「80年代末あたりから、北からの亡命者や在日朝鮮人の口を通じて、北朝鮮には『第二経済』という不思議な存在があると伝えられ始めた。たとえば、『日本から投資して合弁企業を設立しようとしても、第二経済に承認してもらわないと電力を供給してもらえない』とか、」(同書p140より抜粋)。
ある国や地域の社会経済の現状を基本的に決定する要因は何なのか。これは社会科学の大問題です。
これを探求するためには、政治学、社会学、経済学、歴史学それぞれでの分析手法があります。
ケインズ経済学では、短期にその国や地域の所得(生産量)や雇用量を決定する最も基本的な要因は、総需要の大きさであると説きます。
しかしケインズ経済学は、その地域で市場経済が広範囲に成立している事を前提としています。
北朝鮮は建前上は、中央計画当局により財やサービスが配分されることになっています。この通りなら、ケインズ経済学の手法は適切ではないことになる。
北朝鮮当局発表の統計は殆ど信頼できない。地上の楽園ですから。
北朝鮮の社会経済の現状を把握するためには、公式文献だけではなく、当局が作成する非公式文献の読解と脱北者や訪問経験者の居住体験をよく聞き取り、現実を手探りで確認していくべきです。
玉城素氏、佐藤勝巳氏は北朝鮮と在日朝鮮人社会をそんな手法で分析しました。
聞き取りの際、直観力と洞察力が必要です。
玉城素氏は社会経済分析のための直感力と洞察力を兼備した方だったのでしょう。
20年ほど前に執筆されたこの論文は、その後金光進氏や「金正日の料理人」こと藤本健二氏の一連の著作により、極めて的確な指摘をしていたことが明らかです。
玉城氏が提唱した北朝鮮四重経済論とは
玉城氏は、北朝鮮経済を次の四部門に区分して分析することを提唱しました。
第一経済は政務院が主管する計画経済部門で、第四経済と合わせて北朝鮮経済全体の25%を占める。
第二経済は第二経済委員会が主管する軍事部門で、北朝鮮経済の50%。
第三経済は労働党中央財政経理部、39号室が主管する党経済で、北朝鮮経済の25%。
第四経済は庶民が生活のために財とサービスを取引する闇経済。
党経済、宮廷経済は「党の唯一思想体系確立の十大原則」を資源配分上支える
北朝鮮社会の著しい特徴は何か。
それは北朝鮮の全国民の「掟」である「党の唯一思想体系確立の十大原則」に示されています。
「首領」である金日成、金正日そして金正恩に対する絶対的忠誠。これは他国にない。スターリンの時期のソ連や、毛沢東の時期の中国に近い。
人間の体に例えれば、首領は脳髄、労働党は首領の命令を伝える神経、人民は手足だそうです。金正日の社会的政治生命体論はそのように説きます。
金正日が作った党経済、宮廷経済は「十大原則」を資源配分上支える仕組みです。
北朝鮮はフルシチョフ以後のソ連や、東欧とは大きく異なっている。
中央計画当局により資源が計画的に配分されている経済を想定したら、北朝鮮に対する大きな誤解です。
金正日の党経済、宮廷経済の存在を無視する北朝鮮研究者は、北朝鮮をかつての東欧諸国のように把握しているとしか私には思えない。
玉城氏の慧眼は、金正日の党経済そして核軍拡と生物化学兵器量産を保証する第二経済に向けられていました。
以下、玉城氏による第二経済の説明を簡単に紹介しておきます。
中央計画当局、政務院の権限は「第二経済委員会」により侵食され、限定されている
玉城氏によれば、北朝鮮の行政府である政務院は経済の計画、管理に責任を持たされています。
しかし実際にはその権限の及ぶ範囲は第二経済に侵食され、限定的になっています。
第二経済は政務院より強い権限を持っています。
第二経済を管轄するのは第二経済委員会という、労働党中央の機械工業部に直属する機関です。
第二経済委員会は兵器全般を生産、供給する機関ですが、傘下に対外経済員会という組織があります。
対外経済委員会は兵器や部品、資材、原料などの貿易を担当します。外部に対し、龍岳山商事、金剛銀行という名前で活動することがあります。
第二経済委員会は独自の外貨運用機能を持っている。輸出品として兵器、非鉄金属、宝石などの重要資源を独占的に押さえている。
膨大な規模の軍事経済が、独自の経済部門をなしているだけでなく、一般経済(第一経済)の重化学工業部門に食い込んで生産物を優先的に吸い上げている。
北朝鮮では1990年代後半に、大飢饉が起きました。犠牲者数には諸説がありますが、少ない推定値でも30万人程度です。
北朝鮮の総人口が約2300万人ですから、少ない推定値でも80人に一人以上が餓死や栄養失調による疾病で亡くなってしまったことになる。
この原因は、第一経済による庶民への資源配分機能が、第二経済や第三経済に侵食され、機能を停止したことと考えられます。
庶民は闇経済をつくり、そこで生活の糧を得るしか生きる道はなかった。
闇経済が広がったのなら、ケインズ経済学の手法でも北朝鮮経済を分析できる
闇経済も市場経済の一つですから、北朝鮮では市場経済化が90年代後半よりかなり進んだともいえる。
市場経済ならば、北朝鮮経済を分析する手法として、ケインズ経済学の視点も有効という結論が導かれます。
この件については、またの機会に考えてみましょう。