「案内されるところ、どこへ行っても金日成の名前が出ないことはないのに閉口した。(中略)
農村の見学では、リンゴ農園へ案内された時のことだが、やはり『このみごとに実っているリンゴは、金日成主席の農業指導によってゆたかに実ったものでございます』と言った調子なのである。
ということは、金日成という指導者はあらゆる知識や技術をすべて身につけている万能の人間だということになるのではないか、とわれわれ日本からの代表団は語りあったのであった。」(同書p115より)。
この本によれば、畑田重夫氏ら「日本朝鮮研究所代表団」は、昭和39年に中国と北朝鮮を訪問しました。
日本朝鮮研究所は、社会党の国会議員だった古屋貞雄氏の個人的な資金提供を中心としつつ、何人かの財政支援を基礎として設立されたそうです。
故佐藤勝巳氏も、「日本朝鮮研究所」の一員でした(詳しくは、「わが体験的朝鮮問題」東洋経済)。
中国と北朝鮮を訪問したのは、古屋貞雄氏の他、安藤彦太郎早大教授、寺尾五郎氏、川越敬三氏、小沢有作氏と畑田重夫氏でした。
北朝鮮では、どこへ行っても金日成の写真や像ばかりで個人崇拝もいいとこだ、との感想を語り合いながら、一行は北京へ向かったと畑田氏は述懐しています(同書p116)。
畑田重夫・川越敬三「朝鮮問題と日本」(新日本新書、昭和43年刊行)を畑田氏は若い共産党員に内緒にしたいのか
この本だけを読めば、さすがに畑田重夫氏は国際政治学者として、北朝鮮に対する厳しい批判の目を持っていたのだなと若い共産党員は思ってしまうかもしれません。
畑田重夫・川越敬三「朝鮮問題と日本」(昭和43年新日本新書)という本があるのを、若い共産党員の方は忘れないでいただきたい。
「わが憲法人生七十年」ではこの本については一切言及されていません。
畑田氏は「朝鮮問題と日本」を、吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員には内緒にしておきたいのでしょうか。
「朝鮮問題と日本」には、昭和39年の訪朝時に畑田重夫氏や川越敬三氏が実感した金日成への異常な個人崇拝など、一切記されていません。
「朝鮮問題と日本」(第七章)によれば、「日本海を平和の海に」「帰国船を日朝間の懸け橋に」といったスローガンではじまった帰国事業は、日朝友好運動史上の画期的な出来事でした。
帰国事業は60万在日朝鮮人をその祖国の周囲にいっそう固く結集したばかりではなく、日本人一般の朝鮮観、朝鮮人観を大きく変え、日朝友好の空気を全国にみなぎらせました。
内外の反動勢力はこれを恐れてその後何回も帰国事業の破壊をこころみましたが、その都度日朝両国人民の連帯の力でこれをはねかえしてきました。
帰国事業は昭和42年末までの八年間つねに順調にすすめられ、合計88000人が無事祖国へ帰って新しい生活に入りました。
在日朝鮮人の帰国希望者は、日本の関係機関への登録をおえた人びとだけでもなお17000人以上残っています。
帰国事業の破壊に反対し、その円滑な継続を保障させる運動はひきつづき日朝友好運動の重要な課題の一つとなっていると、「朝鮮問題と日本」で畑田・川越両氏は力説しています。
四十数年前の若き畑田氏らが、一人でも多くの在日朝鮮人の北朝鮮に帰国を実現すべく心血を注いだこの運動が、「わが憲法人生七十年」では一切記載されていないのは奇奇怪怪です。
畑田重夫氏は在日朝鮮人に、異常な金日成個人崇拝の存在をなぜ教えなかったのか
「朝鮮問題と日本」を著し、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国船再開のために尽力している頃の畑田重夫氏は、訪朝時の実体験として異常な金日成個人崇拝の存在を語ることができたはずです。
それを帰国前に知っていたら、北朝鮮への帰国をやめた方は少なくなかったかもしれません。
北朝鮮の真実を公の場で語ったら、宮本顕治氏ら日本共産党中央との関係が悪くなる可能性があるから黙っていようという判断だったのでしょう。
「朝鮮問題と日本」を出版した新日本出版社も同様に、北朝鮮の真実を「赤旗」読者や一般の共産党員に伝えると厄介なことが起きるから、やめておこうと判断したのでしょう。
日本共産党が主導する革命運動、平和運動に参加する運動家の心得とは
日本共産党が主導してきた革命運動、平和運動にはこの類の話が実に多い。日本共産党中央との良好な関係を維持することが、運動家にとって最重要課題の一つとなっている。
運動家は常に、日本共産党中央、宮本顕治氏や不破哲三氏が国際情勢と平和運動にどんな見解を持っているかを伺い知るように努力せねばなりません。
不破哲三氏が、中国の人権問題批判を控えたら、直ちに自分もそれについて語らないようにする。
不破哲三氏や志位和夫氏が北朝鮮の凄惨な人権問題について沈黙を続けるなら、自分も黙っておく。
これくらいのことは、日本共産党の「平和運動」に参加している運動家は徐々に体得していきます。
中国や北朝鮮の人権抑圧を批判し続ける人は、日本共産党の運動から様々な理屈で排除されてしまいます。日本共産党から除名、除籍される場合もある。
川越敬三氏の「社会主義朝鮮」(昭和45年新日本新書)も、北朝鮮礼賛本そのものです。
北朝鮮への帰国事業が行われていた時期の北朝鮮礼賛本は、「38度線の北」(寺尾五郎著)だけではありません。
異常な金日成個人崇拝の日本社会普及に、新日本出版社は多いに貢献したのです。
若き畑田重夫氏は内心では帰国していく在日朝鮮人は不幸になると確信していた
畑田重夫氏は、宮本顕治氏、寺尾五郎氏、川越敬三氏ほどの北朝鮮礼賛者ではありませんでした。逆に言えば、日本共産党員の中ではこの御三方がずば抜けて北朝鮮を礼賛した。
しかし畑田氏が北朝鮮の真実を熟知していながら帰国船の再開のために努力したことを、忘れるべきではない。
若き畑田重夫氏は、異常な金日成個人崇拝のある北朝鮮に帰国していく在日朝鮮人たちをみて、内心では「この人たちはきっと、不幸のどん底に落ちていくのだろうな」と思ったに相違ありません。
昭和39年訪朝時に、代表団皆で異常な金日成個人崇拝について語り合っていたのですから。
それでも畑田重夫氏は日本共産党の「平和運動」に参加し続けるため、北朝鮮の真実を隠ぺいする道を選んだのです。
今日の畑田重夫氏にとって、北朝鮮を礼賛し帰国する在日朝鮮人を増やすために尽力した史実は、是が非でも隠蔽せねばならない「心の秘密」なのかもしれません。
畑田重夫氏は日本革命への志をなくしたのか―ブルジョア憲法の神聖視
ところで、「憲法人生七十年」という題名ですが、畑田重夫氏は日本革命を志して生きてきた方ではないのでしょうか。
「共産主義のはなし」(日本青年出版社昭和43年刊行)は、日本革命の話ともいえます。
革命家であるなら、私有財産制や皇室の存在を当然視している日本国憲法は一刻も早く改正せねばならないと思うはずです。
「憲法人生七十年」では、ブルジョア憲法を神聖視しているはないか、と革命家に笑われてしまいそうです。
最近の日本共産党員は、日本革命と自分が参加している「平和運動」「野党共闘」の理論的関係について思考と議論ができないらしい。
畑田重夫氏の国際政治学は、マルクス主義のそれだったはずです。日本国憲法は、階級的視点から国際社会を語っているでしょうか。
「憲法人生七十年」には、「共産主義のはなし」についての記述もない。この本も、出鱈目な記述が多すぎるから内緒にしよう、という判断なのでしょう。
畑田重夫氏に問う―マルクス主義の手法、概念で中国、北朝鮮を分析したら
マルクス主義の政治学や経済学で、中国や北朝鮮を分析したらどんな結論が出るのでしょうか。
典型的な階級社会で、労働者は共産党、労働党により徹底的に搾取されているという結論しかでないでしょう。中国は帝国主義だ、という方もいるかもしれません。
畑田重夫氏なら、「社会帝国主義」という概念でかつて日本共産党がソ連や中国を評したことがあるのを知っているはずです。
中国や北朝鮮の人権抑圧を一切批判できない畑田氏は、圧政に抑圧された人々の人権を守るために尽力するという初心を忘却しています。
マルクス主義者、革命家のはずなのに、共産党、労働党の革命路線を文献の読解により分析しようとしない「研究者」「運動家」があまりにも多い。
「日本革命」などありえない。「世界革命」も存在しえない。これを直視できず、「何となく左翼」として「憲法人生」「立憲主義を守れ」になっている「革命家」があまりにも多い。
共産主義者が革命を忘れて、私有財産制の廃止が実現できるはずがありません。
追記 共産主義運動における「反党分子」「反党反革命宗派分子」
上記の、日本共産党の「平和運動」に参加している運動家にとって、日本共産党中央との良好な関係を維持することが、最重要課題の一つとなっているについて少し述べます。
萩原遼氏(元「赤旗」平壌特派員)の著書「朝鮮と私 旅のノート」(文春文庫)の「第五章 私の旅はつづく」で、当時は日本共産党員だった萩原氏は、日本共産党の陰湿な体質について詳細に説明しています。
日本共産党を批判する元党員を、日本共産党では「反党分子」「除名者」として徹底的に忌避する風潮が党員の中にあるそうです。
北朝鮮の張成澤が「反党反革命宗派分子」というレッテルを貼られたのと似ています。
日本共産党では公開処刑されることはありませんが、「反党分子」と党中央からみなされると、以後「赤旗」や日本共産党に関連する出版物から完全に排除されるそうです。
「反党分子」とは一切対話できない、ということなのでしょう。筆坂秀世氏も「反党分子」なのでしょうか。
北朝鮮との対話を主張する志位和夫氏は、「反党分子」との対話をまずは「赤旗」でやってもらいたいですね。
追記 畑田氏訪朝は昭和38年8月では?
「わが憲法人生七十年」p113-114には、日本朝鮮研究所が昭和39年に訪朝したとありますが、昭和38年8月の間違いではないでしょうか?
畑田重夫・藤島宇内編「現代朝鮮論」(勁草書房昭和41年、p338)の年表に日本朝鮮研究所5名が訪朝したと出ています。