「日本共産党の百年」をざっと読みました。
古今東西、共産主義者は都合の良いように歴史を修正します。
スターリン、毛沢東、金日成は勿論、宮本顕治さん、不破哲三さん、志位さんも「日本共産党の百年」で歴史を様々な点で修正しています。
最大の歴史修正点は、昔の日本共産党がソ連信者の団体であり、日本のソ連化を目指していたことを内緒にしていることです。
昔の日本共産党は国際共産党(コミンテルン)の日本支部として、ソ連から資金と拳銃を受け取り、内乱を起こそうと策していました。
レーニンは第一次体制のとき、革命的祖国敗北主義の見地から帝国主義戦争を内乱に転化せよ、全ての権力をソビエトへと主張しました。
ボリシェヴィキが採用したこの革命戦略は国際共産党日本支部に継承されています。
これは「プロレタリア赤衛軍創設」「議会の解散」「労働者農民兵士ソビエトの権力樹立」を明記した32年テーゼを読めば明らかです。
しかし、歴史の修正は簡単ではありません。志位さんがどんなに日本共産党の歴史を修正しようと努力しても無駄です。昔の日本共産党の文献や、宮本顕治さんら昔の日本共産党幹部の論考を読めば、ソ連信者でしか書けない記述がいくらでもありますから、真実がばれてしまいます。
「日本共産党の百年」の冒頭に、日本共産党が世界と日本の人民の解放闘争の高まりのなかで創立された、という記述があります。
これだと、日本共産党の創立がロシア革命やソ連とは何の関係もなかったように思えてしまいます。
「日本共産党の百年」を読んだ若い日本共産党員は、ロシア革命が日本の社会運動、左翼知識人に及ぼした影響などあまりなかった、という印象を抱いてしまいかねません。
昔の共産主義者は、自らをボリシェヴィキの一員と考えていた。
昔の共産主義者は、世界で共産党は一つと考えていました。自分はレーニン、スターリンの党であるボリシェヴィキの一員だ誇っていたのです。
そこで日本人が英国やドイツ、あるいはソ連で共産党に入って、日本に戻れば日本支部に所属するようになっていました。
野坂参三さんは英国で共産党に入っています。
昭和30年まで、在日の共産主義者は日本共産党員でした。
「日本共産党の百年」には、「このころには、在住地の党に参加するというコミンテルンの方針で、朝鮮人共産主義者も入党し、さまざまな分野で活動をすすめました」という記述があります(5の三段目。昭和6年頃の話)。
(15)には、党に参加していた在日朝鮮人の活動家たちは、55年中ごろまでには党籍を離れました、という記述があります。
これだと、在日中国人の共産主義者が日本共産党員だった事は完全に内緒です。
在日中国人、在日朝鮮人共産主義者に対する中国共産党、朝鮮労働党からの指示などなく、自分の判断で日本共産党を辞めたような記述になっています。
志位さんは、中朝両党と昔の日本共産党の関係も内緒にしたいのです。共産主義者は、自己を正当化するために歴史を修正します。
ところで、昔のプロレタリア文学運動の指導者だった蔵原惟人さんについて、「日本共産党の百年」には記載されていないようですね。
蔵原さんはソ連の文芸評論理論を日本のプロレタリア文学運動に適用したことで有名ですが、この辺りも志位さんは内緒にしたいのでしょう。
追記:
p16からp17にかけて、次の記述がありました。
党中央の解体と分裂という事態にたいし、排除された宮本、蔵原ら七人の中央委員は、1950年9月1日、公然機関として全国統一委員会をつくりました。
袴田里見さんについては、p17で党中央の解体・分裂という事態を説明するために海外に派遣されていたが、スターリンと徳田、野坂らの最後の会議に出席し、「自己批判書」を発表して徳田・野坂分派側にうつりました、と記されています。
宮本顕治さんが、暴力革命論の51年綱領をかがやかしい新綱領と高く評価していたことも記載されていません。この辺り、志位さんは内緒にしたいのでしょう。
再追記
「日本共産党の百年」のp6、下から三段目に、プロレタリア文学と文学理論の代表的存在として小林多喜二、宮本百合子、宮本顕治と並んで蔵原惟人さんの名前が記されていました。
これだけでは、蔵原さんがプロレタリア文学運動の指導者だったことは、他の文献を調べなければわかりません。
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