2017年5月5日金曜日

ヤン・ヨンヒ著「Dear Pyonyang、ディア・ピョンヤン~家族は離れたらアカンのや~」(平成18年アートン刊行)より思う

「父ヤン・コンソン(梁公善)は、1927年10月、朝鮮半島の南端に位置する済州島に生まれた。母カン・ジョンヒ(康静姫)は、1931年、大阪の東成区生まれ。母の両親も済州島出身だ。


アボジは小学校を卒業後、済州島の缶詰工場で働き、15歳で日本へ渡った。」(同書p22より抜粋)。


この本は、同名の映画の原作で、映画「かぞくのくに」より6年ほど前の作品です。副題「家族は離れたらアカンのや」から、ヤン監督の思いが伝わってきます。

筆者のお父さんのヤン・コンソン氏は大阪の在日本朝鮮人総連合会の専任職員を長年務めた方でした。

ヤン・ヨンヒ監督には兄が3人いるのですが、次男と三男は昭和46年秋に北朝鮮に帰国しました。長男は翌年、金日成の60歳の誕生日の祝賀団として選ばれ、帰国しました。

この本は、平成16年7月14日にお父さんが脳梗塞で倒れ、東京在住のヨンヒ氏にお母さんから今夜手術をすることになったという電話の話から始まります。

翌朝ヨンヒ氏が集中治療室にいるお父さんを見たら、顔がスイカみたいに腫れていました。

77歳くらいのお父さんが脳梗塞で倒れたのですから、普通なら息子たちも駆けつけるはずです。

しかし北朝鮮は国民の出国を原則として禁止していますから、息子や孫はお見舞いに来られません。北朝鮮の国民が革命首都平壌に行くのにも通行許可証が必要です。

北朝鮮による凄惨な人権抑圧について熟知している筆者は、この本ではそれをあまり出さないように配慮していたのでしょう。

朝鮮大学校の学生だった長男は金日成の60歳の誕生日の「プレゼント」として送られてしまったそうですが、この本にはそれは出てきません。これは「かぞくのくに」に記されています。

北朝鮮を訪問する学生たちは帰国している親戚から「持ってきた金はこれだけか」と責められる


それでも、興味深い記述は多々あります。筆者は高校2年生のとき、学生代表団の一人として北朝鮮を初めて訪問します。

元山港から金日成の銅像の前に行って挨拶をし、ホテルに行くと少しして親戚と学生たちとの面会が始まりました。

学生たちは小学生の頃から母なる祖国がいかに理想国家であるかを教えられてきました。

しかし祖国に到着した途端、会ったこともない親戚から「持ってきた金はこれだけか」と責められてしまい、しょぼんとしていたそうです。

北朝鮮に帰国した親戚としては、日本にいる親戚だけが頼りです。地元の労働党幹部らは帰国者を金づる扱いにしていろいろ脅迫してきます。

労働党幹部らに渡す賄賂が少なければ、どンな仕返しを受けるかわからない。わずかな配給も滞りがちですから、闇市場で食糧など必需品を入手しなければ栄養失調になってしまいます。

闇市場では日本円の威力は絶大です。帰国者がなぜ、外貨を切実に必要としているかはこの本だけではわかりにくい。

2001年頃の平均的平壌市民の給与では、高麗ホテルで冷麺一杯も食べられない


それでも、筆者の訪朝時の経験より、北朝鮮(おそらく平壌)の物価や賃金が少し記されていますから、多少の想像ができます。2001年頃の話でしょうか。

平均給与が月に2000ウォンで、うどん一杯が700~1000ウォン。平壌の高麗ホテルの冷麺は一杯3000ウォン。冷麺一杯も食べられない給料しかもらっていないことになります。

国からもらう給料だけで生活を維持しようなど、最近は誰も考えていないそうです。内職で頑張れば、1日500ウォンくらい稼げる場合もある。

男性たちは工場や職場に行かざるを得ないので、奥さんたちがセーター編み、うどん作り、豆腐作りなどで内職をしていました。

奥さんたちは店を構えることができないので、外貨の仕送りのある家を顧客にし、アパートで商売をしていました。

最近は市場もできて、生鮮食料品や中国製の品物がたくさん並ぶようになったとヤン氏は記しています(同書p244)。

これらは2000年代初頭の北朝鮮経済の実情を伝える貴重な資料です。

近年の北朝鮮は高成長を達成していた?―中国依存、貿易依存度が高い


北朝鮮には信頼できる経済統計が殆どないので、国内総生産の水準や経済成長率は推測するしかありません。

私の印象では、2000年代初頭から最近まで北朝鮮は中国への石炭や鉄鉱石の輸出と、開城工業団地からの外貨収入、ロシアや中東などへの労働者派遣による外貨獲得などの影響で、相当な高成長を達成した。

年度によっては、10%以上の経済成長率を達成している時期があってもおかしくない。本書にも記されていますが、90年代の大量餓死の時期とは比較にならない。

勿論これは、闇市場と金正日直轄の宮廷経済部門での財、サービス生産を含めての推測です。

闇市場で稼ぐ手段を得られた人々は何とか生活できるようになりました。中国から生活必需品が大量流入しましたし、中国の人民元も闇市場で使えるようになりました。

北朝鮮経済の貿易依存度{(輸出+輸入)÷国内総生産}が100%を越えている可能性が高い。200%くらいでもおかしくない。

北朝鮮政府が管轄する産業、国有企業の競争力がないので、資源貿易や海外からの所得流入(外貨稼ぎ)に相当依存しているとしか考えられない。

宮廷経済部門は徹底した利潤追求で運営されていますから、効率的に財とサービスの生産が行われているでしょう。

ヤン・コンソン氏の叫び「オレは一生賭けて、息子たちを守ったんだ」(同書p279)


脳梗塞で倒れ、朦朧とした意識の中でお父さんがこのように叫んだそうです。いろいろな意味にとれる重い言葉だ、と筆者は記しています。

勝手な想像ですが、自分は金日成と金正日への忠誠を誓い礼賛し続けたことで北朝鮮に帰国した息子たちの身に危害が及ばないようにしたのだ、という意味ではないでしょうか。

この本には帰国者から在日朝鮮人たちが伝え聞いて広まっている「山へ行った」「鼠も鳥も知らな
いうちにいなくなる」という隠語に関する話が出てきません。

筆者もや御両親がこの言葉を知らないはずがないと思えてなりません。

お父さんのところに、親族が行方不明になったがどうにかならないかという話が在日朝鮮人から繰り返し来てもおかしくない。

国家安全保衛部(今は保衛省)が、北朝鮮の住民を山間へき地や政治犯収容所に連行することを意味する言葉です。

政治犯収容所や山間へき地にある日突然連行され、行方不明になってしまった元在日朝鮮人の事は、この時点ではヤン監督は書けなかったのでしょう。

次回作として、そういう帰国者を親族に持つ在日韓国・朝鮮人の生きざまをヤン監督に是非、描いて頂きたいものです。

「家族は離れたらアカンのや」はヤン監督だけの思いではないはずです。政治犯収容所に送られたら、「離れる」どころか生死すら一切わかりません。

朝鮮学校の教員だった方の中にも、北朝鮮へ帰国して政治犯収容所へ連行された方がいます。

南朝鮮革命、主体革命偉業とは何だったのか―朝鮮大学校卒業生に問う


筆者のお兄さんは対南工作に従事している方です。「かぞくのくに」にこの話が少しだけ出てきます。

お兄さんが日本人を拉致したわけではないでしょうが、日本人を拉致した組織は朝鮮労働党の対南工作を担当する部署の傘下にあります。

南朝鮮革命、主体革命偉業とやらのために日本人が拉致されてしまったのです。

在日本朝鮮人総連合会の幹部だったお父さんは、南朝鮮革命すなわち大韓民国滅亡に生涯を捧げた方だったはずです。

南朝鮮革命、主体革命偉業の「成果」として北朝鮮は核兵器や生物・化学兵器を大量保有できました。

化学兵器を大量に保有し実験を繰り返しているから、工作員はベトナムとインドネシア女性をだまして、金日成の孫、金正日の息子金正男氏を化学兵器で殺害できました。

これも、主体革命偉業の「成果」です。米国まで届くような核ミサイルを数百発保有できたら、金正恩は気軽にそれを日本に向けて発射しかねない。

日本が核ミサイルや化学兵器で攻撃されたら、日本人も在日韓国・朝鮮人も沢山犠牲になってしまいます。

それでも、在日本朝鮮人総連合会の皆さんは「共和国万歳!」を叫び、金正恩に忠誠を誓うのでしょうか。

愛息子金正男の毒ガス殺害を、「親愛なる指導者」「鋼鉄の零将」金正日は望んだでしょうか。

朝鮮大学校の卒業生の皆さんは、大韓民国は「兄殺し」金正恩により滅亡させれてしかるべきとお考えでしょうか?

共産主義運動とは、最高指導者に対する盲目的信仰を宣伝、普及する運動だったのではないでしょうか?

ユン・チアン著「ワイルド・スワン」のお父さんをふと思い出しました。