2019年7月31日水曜日

日本共産党はプラハの春(昭和43年)でチェコスロバキア共産党による「ブルジョア民主主義の導入」を反社会主義勢力に活動の自由を与える重大な右翼的誤りと断じた。

論文「チェコスロバキアへの五か国軍隊の侵入問題と科学的社会主義の擁護」(「赤旗」昭和43年10月1日掲載論文より。「日本共産党重要論文集7所収、同書p241)。


最近の若い日本共産党員は、日本共産党の真の歴史を殆ど知りません。

本ブログで6年くらい前に「プラハの春(1968年)と日本共産党」と題して、チェコスロバキアでソ連に抗する市民が立ち上がった「プラハの春」と当時の日本共産党の主張について論じました。

今回はこの繰り返しですが、昭和43年当時、ソ連が自由化を求めるチェコスロバキアに軍隊を送り、市民を徹底弾圧したことを日本共産党はこの論文で強く批判しています。

しかし上記のように、日本共産党は社会主義国で「ブルジョア民主主義の導入」、すなわち無制限の「表現の自由」「出版の自由」「集会や結社の自由」を認める事を反社会主義勢力に活動の自由を与える重大な右翼的誤り、と断じたのです。

この件、宮本徹衆議院議員、清水ただし衆議院議員は御存知だったでしょうか。

昔の日本共産党は社会主義での「表現の自由」「出版の自由」許可を右翼的誤りと断じた


以下、この論文の当該箇所を抜粋して引用しておきます。

心ある日本共産党員の皆さんには、「日本共産党重要論文集7」(日本共産党中央委員会出版局}で御確認頂きたい。

「行動綱領」とは、この年の4月にチェコスロバキア共産党が中央委員会総会で採択した綱領です。上記論文の重要な記述は以下です。

「たとえば『行動綱領』は社会主義的民主主義の具体化として、無制限の『表現の自由』『出版の自由』『集会や結社の自由』を宣言したが、

これは社会主義的民主主義の名で事実上ブルジョア民主主義を導入する『純粋民主主義』(レーニン『ブルジョア民主主義とプロレタリアートの独裁とについてのテーゼと報告』1918年、全集第28巻、493ページ)であり、

反社会主義勢力に活動の自由を与える重大な右翼的誤りである」。

この論文は、当時の日本共産党が、社会主義社会での自由と民主主義を求める市民を「反社会主義勢力」と規定していたことを見事に示しています。

この時期の日本共産党は、ソ連を大国主義と批判していましたが、ソ連共産党が国内で出版の自由や表現の自由、集会や結社の自由を徹底制限していることは、レーニンの路線に基づいているとみなし高く評価していたのです。

宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党指導部はソ連を被版していましたが、それでも社会主義を達成したという理由でソ連への思いがまだまだ残っていたのです。

勿論志位和夫氏は。この論文を百も承知です。

この論文も、今の日本共産党指導部にとっては内緒にしておきたい文献でしょうね。

宮原たけしさん(日本共産党元大阪府議)は青年期、この論文を読んでいたのでは


宮原たけしさん(日本共産党元大阪府議)ならこの論文が出た当時、じっくり読まれたのではないでしょうか。

宮原さんは、大阪府議を七期も務められた方です。

私は先日ツイッターで宮原たけしさんはから、昭和43年1月の「青瓦台事件」に関して嘘つき、という御指摘をいただきました。

すぐにツイッターで反論しましたが、残念ながらいまだ反論がありません。

宮原さんは他人を誹謗する暇があるなら、御自分が歩んできた日本共産党の歴史を、昔の文献を読みなおして再考されるべきではないですか。

山添拓参議院議員、たつみコータローさんにも是非この論文を熟読して頂きたいものですね。

昔の「赤旗」「前衛」は日本の左翼運動の歴史を考える際にも、重要な資料です。

2019年7月7日日曜日

昔の日本共産党はハンガリー事件でのソ連軍介入、民衆の虐殺を支持した―宮本顕治「ハンガリー問題をいかに評価するか」(「わが党のたたかった道」日本共産党中央委員会出版部発行。昭和36年)より思う

「ソビエト軍隊の出動は、いずれもハンガリー政府の要請にもとづき、両国主権の合意としてワルシャワ条約機構の精神に立って、平和と安全保障のためにハンガリー人民の真の民族的利益と平和的労働、主権擁護のために行われたのであります」(上記宮本論文より抜粋。同書p286-287)


今の日本共産党員は殆ど知らないようですが、宮本顕治氏は、ハンガリー事件でのソ連軍による民衆弾圧を擁護しました。

この事件は反革命分子の武装蜂起だから、プロレタリア国際主義というワルシャワ条約機構の精神に立ってソビエト軍がハンガリーで出動するべきだった、という話です。

勿論これは、宮本顕治氏の個人的な見解ではなく、日本共産党の見解です。

ハンガリーの知識人、労働者はプロレタリア国際主義のために死ね、という見解とも言えます。

ソ連軍は社会主義共同体を守る聖なる軍隊と当時の日本共産党員は盲信していたのでしょう。

ハンガリーは一時的に複数政党制に復帰したが、ソ連軍介入で蜂起した市民は虐殺かシベリア送り


ハンガリー事件が起きたのは、昭和31年秋です。日本共産党がこの事件に対する見解を変更したのは確か、昭和57年頃です。

昭和31年2月にのソ連邦共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判がなされました。この影響で、ポーランドとハンガリーで市民蜂起が起きました。

ハンガリーは一時的に複数政党制に復帰しましたが、これをソ連共産党が放置するはずがありません。

この事件の詳細については、小島亮「ハンガリー事件と日本」(中公新書)の序章が詳しい。

この本によれば、11月4日のブダペスト攻撃でソ連は機械化師団総計12、戦車2500台、装甲車1000台と歩兵を伴う大部隊をでハンガリーを制圧しました。

ソ連軍は都市部で無差別破壊を行い、捕虜は虐殺するかシベリアに送りました(同書p18-19)。

宮本顕治氏ら当時の日本共産党はソ連軍の介入により反革命分子が粉砕され、ハンガリーの社会主義が守られて良かった、と考えたのです。

独映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」を観た日本共産党の宮本徹議員と池内さおりさんは宮本顕治論文を御存知なのか


最近開封されたドイツ映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」はこの事件の影響を受けた東独の学生たちの姿を描いているらしい。

残念ながら私はこの映画を観ていません。

日本共産党の宮本徹議員と池内さおりさんがtwitterで良い映画だったと発信されていました。

とても良い映画なのだろうと私も思いますが、お二人とも事件当時の日本共産党がソ連軍のハンガリー介入、民衆虐殺を支持した史実を御存知なかったらしい。

宮本顕治氏の著作をきちんと読んでいればこれはすぐにわかるのですけれど。反革命分子はソ連に殺されて当然、などという昔の日本共産党の発想は異様です。

昔のハンガリーは市場的社会主義の旗手だった


私事ですが、私は早大の学生だった頃、ブダペストに旅行で行きました。三十数年前です。1ドルが240円くらいだったと思います。

その頃、「地球の歩き方」という本が出版され始め、夏や春の休みにリュックをしょって欧州を旅する大学生が増えてきたのです。

当時のハンガリーは、市場的社会主義を掲げ、経済の自由化をかなり進めていました。

ハンガリーの経済学者、コルナイ・ヤーノッシュの「不足の経済学」を読んだ私は、行ってみようと思い、アルバイト代を貯めて行ったのです。

ハンガリー語は全くわかりませんでしたが、市場経済化がかなり進行し、商品の不足など殆ど感じられませんでした。

ソ連共産党は、ハンガリーが対外路線でソ連を支持するなら、国内では自由化を進めても良いと判断したのでしょう。

ユーゴスラヴィアと共に、市場的社会主義の旗手だったハンガリーはその後、資本主義経済化しました。

最近は極右翼が台頭しているようです。

結局、市場的社会主義とは幻想にすぎない。資本主義経済化するのは当然です。搾取制度を廃止した社会主義経済など存在しえないのです。

若き不破哲三氏はユーゴスラヴィアの市場的社会主義論を「市場関係の自由な発展をつうじて社会主義を建設するというこの構想は非科学的で反マルクス主義的だ」と論じました(マルクス主義と現代修正主義」大月書店昭和40年刊行、p48)。

若き不破氏の市場的社会主義批判は、市場に強い社会主義を目指す今の日本共産党の路線への批判としても通用します。

今の日本共産党員や同党を支援する経済学者は、東欧に市場的社会主義を掲げて実行した国があったことを忘却してしまったようですね。

左翼勢力は共産主義国の凄惨な歴史から学ぶべきだ


左翼勢力が長期的な退潮から脱却するためには、社会主義を目指すという発想を放棄し、よりましな資本主義経済を建設するために貢献すべきです。

勿論、資本主義経済は本質的に不安定です。この不安定性を軽減するために、国家権力の強化が必要です。

日本の左翼は、日本国家の維持と発展に貢献する、という視点を持つべきなのです。

社会資本を地道に建設せねばならないのですから。社会資本は最大の安全網です。

社会資本建設のためには、中央銀行の国債大量購入も必要です。強力な自衛隊は日本国家維持のために必要不可欠の社会資本です。

これを左翼知識人や運動家に認めよ、というのは所詮無理ですね。

中国共産党、朝鮮労働党が安倍内閣を批判しているから平和勢力であると思い込んでいる左翼知識人、運動家はいかんともしがたい。

結局、今も昔も左翼知識人や左翼政治家、運動家は共産主義国による知識人、運動家の弾圧を擁護ないしは黙殺する点で共通している。

昭和31年から60数年、彼らは何も学んでいない。