宮脇康之著「ケンちゃんの101回信じてよかった」(2004年講談社刊行)を読んで
子供の頃好きだったテレビ番組の様々なシーンや、主題歌が時折、何かの拍子で脳裏によみがえってくることがありませんか。昭和36年生まれの私と同世代なら、夜7時半から放映していた「ケンちゃんシリーズ」を覚えている方は多いはずです。
「じゃんけんぽんであいこでしょ。...」「ぼーくはケンちゃん、いたずらっ子だい!」
「お寿司屋、ケンちゃんどこ行くの。急ぎの出前だ、お手伝い」
こんな歌詞が「ケンちゃんシリーズ」の主題歌にあったはずです。主演俳優はケンちゃんこと宮脇康之さんです。この本の著者略歴を見ますと、宮脇さんは昭和36年6月13日生まれとあります(同書p16)。
ケンちゃんは幼児のころ、東京都北区赤羽に住んでいたそうです(同書p17-18)。
フィンガー5の晃君もそうですが、ケンちゃんこと宮脇康之さんも私たちの世代の代表的著名人、大スターのお一人ですね。
「ジャンケン・ケンちゃん」「寿司屋のケンちゃん」「ケーキ屋ケンちゃん」などを私は見ていました(ドラマ名はうろ覚えですので、正確でないかもしれません)。
ケンちゃんの前には、「チャコねえちゃん」という番組もありました(同書p26-27)。チャコねえちやんは千葉県にお住まいだそうです(同書p27)。
「ケンちゃん」シリーズの視聴率は25%を超えていたそうです(同書p101)。どこのテレビ局だったか忘れていましたが、TBSだったのですね(同書p58)。
ケンちゃんが稼いだお金は通算5、60億円とありますが、父親が接待に使ったり、持ち逃げされて殆どなくなってしまいました(同書p104)。
いつの間にか、ケンちゃんの姿がテレビで見かけなくなっていきました。三原順子さんとの噂などもあったように記憶しています(同書p118-127)。
ケンちゃんの波乱万丈の人生
歳月と共に子供は大人に、大人は年老いていきます。学校を卒業すればそれぞれ、生業をもって生きていかねばなりません。
子役卒業後のケンちゃんはどう生きていったのでしょうか。この本の著者略歴から抜粋引用します。
子役時代のあまりに強いイメージを乗り越えるため、「日活ロマンポルノ」に出演。これが災いして、仕事を失う。
以後、漫才師の運転手、ディスコの黒服、墓石の販売、SMショー出演、沖縄での不動産販売、居酒屋の皿洗い、交通量調査など40近くの仕事を転々としながら20年以上も極貧生活を送る。
その間、両親は離婚、父親は莫大な借金を残して病に倒れ、兄は自殺をはかる。
テレビ局スタッフと落ち目のタレント
この本を読んでの第一の読後感は、「テレビ局っていったいどんなところなんだ」というものでした。
テレビ局では視聴率が取れるタレントのことは天まで高く持ち上げる。タレントが売れなくなると、潮がひくように周囲から去っていく。
ケンちゃんは20歳になった頃、仕事が激減したそうです。それまで親しげに声をかけてきたスタッフや共演者が一切連絡してこなくなりました。声をかけてくるのは、お金をだまし取ろうという手合いばかりだったそうです(同書p128)。
日活ロマンポルノに出演後、所属していたプロダクションをケンちゃんは辞めました。それを境に、仕事の電話が一本もかからなくなりました。
そこでケンちゃんは、これまでの芸歴や出演番組などを書いた自己PRパンフレットを作成し、封筒に入れてテレビ局に行きましたが、誰からも見向きもされなくなってしまいました(同書p142-145)。
テレビ局のスタッフがタレントをよぶときの「四段活用」というものがあるそうです。ケンちゃんの場合は次でした(同書p144)。
「宮脇さん」→「宮脇くん」→「宮脇」→「お前」
別の稿で論じましたが、昭和35年頃高成長しているように思えたソ連を「共産主義建設の不滅のとりで」などと日本共産党は礼賛していました。
しかしソ連共産党が解散し、ソ連が崩壊すると日本共産党は「社会主義の反対物」などと罵詈雑言を浴びせるようになりました。
ソ連を礼賛していたのは日本共産党だけではありません。昔の左翼人士は殆どみなソ連を称賛していました。
テレビ局のスタッフと日本共産党、左翼の思考方式は似ていますね。
潰れた会社の元上司に罵詈雑言を浴びせる人。落ちぶれたタレントを「お前」呼ばわりする人。同じような例はいくらでもあるものなのでしょう。
今でも、人気が落ちて視聴率が取れなくなったタレントはテレビ局で同じような扱いを受けているのではないでしょうか。
北朝鮮、韓国を考える―虚栄心と自尊心は紙一重―
誰にでも、自分が他人から高く評価されたい、良く思われ、賞賛されたいという気持ちはありますね。現代社会では他人と一切関わらず生きていくことなど不可能ですから。
他人が自分に対し、ある評価と期待を与えており、その評価と期待から形成される「役割」をうまく演ずることができれば、他人の自分に対する評価はさらに高くなっていくのでしょう。
評価が高まれば、収入も増えていくことでしょう。「出世」するということです。
その程度なら何の問題もないのでしょうが、他人から良く思われたい、高く評価されたいという気持ちが強くなりすぎると、それは虚栄心という語で表現されるべきものになってしまうのでしょう。
北朝鮮当局の行動は、実態はどうあれとにかく見栄えを良くしよう、外に自分たちがどう見えるかが一番大事だと言う調子のものが多いですね。
北朝鮮の大規模な建造物や、仰々しいマスゲームは見栄えさえよければ何でも良い、というものとしか私には思えません。平壌の高層アパートの中には、水も満足に出ないものがあるそうです。
核実験、ミサイル実験もそうです。通常兵器の装備や人民軍の普通の兵士の栄養状態はどのようなものであれ、世界を驚かせるような大型破壊兵器さえあればよい、という発想があるのでしょう。
韓国人にも、実態はどうあれ他人から自分がどう見えるかということを気にしすぎる傾向があるように思えます。
韓国近現代史の真実よりも、史実が現在どのように世界に見えているかということのほうが大事だ、という発想が強いですね。
「従軍慰安婦」など、昔の貧しい朝鮮半島なら自発的になる女性がいくらでもいたはずなのです。親に売られた娘も多かったはずです。軍人を相手に性を売る女性ということなら、二次大戦後の日本にもいくらでもいました。
松本清張の「ゼロの焦点」は、米軍相手の娼婦の存在を扱った物語です。有吉佐和子の「非色」は、米国黒人兵と結婚した日本人女性の物語です。
これらは60年程前の日本の話です。
社会全体が貧しいとき、貧しい家庭の女性は性を売ることで生きのびていかねばならない。これは洋の東西を問わず、歴史の真実ではないでしょうか。
「日本人が朝鮮半島の女の子を連行して慰安婦にした」などと喧伝する韓国・朝鮮人は史実よりも「見栄え」のほうが大事なのでしょう。限りなく貧しい時代の朝鮮半島の真実を、見つめられないのです。
「自尊心」という表現を韓国人は良く用います。
日本にある朝鮮半島産の古美術品は全て豊臣秀吉、倭寇、日本帝国主義が盗んだものだ、と本気で信じている人が少なくないようです。
昔の韓国人が寺などから盗み出して売りさばき、人から人にわたって日本に流れていった美術品もあるでしょうし、日本に渡った人が持参したものもいくらでもあるでしょう。
その程度のことは誰でも想像できるはずですけれど、史実を認めるのは「自尊心」を傷つけますから、嫌なのでしょう。
これも、虚栄心のなせる業ではないでしょうか。自尊心と虚栄心は紙一重です。
視聴率さえ取れれば高収入、高待遇―虚栄心と脅迫観念―
芸能人はどうしても、虚栄心が強くなりすぎてしまう傾向があるのでしょうね。
テレビ局のスタッフもそうなのでしょう。視聴率が高い番組を作っているスタッフは局に大いに貢献しているのですから、賞賛もされるし、高収入、高待遇をいろいろな経路で得られるのでしょう。
「うちのタレントを使って下さい」という調子で、弱小芸能プロダクションから様々な「接待」を受けることもあるのでしょうね。「枕営業」という言葉もあるそうです。
視聴率が取れなくなれば途端に皆、「手のひらを返す」のでしょうから、精神の余裕など、全くなくなってしまいますね。
「自分はいつ、視聴率がとれなくなるのだろうか」という脅迫観念の中で生きていかねばなりません。
テレビ局の収入の殆どはスポンサーからの広告収入であり、それは視聴率に比例しているのでしょうから、無理はないのかもしれません。
テレビ局については悪い噂を沢山耳にします。番組を実際に製作する下請け会社の人を下僕のように扱う。アルバイトをしている学生が多少のミスをしでかすと罵詈雑言を浴びせまくる等々。
これも、「視聴率がとれなくなるかもしれない」という脅迫観念と無関係ではないでしょう。虚栄心と脅迫観念は、表裏一体なのかもしれません。
韓国人の自尊心と、韓国社会の激烈な競争から生じうる脅迫観念もそうなのかもしれませんね。
北朝鮮社会でも、「自分は政治犯収容所に送られてしまうかもしれない」「公開処刑されてしまうかもしれない」という脅迫観念の中で、エリート層は生きています。
小泉訪朝の頃、日朝交渉を主担当していた国家安全保衛部の大幹部、ミスターXとやらが何かの責任を問われて銃殺されたと昨年韓国紙が報じていました。
宮脇康之さんの今後の御活躍を期待しています。今は宮脇健と改名しているようです。
追記・ケンちゃんはジャニーズの合宿所に時折寝泊まりしていた...
ケンちゃんは堀越学園1年生だったとき、ジャニーズで「ギャングス」というバンドをやっていたそうです。バンドの付き人は近藤真彦さんと野村義男さん。
社長のジャニー喜多川さんから、毎日のように2、3万円小遣いをもらっていました(同書p187)。
しかし、あることが原因で、大事にしていた自分のドラムセットも洋服も全部そのままにして、合宿所を飛び出ました(同書p188)。
合宿所を出奔した「原因」についてはいまここに書くことはできない、とあります。故北公次さんの「光ゲンジへ」(データハウス、1988年)を思い出してしまいますね。
0 件のコメント:
コメントを投稿