2013年2月6日水曜日

遠藤周作「沈黙」雑感

なぜフェレイラ教父は棄教したのか―恩師の棄教理由の真実を知るために―



今日は、遠藤周作「沈黙」(新潮文庫)について、思ったことを少し書いておきたいと思います。
小説の時代背景は1638、39年頃です。徳川幕府により、切支丹が徹底的に弾圧されていた
時代です。

幕府は司祭たちを追放処分にしましたが、布教のため日本にかくれ残っていた司祭がいました。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレイラ教父もそのひとりでした。フェレイラ教父は日本滞在が二十数年で、司祭と信徒を統率してきた長老でした。

ところがフェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問を受け、棄教を誓ったという知らせがローマ教会のもたらされたことから、物語は始まります。

フェレイラ教父の弟子だった3人の若い司祭は、フェレイラ教父が殉教でなく棄教したことがどうしても信じられませんでした。3人は日本にわたり、事の真相を突き止めようとします。

物語の主人公は、日本にわたった青年司祭の一人、セバスチャン・ロドリゴです。


殉教者とは何か



小説の詳しい筋道を語るのは止めておきましょう。私には、小説の最後の部分での、フェレイラ元教父とロドリゴの対話と、その後のロドリゴの選択がとても印象的でした。

フェレイラによれば、日本人は人間と全く隔絶した神を考える能力をもっていません。日本人は人間を超えた存在を考える力をもっていません。日本人は人間と同じ存在をもつものを神と呼びます。

それは教会の神ではありませんから、自分の二十数年間の日本での布教活動は無意味だったとフェレイラはロドリゴに語ります。

日本人が考えていたキリスト教の神は、大日如来でした。

フェレイラに対し、ロドリゴは基督教と教会はすべての国と土地をこえて真実であると反論します。幕府の弾圧により殉教していった信徒たちが信じていたものが基督教でなかったのなら、彼らは基督教を信仰していたことになりません。

過酷な拷問により死んでいった信徒たちが大日如来を信じていたのでは、彼らは基督教の殉教者ではありえません。


「転ぶ」こそ神を信じるものの道―虚栄心に打ち勝ったロドリゴ―



フェレイラに必死に反論したロドリゴですが、結局「転ぶ」ことを選択します。ロドリゴの選択、「転ぶこと」とは、殉教して教会から称えられることより、もっと大切なものがあると悟ったからでした。

フェレイラはロドリゴに言います。このような状況なら、基督は彼らのために転んだだろうと。

拷問に苦しむ百姓を見捨てても、自分も殉教すれば教会から称えられることになるでしょう。教会と欧州の信徒たちから殉教者として讃えられれば自分の虚栄心は満足できるかもしれませんが、それは基督教徒のとるべき道ではないとフェレイラとロドリゴは悟ったのです。

本当に大切なものは一体何なのか。これを常に心の中で問うことが、人間だけができることなのでしょう。つまらない欲望にかられて、大切なものを見失うことがないようにしたいものですね。

万物を創成した全能の神が存在するなら、神はなぜ人間に自分の行為について疑う能力を授けたのでしょうか。これも遠藤の問いかけだったように思います。


追記・ロドリゴの自問自答



ついに転んだロドリゴは、「自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考え、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれない」と自問自答します。

自分を幕府に売った狡猾なキチジローと自分はどれだけ違うのか。

心中で、自分のあり方について問いかけをどこまでもしていくことは苦しいですね。

心中での無限に続く苦しい問いかけと神との対話を終生行いつつも、「転んだ」ということで仲間を失い、異国の地で孤独と絶望の中で死んでいったであろうフェレイラとロドリゴ。

遠藤の解釈では、フェレイラもロドリゴも転んでいないことになるのでしょう。寧ろ、フェレイラとロドリゴこそ、真の基督教司祭ということになりそうです。

幕府の過酷な拷問に苦しみつつ、大日如来の名前を唱えて死んでいった信徒たちも、基督教信徒ということになるのでしょう。

自問自答という表現自体が、仏教徒的です。やはり日本人には、西洋の宗教、あるいは砂漠と荒野の地から生まれたような宗教を理解していくのは難しいのかもしれません。









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