「ブルジョアジー(全世界の)はまだわれわれより強大であり、しかも何倍も強大である。このうえになお政治的組織の自由(=出版の自由。なぜなら出版物は政治的組織の中心であり、基礎であるから)という武器を彼らにあたえることは、敵の仕事をやりやすくし、階級敵を援助することを意味する。われわれは自殺したくはないし、したがって、そういうことはしないであろう」(全集第32巻、p542より抜粋。1921年8月5日の手紙)。
レーニンの「新経済政策」(New Economic Policy, ネップ)を、日本共産党は「市場経済を通じて社会主義に進むことは日本の条件にかなっている」と高く評価しています。
聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)は、ネップは社会主義経済論への最大の貢献であると述べています(「カール・マルクスの弁明」2009年大月書店、p144)。
故山口正之教授も、晩年の著書「社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ」(1996年大月書店、第1章)で、新経済政策の意義について詳しく論じています。
山口正之教授によれば、新経済政策の中心は食糧割当徴発の中止と食糧税(現物税)の採用です(同書p189)。
山口正之教授は、「ソヴェト権力の当面の任務」(1918年3-4月。全集第27巻掲載)、「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性について」(1918年5月5日、全集第27巻掲載)で新経済政策が「プロレタリア国家における国家資本主義」として定式化されていた路線への復帰であると論じています。
「『左翼的』な児戯」でレーニンは国家資本主義でも、権力を掌握していれば「全人民的な記帳と統制」により社会主義に行けると述べています。
新経済政策をロシア共産党の管理下での国家資本主義と定義するのなら、レーニンの経済政策論は一環しているともいえるでしょう。
日本共産党と「正統派」マルクス経済学者はなぜレーニンの人権抑圧指令に沈黙しているのか
不破哲三氏、聴濤弘氏、故山口正之教授はレーニン全集を熟読なさった事でしょう。
それならばなぜ、三人ともレーニンによる徹底的な人権抑圧指令、人権抑圧正当化論について言及しないのでしょうか。
冒頭に書いたように、新経済政策の時期でもレーニンは「出版の自由」を明白に否定していました。
「食糧税について(新政策の意義とその諸条件」(1921年5月、全集第32巻)でレーニンは、メンシェヴィキやエス・エルにほかならない「無党派分子」を用心のために監獄に入れるべきと論じています。
この件は、少し前に本ブログに書きました。
内戦の時期、レーニンは余剰穀物を隠す農民を「人民の敵」と規定-スターリンはレーニンの弟子、継承者
「食糧独裁についての布告の基本命題」(1918年5月8日、全集第27巻)の(七)は以下です。
余剰穀物をもちながら、これを駅および集散地点へ搬出しない穀物所有者は、人民の敵として宣言され、10年以上の投獄、全財産の没収、彼の共同体からの永久的追放に処せられることを、はっきりと規定する」。
「人民の敵」という表現に注目すべきです。「階級としての富農の撲滅」を実践したスターリンはレーニンの忠実な僕でした。
林直道教授は、レーニンのこれらの論文を熟読されていたから、「経済学 下 帝国主義の理論」(昭和45年新日本新書、p199)で、レーニン、スターリンの「一国でも社会主義は建設できる」論が正しかったと論じたのではないでしょうか。
林直道教授は、レーニンの「富農=余剰穀物取得者=人民の敵」論を御存知で、スターリンがこれを「階級としての富農の撲滅」で実行したから一国で社会主義を建設できたと考えたのではないでしょうか。
正統派マルクス主義経済学者ならそう考えるのが自然です。
「若者よ、マルクスを読もう」(かもがわ出版)などで著名な石川康宏教授は、レーニンによる数々の人権抑圧指令、抑圧論について、どうお考えなのでしょうか。
新経済政策の起点は1920年3月か―不破哲三氏の近著より
ところで、不破哲三氏は最近の著書「党綱領の未来社会論を読む」(日本共産党中央委員会出版局、p81)で新経済政策が1920年3月に採用されたと記していますが、1921年3月の間違いではないでしょうか。
1921年3月にロシア共産党(ボ)第10回大会が開催され、レーニンは「割当徴発を現物税に代えることについての報告」を3月15日にしています(全集第32巻、p226-241)。
聴濤弘氏も、新経済政策の導入はこの大会からと述べています(前掲著、p138)。
不破哲三氏も、「党綱領の理論上の問題点について」(2005年、p78)ではレーニンは1921年に経済政策の大転換、「新経済政策」に乗り出したと述べています。
新経済政策の起点について、不破哲三氏は見解を変えたのでしょうか。吉岡正史さんら日本共産党職員は、不破哲三氏に質問なさったらいかがでしょうか。
故山口正之教授のように、レーニンは国家資本主義をかなり前から目指していたから、新経済政策の起点は1918年頃になる、という主張なら、あり得ると思いますが。
追記
不破哲三氏は、「レーニンと『資本論』最後の三年間」(2001年新日本出版社 )でも、「新経済政策」の出発点は1921年2月~3月であると記しています(p90)。
「新経済政策の起点が1920年3月」は単なる入力ミスでしょう。