2019年4月28日日曜日

萩原遼「ソウルと平壌」(大月書店、平成元年刊行)より思う

ーゆきゆきて 倒れ伏すとも 萩の原ー


萩原遼さんがお亡くなりになって早や、一年半くらいになる。

萩原遼とはペンネームで、松尾芭蕉の弟子、曽良の句からとったものであると本書の「日本、朝鮮、そして私」の章に記されている。

歩み続け、たとえ倒れたとしても萩のしとね、という楽天性から取ったとのこと。

私が萩原さんと初めてお会いしたのは「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」に参加した23年くらい前のことなので、萩原さんの生涯を知るものではありえない。

「ソウルと平壌」及びその続編ともいえる「北朝鮮に消えた友と私の物語」(文芸春秋、平成10年刊行)から窺い知る萩原さんの生涯を勝手ながら想像すると、この句どおり、歩み続け、萩の原(人民の海原)に倒れた方だったと思えてならない。

萩原さんが人民の海原に倒れ伏した、とは萩原さんが朝鮮半島の現状を、金日成、金正日と朝鮮労働党に抑圧される民衆の立場から描き、世界に訴えるジャーナリストだったからである。

無実のスパイ罪で収容所に送られたり、殺されたりする帰国者が少なくない事実をどう理解すればよいのか(同書「北から」の10 巨大な虚偽の社会その二、より)


「ソウルと平壌」で萩原さんは、北朝鮮の政治犯収容所の存在を訴えている。

この本は30年前に出版されているのだから、北朝鮮社会の恐るべき人権抑圧についてはまだまだ知られていなかった。

人権抑圧の典型と言えるのが、政治犯の処刑および政治犯収容所の存在である。

これを最も早くから全力で訴えてきた萩原さんは、人民の海原に志半ばにして倒れた方と評されるにふさわしい方だった。

同書には、帰国させた2人の弟のうち、一人がスパイ罪で消された金民柱氏の話が記されている。この本から、抜粋して紹介する。

金民柱氏の弟、金泰元氏は昭和19年生まれ。昭和37年5月21日、18歳のときに北朝鮮に帰国した。

金泰元氏は北朝鮮の学校を卒業後、鉱業研究所に配置された。

金泰元氏は昭和44年3月に発表された金日成の「社会主義経済のいくつかの理論的問題について」に対する疑問を記した兄の民柱氏への手紙を、当時訪朝した在日朝鮮人に託したという。

「読んだ瞬間、私は危ないと思った。弟の消息が絶えたのはその直後です」。金民柱氏はは萩原氏にそう語っていた。

金民柱氏は知古の萩原氏が「赤旗」特派員として平壌に滞在することになった際、弟の消息が何とかわからないかと伝えたのだろう。

萩原氏は平壌についてまもない昭和47年5月に、ホテルから金泰元氏が住んでいるというアパートを訪ねたが、何の手掛かりも得られなかった。

金民柱氏はその後も独力で調査を続けた。その結果、弟さんは「統制区域」に送られていたことがわかった。

「統制区域」とは朝鮮の辺境に設けられた政治犯の一大収容所である、と「ソウルと平壌」には記されている。

この認識は、金民柱氏の聞き取り調査の結果でもあるのだろう。

金民柱氏は70年代半ばに訪朝した在日朝鮮人に、そのアパートに住んでいた帰国者(元在日朝鮮人)のところを訪ねてもらった。

その結果、弟の金泰元氏が一夜のうちにもっていかれた、という話を聞いたそうである。

住民間に徹底した監視網が形成されている北朝鮮社会の実態を把握するためには、監視者がいないところで住民が旅行者(殆どは在日朝鮮人)に話す内容は貴重な情報であった。

行方不明になった帰国者(元在日朝鮮人)は「山へ行った」


帰国者の中に、行方不明になるものがいる。彼らの身に何が生じたのか。

「地上の楽園」「千里馬の勢いで社会主義を建設する共和国」に渡った親兄弟となぜ突然、一切の連絡がつかなくなるのか。

在日本朝鮮人総連合会関係者は突然行方不明になった帰国者のことを「山へ行った」と表現する。

在日本朝鮮人総連合会関係者の中で、必死の調査をした方は少なくない。その結果、彼らは人里離れた地域にある早朝突然、連行されたらしいことがわかってきた。

この情報は北朝鮮を訪問した在日朝鮮人が、現地の親族や知人より何とか得たものある。

北朝鮮の裁判所の判決など、公的機関が発行した書類により判明したものではない。

北朝鮮では、「政治犯」は当局により「革命化」の対象とされるものと、「革命化」されうる可能性がないと当局に判断されたものに区分されている。

前者は「革命化区域」と呼ばれる収容所に連行される。ここで何年もの過酷な囚人労働を強制された後、「革命化された」と判断されたら一般社会に戻ることができる。

後者は処刑されるか、「完全統制区域」と呼ばれる収容所に連行され、死ぬまで囚人労働を強制される。

ベネズエラの詩人アリ・ラメダは七年間、政治犯収容所で強制労働


「ソウルと平壌」には、ベネズエラ共産党員で詩人のアリ・ラメダ氏が昭和42年9月27日に、宿舎から9人の公安に連行されたと記されている。

アリ・ラメダ氏が住んでいた宿舎は萩原氏が住んでいた宿舎と同じ場所だったという。萩原氏は連行の様子を、目撃者から聞いたと記している。

目撃者とは、萩原さんの前任特派員であろう。このいきさつを、アムネスティ・インターナショナルが発行した報告書を引用して萩原さんは詳細に記している。

アリ・ラメダ氏は公安に連行されてから毎日12時間も尋問され、自白が強要された。監房は幅1メートル、奥行き2メートル、高さ3メートル。食事は一日300グラム。

一日のうち16時間は起きていなければならない。眠ると犯した罪を反省できなくなるからだそうである。

アリ・ラメダ氏は政府の招待で北朝鮮に来たのであり、CIAのスパイ等馬鹿げた話だ、と反論したが決めつけられ、連日囚人労働を課された。

ベネズエラ政府が積極的に動いた結果、昭和49年5月に釈放された。

「拉致は疑惑の段階でしかない」と断言した不破哲三氏は、金正日、金正恩の真の友


日本共産党は、萩原さんの前任特派員から、北朝鮮では外国人といえどもある日突然、公安によりどこかに連行されてしまうという情報を得ていたはずだ。

萩原さんが平壌を追放になった一部始終も、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党最高指導部は報告により知っていた。

相当数の帰国者が行方不明になっていることも、在日朝鮮人から情報を得ていたはずだ。

北朝鮮の蛮行は、日本の警察が犯人逮捕に用いるような手法で実証できなければ何にも言えない、という不破哲三氏、緒方靖夫氏の手法は、大韓航空機爆破を北朝鮮の所業と喝破した宮本顕治氏のそれとは大きく異なる。

今の韓国には、政治犯収容所の体験者は相当数いる。朝鮮労働党は、最高幹部といえどもいつ処刑されるかされるかわからない。

金正日の第四夫人、といわれた金オク氏とその家族が、政治犯収容所に連行されたという話が、脱北者によりもたらされている。ありえない話ではない。

脱北者の話を一切取材しないで、北朝鮮の過酷な人権抑圧に目を背ける日本共産党の「赤旗」記者の方々は、金正日、金正恩そして朝鮮労働党の真の友といえよう。

日本共産党には在日本朝鮮人総連合会と似た体質があるー河邑重光氏(「赤旗」元編集局長)は北朝鮮の政治犯収容所をどう考えているのか―


こんな政党からは、たたき出されてこそ萩原さんらしい。

萩原さんはその後、日本人拉致問題について一切言及していない日朝平壌宣言を高く評価する不破氏を強く批判する。

私見ではこれを大きな理由として、萩原さんは日本共産党と除籍された。

昭和63年12月3日、「赤旗」から外すという人事について、理由を一切言わないと萩原氏に通告した河邑編集局長(当時)は、北朝鮮の政治犯収容所についてどうお考えなのだろうか。

萩原さんの論考によく出てくる河邑重光氏が、金正日に媚を売る在日本朝鮮人総連合会幹部のような方と思えてきてしまうのは私だけだろうか。

河邑重光氏は、昔日本共産党が朝鮮労働党と締結した共同声明を今でも支持しているのだろう。

そうであるなら河邑氏も金日成、金正日そして金正恩の真の友人である。

在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮を少しでも批判する仲間を「民族反逆者」というレッテルをはり、激しく攻撃する。

民族反逆者は日本共産党の「反党分子」とよく似た方々と思えてならない。












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