2018年9月30日日曜日

レーニンは新経済政策の時期でも「出版の自由」を否定した―「ミャスニコフ氏への手紙」(全集第32巻、p541-546)

「ブルジョアジー(全世界の)はまだわれわれより強大であり、しかも何倍も強大である。このうえになお政治的組織の自由(=出版の自由。なぜなら出版物は政治的組織の中心であり、基礎であるから)という武器を彼らにあたえることは、敵の仕事をやりやすくし、階級敵を援助することを意味する。われわれは自殺したくはないし、したがって、そういうことはしないであろう」(全集第32巻、p542より抜粋。1921年8月5日の手紙)。


レーニンの「新経済政策」(New Economic Policy, ネップ)を、日本共産党は「市場経済を通じて社会主義に進むことは日本の条件にかなっている」と高く評価しています。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)は、ネップは社会主義経済論への最大の貢献であると述べています(「カール・マルクスの弁明」2009年大月書店、p144)。

故山口正之教授も、晩年の著書「社会主義の崩壊と資本主義のゆくえ」(1996年大月書店、第1章)で、新経済政策の意義について詳しく論じています。

山口正之教授によれば、新経済政策の中心は食糧割当徴発の中止と食糧税(現物税)の採用です(同書p189)。

山口正之教授は、「ソヴェト権力の当面の任務」(1918年3-4月。全集第27巻掲載)、「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性について」(1918年5月5日、全集第27巻掲載)で新経済政策が「プロレタリア国家における国家資本主義」として定式化されていた路線への復帰であると論じています。

「『左翼的』な児戯」でレーニンは国家資本主義でも、権力を掌握していれば「全人民的な記帳と統制」により社会主義に行けると述べています。

新経済政策をロシア共産党の管理下での国家資本主義と定義するのなら、レーニンの経済政策論は一環しているともいえるでしょう。

日本共産党と「正統派」マルクス経済学者はなぜレーニンの人権抑圧指令に沈黙しているのか


不破哲三氏、聴濤弘氏、故山口正之教授はレーニン全集を熟読なさった事でしょう。

それならばなぜ、三人ともレーニンによる徹底的な人権抑圧指令、人権抑圧正当化論について言及しないのでしょうか。

冒頭に書いたように、新経済政策の時期でもレーニンは「出版の自由」を明白に否定していました。

「食糧税について(新政策の意義とその諸条件」(1921年5月、全集第32巻)でレーニンは、メンシェヴィキやエス・エルにほかならない「無党派分子」を用心のために監獄に入れるべきと論じています。

この件は、少し前に本ブログに書きました。

内戦の時期、レーニンは余剰穀物を隠す農民を「人民の敵」と規定-スターリンはレーニンの弟子、継承者


「食糧独裁についての布告の基本命題」(1918年5月8日、全集第27巻)の(七)は以下です。

余剰穀物をもちながら、これを駅および集散地点へ搬出しない穀物所有者は、人民の敵として宣言され、10年以上の投獄、全財産の没収、彼の共同体からの永久的追放に処せられることを、はっきりと規定する」。

「人民の敵」という表現に注目すべきです。「階級としての富農の撲滅」を実践したスターリンはレーニンの忠実な僕でした。

林直道教授は、レーニンのこれらの論文を熟読されていたから、「経済学 下 帝国主義の理論」(昭和45年新日本新書、p199)で、レーニン、スターリンの「一国でも社会主義は建設できる」論が正しかったと論じたのではないでしょうか。

林直道教授は、レーニンの「富農=余剰穀物取得者=人民の敵」論を御存知で、スターリンがこれを「階級としての富農の撲滅」で実行したから一国で社会主義を建設できたと考えたのではないでしょうか。

正統派マルクス主義経済学者ならそう考えるのが自然です。

「若者よ、マルクスを読もう」(かもがわ出版)などで著名な石川康宏教授は、レーニンによる数々の人権抑圧指令、抑圧論について、どうお考えなのでしょうか。

新経済政策の起点は1920年3月か―不破哲三氏の近著より


ところで、不破哲三氏は最近の著書「党綱領の未来社会論を読む」(日本共産党中央委員会出版局、p81)で新経済政策が1920年3月に採用されたと記していますが、1921年3月の間違いではないでしょうか。

1921年3月にロシア共産党(ボ)第10回大会が開催され、レーニンは「割当徴発を現物税に代えることについての報告」を3月15日にしています(全集第32巻、p226-241)。

聴濤弘氏も、新経済政策の導入はこの大会からと述べています(前掲著、p138)。

不破哲三氏も、「党綱領の理論上の問題点について」(2005年、p78)ではレーニンは1921年に経済政策の大転換、「新経済政策」に乗り出したと述べています。

新経済政策の起点について、不破哲三氏は見解を変えたのでしょうか。吉岡正史さんら日本共産党職員は、不破哲三氏に質問なさったらいかがでしょうか。

故山口正之教授のように、レーニンは国家資本主義をかなり前から目指していたから、新経済政策の起点は1918年頃になる、という主張なら、あり得ると思いますが。

追記

不破哲三氏は、「レーニンと『資本論』最後の三年間」(2001年新日本出版社 )でも、「新経済政策」の出発点は1921年2月~3月であると記しています(p90)。

「新経済政策の起点が1920年3月」は単なる入力ミスでしょう。


2018年9月23日日曜日

飯山陽「イスラム教の論理」(新潮新書)を読みました。「『イスラム国』の掲げる理想は、世界に18億人いるとされるイスラム教徒全員にとっての理想」(同書の前書きより抜粋、p5)。

「テロをおこすのがイスラム教徒でないならば、なぜ彼らはコーランを唱え、神を讃え、イスラム教のなのもとに攻撃を行うのでしょうか?彼らをイスラム教徒ではないと判断する根拠は何でしょう?」(同書まえがき、p8より抜粋)。


衝撃の書である。飯山陽氏は、昭和51年生まれの新進気鋭のイスラム思想研究者である。

飯山氏によれば、日本のテレビや新聞、雑誌で目にするイスラム教解説のほとんどは、次の疑問に殆どまともな回答を与えていない。

なぜイスラム教徒はテロを起こすのか。
なぜ「イスラム国」のようなイスラム過激派に共鳴する人があとをたたないのか。
なぜイスラム教徒は自爆などという暴挙に及ぶのか。

これらの疑問に答えるためには、イスラム教の教義について主体的に学ぶしかない、と飯山氏は説く。

宗教に人を動かし、世界を動かす力などあるはずはない、という思い込みから脱却しよう、という飯山氏の訴えは心に響く。

コーランの章句に立脚していればそこから導かれる複数の解釈はすべて等しい価値をもつ(同書p16より)


この本は以下の7章から成る。各章の名称だけでも十分に衝撃的である。

第1章 イスラム教徒は「イスラム国」を否定できない
第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒
第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である
第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観
第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界
第6章 民主主義とは絶対に両立しない価値体系
第7章 イスラム世界の常識と日常

北朝鮮の政治、社会経済を知るためには、北朝鮮社会の掟ともいえる朝鮮労働党の「党の唯一思想体系確立の十大原則」を知らねばならない。

私はこれをいろいろな場で訴えてきたつもりであるが、イスラム教が中東などイスラム圏に及ぼしてきた影響とは比較になるまい。

世界史の本を紐解けば、ムハンマドによる聖遷(ヒジュラ。メッカからメディナへの移住)が行われたのは西暦622年。

およそ1400年の歴史と伝統をもつ宗教と、たかだか70年の朝鮮労働党の主体思想を比較すること自体、おかしい。

朝鮮労働党の主体思想など、金王朝が滅亡したら誰も信じなくなるであろう。権力の座から落ちた者は、徹底的に叩かれるのが朝鮮半島の倣いである。

金正恩がいつ、どのように除去されるのか予測は困難だが、金正恩を心から尊敬している朝鮮労働党幹部がどれだけいるだろうか。

ジハードで死んだかのように見える人は、肉体は死んでも魂は天国に直行し、そこで永遠に生きている(同書p134)


飯山氏によるイスラム教解釈で、私にとって特に衝撃的だった部分を以下、書き留めておこう。

コーランに立脚してさえいれば、そこから導かれる解釈がたとえ敵意をあおり戦争をけしかけるような過激なものであっても「正しい」というのがイスラム教の教義です(p17)。

イスラム教の最終目標は、全世界をイスラム法の統治下におくことです。これは全イスラム教徒共通の目標であり、過激派であろうと穏健派であろうとめざすところは同じです(p40)。

ジハード(聖戦)が義務であることはコーランやハディースの随所で示されているため、それについては本来議論の余地がない(p118)。

「イスラム国」は全イスラム教徒が本来的に共有している価値体系に立脚し、それに立ち戻り、ひとりひとりが自主的に行動しようとよびかけているにすぎない(p129)。

善良なイスラム教徒をジハード戦士にするためには、洗脳など必要ない事はいうまでもなく、金銭で釣る必要も、大規模な組織的動員を行う必要もない(p129)。

他の死者(殉教者以外)は、墓の中で眠ったまま最後の審判を待ち続け、終末の日がやってきたらその時に蘇ると信じられている(p134)。

殉教者以外の死者は終末の日に蘇り、神がひとりひとりの生前の行いに審判を下し、天国行きか地獄行きかが決定される(p134)。

最後の審判に備えて信者の右側にいる天使がその人の善行を、左肩にいる天使が悪行を記録し続けていると信じられている(p134)。

善行と悪行の記録は生きている間ずっと続くが、信者自身は最後の審判の日までその記録を目にすることはできない(p136)。

悪行の込む人にとっても、一発逆転で天国行きを狙うチャンスはあります。それがジハードです(p137)。

ジハードがイスラム教における最善の行為であり、ラマダンがジハードの月であるという認識は、過激派も穏健派も共有しています(p145)。

ジハード戦士たちは彼ら自身の認識においてはあくまでも、異教徒には知り得ない真実たる神の命令に従い、世直しのために悪と戦う正義の戦死たちなのです(p149)。

エジプト・アズハル大学の女性教授スアード・サーリフは2014年9月に放送されたテレビ講座で次のように述べた(p151)。

「イスラム教徒が異教徒と戦争をして敵側の女を獲得したならば、その女はイスラム教徒の所有する奴隷となり、その女奴隷を所有した人は彼女と性交をすることができる。

それは彼が自分の妻と性交をできるのと同様である」。

彼女の主張は特殊でも過激でもなく、どのイスラム法規範の著作にも掲載されている極めてスタンダードで正統な規定そのものです(p152)。

イスラム教徒は終末の日まで異教徒と戦い続けよと神から命じられており、その戦いにおいて獲得した異教徒の家族は戦利品として扱われ、うち5分の1は国庫に帰属し残りの5分の4は戦いに参加した戦闘員の間で分配されるとイスラム法において規定されています(p156)。

フランスと欧州は今後どうなるのか


フランスでは、イスラム教徒は総人口の7~8%になるはずである。インターネット記事によれば、マルセイユでは30%を越えるという。

フランス社会の伝統とイスラム教は真っ向から対立しているように思えてならない。

イスラム教は西側の論理、民主主義とは相いれない、と本書は述べている。十分な説得力があると思うのは私だけだろうか。

人間の産物たる西洋流民主主義より神が啓示したイスラム教のほうが優越していることなど、議論するまでもない当然の真実なのです(p189)。

















2018年9月11日火曜日

レーニン「食糧税について」(レーニン全集第32巻、1921年4月21日)より思う。レーニンは異なる意見を持つ人間の投獄、外国追放を主張した。

「当世流行のクロンシュタット式無党派という服装に着替えたメンシェヴィキやエス・エルにほかならない『無党派』分子は、用心のために監獄に入れておくか、あるいは純粋民主主義のあらゆる魅力を自由に味わわせるために、チェルノフやミリュコフやグルジアのメンシェヴイキと自由に意見を交換させるために、ベルリンのマルトフのところへ派遣することである。1921年4月21日」(レーニン全集第32巻、p394-395より抜粋)。


「用心のために監獄へ入れておけ」とは、ずいぶん物騒な主張です。

あいつはメンシェヴイキ、またはエス・エルだとボリシェヴイキにみなされたら、用心のために監獄行きですから。

近年の不破哲三氏によれば、レーニンが最晩年に「新経済政策」を提起して「市場経済を通じて社会主義へ」という道に正面から取り組みました。

スターリンはレーニンが示したこの道を否定し、ソ連は社会主義と無縁になった旨、不破哲三氏は主張します。

不破哲三氏の「党綱領の理論上の突破点について」(日本共産党中央委員会出版局、平成17年刊行、p77-81)はそういう話です。

レーニンの論考「食糧税について」には、上のように他党派の投獄、海外追放の必要性が明記されています。

レーニンがいう「純粋民主主義」とは、メンシェヴイキやエス・エルら他党派にも出版の自由や宣伝の自由を認めるべきだ、という見解です。

ベルリンには純粋民主主義があるので、他党派や彼らに近い人々をベルリンに追放するか、監獄に入れろ、とレーニンは断言しました。

「無党派分子」に変装した者も監獄に入れよう、とレーニンは断じた


最晩年のレーニンによれば、メンシェヴィキとエス・エルは「無党派分子」に変装することを学び、暴動と白衛派を助けています。

われわれはメンシェヴイキとエス・エルとして公然の者も、「無党派分子」に変装した者もおなじように監獄に入れよう、とレーニンは明言しています。

この論文の最後でレーニンは上記のように、「無党派」分子の海外追放も主張しています。

最晩年のレーニンがこの結論に達した背景の一つは、クロンシュタットの反乱でした。

「商業の自由」「奴隷解放」「ボリシェヴイキのいないソヴェト」、ソヴェトの改選、「党の独裁からの解放」とクロンシュタットでの反乱者らは唱えました。

これらのスローガンが、最晩年のレーニンには衝撃だったのでしょう。

スターリンは最晩年のレーニンの遺志をつぎ、反対派の徹底弾圧を行いました。

レーニン「食糧税について」の他党派弾圧論を、石川康宏教授はどうみているのか


マルクス主義経済学者の林直道教授は著書「経済学 下 帝国主義の理論」(新日本新書昭和45年)でレーニン、スターリンが一国で社会主義を建設できるという道を示し、実際に社会主義ソ連を建設したと主張しました。

スターリンがレーニンの道を継承したという林直道教授の主張は、レーニンの論文「食糧税について」に依拠していると考えれば、十分首肯できます。

今日のマルクス主義経済学者は、最晩年のレーニンの著作「食糧税について」をどう考えているのでしょうか。

石川康宏神戸女学院大教授は、マルクス主義経済学の立場で沢山の著作を出されています。

石川康宏教授に、最晩年のレーニンによる他党派弾圧、追放論をどうお考えなのか伺ってみたいものです。

レーニンは投機と商業活動を危険視していた―スターリンはレーニンを継承―


レーニンは論文「食糧税について」で投機を「正しい商業」と区別できないと主張していました。

レーニンによれば、商業の自由は資本主義であり、資本主義は投機です。これに目をふさぐことは笑うべきことです。

レーニンは投機を危険視し、投機に対して国家的な統制、監督、記帳を回避することを全て罰すべきものと宣言することを主張しています。

最晩年のレーニンがこれだけ投機、商業活動の危険性を訴えていたのです。

企業活動は、多かれ少なかれ投機です。市場経済なら、生産した財やサービスが販売されるという保証は全くありません。

企業に資金を提供する家計や銀行も、投機をしていると言えます。債券や株式の購入は投機であり、不労所得の取得です。

銀行は家計から預金を受け入れて、主としてそれを原資に、企業に貸出をします。

銀行の利益の主な源泉は、貸出金利と預金金利の差です。これも投機といえばそうですから、レーニンは全ての銀行の国有化を主張することになります。

勿論、スターリンはこれを継承しました。

新経済政策により大もうけした商人や農民が続出したこの数年後に、スターリンが新経済政策を廃止して「階級としての富農の撲滅」を掲げても、レーニンを知る同時代のボリシェヴイキ幹部らは違和感はなかったことでしょう。

持続的経済成長のためには金融資産市場と金融仲介機関の安定的運営が必要不可欠


経済が成長するときには社会資本(港、道路、発電所等)と実物資本(工場や機械、設備、建物)が増えるので政府や民間企業により投資が活発になされます。

政府、民間企業は投資のための資金を、国債や社債、株式発行または銀行からの借り入れにより調達します(外部金融)。

自己資金で調達する場合もあります(内部金融)。

外部金融は、家計による社債、国債、株式購入という直接金融と、銀行、保険会社など金融仲介機関による貸出、間接金融に区分できます。

銀行や保険会社の原資は、家計による預金や掛け金です。経済成長のためには、金融資産市場、金融仲介機関が安定的に運営されねばなりません。

これにより投資資金が潤沢に供給され、経済が持続的に成長するのですが、金融資産市場と金融仲介機関の安定的運営は実に難しい。

金融資産取引は所詮、投機ですから。レーニンはこれを看破していたともいえる。

しかし、大金持ちの投機により企業の競争力が向上できれば、その企業で働く労働者の雇用も保証されうる。

企業経営者が内部留保を、適切な固定資産や金融資産で保有していれば、その企業で働く労働者にとって悪い話ではない。

このあたりでは、石川康宏教授らマルクス主義経済学の方々とも違いはないように思えるのですが、どうでしょうか。















2018年9月2日日曜日

林直道教授の「経済学 下 帝国主義の理論」(昭和45年初版、新日本新書)より思う。科学的社会主義の経済学入門書とは何だったのか。

「資本主義の基本矛盾とは、生産が社会的性質をもつにもかかわらず、その生産が利潤獲得という私的資本主義的形態にしばられていること、この生産の社会的性質と取得の資本主義的形態が互いに相いれず、矛盾しあっていることを言います」(同書p43より)。


この本の表紙には、「帝国主義と資本主義の全般的危機の理論を下巻に収めた、科学的社会主義の経済学入門書」と記してあります。

科学的社会主義の経済学という表現は、日本共産党独特のものです。

「正統派」あるいは「講座派」のマルクス主義経済学ということもあります。日本のマルクス経済学には、いくつかの流れがありました。

他に、「労農派」や「宇野派」「市民派」「レギュラシオン派」などがあります。

上記は、エンゲルスの「空想から科学へ」での資本主義の基本的矛盾に関する記述に依拠していると考えられます。

財の生産にはたくさんの労働者が参加しています。これを生産の社会的性質といいます。

しかし完成物は生産手段(機械、工場)の所有者である資本家のものになる。これが取得の資本主義的形態です。

エンゲルスによれば、資本家は生産手段を大量に保有していますが、労働者は自分の労働力以外には何も持たない。資本家と労働者は対立しています。

この対立をなくすためには、労働者はプロレタリア革命により国家権力を掌握し、生産手段を国有財産に転化せねばなりません。

社会的な生産手段を公共の財産にかえ、生産をあらかじめ決められた計画に従って行えば、社会的生産の無政府性が消滅し、景気の波や失業がなくなります。

私見では、「科学的社会主義の経済学」、「講座派」の最も中心的なメッセージはこれです。不況の解決策は、プロレタリア革命から生産手段の国有化ということです。

労働者が生産したものを、労働者全体で所有すれば良い、そのためには生産手段を国有化すれば良いのだという話です。

マルクス経済学の他の派の中心的メッセージを、私はあまり存じません。宇野派の場合、労働力が商品になっていることだ、という文章をどこかで見た記憶がありますが。

エンゲルスの見解、「講座派」に依拠すれば、ソ連、中国、東欧、ベトナムやキューバでは革命で生産手段を国有化し、資本主義の基本的矛盾が解消されたことになります。

社会主義諸国では企業が国有化され、基本的に計画経済で運営されていました。

マルクス主義経済学の理論では、これで経済は着実に成長し、人々の生活は年々良くなります。

科学的社会主義の経済学、「講座派」の理論に依拠し、林直道教授がソ連など社会主義国と、革命をどのように説明したかを以下、検討します。

林直道教授による革命理論と一国社会主義建設の理論―トロツキーはロシア労働者階級が農民との同盟をかため、社会主義建設に成功したことを認められなかった―


林直道教授は革命と社会主義建設について、次のように述べています。

「一般的にいうならば、革命は、帝国主義の諸矛盾の集中点=世界帝国主義の『鎖の弱い環』となった国において、そしてそれらの国がしっかりしたプロレタリアートの前衛党をもち、革命の主体的条件に成功した場合に、さきにおこるのです」(同書p197-198より)。

林直道教授はこの視点から二次大戦後、中国、朝鮮、ベトナム、キューバなど資本主義が十分に発達していなかったところで革命を成し遂げることができたの次の二点によると説明しています。

第一に、これらの国々が世界帝国主義の矛盾の結節点であったこと。

第二に、これらの国の労働者階級の主体的力量がすぐれていたこと。

林直道教授によれば、先進諸国に帝国主義の矛盾が集中し、それらの国が優れたプロレタリアートの隊列を持つならば、独占資本主義国において革命は勝利します。

この場合には極めて高度な物質的基礎をもつ社会主義が生まれます(同書p198)。

林直道教授によれば、このような一国社会主義の勝利の可能性を否定したのがレオン・トロツキー(1879-1940)です。

トロツキーは労働者階級が農民の革命的エネルギーを汲みだす可能性を認めることができませえんでした。

トロツキーはロシアのような後進性の強い国では欧州で革命が成功し、その援助を受けなければ社会主義は勝利できないと主張しました。

現実にロシアの労働者階級が農民との同盟を固め、社会主義建設に成功し、レーニン、スターリンの正しさと自らの理論的破産が明らかになると、ソ連を次のように批判しはじめました。

「いつわりの社会主義」「堕落した労働者官僚国家」「スターリニズム全体主義体制」

トロツキーは完全な反革命陰謀家になったと、林直道教授は断言しています(同書p198- 199)。

「科学的社会主義の経済学」「講座派」の理論からは、一国で社会主義が建設できるというレーニン、スターリンの理論が全面的に正しい。

エンゲルスが定義した資本主義の基本矛盾を解消するためには、生産手段の国有化と中央計画機構により経済全体を計画により運営し、無駄のない生産と配分をするしかない。

生産の無政府性を解消するために、中央計画当局が全ての財の生産と配分、価格を決定することになります。

実際にソ連で立派に社会主義が建設できたのだから、科学的社会主義の正しさは実践により証明されたという結論以外、「科学的社会主義の経済学」では出ようがない。

一昔前は、「科学的社会主義の経済学」「講座派」の方々はこんな調子で説明していたのでしょう。

この本が出版されてからおよそ20年後に、東欧社会主義そしてソ連が崩壊します。宮本顕治氏ら日本共産党員は、この事態に「万歳」を叫びます。

林直道教授はソ連崩壊のとき、周囲の日本共産党員とともに万歳を叫んだのでしょうか。

それでは林直道教授はトロツキーと同様の完全な反革命陰謀家になったと、この本の読者に言われなかったのでしょうか。

林直道教授が本書で引用しているトロツキーのソ連批判と、現在の日本共産党によるソ連批判はよく似ています。

林直道教授はスターリンのソ連を絶賛した


林直道教授は、スターリンの時代のソ連を次のように語っています。

「社会主義ソ連では、資本主義諸国とは反対に、政治、経済の安定はいっそう強化されました。

1921年から実施された新経済政策(ネップ)の成果を基礎として、1925-29年の社会主義工業化がすすめられました。

また、1928年からはじまる最初の国民経済発展5か年計画は、4年間で期限前に遂行されました。

社会主義の工業基盤が創出され、ソ連は農・工業国から、すすんだ工・農業国に転化しました。」(同書p227より)。

上記は、どう読んでも絶賛です。

林直道教授によれば、スターリンはレーニンが示した一国での社会主義の道を立派に実践し、5か年計画を遂行してソ連を発展させました。

林直道教授がこの本を刊行した昭和45年には、ソ連軍が日本兵にシベリアで奴隷労働を強制したことは明らかになっていました。

フルシチョフによるスターリン批判は、1956年(昭和31年)ですから、大量殺人が行われたことも明らかになっていました。

マルクス主義経済学、講座派の方々は、スターリンによる大量殺人や政治犯、日本兵士への労働強制を「反革命は労働により矯正されるべきだ」とでも受け止めたのでしょうか。

政治犯や日本兵士に奴隷のごとき労働を強制すれば、賃金を払わずに工業の基盤となる道路や鉄道を建設できます。

政治犯、日本兵士には僅かな食糧とみすぼらしい衣服を与えればそれでおしまいです。シベリアからの逃亡はほとんど不可能ですから。

これが搾取でなくて、何が搾取なのでしょうか。賃金が事実上ゼロなら、搾取率は無限大になりそうです。

林直道教授が、ソ連社会について真面目に研究したとは私にはどうしても思えないのです。

スターリンを強く批判したロイ・メドベージェフの著作も、林直道教授は無視したのでしょうか。

林直道教授はソ連共産党の教科書や宣伝を信じこみ、それらをそのままこの本に書いただけではなかったのでしょうか。

元はと言えば、エンゲルスの「資本主義の基本矛盾」という考え方が出鱈目だったのです。

これを信じてしまうと、とんでもない言論活動をすることになってしまう。

林直道教授は、ハンガリー事件を米帝国主義による社会主義体制転覆の陰謀と明言した


林直道教授は、ハンガリー事件(1956年)を米帝国主義による社会主義体制転覆、破壊のための陰謀、反共、反社会主義の政策と明言しています(本書p236)。

林直道教授は、ハンガリーへのソ連軍の侵攻を社会主義体制を守るために必要不可欠と評価していたのでしょうか。

ソ連軍によるハンガリー人殺害は、「科学的社会主義の経済学」「講座派」では社会主義体制を守るためということで正当化されるのでしょうか。

革命をやって社会主義体制に入ると、何かの拍子にソ連軍により殺されることを労働者は覚悟せねばならないのでしょうか。

林直道教授の本を、三十数年前に一生懸命読んだ人間の一人として、可能なら林直道教授にいろいろお尋ねしてみたいと思っています。













2018年9月1日土曜日

林直道教授著「経済学 下 帝国主義の理論」(昭和45年初版、新日本新書)より思う。

「融資・株式もちあい・人的結合などをつうじて独占的大銀行と産業独占体とがたがいに一体となり、融合あるいは癒着したもののことを金融資本といいます」「金融資本は独占以前の資本主義には存在しなかった独占段階特有の資本であり、これこそ帝国主義のにない手、現代資本主義の支配者です」(同書p59より抜粋)。


「資本主義諸国の経済と政治の中枢を握り、国民を支配している少数の金融資本家たち、および彼らの支配体制のことを『金融寡頭制』といいます。金融寡頭制こそは、現代資本主義の支配者です」(同書p80)。


林直道教授のこの本を、38年くらい前に私は線を引くなどして一生懸命読みました。

昭和45年に初版です。私の手元には昭和55年の第20刷がありますから、かなり売れています。

1970年代から80年代にかけて、マルクス経済学を学んだ人なら思い出がある本の一つでしょう。

学生運動は徐々に下火になっていきましたが、韓国民主化への連帯運動などが行われていました。金大中氏への死刑判決糾弾デモなどです。

この本を読んで私は、そうか、現代日本を支配しているのは金融資本家なのだな、怪しからん!と思ったものです。若かった。

マルクス主義は、勧善懲悪物のようになっているので、正義感のある若者は惹かれやすい。

この本も労働者と庶民を苦しめているのは金融資本家と、その代理人である保守党政府だ、という話になっています。

正直に申し上げまして、林直道教授のこの本には、非現実的な記述が実に多いと感じました。

レーニンの「帝国主義論」に依拠して林直道教授は日本経済を語っています。

ところで、帝政ロシアの支配者は金融資本家だったのでしょうか。

これは随分、おかしな話ですが、「帝国主義論」の理屈どおりなら帝政ロシアの支配者は皇帝や貴族ではなく、金融資本のはずです。

金融資本がドイツやトルコ、あるいは日本と戦争をしたがったから、ロシア皇帝はその指令を受けて開戦を決意したのでしょうか。

林直道教授が理論の前提としていた「帝国主義論」がそもそも、非現実的だったのです。

レーニンによれば、銀行は「貨幣資本」の殆ど全てと、その国やいくつもの国の生産手段および原料資源の大部分を自由にする「全能の独裁者」です。

財界大幹部が現代日本の支配者なのか


上記の金融資本家=支配者論はどの一つです。

マルクス主義経済学と、近代経済学(マクロ経済学やミクロ経済学)、近代政治学にはいろいろ違いはありますが、金融資本家=社会の支配者という視点は近代経済学では考えられない。

マルクス主義経済学では、米国や日本、韓国や欧州諸国をそれぞれ支配しているのは金融資本、少数の金融資本家であると説きます。

林直道教授によれば、財界四団体、「経団連」「経済同友会」「日経連」などの役員が金融資本家です。

この本の出版は昭和45年です。その時点では「産業問題研究会」という少人数の組織があり、それは日本財界の総司令部で、日本の最高の支配者だそうです。

保守党内閣はその意向を承ってこれを忠実に実行する執行機関です。

財界大幹部とやらが日本を支配しているそうです。

それならば、財界大幹部が交通事故やセクハラ事件を起こしてしまっても、警察、検察、マスコミも一切動かず沈黙するのでしょうね。

誰かが財界大幹部を何かの点で強く批判する文章をtwitterやFacebookに書いたり、駅前で財界幹部批判のビラ配布などをやったら投獄されそうです。

財界大幹部がどなたであれ、その方々が政治や経済についてどんな見解を持っていようと、庶民には何の関係もない。

自民党議員は財界大幹部の提言にあまり関心がない


私見では、自由民主党議員は財界幹部との会合では多少の意見聴取をするでしょうけれど、それだけです。

自民党は財界から献金を受け取っているでしょうが、それは自民党幹事長などから議員に配分されるのですから、個々の財界人とは特に人的関係を形成する必要はない。

財界人より、吉本所属の著名芸人や有名な俳優、歌手など芸能人と深い人的関係をつくり、テレビ番組に一緒に出られたら浮動票を獲得できる。

勿論、政治家にとってはテレビ局や新聞社の幹部、著名記者やニュースキャスターとの人間関係のほうが財界人とのそれよりずっと大事です。

何はともあれ、現代日本でテレビに頻繁に出られる政治家は選挙にも強い。

サルは木から落ちてもサルだが、政治家は落選したら...という類の話を聞いたことはありませんか。

酷い言い方ですが、当たらずと言えども遠からず。

落選した政治家に対し、手のひらを返すように冷たく接する人は少なくない。

現代日本では、政治家が芸能人とあまり変わらない存在になっているように思えて仕方がない。

視聴率がとれなくなったタレント、俳優はテレビ局幹部に切り捨てられます。

「支配」とはどんな人間関係のことなのか


林直道教授らマルクス主義経済学者の方々には「支配」とはどんな人間関係をさしているのかを真剣に検討して頂きたい。

中国共産党や朝鮮労働党は、それぞれの国民を支配しています。

両党大幹部はかなりの金持ちです。庶民から公の場で批判されるなど極めて考えにくい。

北朝鮮なら、居住地域の朝鮮労働党幹部を住民が批判したら政治犯収容所送りになりえます。

失礼ながら、林直道教授はソ連や中国、北朝鮮の現状について殆ど何も御存知なかったのではと思えます。

共産党、労働党による過酷な住民支配の実情を林直道教授は認識できていない。

ある人間関係が支配・被支配関係にあるというなら、支配者は被支配者に命令を出すことができ、被支配者がそれに従わないとき罰則、報復措置を加えることができるはずです。

中国共産党や朝鮮労働党は、国家安全部、国家安全保衛省という治安維持のための警察を掌握し命令に従わない国民を逮捕、投獄できます。

現代の米国や日本、欧州あるいは韓国、台湾の財界幹部、大企業や大銀行経営者は治安維持のための警察に命令を下せません。

林直道教授がこの本を出版された昭和45年当時なら、腐敗した政治家はいくらでもいたことでしょう。

「裏金」で企業経営者が政治家に、公共事業などで便宜をはかってもらうことは少なくなかったでしょう。

それは問題ですが、企業経営者は必ずしも財界人ではない。建設業界には、「裏金」が発生しやすく、公共事業に関する汚職行為は多かったとは思いますが。

どういうわけか、建設業界の経営者には財界人が少ない。

わいろの授受、汚職と支配・被支配関係は異なっています。

「財界人による住民支配」が存在したと言いたいなら、林直道教授は財界人が警察や住民に指令を下せるかどうか、調べるべきだったのです。

メガバンク役員(金融資本家)が何をどう陳情しようと、政治家は無視可能―票にならない


金融資本家とは、現代日本だったら三菱東京や三井住友、みずほの経営陣をさすのでしょう。韓国なら、財閥経営者でしょうか。

メガバンクの役員なら、数億円の年収があるでしょうから政治家は一応敬意を払うでしょうが、それだけです。

メガバンク役員が政治家に何を要望し、それがどうなろうと、票にはなりません。メガバク役員には通常、集票能力はない。

地元で票を動かせる有力者の意見のほうが政治家には大事です。勿論、メガバンク役員が地元に住んでいたら別の話になります。

そもそも、メガバンク役員で機密保護法、集団的自衛権行使や共謀罪策定を自民党幹部に懇願した方はいたのでしょうか。

総理や閣僚の靖国神社参拝に反対するメガバンク役員はいくらでもいそうです。

庶民はメガバンク役員(金融資本家)と通常は何の人間関係もない。人間関係がなければ、支配されようもない。

現代日本は小選挙区制です。よかれあしかれ、衆議院議員には地元がとりわけ大事なのです。

参議院で比例区選出の方と、衆議院議員はずいぶん異なる。

比例区選出の政治家は、浮動票獲得を狙うでしょう。テレビやインターネットが大事です。私見では、参議院で比例区選出の方には事実上、「地元」がない。

国会議員には、「地元」がない方が良いのかもしれません。

マルクス主義経済学が影響力を失った理由はいろいろあるでしょうが、的外れな話があまりにも多かった。

財界人とやらが日本を支配しているとは的外れもいいところです。

韓国の財閥経営者なら、財閥はかなりの数の企業を傘下にしていますから、支配されている労働者は相当数いるでしょう。財閥傘下になければ支配はできない。

財界人の間に、さしたる協力関係はない。財界人が日本を支配するため一団となって結束しているとは考えられない。

部下を召使のごとく扱う経営者は、部下を支配しているー地主・小作人関係と独裁制の経済理論


企業経営者の中には、御自分の企業で偉そうにしている方がいるかもしれません。そういう方は、部下を支配していると言える。

部下を召使のごとく扱う経営者は、部下を支配している。昔の地主と小作人の人間関係はそういう場合が多かったでしょう。

同族経営の会社にそういう例が多いのかもしれません。カリスマ的な影響力を持つ経営者は、部下への支配が可能でしょう。

経営者が労組も人脈でおさえれば、自分を少しでも批判する社員を解雇できます。警察に頼らないでも、罰則を与えることができる。

社員は解雇された場合、他に良い働き口がないなら経営者に服従するしかない。

ミクロ経済学(契約の経済学)では、人間の上下関係、支配と被支配の関係を把握する手法は存在します。地主と小作人の関係を表現する理論モデルがあります。

私見では、朝鮮労働党や旧ソ連共産党とそれぞれの国民の関係は、地主・小作人関係に近い。毛沢東の時代の中国も同様です。

地主・小作人関係が社会の中で支配的になっているのなら、その社会経済の動向を基本的に把握するために必要な諸変数、生産量(所得)や雇用量、賃金や価格は地主・小作人関係により決定されると考えられる。

マルクス主義経済学でも、支配と被支配という人間関係を重視するなら、支配者の利益最大化行動によりその地域での生産量(所得)や雇用量、賃金や価格が決定されるという理論を考えるべきでしょう。

市場での需要と供給が一致するように、所得や雇用量、賃金、価格が決定されるというより、支配・被支配関係によりそれらが決定されるという視点です。

マルクス主義経済学は、資本主義経済も階級社会であり、搾取制をしている点では封建制社会と共通しているとみなします。

資本家や封建領主は、労働者、農民から搾取して富を蓄積しているので、彼らの支配を革命により打倒し、蓄積した富を奪い、以後は中央計画経済で生産物を分配すれば良いという発想です。

このあたりについては、また別の機会に論じます。