この本の末尾にある編著者紹介欄によれば、朴尚得さんは1927年に朝鮮に生まれ、1945年に東京高等師範学校に入学しました。
]1952年に東京大学文学部心理学科卒業、現在は朝鮮大学校民族教育研究所の所長と出ています。朝鮮青年社から「朝鮮教育の発展」という本も、出されています。
推測するに、朴尚得さんは在日本朝鮮人総連合会の結成(昭和30年5月)の前から、教育分野で在日朝鮮人運動に参加してきた方なのでしょう。
在日朝鮮人の民族教育について研究論文を書いている方なら、朴尚得さんの論文や著書を御存知と思います。
この本について、私は数々の疑問を持っています。そのうちの一部を以下記します。
朴尚得さんはなぜ、昔の在日朝鮮人運動が日本共産党の指導下にあったことを記さなかったのか
(その1)第2章 在日朝鮮人教育のあゆみ より
p. 92-93に以下の記述があります。
1955年5月25日、在日60万同胞の意思と利益を代表する新しい組織ー在日本朝鮮人総連合会が結成された。
これは、金日成主席のチュチェ思想と海外同胞運動に関する独創的な方針にのっとったものであり、朝鮮民主主義人民共和国の海外公民団体が、この日本にはじめて生まれたことを意味していた。
朝鮮総連は、チュチェ思想をその運動の唯一の指導理念とし、在日60万同胞を共和国のまわりに固く団結させ、民主主義的民族権利を守り、祖国の自主的平和統一をなしとげ、世界の平和愛好人民との国際連帯を強めることを、その中心的な課題としてうちだした。
昭和30年5月には、金日成はまだチュチェ思想を提起していないと考えます。
この時期の在日本朝鮮人総連合会の皆さんが、チュチェ思想をその運動の唯一の指導理念としているとは考えられません。
在日本朝鮮人総連合会が結成される前に、在日朝鮮人の運動を主に指導していたのは日本共産党の中央指導部、民族対策部の方々です。これを金尚得さんが知らないはずがない。
この時期の日本共産党中央では、金天海、朴恩哲が在日朝鮮人運動の指導を担当していました。
なぜ朴尚得さんが日本共産党と在日朝鮮人運動の関係を記さなかったのかは不明です。p.92に「新しい綱領」という表現がありますが、これは金日成の社会主義教育テーゼの事でしょう。
しかし、社会主義教育テーゼが出されたのは昭和52年です。変な話です。
在日朝鮮人運動の路線転換指令の発信源は中国共産党
朴慶植編「朝鮮問題資料叢書 第十五巻 日本共産党と朝鮮問題」(アジア問題研究所1991年刊行)の「6 路線転換に関する党の指示」の(1)に、「在日朝鮮人運動について」(1955年1月中央指示」が掲載されています。以下です。
祖国の統一と独立を目指す力の発展は、在日朝鮮人の民族的統一に大きな拍車をかけ、統一の気運は高まっている。この際、「民戦」の役割は重要である。
あくまでセクトを捨て、在日朝鮮人の全体が包合させる民族戦線組織結成の方向、例えば在日、華僑総会の如くに尽力すべきである。
基調は、生活圏と共和国公民の意義と権利にある。このことに対する党の態度についていえば、訪日十字会の廖副団長の「他国の内政不干渉」の立場を正しく理解すべきである。
日本と朝鮮の間にのみ他国と異なる歴史的、地理的関係があると言ったことは、この問題の解決には何ら影響しない。
在日朝鮮人に日本革命の片棒をかつがせようと意識的にひき廻すのは、明らかに誤りである。
昭和30年1月に、日本共産党中央はこの指示を出しました。この前の年に、在日中国人の日本共産党員が日本共産党から離脱しています。
訪日十字会の廖副団長の「他国の内政不干渉」の立場を正しく理解すべきである、という記述に注目しましょう。廖副団長とは、廖承志という方です。
廖承志という名前は、文革期に中国共産党が日本共産党に行った干渉との関係で日本共産党の文献にも出てきていたと記憶しています。中国共産党の対外連絡部所属かも知れません。
萩原遼さんの「北朝鮮に消えた友と私の物語」(文芸春秋社刊行。文庫版pp. 366-367)によれば、廖承志が華僑に出した指示は、在日朝鮮人にも向けられていました。
昭和29年10月当時、金日成は朝鮮戦争で滅亡する寸前の危機を人民解放軍により救われたのですから、朝鮮労働党は中国共産党に隷属していました。
日本共産党も主流派が北京に亡命し、北京機関を形成していました。この時期、金日成と朝鮮労働党、日本共産党共に、中国共産党に隷属していたのです。
チュチェ思想は、文化大革命期の中国共産党に対する金日成の反発から、金日成が朝鮮労働党の宣伝扇動部や、理論を担当する部署に指令して形成されたと考えられます。
1960年代後半に、チュチェ思想、党の唯一思想体系という表現が出てくると考えられます。
廖承志の指令を受け取った日本共産党臨時指導部は民族対策部に在日朝鮮人運動の路線転換指令を出した
(2)中央民対会議の結語、には次が記されています。
・(1)八・一五以後祖国が解放され、政策が明らかになった。
・(2)われわれの任務は、あくまで祖国の統一独立である。
・(3)またそれは、民主主義人民共和国による全朝鮮の統一である。
・(7)新綱領は、日本の革命のためのものであり、われわれは祖国を保持するためでその目的が違ってくるから、党籍を離脱する。
・(8)現在の日本における状態から、労働党がわれわれを指導する事は無理である。しかし、これらの援助なくしては発展はありえない。
新綱領、とは日本共産党の51年綱領です。朝鮮労働党との関係は、指導を仰ぐのではなく、援助を要請するという程度になっています。
この点で、在日朝鮮人運動の中で争いが起きたと考えられます。
朴尚得さんの本(p. 91)には、事大主義、民族虚無主義に陥った一部の人々の行為により、民族教育において民族的な主体が失われ、重大な危機が醸し出されたこともあったと記されています。
朴尚得さんは、在日朝鮮人運動の主導権争いに敗れ、北朝鮮に渡った朴恩哲さんら日本共産党民族対策部の指導者達を、事大主義、民族虚無主義に陥った一部の人々と記していると考えます。
朝鮮労働党の在日非公開組織が結成されていった
朴慶植編「朝鮮問題資料叢書 第十五巻 日本共産党と朝鮮問題」(アジア問題研究所1991年刊行)のpp. 391-398に(4)在日朝鮮人運動の転換について、が掲載されています。これは日本共産党の民族対策部全国会議で確認、決定された方針草案の要旨です。
p. 398の五、(1)を抜粋します。
このたび、在日朝鮮人運動の転換に基づいて、新たに結成された「朝鮮総連」は祖国統一民主主義戦線の一翼として、在日六十万朝鮮人の民族的な総結集体であり、朝鮮民主主義人民共和国の日本における、居留民の組織である。
(2)は以下です。
在日朝鮮人運動の転換に従って、従来の在日朝鮮人運動の中における、前衛勢力の組織形態と任務も、また、変わらなければならない。従来、日本共産党に属していた朝鮮人党員は、日本共産党から、その籍を離脱し、在日朝鮮人運動の性格と内容に応じて、独自的な前衛勢力として組織されなければならない。
在日本朝鮮人総連合会が、統一戦線組織の一翼と位置付けられていることに注目しましょう。
指令の(2)に明記されているように、日本共産党に所属していた朝鮮人党員がこの後、独自的な前衛組織として、朝鮮労働党の在日非公開組織を形成したと考えます。
在日非公開組織の名称が、初めから「学習組」だったかどうかはわかりません。
朴尚得さんは、なぜ在日朝鮮人運動と日本共産党、朝鮮労働党と中国共産党の関係を記さなかったのでしょうか。
朴尚得さんが、朴慶植さんの著作を知らないなどありえません。
推測ですが、北朝鮮に渡った日本共産党の在日朝鮮人運動指導者たちが、1960年代後半頃に行方不明になったことから、この人たちについて言及すると厄介だと判断したのではないでしょうか。
在日朝鮮人運動、朝鮮学校の歴史について学術論文を出している方々は沢山いますが、私が見た限り、在日朝鮮人運動と日本共産党、朝鮮労働党と中国共産党の関係については皆、沈黙しています。
故萩原遼さんはこの辺りも良く御存知だったと考えます。皆、何で黙っているんだという萩原さんの叫びが聞こえてくるようです。
在日朝鮮人運動の研究者は、少なくない元在日朝鮮人が、政治犯収容所送りや、山奥送りになっていることを、素直な眼で見つめるべきです。歴史の修正をやめましょう。
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