

北朝鮮で公開処刑される「政治犯」の多くは、大勢の見物人の前で銃殺されます。「逆賊」とされた張成澤も最後は、大勢の見物人に死を見届けてもらいたかったかもしれません。

人の死を大きなテーマとしたAlbert Camusは、交通事故により若くして亡くなりました。

愛しい人に看取られるどころか、見物人に憎悪の叫びをあげてもらうという機会すら、Camusには訪れなかったのです。

以下は、「異邦人」の最後の部分を抜粋したものです。

新潮文庫p127より


あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、

このしるしと星々に満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。

これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。

すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。


仏語原文より


Comme si cette grande colère m’avait purge du mal, vidé d’espoir, devant cette nuit chargée de signe et d’etoile, je m’ouvrais pour la première fois à la tendre indifférence du monde.

De l’éprouver si pareil à moi, si fraternel enfin, j’ai senti que j’avais été hereuex, et que je l’étais encore.

 Pour que tout soit consommé, pour que je me sente moins seul, il me restait à souhaiter qu’il y ait beaucoup de spectateurs le jour de mon execution et qu’ils m’accueillent avec des cris de haine.


英訳(By Matthew Ward, The Strangerより)


As if that blind rage had washed me clean, rid me of hope, for the first time, in that night alive with signs and stars, I opened myself to the gentle indifference of the world.

Finding it so much like myself – so like a brother, really – I felt that I had been happy and that I was happy again.

For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.



2014年8月2日土曜日

ヤン・ヨンヒ監督「兄 かぞくのくに」(小学館文庫)より思う―長兄は金日成の生誕六十周年記念「人間プレゼント」に―

金炳植在日本朝鮮人総連合会第一副議長(1972年4月当時)の号令により、朝鮮大学校の学生が「社会主義建設の先鋒隊」(同書p48-49)-


長年追い続けてきた自分の夢が全くの幻でしかなかったということを認めるのは極めて難しいのでしょう。自分の人生を根源的に否定することにつながりかねませんから。

「兄 かぞくのくに」(小学館文庫)を読んで、監督のお父さん(大阪府の在日本朝鮮人総連合会幹部)とひと昔前の日本共産党員の姿が重なってくるような思いにとらわれました。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんにとって、祖国とは金日成と金正日だったのでしょうか。北朝鮮と在日本朝鮮人総連合会のような関係は、共産主義運動の歴史ではさほど珍しくありません。

「クレムリンの長女」と呼ばれたフランス共産党の党員、あるい一昔前の日本共産党員は旧ソ連に心酔し、ソ連を礼賛しました。

フランス共産党は1979年暮れのソ連によるアフガニスタン侵攻を支持しました。当時の左翼の視点から見てもこれはおかしかったでしょうが、熱烈なソ連信者にはそれが見えなかったのでしょう。

フランス共産党員の中には、ソ連こそ人類の理想郷、労働者の祖国だと長年思い込んでいた方がいくらでもいたのでしょう。

革命により搾取をなくし、貧困から労働者階級を解放するといった美辞麗句の夢から共産党員が覚めるのは難しかったのでしょう。

今でも、吉良よしこ参議院議員ら若い共産党員は日本革命がありうると思っているのでしょうね。

「南朝鮮革命」「主体革命偉業」は金日成、金正日の贅沢三昧生活を維持、発展させるための「運動」


在日本朝鮮人総連合会の場合、日本帝国主義と戦った金日成将軍が必ず朝鮮半島の南半部から米軍と傀儡を追い出し、祖国を統一して社会主義の理想を朝鮮半島全土に実現して下さるだろうという話を信じ込んでしまったのでしょう。

朝鮮労働党が宣伝する「南朝鮮革命」「主体革命偉業」とは、韓国を消滅させ金日成、金正日の奢侈生活を存続させる策動なのですが、なかなかわかりにくい。

韓国政府がなくなれば、韓国の資産を金日成、金正日の思うようにできます。朝鮮人民軍が韓国に進駐し暴虐の限りを尽くすでしょうから。

「民族」「統一」「祖国への忠誠」などという美辞麗句の本音は、「民族の太陽」金日成、金正日に奢侈生活をさせろと言うだけの話です。朝鮮民族とは金日成民族だと北朝鮮は宣伝しています。

この宣伝に心酔し、身も心も捧げるようになってしまうとそこから抜け出るのは難しい。

金日成、金正日に全てを献上することが最高の美徳と思い込んでいる人々が、一種の小世界を形成してしまい、そこに所属し地位を得ることに大いなる満足感を得るようになってしまいます。

三人の兄が帰国―長兄は金日成への「人間プレゼント」


ヤン・ヨンヒ監督には三人の兄がいました。1971年秋に次男(当時、高校一年生)と三男(当時、中学三年生)が北朝鮮に渡りました。

71年秋なら、先に帰国した在日朝鮮人たちから生活の窮状を訴える手紙がかなり在日朝鮮人たちに届いていたはずですから、北朝鮮が「地上の楽園」でないことはわかっていたはずです。

それでも長兄が帰国したのは、父親が「民族反逆者」となってしまうことを避けるためだったのでしょうか。

「兄 かぞくのくに」(p47)によれば、在日本朝鮮人総連合会幹部の息子が自分たちから「帰国したい」と言い出した以上、朝鮮学校など周囲との関係から「帰国をやめる」などと言うことは無理だったそうです。

ジェットコースターを途中で降りたいというようなものだとヤン・ヨンヒ監督は述懐しています(p47)。当時7歳くらいだったヤン・ヨンヒ監督に北朝鮮の実情などわかるはずもありません。

二人の兄が帰国して少し後、朝鮮大学校一年生だった長男が北朝鮮への帰国団に指名されました(同書p48)。1972年4月15日の金日成の生誕六十周年記念「人間プレゼント」だったとあります(同書p48)。

朝鮮大学校の学生200人を「社会主義建設の先鋒隊」として金日成にプレゼントするというプロジェクトでした(同書p49)。号令をかけたのは金炳植在日本朝鮮人総連合会第一副議長でした(同書p48)。200人のうち半分近くが辞退しました。

残り半分を確保するための決死の思想闘争が繰り広げられたとあります(同書p49)。

御両親は東京の在日本朝鮮人総連合会本部に「長男だけは勘弁して下さい」と重ねて懇願したそうです(p50)が、受け入れられなかったのでしょう。

音楽家になることを志していた長男も帰国し、ヤン・ヨンヒ監督はあたかも一人っ子のようになってしまいました。

誰が金日成への「人間プレゼント」を発案したのか


金日成への「人間プレゼント」という方針ですが、これを発案したのは金炳植だったのでしょうか。金炳植は平壌の朝鮮労働党幹部、対南工作機関の誰かから指導されていたはずです。

平壌から、「もっと帰国させるように」という類の指令が出ていた可能性もあります。

金炳植は「人間プレゼント」の人選に際して、自分に従順でない幹部と、経済的に成功している商工人の子供たちを選ぶよう指示したそうです(同書p51)。

子供を「人質」にとってしまえば商工人は寄付を惜しまないだろうという打算でした(同書p51)。

ソ連に憧れて共産党員となり、スターリン統治下のソ連に自ら入国した人たちの中には、「スパイ」などのレッテルを貼られて処刑されてしまった人がいました(加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」青木書店1994年)。

これは北朝鮮に憧れて渡りその後政治犯収容所に連行されて亡くなった元在日朝鮮人(帰国者)と似ていますが、ソ連は日本に残っている親戚から金を得ようとはしなかった。

当時のソ連が、外貨不足だったわけではありません。またスターリンはそれほどの奢侈生活をしていませんでしたから、外国の物資をむやみに高位幹部に配布するようなことはしなかった。

スターリンの腹心モロトフらが国産の車を忠誠心のある人物に優先して配布した程度です。

Valery Lazarev and Paul Gregory, Commissars and cars: A case study in the political economy of dictatorship, Journal of Comparative Economics 31 (2003), pp1-19がモロトフらによる国産車の配分決定を当時の文書に依拠して調べています。

金正日による「贈り物政治」と日本人拉致


金正日による「贈り物政治」と彼らの奢侈生活を継続するためには、外国の物資とそれを購入するための巨額の外貨が毎年必要です。

朝鮮労働党の対南工作機関は、在日本朝鮮人総連合会に命じて全力で献金を集めさせるしかない。金が十分集まらなければ、人を送れ、という程度の発想です。

実に悔しいことですが、朝鮮労働党は日本人拉致も一種の「人間プレゼント」あるいは「人間調達」として行ってきたのです。

17世紀や18世紀に欧米諸国はアフリカで人間狩りをし、新大陸に連行して奴隷として酷使しました。現代日本では日本人が朝鮮労働党の工作員により「奴隷狩り」されてしまったのです。

北朝鮮からやってきた工作員だけでなく、在日本朝鮮人総連合会関係者も日本人拉致組織、対南工作のための組織に入っていました。

在日本朝鮮人総連合会の活動に長く参加している人なら、少人数で構成される工作員の組織がいくつもあることを聞いているはずです。

対南工作組織とは、大韓民国を消滅させるために策動する人々の組織です。

祖国とは金日成、金正日なのか―叔父を処刑した金正恩も祖国か―


いまだに在日本朝鮮人総連合会に参加している人は、徹底的な経済制裁の対象となってしかるべきです。日本政府は、北朝鮮を訪問した在日韓国・朝鮮人の再入国を拒否するべきです。

特に在日本朝鮮人総連合会関係者については、外国に行った場合再入国を拒否するべきです。中国や東南アジアで対南工作機関幹部と会うかもしれませんから。

日本政府がこれを実施すれば在日本朝鮮人総連合会は抗議するでしょうが、本音では「これでもう対南工作機関幹部と会わなくて済む。もう金を出さなくて良いだろう。良かった」などと思う方がいくらでもいるでしょう。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんにとって、祖国とは金日成と金正日だったかもしれません。しかし、叔父を処刑した金正恩も祖国なのですか?

金正恩のお母さん、高英姫は済州島の出身でした。生野区に住んでいたそうですからヤン・ヨンヒ監督のお父さんなら、高英姫一家を知っていたかもしれません。

高英姫の妹は、亡命してしまったようです。金正日の子供たちは、スイス留学により自由な西側社会を知っています。

「全社会の金日成・金正日主義化」を侵食しているのは元在日朝鮮人と「結婚」し息子や娘をスイスに留学させた金正日だったのです。高英姫が正式の妻だったかどうかは不明です。

後継者のお母さんが、元在日朝鮮人では「白頭血統」になりえない。

朝鮮民族は血統を重視します。お母さんが元在日朝鮮人では、北朝鮮社会では「富士山血統」「ハルラ山血統」(済州島の山)になってしまうとある脱北者が韓国のテレビで語っていました。

「白頭血統」そのものが大嘘なのですが、自由な日本社会を知っている元在日朝鮮人は北朝鮮社会では嫌われることが多いのです。

「帰国者(元在日朝鮮人)の息子」に朝鮮労働党幹部は忠誠心を抱けない


「帰国者の息子」に本音で忠誠を誓う北朝鮮の人は稀でしょう。朝鮮労働党の命令とは違う選択肢があることを元在日朝鮮人は知っている。

元在日朝鮮人が体得している自由な雰囲気がたまらなく嫌な朝鮮労働党幹部は少なくないはずです。

元在日朝鮮人は、北朝鮮の人々を「原住民」「アパッチ」などと仲間間で呼んで嫌います。

「人間プレゼント」にされてしまったヤン・ヨンヒ監督の長兄は、心の病にかかってしまいまいした(同書p119-121)。

チュチェ思想で全社会を一色化しろ、絶対性と無条件性が何より大事だと言われても、自由な日本社会を知っている元在日朝鮮人には受け入れようもありません。

叔父を処刑した金正恩に忠誠心を抱いている元在日朝鮮人など、皆無ではないでしょうか。金正恩は表面では天高く持ち上げられていますが、実際は孤立しています。

長年追い続けてきた自分の夢が全くの幻でしかなかったことを、在日本朝鮮人総連合会関係者は認め、「南朝鮮革命」「主体革命偉業」策動の全貌を公にして日本人と韓国人に謝罪するべきです。