志位さんが来る9月15日に日本共産党の百一周年を記念して講演をするそうです。日本共産党創立101周年/志位委員長の記念講演 演題決まる/歴史に深く学び、つよく大きな党を―『日本共産党の百年』を語る (jcp.or.jp)
歴史に深く学び、つよく大きな党を、という話ですが、志位さんは昔々の日本共産党がソ連から物心両面で支援を受けていた事、昔の日本共産党がソ連信者の集団だったことを引き続き内緒にするでしょうね。
「日本共産党の百年」には、昔々の日本共産党とコミンテルン(国際共産党)との関係が殆ど記載されていません。
草創期の日本共産党は、ソ連から大金(三千円)を受け取ったー今の貨幣価値なら1500万円か
この時期の日本共産党については、和田春樹・G. M. アジベーコフ監修「資料集 コミンテルンと日本共産党」(平成26年岩波書店刊行)が詳しい。
志位さんはこの文献を知らないかもしれませんね。
以下は、この本の冒頭にある「解題 コミンテルンと日本共産党」(和田春樹 カ・シリニャー 富田武)に依拠しています。
大正十一年(1922年)1月21日より2月2日まで、モスクワで「第一回極東革命組織大会」が開催され、徳田球一、高瀬清他少なくとも15人の日本人が参加しました。
徳田球一と高瀬清はコミンテルンより日本共産党の正式結成を求める指令を受け、三千円の資金を上海で受け取って帰国しました。
大正十一年の三千円は、今の貨幣価値で一体いくらぐらいになるのでしょうか。
もう少し後の昭和恐慌の頃の諸物価については、内橋克人「ドキュメント恐慌」が詳しい。
大雑把に言って、三千円×5000=1500万円くらいと考えます。
大正十一年頃のソ連は、戦時共産主義から新経済政策に路線転換していましたが、それでも経済破たんは継続していました。年間百万を超える餓死者が出ていたという説もあります。
ソ連共産党は貴重な外貨を、国際共産党日本支部結成に配分したのです。
ソ連共産党は」ソ連は労働者の祖国だ、という見解を世界中に普及し、世界をソ連化する事を策していました。
ブハーリンが草創期の日本共産党綱領を作成した
この年の7月15日、東京渋谷の高瀬の部屋で、高瀬・堺利彦・山川均・近藤栄蔵・橋浦時雄・吉川守國・浦田武雄・渡辺満三ら八名が集まって、日本共産党の創立会議を開きました。
コミンテルンの規約を受け入れて結党し、人事を定めました。
コミンテルンの側では、執行委員会の中に設けられた綱領委員会に日本小委員会がつくられ、ブハーリンが綱領委員会と日本小委員会を指導しました。
大正十一年(1922年)11月5日から12月5日まで開かれたコミンテルン第四回大会までにブハーリンは日本共産党綱領草案を起草していました。
これがこの大会に参加した高瀬清と川内唯彦により持ち帰られ、翌年1月には堺利彦に渡されました。
この綱領に、「君主制の廃止」という記述がありました。この点をめぐって、日本共産党内部で対立が生じましたが、荒畑寒村らはこれをコミンテルンに報告しませんでした。
「日本共産党の百年」の第一章(1)「党創立と初期の活動 1922~27年」には、1923年2月の大会(千葉・市川)で執行部を改選し、3月に東京の石神井でひらいた臨時大会で「綱領草案」を検討した、と記載されています。
この草案はコミンテルンの委員会で日本代表も参加して起草された、と「日本共産党の百年」に出ていますが、実際はブハーリンが起草していたと考えられます。
ブハーリンはこの後の、1927年テーゼも作ったのですが、どういうわけか日本共産党の文献では以前から内緒にされています。
志位さんは日本共産党の歴史を修正したい
荒畑寒村は大正十二年九月のうちに、山本懸藏と上海に行き、そこでコミンテルンから7439円を受取り、11月上旬には日本に戻りました。
先ほどの大雑把な計算では、7439円は3700万円を越える額となります。
多少のバランス感覚のある人なら、こんな大金を外国政府から受け取って、外国の指令に従って行動する団体などおかしい、と考えるのではないでしょうか。
昔々の日本共産党幹部が、受け取った大金を実際にどう使っていたのかなどわかりません。拳銃を最初に受け取った幹部は誰なのかわかりませんが、渡辺政之輔は持っていました。
「日本共産党の百年」には渡辺政之輔は台湾の基隆で警官隊におそわれ、自ら命をたちました、と記載されています。
実際には拳銃で自殺したと考えられるのですが、志位さんは渡辺政之輔が拳銃を所持していた事を内緒にしたいのでしょう。
志位さんの講演では、ブハーリンが草創期の日本共産党綱領や27年テーゼを作成した事や、新経済政策の時期のソ連が莫大な資金援助をした事など、一切触れられないでしょうね。
志位さんは歴史の修正を御自身の使命と認識しているのでしょう。
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