当時、吉原にはおよそ3500人の抱え娼婦がいたという。身代金は若い娘で300円から7000円まであった、と稲垣さん(内橋氏が取材当時70歳だった元巡査)は記憶している(前掲著p25より)。
身代金とは、若い娘が吉原で働き始める際、親が雇用者から受け取る前金の事でしょう。この制度は今は違法ですが、性産業では残っているかもしれません。
だいぶ前のテレビ番組「ナニワ金融道」(主演はスマップの中居君。青木雄二原作)では、篠原涼子が夫の借金を返すために性産業で働き、前金を得る若妻の役を演じていました。
日本共産党、立憲民主党、左翼運動家の皆さんは慰安婦だった方々に、日本政府が謝罪と償いをせねばならないと主張します。
どういうわけか左翼人は、日本政府による謝罪と償いの対象者を朝鮮半島出身者と外国の方に限定しています。
私はこれに断固反対です。慰安婦には、本土出身者が多かったと考えられます。
性産業、性的労働に従事する人々は古今東西存在します。
性的労働の現場は過酷ですが、顧客を日本軍人としていた方だけを特別視する理由はない。今も昔も、性的労働の実態は大差ない。
顧客を日本軍人としていた方々は繁忙時の客数が実に多かったという可能性はありますが、港町に大きな船が入港してきたら性産業は繁盛しえます。
その際の性的労働サービス従事者一人当たりの客数と労働強度は、昔と比較してどうなのでしょうか。
左翼人士は性産業の実態を調べて自説を展開すべきです。
慰安婦は昭和恐慌の頃、増えていった
私見では慰安婦の数は、満州事変以後増えていきました。
満州事変より前でも、日本軍人を相手に性的労働に従事する方はいたでしょうが、慰安所と呼ばれた場所で性的労働に従事していたわけではないでしょう。
勿論これは場所の違いでしかありません。
顧客が民間人か軍人かで性的労働従事者が提供する労働に差があるとは思えない。満州事変の頃の日本は、昭和恐慌の最中です。
昭和恐慌の影響で、民間人を相手にする性的労働に従事したが、経営者の命令で軍人相手の労働をするため、外国に行った方はいくらでもいたのではないでしょうか。
吉原の本部屋の料金は五円、私娼窟に売られてくる農村出身の女の子は一人十七円で十年、二十年の女郎生活
内橋克人氏の徹底したインタビューは、時代の雰囲気を実感させます。もう少し引用しておきましょう。
「その借金を返すため、女たちは身を売るのだが、玉代は一人一部屋の本部屋と仕切りだけの割部屋があって、本部屋五円、割部屋で一円から一円五十銭が相場だった。
タテマエでは玉代の六割を置屋がとり、四割が女たちの取り分ということになっていたけれど、実態はとてもとても...。どんどん借金がふくらむ仕組みになっていたのだ」。
本部屋五円、身代金が三百円といっても今でいえばいくらいになるのか、わかりません。この本のp48に、米一俵(60キロ)が七円から八円で当時は買えたと出ています。
米10キロが5000円から6000円とすると、60キロなら3万円から36000円。粗っぽい計算ですが、昭和恐慌の頃の価格は今の1/5000くらいと考えてみましょう。
そのように想定すると、吉原の本部屋の料金は2万5千円。身代金は150万円から3500万円になります。
昭和恐慌の頃、食肉用の馬は一頭二十円が相場でした。同じころ私娼窟に売られてくる農村出身の娘たちは、尋常小学校をでたばかりの女の子で一人十七円でした(同書p124)。
十七円で売られた女の子は、その後十年、二十年働かねばならないそうです。
五年の年季奉公の男の子の場合、親は三百円受け取った
性産業ではありませんが、昭和二年に新潟県から墨田区の食肉卸業兼小売業に小僧として、十五歳のときに五年の契約で売られた方がいました(同書p84)。
年季奉公という制度が、当時はあったのです。
渡瀬保さん(内橋氏が取材時に63歳)です。取材は恐らく、昭和52年より前ですから、明治末から大正初期生まれの方です。
親が受け取った額は三百円だったそうです。お父さんがもらった三百円(黒坂試算なら今の百五十万円)を、渡瀬さんは今でもはっきり覚えていたと内橋氏は記しています。
昔の農家の次男、三男は農地を相続できません。長男以外の男の子を年季奉公に出すのは変なことではない。
長男ではない農家の男子が、故郷を離れ炭鉱や港湾での過酷な労働に従事して生計の糧を得る場合は多かったと考えられます。
仕事は過酷ですが、稼げば家族を持てますから。故郷で農作業をしているだけでは、先がない。
朝鮮半島の場合、小作人は地主に収穫物の五割程度を納めねばなりませんでした。
私見では、小作人の家庭に生まれた女の子が、女衒のような人の紹介で私娼から慰安婦になる例が多かったのではと思えてなりません。
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