「共産党は大地主の土地没収を許したり、対独講和を結んだりしたことによって農民の消極的な支持をたちまちに確保した。また、多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復した。しばらくの間は、許可なく武器を所持していたものはすべて銃殺されたのである。
この処置は拙劣で血なまぐさくはあったが、効果はあった。共産党政府はその権力を確保するために、事実上、無限の権力を持つ臨時委員会を組織した。そしてすべての反対勢力を赤色テロによって粉砕したのである。」(同書p44より抜粋)。
1917年のロシア革命とは一体何だったのでしょうか。
聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)によれば、1917年11月7日にロシア社会主義革命が成功し、その四日後に全ロシアで8時間労働制が実施されました。
同じ日に革命政府は社会保障制度を導入することを宣言し、確立したそうです。
1918年には教育の無料制、そして医療の無料制を実施したそうです(「社会主義をどう見るか」新日本出版社昭和61年刊行、p48-50より)。
聴濤弘氏が描いたロシア革命後のソ連社会では搾取制度の廃止により労働者が解放されていますから、短時間の労働で十分に暮らしていけそうです。
教育と医療が無料なのですから、労働者は賃金を全額使ってしまっても老後の心配、家族の医療費の心配をする必要がなさそうです。
夢のような社会が、約100年前のロシアで実現されていたことになります。ソ連崩壊の4,5年前まで、日本共産党はソ連をこのように宣伝していたのです。
ロシアでは暴力による住民支配が横行する―ロシア革命後には飢饉も
現実のロシア社会は聴濤弘氏が宣伝してきたような「労働者の祖国」だったのでしょうか。
今の私たちは、ソ連が崩壊しロシアがマフィア資本主義になったことを知っています。
ロシア社会の重要な特徴の一つは、マフィアの暴力による住民支配です。
どんな社会でも、何かの理由で政府が弱体化し、警察が国民の安全を守れなくなるとマフィアや暴力団のような連中が武装力を背景にしてのさばります。
帝政ロシアやソ連邦崩壊後のロシアでは、暴力が横行しました。聴濤弘氏によればコーカサス・マフィア、チュチェン・マフィア、ロシア・マフィアなどいろいろな組織があります。
専門的な職業としてのマフィアだけでなく、マフィアとつながった国家管理のマフィアがいます(「新ロシア紀行 見たこと、聞いたこと、読んだこと」新日本出版社2004年刊行、第二章より)。
マフィア資本主義化またはその危険は、ロシア革命直後のロシアにも蔓延していました。不破哲三氏、聴濤弘氏にはそれがわからないようです。
日本共産党員はいまだに、レーニンが生きていた時期のソ連では「市場経済を通じて社会主義を建設する新たな道が探求されていた」等と信じています。
レーニンが生きていたロシア革命直後のロシアでは、ソ連崩壊後のロシアと同様に暴力が蔓延していました。
ソ連崩壊後には、飢饉というほどの事態は起きなかったようですが、ロシア革命直後のロシアでは飢饉が生じました。
これは、「タイムマシン」「モロー博士の島」「宇宙戦争」などで有名な英国のSF作家H. G. ウェルズ(1866-1946)の「影のなかのロシア」(Russia in the Shadows, 1920)などからも明らかです。
ウェルズが見た1920年9月末のペテルブルグ―巨大な、修復不可能なまでの破壊―
英国のSF小説家ウェルズは1914年1月に、二週間ほどペテルブルグとモスクワを訪れました。次には1920年9月末から十五日間、主にペテルブルグに滞在しました。
ウェルズはペテルブルグの第一印象として上記のように記しています(前掲著p3)。
以下、ウェルズの前掲著より抜き書きします。1920年9月末から10月のペテルブルグの住民生活の実情が、おぼろげながら見えてくるでしょう。
ウェルズによれば、巨大な解体のさなかにあって約十五万の党員を持つ訓練された一つの政党、共産党によって支持された臨時政府が支配権を掌握していました(p3)。
臨時政府は数多くの銃殺により盗賊行為を鎮圧し、荒廃した諸都市に一応の秩序と安全をもたらし、粗雑ながら一つの配給制度を確立しました(p3-4)。
配給制度のためには、農民の生産物を徴発するしかありません。必需品の統制を維持するため、商店が閉鎖されていきました(p5-6)。
路面電車が走っていますが、ラッシュアワーには満員になります。人々は乗れないと外側にぶらさがります。事故は珍しくありません(p6-7)。
路面電車の走っている道路は酷い状態で、3,4年間全く補修されていません。いたるところ穴ぼこだらけです。木造家屋は昨年の冬に全て焼き尽くされました(p7)。
ペテルブルグの人口は(1919年以前の)120万から、70万を少し越えたぐらいまで減少しました。
闇で食糧を高値で売る人は、「不当利得を得た」とかいう理由で直ちに銃殺されました(p9)。普通の取引でも厳しく処罰されました。
取引は全て「投機」と呼ばれて違法だが、食糧取引は黙認されていた
取引は全て「投機」と呼ばれて違法とされています。しかしぺテルブルグでは、道路の片隅で行われている食糧取引は大目に見られています。モスクワでは公然と行われています(p10)。
食糧取引を黙認しなければ、農民に食糧を提供させることができません。
駅という駅はみな青空市場で、列車の止まる場所には牛乳やりんご、パン、その他いろいろなものを売りつけようとするおおぜいの農民が群がっています(p10)。
農民の暮らし向きは良くなっているようです。しかし赤軍が統制価格で農民から食糧を徴発する際、抵抗する場合があります。
十分な兵力を持たない赤軍が攻撃され、殺戮されることもあります(p10-11)。農民より上のすべての階層は、官僚も含めて極度の窮乏状態にあります。
各種の商品を生産した金融・産業組織が倒壊してしまったからです(p11)。新しい日用品は全くもい当たらない。お茶と煙草、マッチはうまく供給されています。
医薬品は払底し、医療は受けられません。風邪、頭痛に対する処置はありません。軽い症状の病気もたちまち重くなってしまいます。出会う人々は殆ど皆、元気がありません(p12)。
あらゆる種類の物資が不足しているので、病人が来ても治療できません。病人を力づけるような食事を出すことはできません。患者の家族が食事を持ち込むしかない(p12)。
最低水準の配給食糧はボールいっぱいの水っぽいオートミールと、ほぼ同量のリンゴの砂糖煮です。人々は配給カードを持ってパンをもらうために行列を作っていました(p14)。
去年の冬、多くの人々は零度以下の室内で生活しなければなりませんでした。水道管が凍結し、衛生施設が役に立たなくなりました(p15)。
1920年の秋がこういう状況なら、冬を越えられなかったペテルブルグ市民は相当いたはずです。21年には飢饉が生じます。
ロシアの各地で農民反乱が相次いだ―農民により館が焼かれた
ウェルズは、ロシア革命後のロシアで農民反乱が相次いだことを指摘しています。戦争に負けたロシア軍の兵士は、武器を手にしたままばらばらになってロシアに戻ってきました。
おびただしい数の農民兵士が、希望も、糧食も、規律もなく故郷に戻ってきたのです(p20)。
ロシア各地で農民反乱が相次ぎました。館が焼かれ、凶行が起きました(p20)。
誰も止めるものがいないので、ペテルブルグやモスクワでは白昼公然と路上で脅迫され、シャツまで剝ぎ取られました。時には死体が水に一日中放置され、その傍らを人々が通り過ぎました。
武装した男たちはしばしば赤軍と称して家に押し入り、略奪し人を殺しました。
1918年はじめの数か月間、ボルシェヴィキ新政権は反革命に対するだけでなく、あらゆる種類の泥棒や盗賊に対しても激しい闘争をしました(p21)。
1918年の夏になってようやく、数多くの強盗や人殺しが銃殺された後で、ロシアの大都市に治安が回復し始めました。
それでもウェルズは、共産党、ボリシェヴィキに対しては好意的に評価しています。
ロシアがすべて、農民たちのように無感動であるか、錯乱状態でしゃべりまくるか、あるいは暴力ないし恐怖に駆り立てられているとき、共産主義者だけが確信を抱き、行動への準備ができていました(p43)。
共産党は多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復したのです(p44)。赤色テロを行った人々は社会的な憎悪と反革命の恐怖で気が立っていました(p44)。
赤色テロを行った人々は狂信的でしたが、正直でした(p44)。
ウェルズは、マルクス主義についても鋭い批判をしています。レーニンとモスクワで会見しています。これらについては、別の機会に紹介します。
聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝-公式文献の盲信
ロシア革命後のロシアのどこに、8時間労働制や無料医療が存在したのでしょうか。飢饉に直面した労働者は、無料医療制度をなぜ利用しなかったのでしょうか。
搾取制度が廃止されると、たくさんの労働者が餓死するなら、資本家に搾取されていたほうがどれだけ良いかわからない。
資本家、企業経営者は投資や企業運営を行い、社会に貢献しています。富農も農産物を生産していました。地主が何の労働をしていなかったとしても、殺害されねばならない存在ではない。
聴濤弘氏にお尋ねしたいものです。吉良よし子議員、池内さおり議員はロシア革命後のロシアについて、何か御存知なのでしょうか。
聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝は同じような水準です。社会の現実を、地域住民や旅行者から聞き取って調査し把握するという姿勢がない。
自分が現地に滞在し、公式宣伝と異なる現実を見ても、それがなぜ生じるのかを解明していく気概がない。
公式文献への疑問を表明すると、「反革命」「反党分子」「民族反逆者」というレッテルを貼られてしまうのが怖いのでしょう。共産主義者は保身を重視します。
聴濤弘氏は、公式文献への疑問を少しは抱いていたようですが、ソ連崩壊までそれを公にできませんでした。
1917年のロシア革命後、レーニンが生きていた時期(1924年死亡)のロシアは、経済と社会の崩壊、暴力が横行していました。
秩序の確保のために銃殺が簡単になされていたのです。大規模な飢饉の一要因は、ボリシェヴィキが農民から穀物を強制的に徴発したことです。
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