2016年11月25日金曜日

レーニン「帝国主義戦争の内乱への転化というスローガンについて」(レーニン全集第41巻、大月書店昭和42年刊行、p421掲載)より思う

唯一の正しいプロレタリア的なスローガンは、現在の帝国主義戦争の内乱への転化ということである。...(途中略)このような戦術だけが、新しい歴史的時代の諸条件にふさわしい、労働者階級のほんとうに革命的な戦術となるであろう。」(前掲書より抜粋。この手稿は1914年9月以降に執筆、と出ている)


上記のようにレーニンは、「帝国主義戦争の内乱への転化」が「ほんとうに革命的な戦術」「唯一の正しいプロレタリア的なスローガン」と規定しました。

戦前の日本共産党が金科玉条としていた「32年テーゼ」は、レーニンのこの規定を継承しています。内乱を起こせ!というのですから、武装闘争、暴力革命です。

若い日本共産党員の皆さんは、日本共産党は戦前、戦後のどの時期でも、正規の方針として暴力革命の方針を採用したことはないと本気で信じているのでしょうか。

若い日本共産党員の皆さんは、レーニン全集を全く読まないのでしょうか。レーニンの革命理論や「32年テーゼ」について、何も知らないで日本革命ができると本気で考えているのでしょうか。

共産党員であることに気概と誇りを持っているなら、一昔前の日本共産党の文献を図書館などで探して読み、それらとレーニンの「革命理論」の関係について思考すべきではないでしょうか。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんが、金日成の「すべての力を祖国の統一独立と共和国北半部における社会主義建設のために―わが革命の性格と課題に関するテーゼ」(1955年4月)を知らなかったら、自分が金日成民族の一員であるなどと言うべきではありません。

同様に、日本共産党員が「32年テーゼ」を一切知らず、関心もないなら革命家とは言えないでしょう。

小林栄三氏は「32年テーゼ」を「戦前の最後の綱領的到達点」「革命運動の進むべき道をしめす画期的な指針」と評価した


小林栄三監修「科学的社会主義下」は「32年テーゼ」を「戦前の最後の綱領的到達点」「わが国の革命運動の進むべき道をしめす画期的な指針」と高く評価しています。

この本によれば、「32年テーゼ」は1932年5月に片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加しコミンテルン(世界共産党)で決定されました。

この本はなぜか、32年テーゼが明記している「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」について沈黙しています。

日本共産党の最高幹部の一人だった小林栄三氏はレーニンの論文や手記についてはあまり関心がなかったのかもしれません。

クーシネンら当時の世界共産党幹部は、レーニンの教えに依拠して日本共産党が内乱を起こす方針を作成しました。

「32年テーゼ」を受け取った宮本顕治氏ら当時の日本共産党中央幹部はこれを活動の指針としました。

「革命的階級は、自国政府の敗北を願う」-「32年テーゼ」は日本共産党員の思考方式に影響を与えている


吉良よし子議員、朝岡晶子氏ら若い共産党員の皆さんには信じがたいことでしょうが、「32年テーゼ」には、次の記述があります。

「帝国主義戦争の内乱への転化を目標とする日本共産党は、戦争の性質に適応してそのスローガンを掲げ、反戦活動を行わねばならぬ。」

「革命的階級は、反革命的戦争の場合には、ただ自国政府の敗北を願うばかりである。」

コミンテルン(世界共産党)が当時の日本共産党に与えた任務は、「反戦活動」から内乱を起こし、日本政府が敗北するように仕向けることだったのです。

科学的社会主義の国家論によれば日本政府は「帝国主義政府」「階級的支配のための暴力装置」です。

日本が行う戦争は全て「反革命的戦争」「海外侵略」です。自衛隊は、「支配階級のために奉仕する暴力装置」です。

中国人民解放軍が尖閣諸島に本格侵攻するとき、海上保安庁の巡視船は沈没させられる


科学的社会主義の国家論から考えれば、中国人民解放軍が尖閣諸島に本格侵攻した場合、日本共産党員が自衛隊、海上保安庁の敗北を願ってもおかしくない。

海上保安庁の装備で中国人民解放軍に勝てるはずがない。潜水艦の魚雷で巡視船は沈没させられてしまいます。巡視船に乗っている海上保安庁職員は全員殉死してしまいます。

巡視船でどうやって潜水艦とたたかえというのでしょうか。物事を真面目に考える人なら、自衛隊が直ちに出動し中国の潜水艦と交戦するしかないことがわかるはずです。

海上保安庁の職員の生命と人権について、日本共産党員は一切思考できない。

日本共産党は自衛隊が中国人民解放軍と交戦するための装備充実を「軍拡の悪循環」と徹底批判しています。

自衛隊の装備が中国人民解放軍のそれを上回っているなら、交戦しても中国人民解放軍が負けます。それを事前に予測できないほど、中国共産党は愚かではない。

自衛隊が中国人民解放軍の戦艦や潜水艦、そして中国人民解放軍の出撃基地を徹底破壊できる装備を保持することにより、尖閣諸島侵攻を未然に阻止できるのです。

自衛隊が巡航ミサイルを大量保有し、さらに爆撃機を持てば抑止力の向上になります。日本共産党員が「憲法九条は宝だ」と呟いても、中国人民解放軍には何の影響もない。

中国共産党が行う戦争は「革命的戦争」であるという発想がどこかにあるのでしょう。日本共産党は中国人民解放軍の大軍拡については沈黙しています。

「32年テーゼ」は今でも、日本共産党員の思考方式に影響を与えています。

「とことん共産党」で「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」の具体化について徹底討論を!


何度でも言います。内乱は暴力革命です。内乱は、「議会の多数を得ての革命」と無縁です。

議会で「内乱を起こしましょう」と日本共産党員が演説して、武装蜂起する議員が昔も今もいるでしょうか。

「内乱」を実際にどうやって、いつ起こすかについては「32年テーゼ」は何も述べていません。

「内乱」と称して、クーシネンらコミンテルン(世界共産党)幹部は何かの折に、日本共産党員に日本政府の要人を狙ったテロをやらせようと策していたかもしれない。

「とことん共産党」で「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」のための具体策、その現実性について、小池晃書記局長、吉良よし子議員、朝岡晶子氏が徹底討論されたらいかがでしょうか。

市川正一氏の「日本共産党闘争小史」を吉良よし子議員はご存じなのか


市川正一氏の「日本共産党闘争小史」(昭和29年大月書店刊行、p182)によれば、労働者と農民は勝利を得るためには武装し暴力によって資本家権力とたたかわねばならぬことを知りました。

帝国主義戦争の悲惨からまぬがれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民の日本ソヴェト権力を樹立せねばならない、と市川正一氏は公判で訴えました。

獄中にいた市川正一氏が、「32年テーゼ」を知りえたかどうか私にはわかりません。

吉良よし子議員、朝岡晶子氏ら若い日本共産党員が、武力闘争が戦前の日本共産党の正規の方針だったことを否定するなら、市川正一氏の決死の訴えを「個人的見解」「個人を党の上においた」と一蹴すべきです。

2016年11月23日水曜日

レーニン「十月革命四周年によせて」(レーニン全集第33巻、大月書店昭和34年刊行)より思う。

「ブルジョアジーの召使や、エス・エルとかメンシェヴィキというブルジョアジーの太鼓もち、全世界の小ブルジョア的なえせ『社会主義的』民主主義派という太鼓もちどもは、『帝国主義戦争を内乱に転化せよ』というスローガンをばかにしていた。だが、このスローガンはただ一つの真理であることがわかった。」(レーニン全集第33巻、p42より抜粋)


レーニンは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」をただ一つの真理と断言しています。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は、昔の日本共産党が金科玉条としていた「32年テーゼ」の核心です。

「32年テーゼ」とは、世界共産党(コミンテルン)により1932年(昭和7年)当時の日本共産党に下された綱領です。クーシネンという世界共産党幹部が中心になってこれを作成しました。

宮本顕治氏ら当時の日本共産党員はこれを盲信し、内乱を起こすことを策していました。内乱ですから、武装闘争による暴力革命そのものです。

最近の日本共産党は、「わが党は正規の方針として暴力革命をとったことはない」などと主張しています(「赤旗」平成28年3月24日記事)。これは大嘘です。

「32年テーゼ」はその頃の日本共産党の綱領そのものでした。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、「32年テーゼ」を御存知なのでしょうか。

私見では若い日本共産党員は、日本共産党の一昔前の文書やレーニンの論文を読んで得た知識を自分なりに整理、解釈することができない。

若い日本共産党員には、日本共産党の一昔前の文書を読んで日本共産党の歴史を自分の頭で整理し解釈していくことができない


ましてや、レーニン全集を紐解いて「32年テーゼ」の核心「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」が、レーニンの戦争に関する理論より導かれる結論であることが、若い共産党員にはわからない。

「十月革命四周年によせて」でレーニンは次のように述べています。

「帝国主義戦争の問題、現在全世界を制覇している金融資本の国際政治の問題―この国際政治が新しい帝国主義戦争を不可避的に生みだし、ひと握りの『先進』強国が立ち遅れた弱小民族に加える民族的抑圧、略奪、強奪、絞殺の前代未聞の激化を不可避的に生みだすのである。」

要は、戦争と弱小民族に対する抑圧や略奪は「金融資本」、大銀行や銀行と一体化した大会社の征服欲により生じるという話です。

レーニンのこの「理論」を、イギリスのSF作家H. G. ウェルズは次のように批判しました。

「戦争は国家主義的帝国主義から起きるのであって、資本主義的社会組織から起きるのではない」(「影の中のロシア」みすず書房昭和53年刊行、p104-105。原題はRussia in the Shadows)。

レーニンは、大銀行や大会社が、各国の戦争政策決定に具体的にどう参画していたというのでしょうか。

クリミア戦争、露土戦争、日露戦争、第一次大戦へのロシア参戦決定にどのようにロシアの大銀行や大会社が参画したとレーニンはいうのでしょうか。

SF作家ウェルズの方が現実的です。レーニンには、実際に企業で働いた経験がないことを付言しておきます。レーニンは企業の意思決定の仕組みを知らない。

レーニンの「理論」に従えば、欧米や日本の大銀行や大会社が「帝国主義戦争」を参画し行っていることになります。

従って共産党員たるもの、一刻も早く自国で内乱を起こし、自国政府を混乱させ自国が「帝国主義戦争」で敗北するように努力せねばなりません。

戦前の日本共産党大幹部市川正一は獄中から武装蜂起、武力闘争を主張していた


この類の「理論」に依拠して、「獄中闘争」をしていた日本共産党の大幹部市川正一氏は裁判の最終陳述で次のように述べました。

「帝国主義戦争の悲惨からまぬかれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民の日本ソヴェト権力を樹立しなければならぬ」(「日本共産党闘争小史」大月書店昭和29年刊行、p182より抜粋)

武装闘争、暴力革命が当時の日本共産党の正規の方針ではないなら、市川正一氏の公判での主張は市川氏の個人的見解だったことになります。

市川正一氏は個人の見解をあたかも日本共産党の見解のように広めてしまったのですから、除名処分をされるべきということになるでしょう。

これでは、獄中で亡くなった市川正一氏があまりにも惨めです。市川氏は決死の思いで獄中から労働者、農民に武装蜂起を呼び掛けたのですから。

当時の日本共産党員は大真面目に武装蜂起、武力闘争により日本でソヴェト権力とやらをつくろうとしていたのです。

故人が反論することはないから歴史を歪曲してしまえ、と志位和夫氏が判断し「赤旗」編集部は「日本共産党闘争小史」を無視することにしたのかもしれません。

「とことん共産党」出演者は「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」「大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争」を御存知なのか


最近、「とことん共産党」という番組が放映されています。小池晃書記局長や吉良よし子議員、朝岡晶子氏らがこの番組に出演されています。

「とことん共産党」出演者の皆さんは、「32年テーゼ」や市川正一「日本共産党闘争小史」に明記されている暴力革命方針を御存知なのでしょうか。

この程度の文献も読んでいない共産党員が自らを「とことん共産党」などと自称宣伝するなら、誇大広告ではないですか。

追記 「とことん共産党」と日本共産党学術・文化委員会の皆さんへの提案


「とことん共産党」で司会をお務めの朝岡晶子さんは、日本共産党中央委員会の学術・文化委員会所属のようです。インターネットでそういう記事を見ました。ワイン好きだそうです。

日本共産党員内部で、学術・文化に関する業務を担当されているのでしょう。学術・文化業務に日常的に携わっている方ならば、宮本顕治氏の次の論文を御存知のはずです。

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(「前衛」49号、1950年5月掲載。「日本共産党50年問題資料集1」新日本出版社昭和32年刊行、p27-35にも掲載)

「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と兄弟諸党との連帯の強化について」(「前衛」1959年5月号掲載)

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」は、「日本革命の平和的発展の可能性」を提起することは根本的な誤りであること、議会を通じての政権獲得の理論も同じ誤りであることは論をまたないとと断定しています。

「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と...」は、「社会主義はソ連邦で完全な最後の勝利をおさめた。今日、ソ連邦では国内的に資本主義を復活させる力がないだけでなく、世界的にソ連邦および社会主義陣営をうちやぶれるような力は存在し得ない」と断定しています。

朝岡晶子さんら日本共産党の学術・文化業務担当の方々は、宮本顕治氏のこれらの見解をどうお考えなのでしょうか。

日本革命の平和的発展の可能性や議会を通じての政権獲得が根本的な誤りなら、武装闘争と暴力革命しかありえない。

社会主義のソ連邦における完全な最後の勝利とは、いったい何を意味していたのでしょうか。

推測ですが、宮本顕治氏のこれらの見解は、朝岡晶子さんや吉良よし子議員の見解と大きく異なっているように思えてならないのです。

朝岡晶子さんや吉良よし子議員が武装闘争、暴力革命を真剣に検討し準備しているとは考えられない。

これらについて、「とことん共産党」で出演者が徹底討論なさったらいかがでしょうか。御検討下さい。











2016年11月21日月曜日

北朝鮮在住の作家パンジ著「告発」(萩原遼訳、かざひの文庫刊行)より思う。

「暗闇の地、北朝鮮に灯りをともす、ホタルの光となり...パンジは朝鮮作家同盟中央委員会に所属しており、1950年に生まれ、朝鮮戦争も体験し、両親とともに中国まで避難し幼年時代を送り、再び北朝鮮に戻り生活しました。」(被拉脱北人権連帯代表 都希侖氏の推薦の辞より抜粋。同p2掲載)


パンジとは、朝鮮語で蛍を意味しています。「月刊朝鮮」で強力な北朝鮮批判論を展開してきた趙甲済氏がこの本のあとがきを書いています。

パンジの親戚が脱北して持ってきた肉筆原稿を、被拉脱北人権連帯代表 都希侖氏が入手したとあとがきにあります。

「告発」は200字詰め原稿用紙750枚分の原稿による、七つの短編から成ります。

どれも、全体主義社会で圧政に耐えている人びとの生きざまを描いています。

「プロレタリア文学」「民主主義文学」とは一体何だったのかという疑問を本ブログでは何度も提起してきました。

「プロレタリア文学」「民主主義文学」が圧政と抑圧に抵抗する人々の生きざまを描く文学であると定義するならば、「告発」こそその名にふさわしい。

パンジは、稀代の独裁者金日成を正面から批判しています。筆者が誰か朝鮮労働党にばれてしまえば、「反党反革命宗派分子」とやらの「罪」で処刑される可能性が極めて高い。

筆者だけでなく、家族、親戚もそうなってしまう可能性すらあるのです。

北朝鮮の出版事業は朝鮮労働党の支配下にある


北朝鮮についてよく知らない方は、韓国や日本などでなく、政府の監視網を何とかくぐりぬけて自国で地下出版すればよいではないかと考えるかもしれません。

治安維持法下の日本でも宮本百合子は作家として活動し、ソ連の住民生活を国民に紹介できた。北朝鮮の作家もやればできるはずだ、などと思う方もいるかもしれません。

そういう方はテロ国家北朝鮮の現実について無知蒙昧だとしか言いようがない。

北朝鮮の出版社は全て朝鮮労働党の支配下にあります。北朝鮮では紙は貴重品です。質の悪い原稿用紙ですら普通の人は入手困難です。

金正日の著作でさえ、私たちからみれば劣悪な紙で印刷されています。紙を生産するための諸資源が不足しているのでしょう。

印刷機器と出版に必要な紙やインクを普通の人がどこからか入手し、朝鮮労働党に知られないように本を印刷し配布できるような状況ではない。

北朝鮮の作家や記者は、朝鮮労働党の宣伝扇動部の指導下にいるはずです。

朝鮮労働党の宣伝政策の一環として、金日成、金正日そして金正恩を礼賛し、体制の優位性を宣伝する出版事業がなされています。

印刷物の中身が何であれ、朝鮮労働党の検閲を受けていないものを国民に流布したら重罪です。政治犯収容所行きか、処刑されてもおかしくない。

「赤いキノコ」という題名の掲載小説にも出てくるように、北朝鮮では「政治犯」の「裁判」に弁護人はつかない。弁護人がいないなら、政治犯には「裁判」はないと考えた方が適切です。

北朝鮮では政治犯は、中世欧州の「魔女や「異端」のように扱われているのです。火刑(火あぶりによる処刑)も時折行われていますから。

金日成の「現地指導」は北朝鮮社会の物資流通を妨げ、資源・資材不足を深刻化させている


著者のパンジは、普段は金日成、金正日を礼賛する小説ないしは記事を書いているのでしょう。

金日成を礼賛する小説を書くためには、金日成の「現地指導」の実情を多少は知らなければならない。「伏魔殿」という小説は、「父なる首領様」金日成の「現地指導」の実態を鋭く批判しています。

「一号行事」という名称で呼ばれる金日成の「現地指導」がある地域で行われると、その地域へ行き来する電車が暫く止められ、道路も封鎖されてしまうそうです。

これを、私はこの本を読むまで知りませんでした。金日成や金正日の「現地指導」時に相当な警備がなされているという話は、脱北者の手記に出てきます。

「一号行事」とやらがなされると、その地域近辺では物資の流通、人の往来が一時的に停止してしまう。

慢性的な資源不足、資材不足の北朝鮮社会で、生産をスムーズに行うためには不足している資源や資材を余剰地域から必要な地域に素早く運ばねばなりません。

北朝鮮社会の物資流通を底辺で支えているのは、朝鮮労働党幹部を買収して移動許可証明を入手し、生活のために「担ぎ屋」として各地を移動して物資を売買する人々です。

「担ぎ屋」の移動による物資流通が、「一号行事」により妨げられている。「絶世の偉人」にはそんなことは一切分からなかったことでしょう。

「告発」の存在を日本政府は対北朝鮮ラジオ放送、海外衛星放送で金正恩、金予正に教えるべきだ


北朝鮮では、金日成の「教示」、金正日の「お言葉」が人々の生活の在り方を規定しています。

「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、北朝鮮の国民は自分の所業を金日成、金正日の指令に基づいているかどうか、常に点検せねばならないと定めています。

パンジは「十大原則」を踏みにじっているのです。

この小説の存在が金正恩にまで知られれば、国家安全保衛部ないしは朝鮮労働党の宣伝扇動部が朝鮮作家同盟の監督責任を問われかねない。

朝鮮労働党の宣伝扇動部を、金正恩の妹金予正が指導しているらしい。

朝鮮作家同盟ないしは朝鮮労働党の宣伝扇動部内に、金正恩と妹金予正に激しい反感を持っている人物がいるかもしれないのです。

日本政府は至急、金正恩・金予正御兄弟に「党の唯一体系確立の十大原則」を踏みにじる小説「密告」の存在を対北朝鮮ラジオ放送、海外衛星放送でお知らせするべきです。

国家安全保衛部大幹部の皆さんが、金正恩から責任を問われるならその前に...という「決意」をしていただける良いのですが。

ところで、金正恩の妹金予正には、さほどの警備はついていないのかもしれません。金予正は、金正恩の「現地指導」時に一行から離れて気軽に歩く場合もあるようですから。

これも、対北朝鮮ラジオ放送と海外衛星放送で日本政府から国家安全保衛部や朝鮮人民軍の皆さんにお知らせするべきです。











2016年11月14日月曜日

川越敬三「社会主義朝鮮」(新日本新書、昭和45年刊行)より思う。

「では、朝鮮労働党と共和国政府は、米日反動勢力と朴正ヒ一派が宣伝しているように、共和国北半部からいわゆる『ゲリラ』を南朝鮮におくりこんで、その力で朴正ヒかいらい政権を倒そうとしているのだろうか」(同書p167より抜粋。朴正ヒの「ヒ」は漢字で表記されている)


川越敬三氏は、昭和43年1月の「青瓦台事件」を主に想定しているものと考えられます。

この事件について、当時の「赤旗」には「朴かいらい一派との南朝鮮人民のたたかいの発展」などという「報道」がなされていました。

しかし、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党最高幹部は、北朝鮮の武装工作員が青瓦台(韓国の大統領府)を急襲して朴大統領殺害を策した事件であることを認識していました。

これは、赤旗編集局編「北朝鮮覇権主義への反撃」(新日本出版社1992年刊行)や、「不破哲三 時代の証言」(中央公論新社、p80-81)からも明らかです。

宮本顕治氏、不破哲三氏らは北朝鮮の武装工作員が韓国の朴大統領殺害を策した事実を川越敬三氏、新日本出版社の社員ら「赤旗」読者と下部党員に一切伝えなかったのです。

日本共産党最高指導部の北朝鮮認識を察知できなかった川越敬三氏や新日本出版社は、はからずも宮本顕治氏、不破哲三氏の認識と異なる宣伝を断行してしまいました。

「先進的な社会主義制度のもとで、人びとは生気に満ちて、たくましく前進をつづけている」(同書はしがきより)


この本の著者川越氏は、「38度線の北」を著した寺尾五郎氏とならび、最も北朝鮮を礼賛したジャーナリストの一人です。

一昔前の新日本出版社は、北朝鮮礼賛本を出版し全力で普及していました。

川越氏によれば、南北朝鮮人民の意思を結集しておこなわれた朝鮮民主主義人民共和国の創建は、南朝鮮におけるかいらい「国家」「政府」でっちあげにたいする全朝鮮人民の断固たる意志の表明です(p2)。

「社会主義朝鮮」を読むと、北朝鮮には悪いところなど一つもない。医療と教育は無料、住宅も水道料と光熱費を含めて格安です。

朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設は、千里馬のようなはやさで進んできたし、いまも進んでいます(同書p23 )。

労働者は国の主人公であり、誰も搾取されていません。人々は能力に応じて働き、労働量に応じて生産の分け前を受け取ります(p51)。

ところで、労働者の「能力」「労働量」をだれがどんな基準で評価するのでしょうか。

金日成が机に向かって1時間業務をするときに受け取る賃金と、労働者が建設工事や炭鉱で1時間働くときに受け取る賃金は異なっているのでしょうか。

金日成には「賃金」などなく、豪勢な生活を全て国費で賄っているのなら労働者は搾取されていませんか。

金日成の私生活の原資は労働者の労働の成果ではないでしょうか。この本を出版した新日本出版社の方にお尋ねしたいものです。

金日成に粉砕された反党分子はその後どうなったのか


内外の日和見主義者、大国主義者が妨害、干渉、陰謀をたくましくしていた時期がありました(同書p27-28)。

1956年8月の朝鮮労働党中央委員会は反党分子たち(副首相だった崔昌益と朴昌玉らのグループ)の陰謀を粉砕しました。

それでは、反党分子の方々が「粉砕」された後どうなったのか、この本は何も述べていません。川越氏の脳裏にはそんなことは微塵も浮かばなかったのでしょうか。

私見では、反党分子は裁判のような手続きもなく処刑された可能性が高い。北朝鮮では昔から、政治犯には裁判のような制度はありません。

「裁判」があっても、反党分子に弁護人がつくかどうか、極めて怪しい。弁護人も一緒になって反党分子を全力で弾劾してもおかしくない。

川越氏の脳裏には、二次大戦終了前にソ連軍が満州から朝鮮半島の北部まで侵攻し占領していった史実は思い浮かばなかったのでしょうか。

中国共産党と金日成の関係も、川越氏は想像すらできなかったのでしょうか。

北朝鮮の絶賛本としか言いようがないのですが、興味深い箇所について以下指摘します。

川越氏は上田耕一郎氏から「甲山派」の行方不明について情報を得られなかったのか


川越氏は昭和38年、44年と二度訪朝しています。この時期の日本共産党は、北朝鮮、在日本朝鮮人総連合会と親密な関係を維持していました。

川越氏は平壌国立大劇場で音楽舞踊叙事詩「栄えあるわが祖国」や創作オペラを観ました。

「栄えあるわが祖国」は金日成の父親の「朝鮮国民会」運動をとりあげていたそうです。

これには、金正日が何らかの役割を果たしていると考えられますが、この本には金正日の名は出ていません。この時期には金日成の妻、金聖愛がまだ権勢をふるっていました。

川越氏の二度目の訪朝時には、「甲山派」と呼ばれる労働党幹部らが追放、粛清されていたはずですが、川越氏はそれに気づかなかったのでしょうか。

不破哲三氏と上田耕一郎氏は当時からそれを察知していました。「北朝鮮 覇権主義への反撃」から明らかです(同書p20,p70)。川越氏は、上田兄弟と面識はなかったのでしょうか。

昭和45年の出版時なら、その前の朝鮮労働党の文献に「唯一思想体系の確立」という表現が出ていたはずですが、川越氏はその異様さに気づかなかったのでしょうか。

川越敬三氏は舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎の現状について関心はなかったのか


川越氏は朝鮮人が優れた芸能の素質を持っている例として、舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎(金栄吉)の名前をあげています(同書p133)。

二人とも昭和45年頃には既に消息不明になっていたはずですが、川越氏は訪朝時に北朝鮮当局に二人の現状について質問ぐらいはしなかったのでしょうか。

この本の「あとがき」によれば、昭和35年の夏、帰国協定の延長問題をめぐる日朝両国赤十字会談が約一か月にわたって新潟で行われました。

川越氏は報道陣の一人として、双方の記者会見を毎日聞きました。

川越氏によれば日本側の主張は、帰国事業を一日もはやく打ち切らせようとする自民党政府の方針に縛られたものでした(同書p214)。

朝鮮側の主張は、苦しい境遇にある在日朝鮮人への思いやりに満ちており、在日朝鮮人を激励する立場が貫かれていました。

川越氏はりっぱな政策をうちだしてくる朝鮮の社会主義について、ぜひ勉強したい思うようになりました。

川越氏の云うように、当時の自民党政府が帰国事業を一日もはやく打ち切らせようという方針を確立していたとは極めて考えにくい。

そういう方は政府内に少数ならいたかもしれませんが、多数派なら簡単に打ち切っていたはずです。

川越氏の主張通りなら、当時の自民党政府は北朝鮮当局が在日朝鮮人を奴隷として利用するために帰国事業を始めたことを察知していたことになります。

また、当時の日本政府が在日朝鮮人を厄介者扱いして皆帰国させようという方針を持っていたというような「研究」がありますが、それはありえない。

帰国事業を現場で見ていた川越氏の記述からもこれは明らかです。

昭和38年8月20日、川越氏、畑田重夫氏ら6人の訪朝団が金日成と会った


この本によれば、川越氏、畑田重夫氏ら6名が昭和38年8月20日に金日成と会いました(同書p174)。

会見場所は朝鮮労働党中央委員会本部でした。一行は1時間半、金日成と懇談しました。

金日成は日本の言論界が共和国北半部の社会主義建設についてとりあげると、その報道が南朝鮮にも伝えられ、南朝鮮人民に北半部の実情を知らせるのに役立っていると述べました。

金日成によれば、日本人民の闘争は朝鮮の自主的統一のかけ橋の役割をしています。

金日成は日本での北朝鮮宣伝が「南朝鮮革命」に重要な役割を果たすことを熟知していたのです。「朝・日両国人民の運命は一つです」と金日成は述べたそうです。

川越氏、畑田重夫氏らは深く感銘したことでしょう。「南朝鮮革命」すなわち大韓民国滅亡への協力こそ、日本人民の使命であると胸に刻んだことでしょう。

「社会主義朝鮮」を出版し、川越氏は金日成の期待に立派にこたえました。

53年も前のことですが、畑田重夫氏に当時の訪朝体験を語っていただきたいものです。北朝鮮による大韓民国滅亡策動を、国際政治学者畑田重夫氏はどう評価しているのでしょうか。

川越氏と大槻健早大教授(教育学)は、昭和44年訪朝時、両江道恵山にも行った(p41-42)


川越氏は共に訪朝した大槻健早大教授と、昭和44年訪朝時に平壌から両江道恵山に、北朝鮮の社会科学院幹部二人と列車で行ったそうです。

平壌からいったん南下して東に行き、ハムフン、新浦、北青、端川、金さくの各駅を経て吉州駅に到着。ここで列車が二つに切り離され、清津に向かう列車と恵山に向かう列車に分かれました。

恵山駅に着いた時には夜になっていました(p43)。この列車速度は、私が知っている北朝鮮のそれよりかなり速い。当時の北朝鮮は、90年代以降ほど電力、資源不足ではなかったのでしょう。

在日本朝鮮人が身内(帰国者)と会うために訪朝できる時期になると、「案内員」という監視役が常に同行するようになっていました。

川越氏と大槻健教授には「案内員」はついていなかったようです。川越氏らは恵山市の北側を流れる鴨緑江を見ました。川幅は渇水期のためせいぜい10メートル程度でした。

20数年後に、相当数の北朝鮮の人々がこの町から鴨緑江を越えて脱北します。渇水期なら川を渡ること自体は難しくない。警備隊を買収する外貨があれば大丈夫だったでしょう。

川越氏と大槻健早大教授が北朝鮮当局から聞いた金日成神話―普天堡戦闘はテロ行為、朝鮮人民革命軍は山賊


川越氏と大槻健教授は、車で普天の街まで行きました。普天には、かつて日本が警官の駐在所、面事務所(町役場)、郵便局、消防隊本部、金融組合などを設置しました。

川越氏によれば、これら機関の実態はみな朝鮮人民抑圧のための暴力装置で日本人たちが武器を持って集まっていたそうですが、荒唐無稽な話です。

町役場や郵便局、消防隊、金融組合に武器などあるはずがない。当時の日本では拳銃、鉄砲は貴重品でしたから、警察ですらいつも保有していたわけではない。

1920年生まれの川越氏には、その程度の推察力すらなかったのでしょうか。

川越氏によれば、1937年6月4日夜、金日成将軍が自ら引きいた朝鮮人民革命軍の一隊が鴨緑江と佳林川を越え、この町の日本の各機関をいっせいに襲撃しました(p43)。

敵を倒し、駐在所の留置場にとらえられていた朝鮮人を開放し、建物に放火したパルチザンは住民から歓声で迎えられました。

金日成将軍は群衆に向かって反日愛国勢力の団結を訴える演説をしました。

朝鮮人民革命軍の隊員たちは、「祖国光復会10大綱領」や朝鮮人あてのアピールを町中に張り出した後引き上げました。

「この町の日本の各機関をいっせいに襲撃」とありますがから、警察の駐在所はもちろん町役場や郵便局、消防隊も襲撃したのでしょう。

銃声が聞こえたでしょうから、役場や郵便局、消防隊の近くに住んでいた朝鮮人たちはどんなに恐ろしかったでしょう。

放火などしたら、普通の朝鮮人の家まで延焼してしまうかもしれません。消防隊も襲撃されたのでは、誰も消火できなくなってしまいます。

金日成の部隊が金融組合を襲撃したのなら、金品を強奪した可能性もあります。放火や金品強奪をして山中に逃げてしまう連中を、一般に山賊と呼びます。

川越氏らは遊撃隊の抗日スローガンがいまなお墨黒ぐろと読めるのを見た(p45)


川越氏らは金日成の指揮する遊撃隊の野営地と、隊員たちが樹の幹を削って書き記した抗日スローガンが今なお墨黒ぐろと読めるのを見ました。

「墨黒ぐろ」なら、その抗日スローガンはごく最近記されたのではないでしょうか。1930年代から、川越氏が訪朝した昭和44年(1969年)まで三十数年の歳月が流れています。

三十数年経てば、墨は雨で流れてしまうはずです。川越氏にはその程度の推察もできなかったのでしょうか。

この本を出版した新日本出版社の担当者は、川越氏の記述の奇妙さに気づかなかったのでしょうか。

川越氏らは恵山で普天堡戦闘勝利記念塔を参観しました。若き金日成将軍を先頭にたくましく前進する61人のパルチザン戦士と人民の彫像で、高さ38.7メートルの石とブロンズの塔です。

金日成の神格化が、川越氏の訪朝時でかなり進んでいたことがこの記述からもわかります。金日成の彫像など、無駄な公共事業の典型です。

川越敬三氏、国際政治学者畑田重夫氏は関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう評価していたのか


この本を執筆する際の資料として、訪朝した人の視察報告や、在日本朝鮮人総連合会のジャーナリスト、研究者の協力を得たそうです。

在日本朝鮮人総連合会関係者の中に、日本共産党や左翼人士の政治工作を担当する方がいらっしゃったのでしょう。「国際部」という部署の方がそういう仕事をする場合があるそうです。

在日本朝鮮人総連合会副議長だった金柄植氏もそういう仕事を担当していたはずです。上田耕一郎氏は、金柄植氏としばしば会っていました(「北朝鮮 覇権主義への反撃」p64)。

関貴星氏の「楽園の夢破れて」はすでに出版されていたのですが、川越氏は資料価値がなど全くないと判断したのではないでしょうか。

川越氏と共著を出している畑田重夫氏に、関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう考えていたのか、お尋ねしたいものです。

「社会主義朝鮮」と、関貴星氏の「楽園の夢破れて」のどちらが北朝鮮の現実を適切に認識していたのか。今日ではあまりにも明らかではないでしょうか。

川越敬三氏が礼賛した「主体思想」の文献を黄長ヨップ氏が主に執筆した―国際政治学者畑田重夫氏に問う


吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、川越敬三氏の「社会主義朝鮮」を読んだことがないかもしれません。絶版になっているのは残念です。

川越氏によれば、主体思想こそ朝鮮が世界に誇る指導理念です。

「チュチェ」という朝鮮語は、最近では西側諸国の進歩的な思想家のあいだでもそのまま新しい用語として使われ始めているそうです(同書p194)。

ところで、川越氏が礼賛した「主体思想」に関する当時の文献を主に執筆したのは、のちに亡命した黄長ヨップ氏です。

国際政治学者畑田重夫氏は、川越氏の「社会主義朝鮮」と黄長ヨップ氏による主体思想批判の数々の文献を、今日どう分析しているのでしょうか。


2016年11月12日土曜日

宮本百合子「モスクワの姿―あちらのクリスマス―」(「宮本百合子全集」第九巻。原著は「婦人サロン」昭和6年12月号掲載)より思う。

「五ヵ年計画がソヴェト同盟に実行されてはじめて、教会と坊主は、プロレタリアートと農民の社会主義建設の実践からすっかりボイコットされてしまった。農村で、青年・貧農・中農たちが現実に有利な集団農場を組織しようとする。

農村ブルジョアの富農は反対で、窓ガラス越しに鉄砲をブチ込み積極的な青年を殺したりした。坊主をおふせで食わせ飲ますのは富農だ。坊主と富農は互に十字架につらまって、農村の集団化の邪魔をする。

坊主を追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際からソヴェト同盟の反宗教運動は完成された。一九二九年、坊主はXマスであった日にパン屋の入口に職業服のまま立って乞食していた。」(同書より)


宮本百合子は1927年12月15日から3年弱、ソ連に滞在しました。この短い紀行文は帰国してから書かれたものです。

熱烈なソ連信者だった宮本百合子は、ソ連が搾取者だった富農を排除して着実に社会主義を建設し、労働者と農民の国になっていくことを示したかったのでしょう。

共産主義理論によれば、ロシア正教会は基督教という非科学的な世界観で労働者と農民を奴隷的地位に縛り付ける役割を果たしています。

宮本百合子が買った本「聖書についての愉快な物語」


宮本百合子は、ロシア語はあまり読めなかったそうですが、モスクワの国立出版所で「聖書についての愉快な物語」という本を買いました。この本には次のように記されていました。

「諸君。一冊の本がある。それを教会で坊主が読むときには、みんな跪いて傾聴する。開けたり閉めたりするときは、一々接吻する。その本の名は聖書だ。

ところで、聖書には、神の行った実に数々の奇蹟が書かれている。神は全智全能だと書かれている。

けれども、妙なことが一つある。それは、その厚い聖書を書いたのは神自身ではない。みんな神の弟子たちだということだ。ヨブだのマタイだのと署名して弟子が書いている。

全智全能だと云いながら、して見ると神というものは本はおろか、自分の名さえかけなかった明きめくらだったんだ。」

1927年当時のソ連では、実に品のない基督教批判がなされていたのです。私は基督教徒ではありませんが、これは酷い。

神が自分で本を書くわけがない。ばかばかしいことこの上ない。

宮本百合子はロシア正教会の聖職者を「坊主」と訳していますが、悪意のこもった訳です。

「坊主」とは仏教の僧侶を、見下して使う俗語ですから。普通は「お坊さん」と言います。

そもそもロシア正教会の聖職者は仏教徒ではない。宮本百合子は仏教も「封建社会の遺物」などと把握していたのでしょう。

富農と聖職者の追放、粛清はレーニンの遺訓


当時のソ連共産党は、レーニンの遺訓に依拠し、教会の聖職者は富農の手先だから粛清せよ!という方針を保持していました。

宮本百合子はそれを「坊主を村から追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際から、ソヴェト同盟の反宗教運動は完成した」と表現しました。

レーニンは繰り返し、富農の粛清を強調しています。

いささか奇妙ですが、私は宮本百合子は社会の動きに関する感覚の鋭い人だったと思いました。

宮本百合子が滞在していた時期に、ソ連社会は「人間抑圧型社会」(不破哲三氏の表現)に変貌していきます。

全体主義がソ連で確立されていく時期だったのです。

工業化を急速に達成するためには、「五ヵ年計画」と農業集団化で農村の余剰を工業化に強制配分せねばならない。

そのためには農民から移動の自由、職業選択の自由を奪い、共産党の指令に服従するよう、思想改造をせねばなりません。労働者もソ連共産党の指令に従い、黙々と働くようにせねばならない。

宮本百合子はソ連共産党の反宗教運動を「社会進歩」と認識していた


労働者、農民がスターリンとソ連共産党よりロシア正教会の聖職者を偉いと考えているようでは、共産党の指令に従わなくなってしまいます。

ロシア正教会のおしえは、ロシア人の心に深くしみ込んでいました。ロシア正教会の聖職者に対する尊敬感は社会主義建設の障害でしかない。

ソ連共産党はこれを上記のような本で除去しようとしたのです。クリスマスも徐々に廃止させようとしました。

宮本百合子によれば、1928年のクリスマスの日には樅の木売りがモスクワの目抜きの広場から姿を消していました。

モスクワの労働者クラブで、夜明け頃まで反宗教の茶番や音楽、ダンスがあったそうです。

富農とロシア正教会の聖職者を追放し、建設現場や政治犯収容所で奴隷のごとき囚人労働をさせることは、工業化の財源確保のためでもありました。

宮本百合子が上記のような背景を承知していたとは考えにくいですが、富農と聖職者の追放が社会を大きく変える重大事であることを宮本百合子は感知していました。

富農と聖職者の追放、下品な反宗教運動を宮本百合子は大真面目に「社会進歩」などと把握していたのです。

Christmasに乞食をしていた聖職者はその後どうなったのか


ところで、宮本百合子が目撃した、1929年のクリスマスの日にパン屋の入り口で乞食をしていた聖職者はその後、どうなったのでしょうか。

この方が所属していたであろう教会は反宗教運動により破壊されてしまったのでしょうか。

ロシア正教会聖職者の多くは、凍えるモスクワの冬を越えられず、餓死していったのかもしれません。

宮本百合子が本質的に残虐な性格の持ち主だったとまでは思えませんが、この一文には「搾取を擁護してきた坊主は死ね!」というメッセージが込められている。

「階級的憎悪心」というものでしょう。乞食をしていた聖職者は失業していたと言えるはずですが、憎しみでいっぱいになってしまっているこの方にそんな発想の転換ができるはずがない。

ソ連にも、失業者がいたということです。「人民の敵」として囚人労働をさせられなかったが、その類とみなされて国有企業で職を得られなかった人はいたはずです。

十年ほど後には、スターリンが国民を戦争に徹底動員するため、ロシア正教会を利用します。そのときまで、ロシア正教会の聖職者たちはどうやって暮らしていたのでしょうか。気になりますね。

吉良よし子議員は宮本百合子のソ連礼賛文を読んでいるのか


吉良よし子議員や「民主主義文学運動」に参加されている皆さんは、宮本百合子の数々のソ連礼賛文をどう評価しているのでしょうか。

吉良よし子議員は読書好きだそうです。宮本百合子の「モスクワの姿」は、青空文庫でも読めます。是非読んで、感想をホームページなどに書いて頂きたいものです。

私には吉良よし子議員が教会の牧師や神父、仏教の僧侶を憎んでいるとは到底考えられないのです。宮本百合子のような発想で宗教者を見ているのなら、「市民との共闘」などありえません。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子のソ連礼賛文を御存知でしょう。その話をするといろいろ厄介なことになるから黙っているのでしょうね。

宮本百合子の「歌声よおこれ」の「歌」とは、在日本朝鮮人総連合会の皆さんが歌う「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」と大差ない。

「モスクワの姿ーあちらのクリスマス」を読んで改めてそう感じました。







2016年11月4日金曜日

アンドレ・ジイド「ソヴェト旅行記修正」(昭和27年新潮文庫)より思う

「立身出世の早道は密告である。密告をすると警察とよきつながりができるし、その庇護をうけることになる。但し警察から利用されることにもなるが。

一度、これをやりはじめたが最後、もはや名誉や友情に拘ることなく、ただ密告一筋道あるのみとなる。(途中略)不穏な言葉を耳にしながら、早速申し出なかった者は投獄または流刑に処せられる。したがって、密偵行為は一つの市民的な美徳とすらなっているわけである。」(同書p30-31から抜粋)


スターリンの時代のソ連社会の特徴の一つは、市民間の密告です。知人が不満を言ったら警察に密告しないと、自分が投獄、流刑されるかもしれない社会でした。

今の北朝鮮と同じです。こんな社会で生きていくことはどんなに困難だったでしょう。

1956年のフルシチョフによるスターリン批判より約20年も前に、ソビエト社会の実情を暴いたジイドの慧眼に感服させられます。

「ソヴェト旅行記修正」の解説(小松清氏)によればジイドのこの評論は、前著「ソヴェト旅行記」が出てから半年あまり後の1937年6月(昭和12年6月)に発表されました。

「ソヴェト旅行記」は、ロマン・ローランにより厳しく批判されました。ジイドはこれらに答えるため再度ソ連批判をしました。上記はその一部です。

スターリンとソ連共産党による独裁体制、今日の不破哲三氏によれば「人間抑圧型社会」が形成されていることをジイドはいち早く看破したのです。

不破哲三氏がソ連を「人間抑圧型社会」と規定したのはソ連崩壊後です。

ソ連について、日本共産党員がジイドと同様の認識に至るまでおよそ53年の歳月が必要だったのです。

宮本百合子のジイド批判―「こわれた鏡」は「人間抑圧社会」礼賛


ジイドの反論文は、「中央公論」昭和12年10月号に「ローランその他への反撃」という題名で翻訳されて掲載されたようです。

宮本百合子は「こわれた鏡―ジイド知性の喜劇―」(「帝国大学新聞」昭和12年10月11日号)と題してジイドを批判する評論を書いています。

宮本百合子は、ジイドが引用している統計をソ連当局が公開し発表していること自体が、ジイドによって描かれているとは異なった現実があることを読者に感じさせると主張しています。

宮本百合子は、ジイドは歴史の本質を把握しておらず猛烈な自己分解を行っていると論じています。

今日の不破哲三氏から見れば、宮本百合子は「人間抑圧型社会」の形成が「歴史の法則的発展」であると断言したことになります。

宮本百合子の「歌声よ、起これ」という新日本文学会の由来の呼びかけは、日本をソ連のような人間抑圧社会に変えていくための「歌声」だったのです。

「私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な動きをごまかすことなく映し返して生きてゆくその歌声」と宮本百合子は新日本文学を規程しています。

「歴史のより事理にかなった発展」「世界歴史の必然的な動き」とやらの先頭に立っているのは、スターリンとソ連共産党が指導するソ連邦である、と宮本百合子は考えていたに相違ありません。

宮本百合子ら当時の日本共産党員はスターリンとソ連共産党を深く信頼し、敬愛していました。

夫君の宮本顕治氏はマルクス・レーニン・スターリン主義とやらへの盲信を「前衛」掲載論文で表明しています。

百合子のソ連社会生活体験が、宮本顕治氏の盲信を深めさせてしまったことは想像に難くない。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」を歌っていらっしゃるでしょうが、宮本百合子が起こそうとした「歌声」はこれと大差ありません。

スターリンの時代のプラウダ、イズベスチヤにはソ連の問題点を暴く記事があった―ブハーリンの意志か?


ジイドの「ソヴェェト旅行記修正」にはプラウダやイズベスチヤに掲載されている統計やソ連の問題点を暴く記事を根拠にしてソ連の問題点を述べている部分は確かにあります。

これには私も少し驚きました。1936年なら、イズベスチヤの編集長はブハーリンです。ブハーリンは1937年の早い時期に逮捕されてしまいます。

当時のソ連の新聞には、現在の北朝鮮の「労働新聞」「民主朝鮮」と異なり、自国の問題点を多少は暴く記事があったのですね。ブハーリンの意志が反映されていたのかもしれません。

「多少」としか言えないのは、「富農」「人民の敵」とレッテルを貼られた人々が政治犯収容所やシベリアで強制労働をされている事実や、彼らによるソ連共産党批判が当時のソ連の新聞に掲載されていたとは考えにくいからです。

1932年から33年のウクライナでの大飢饉についても、当時のソ連の新聞に記事が掲載されていたのでしょうか。ジイドですらこれを知らなかった可能性が高い。

肝心なところは書かないで、枝葉末節部分を掲載するしかなかったのでしょう。キーロフ暗殺後のソ連社会で、スターリンの権威を根本的に脅かすような記事が掲載されるとは考えにくい。

ソ連における搾取―資本家はいないが特権層が存在する


ジイドは、ソ連には資本家はいないが高額の報酬を受け取り、権力をふるう官僚、特権層が存在していると指摘しています。

高級官僚、特権層はスターリンと運命共同体ですから、現行制度の忠実な支持者です。彼らの高収入の源泉は、労働者の低賃金による剰余です。

そんな連中より、市場経済で倒産の危険を引き受けて企業経営をする資本家のほうがどれだけましかわからない。

普通の資本家や企業経営者には政治家の御機嫌を取らねばならない誘因はありません。

私見では、ソ連や中国の共産党員は資本家というより、地代を得ている地主に近い。彼らは土地を所有していませんが、国家の権限を利用して高収入を得ています。

権限を利用した収入(賄賂)や地代を英語ではRentと言います。

寡占市場にも、Rentは生じます。国家の権限利用という「サービス」を供給する官僚は「独占企業」ともいえる。独占市場、寡占市場では資源が非効率的に配分されてしまいます。

マルクス主義経済学の理屈はどうあれ、ソ連社会で一般の労働者は低賃金で黙々と働くしかなかった。所属企業の運営方針に正直に意見を述べることは殆どできなかった。

国営企業の運営方針に不満を述べれば、監獄行きか流刑になってしまいかねません。労働者がそんな状態なら、通常の日本語では搾取されているというべきです。

ジイドによれば個人の内部的な改革を伴わずして社会状態の変化はない。ソ連で新しく形成されつつあるブルジョアジーは、西欧のブルジョアジーと大差ない。

彼らは共産党員かもしれないが、心の中のどこに共産主義があるのか。一向に見当たらないとジイドは述べています(同署p61)。

ジイドはなぜソ連の本質を見抜けたのか―ソ連から戻ってきたルドルフ氏の叫び「スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!」


ジイドはなぜ、ソ連が全体主義社会になっていることを看破できたのでしょうか。

本人の慧眼もさることながら、ソ連から仏に逃げてきた人々がもたらした情報をジイドが得ていたことも重要な要因でしょう。

「ソヴェト旅行記修正」の末尾に、当時の読者がジイドにあてた手紙が掲載されています。p131-134に、A・ルドルフという方のジイドへの手紙があります。

ルドルフ氏はかつて共産党員であり、ソヴェト政府の役人として三年以上新聞関係の仕事をしました。1934年12月のキーロフ暗殺事件の後、ルドルフ氏は仏に戻りました。

ルドルフ氏は実体験からソ連社会の恐ろしさを知り、「ソヴェト・ロシアよりの決別」という著書を出したそうです。

ルドルフ氏はジイドへの手紙で、ジノヴィエフ・カーメネフ裁判、白海やシベリア、トルキスタンにいる数千の「反革命家」の問題に関心を訴えています。

スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!とルドルフ氏は書いています(同署p134)。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)、吉良よし子議員は宮本百合子による「人間抑圧社会」礼賛をどう受けとめているのか


「ソヴェト旅行記修正」が新潮社から出版されたのは昭和27年でした。

ジイドのソ連批判を、当時の宮本顕治氏や蔵原惟人氏は一蹴してしまったのでしょう。

宮本顕治氏、蔵原惟人氏ともに狂信的なソ連礼賛論文を「前衛」に掲載していたことを、本ブログで何度か指摘してきました。

昭和27年頃若き活動家だったであろう不破哲三氏や畑田重夫氏も、ジイドのソ連批判には一切耳を傾けなかったのでしょう。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員や、「民主主義文学運動」に参加している方々は、宮本百合子が「人間抑圧社会」を礼賛してしまった史実をどう受けとめているのでしょうか。

ソ連問題の「専門家」聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子によるジイド批判を御存知のはずです。

ジイドの見解は「こわれた鏡」である、という宮本百合子のソ連論は適切だったと聴濤弘氏は本気で考えているのでしょうか。

共産主義者は「反党・反革命分子」「反党宗派分子」の処刑を支持する


宮本百合子の観察眼は、少なくともソ連社会に関する限り完全に曇っていたのです。色眼鏡で見てしまうと全てがバラ色に見えてしまう。

この件に深入りすると不破哲三氏から批判されて厄介なことになるから黙っていよう、と民主主義文学運動の参加者は判断しているのでしょうか。

そうであるなら、文学者というより海千山千の狡猾な政治家ですね。「民主主義文学者」として生きていくためには、共産党の最高指導者の顔色を常に窺わねばならない。

今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、脱北者の声に一切耳を傾けません。在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「反党反革命宗派分子」張成澤の処刑を大喜びしているのでしょう。

宮本百合子や宮本顕治氏も、「人民の敵」ブハーリンの処刑を当然視していたのでしょう。宮本夫妻が「モスクワ裁判」への疑問を表明したなどという話は聞いたことがありません。

共産主義者とは、「反党・反革命分子」「宗派分子」の処刑を支持する「こわれた鏡」を持っている方々なのです。