2013年11月30日土曜日

「灰色決着した救う会『1000万円』使途問題」(「週刊新潮」2004年7月29日号記事)より思う-佐藤勝己氏はなぜ兵本達吉氏を名誉毀損や誣告罪で訴えなかったのだろうか-

篤志家からの寄付金1000万円の使途について、佐藤氏は「誤解を招いたことは申し訳ない。しかし、私が着服したという事実はない...」




2004年7月18日に開かれた「救う会」の全国幹事会で佐藤勝巳会長はこう弁明した(「週刊新潮」記事)、とあります。

もう9年も前のことです。私も当時は「救う会」の役員でしたから、多少は経緯を承知しています。

最近「統一日報」に掲載されている佐藤勝己氏の論考「拉致問題との関わり」を読み、思うところありまして、この記事を古いファイルから引っ張り出しました。

誰しも、ある知人の言動で数年前はよくわからなかったこと、見えなかったことが、その後のその知人の言動を観察する中で次のように「理解」できてくる経験はあるものではないでしょうか。


「なるほど、実はそういうことだったのか。やっぱりな」


さらに、次のような気持ちを抱いた経験はないでしょうか。



「こんな行為を正面から擁護した人は、一体どんな気持ちだったのだろう」

「後ろめたい思いはなかったのかな。とにもかくにも、師匠には逆らえないということか」

「師弟関係とは、一体何なんだ」


佐藤勝己氏の「統一日報」掲載論考「拉致問題との関わり」は、私には横田滋氏や西岡力氏、島田洋一氏、増元照明氏らに対するとんでもない誹謗中傷の繰り返しとしか思えません。

この件については、改めて論じるとして、以下「週刊新潮」(2004年7月29日記事)から抜粋して論じます。



7月11日、身内による特別監査が行われ、情報提供者が970万円を受け取ったことを認めた。領収書もあり、佐藤氏が個人的に流用したとは認められないという結論。




拉致情報の収集に970万円使用したという説明です。情報提供者の身元は、危険に晒されるということで明かせないとあります。

記事は「これじゃ、灰色決着と言われるのも当然だろう」と述べます。

兵本達吉氏(当時は「救う会」全国協議会の幹事)は、記事で次のように述べています。



情報提供者とは韓国に亡命した北朝鮮の元工作員(兵本達吉氏による)




「私(注、兵本達吉氏)は今回の監査結果に全く納得していません。私が監査人から聞いた話では、情報提供者とは韓国に亡命した北朝鮮の元工作員です。

970万円は、500万円、170万円、300万円の3回に分けて支払われたそうです。しかし、1人の元工作員にそんな大金が渡っているとは信じられません」

「500万円の一部は、元工作員がソウルに所有しているマンションのローンの返済に充てられたそうです。

生活費も出していたとのことですが、いくら何でもやりすぎ。やっぱり、佐藤氏らが辻褄合わせをしたのではないか」(兵本達吉氏)


兵本氏は佐藤氏の主張を全面否定していました。「佐藤氏らが辻褄合わせ」という部分に注目してください。

佐藤氏御一人による辻褄合わせではないと兵本氏は断言していたのです。

そこで、この元工作員に質したところ、次の答えだったそうです。質したのは恐らく、「週刊新潮」でしょう。



「(お金は)全く受け取っていません。マンションも持っていない」




元工作員は上のように語り、怒り心頭だ、と記事にあります。「肝心の佐藤氏は『取材は受けられない』と逃げるばかり」と記事にあります。

兵本氏は記事でさらに次のように語っています。



「佐藤さんは、自分にやましいところがなければ、私を名誉毀損や誣告罪で訴えればいい。そうすれば、警察も捜査しやすくなる。

真相究明のために、最期まで諦めませんよ」



この記事が掲載されてから、9年4ヶ月もの歳月が流れました。私は佐藤勝己氏が兵本達吉氏を名誉毀損や誣告罪で訴えたという話を寡聞にして知りません。



佐藤勝己氏と「統一日報」編集部への要望-1000万円問題に関連して-

 



なぜ佐藤勝己氏は兵本達吉氏を訴えなかったのでしょうか。

佐藤勝己氏の「統一日報」掲載論考「拉致問題との関わり」ではこの1000万円問題について、現時点まで一切言及がありません。

今後も「統一日報」で佐藤勝己氏の論考が掲載されるなら是非、兵本達吉氏を名誉毀損や誣告罪で訴えなかった理由を説明していただきたく思っています。

「統一日報」編集部からも佐藤勝己氏にそのように促して頂ければと存じます。

























不幸に会ってはじめて人間は自分が何であるかがわかります。-Stefan Zweig「マリー・アントワネット 下」(関楠生訳 河出文庫)より思う-

今自分の王冠、子供たち、自分自身の生命などすべてのものを、歴史上最も大規模な暴動に対抗して守ってゆかねばならないというたいへんな要求に誘発されて、はじめて、彼女は...

自分自身のうちに抵抗の力をさがし求め、これまで使わずに残しておいた知力と実行力を突然引き出した(Zweig前掲書p38)。


マリー・アントワネット(1755年11月2日-1793年10月16日)は、フランス革命(1789年)に直面して随分変わったようです。

1789年7月14日、パリの住民は反乱を起こし、専制主義と封建制の象徴とみなされていたバスチーユ牢獄を襲撃しました。

住民はバスティーユ牢獄の司令官と、警備にあたっていた兵士たち、パリ市長などを虐殺しました(Evelyne・Lever「王妃マリー・アントワネット」p78、創元社)。

「自由・平等・博愛」の精神により行われたというフランス革命の現実は、暴徒による虐殺の連続だったのです。

言うことはご立派でも、中身は、という人はいくらでもいます。フランス革命とは、中国の文化大革命のような蛮行だったのです。

「圧政に抗して立ち上がった市民」とは、文化大革命のときに虐殺と破壊行為を繰り返した紅衛兵のような人たちだったのでしょう。

すべての憎悪を宮廷の上に積み重ねてやれ!...君の方には十万、二十万のこぶしがある。そして武器庫には銃があり、大砲が待っている(Zweig前掲書、p9)


Zweigによれば、当時の新聞の主な論調は、市民に王室に対する暴力を呼びかけるようなものでした。「出版の自由」「言論の自由」の実態が暴力礼賛だったのです。


暴力礼賛論に触発された暴徒の群れが、ヴェルサイユ宮殿に押し寄せました。

暴徒は王政を罵倒し、王妃を「オーストリア女」と呼び捨てて、殺してやると叫びながら行進しました(Lever前掲本p79)。

ヴェルサイユ宮殿には多少の近衛兵がいるくらいで、武器を持った暴徒に彼らは虐殺されてしまいました。暴徒は宮殿に乱入しました。

近衛兵の首が槍の先につきさされました(Lever前掲本p81)。

国王一家は、暴徒によりヴェルサイユ宮殿からパリのチュイルリー宮に連行されました。1789年10月5日のことです。処刑される4年前になります。

マリ-・アントワネットは生きた心地がしなかったでしょう。

冒頭に引用した文章は、この頃のマリー・アントワネットの手紙にあるようです。軽薄な人に書ける文章ではありません。

国王一家はこのあと、1792年8月までチュルイリー宮殿で暮らします。奢侈生活はできなくなりました。

不幸というものは、もともと人の性格を変えるものではないし、性格のなかに新しい要素を押しこむものではない。ずっと前からある素質を磨きあげるだけのことである(Zweig前掲書p38)。


Zweigは、マリー・アントワネットには元来、知的に優れた資質があったと評価しています。

二十年間、本を一冊も読まなかった彼女が、夫に代わってすべての大臣や外交使節と討議し、彼らの処置を監視し、彼らの手紙にも手を入れました。

暗号文字をおぼえて、外国にいる友人たちと外交機関を通じて相談ができるように、秘密裏に諒解をつけるための方法を考え出しました(Zweig前掲書p39)。


ヴェルサイユ宮殿で荒れ狂う暴徒の姿を目の当たりにしたマリー・アントワネットは、自分たちの生命は風前の灯であることを理解していたのでしょう。

マリー・アントワネットは後世の人々が自分たちの言動を注視していることを見通していたのかもしれません。

彼女の手紙のどれかに、次の文章が残されているのでしょう(Zweig前掲書p41)。



「私たち個人に関しては、たといどんなことが起ころうとも、幸福などおよそ考えられなくなってしまっていることは、私も知っております。

しかし他の人々のために苦しむのが王たる者の義務ですし、私たちはそれをりっぱに果たしています。

いつの日にかそれが認めてもらえればよいのですが」

魂の奥底に至るまで深く、マリー・アントワネットは自分が歴史的人物となるさだめを負うていることを理解していた(Zweig前掲書p41)。


Zweigはこのように評価しています。

マリー・アントワネットは亡き母Maria Theresiaの言葉を心中で繰り返し思い起こしつつ、必死に運命と戦ったのです。

夫のルイ16世は機敏に判断し行動するという点で著しく劣っていた人物だったようです。一家が生きのびるためには、彼女が奮闘するしかなかったのです。

Zweigは、マリー・アントワネットがハプスブルグ家の女であり、由緒ある皇帝の栄誉を継ぐ子孫、Maria Thersiaの娘であるという事実によって、自分自身を超えたと述べています(p41)。

彼女は何ども、「何ごとにも勇気をくじかれない」と繰り返しているそうです。残された手紙の中にそういう記述があるのでしょう。

断頭台の急な階段をのぼっていくときにも、フェルセン伯爵への想いとともに彼女の心中にこの言葉があったのかもしれません。


Zweigの次の言葉は、読者である私たち自身が何者で在るかを問いかけるものです(p41)。

人間は自分自身の心の奥深くに近づいたとき、自分の個性の内奥を掘り起こそうと決意したとき、自分の血のなかに影のようにひそむ祖先たちの力をかきたてる(p41)。


凡人である私たちも、歴史の中で生きているのです。歴史は祖先の行いの積み重ねでもあります。

私たちもいずれは祖先となり、その所業が子孫や後世に評価されることを意識したいものです。
















2013年11月26日火曜日

女性は受動的な献身の心準備が無に帰すると、どうしても過度の興奮、抑制心喪失、つまり不安定で活気のありあまる状態が表面に出てこざるを得ない-Stefang Zweig「マリー・アントワネット 上」(関楠生訳p47、河出文庫)より思う-

(マリー・アントワネットは)たくさんの子供を生んで育てるのにむいていて、ほんとうの夫に仕えることばかりおそらくは待ちうけている、女らしい女、やさしい女だったのである(同書p47)。


ルイ16世(1754年8月23日-1793年1月21日)は16歳で結婚しました。結婚時には、性的不能でした。これは精神的な条件によるものではなく、器官上の欠陥(包皮)にもとづくものでした(p39)。

フランス宮廷の侍医の診察によるもの、とあります(p39)。マリー・アントワネットは夫に手術を受けさせようとしましたが、優柔不断なルイ16世は決心ができません(p40)。

結婚五年後の母に出した手紙で、マリー・アントワネットは夫に手術を受けさせる決心をつけさせようと苦心していると述べています(p40)。

マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世(Josepe Ⅱ)がパリに来た際、ルイ16世に手術を受けることをすすめ、やっとのことでルイ16世は手術を受けます。

二人が夫婦になったのは、そのあとで、結婚後七年の歳月を要しました。ルイ16世の性的不能については、母のMaria Theresiaだけでなく侍女も女官も、廷臣も士官も知っていました(p42)。

ヴェルサイユばかりでなく、パリ中、フランス中にこの噂が広まり、パンフレットになって手から手へ渡されていたそうです(p43)。

国王を揶揄するパンフレットを作成して配布できるのですから、当時のフランスは今の中国や北朝鮮よりずっと自由があります。

ともかく、フランス王家の権威は、こんなことからも徐々に失墜していったのでしょう。性的不能は、ルイ16世の心の有様に多大な悪影響を及ぼしたでしょう。Zweigは次のように語ります。

王の人間的な態度は、男性としての欠陥にもとづく劣等感の典型的な特徴をことごとく、まさに臨床的な明瞭さで示している(p44)。


ルイ16世は一種の「他人恐怖症」のような状態だったのかもしれません。Zweigは次のように分析しています。

内心恥じるところのある王は、宮廷の社交はいっさい、おずおずとぶざまに避け、とりわけ婦人とのつきあいから逃げまわる。

というのは、しんそこは正直で実直なこの男は、自分の不幸が宮廷のだれかに知れわたっていることを知っていて、秘密を知る者に皮肉に微笑されると、その挙動がすっかり萎縮してしまうのである(同書p44)

寝室で男性の役割を演じられないからには、他人の前で王としてふるまうすべも知らないわけである(p44)。


興味深い性格分析です。Zweigによれば、ルイ16世は男性として無力だったために、妻のマリー・アントワネットに対して隷属することになりました(p46)。

妻は何なりと欲しいものを彼に要求でき、夫はそのたびにまったく無制限に譲歩しては、ひそかな責任感をつぐなった、とZweigは述べます(p46)。

性行為そのものに大した関心を持たない14歳の女性はいくらでもいるでしょう。16歳の健康な若者とは大違いです。

十代での結婚は、欧州の王侯貴族だけでなく、日本の武将にもいくらでも例があります。通常は、十代の若い妻の方が性行為を恐れるものではないでしょうか。

ルイ16世とマリー・アントワネットの場合、逆だったのかもしれません。それが宮廷中に知れ渡ってしまい、悪口の対象になっていたのですから、若夫婦の心的負担は大きかったでしょう。


ルイ16世が性的不能について劣等感を持っていただろうことは容易に想像できます。

ルイ16世は生きていくための活力、精神力が弱い人だったのでしょう。それと、若い頃の性的不能はかなり関連していそうです。

ルイ16世が性的不能でなかった、マリー・アントワネットの運命は大きく変わっていたのか


歴史にもしも、という思考実験をしてもあまり意味がないのかもしれませんが、次はどうでしょうか。

ルイ16世が不能でなく普通の健康な若者でありさえすれば、マリー・アントワネットは十代後半で何人か子供を産んでいたかもしれません。

二十代前半で4、5人も子供がいれば、子供の生育に母親として神経をすり減らすことになったはずです。当時は幼児の死亡率が高かったのです。

子供に心血を注がねばならないなら、途方もない浪費をする余裕もありません。

マリー・アントワネットが「赤字夫人」と呼ばれるようなことにはならなかったかもしれません。

重税に対する庶民、第三身分の人々の怒りが彼女に集中する事態にならなかったかもしれません。

勿論、軽薄さはマリー・アントワネットの浪費癖の一因でしょう。母親から戒められていたにもかかわらず、度外れた出費をしてしまったのですから。

自分の行動、言動が周囲の人びとにどういう影響を与え、それが巡り巡って自分にどういう結果をもたらすかという思考をするような人ではなかったのでしょう。

ルイ16世の性的不能により、マリー・アントワネットの軽薄さに拍車がかけられてしまったのでしょうね。Zweigは次のように述べています。

ニ千を数える夜々、粗野で精神的抑圧に悩む夫が彼女の若い肉体に対して絶えずいたずらな努力をつづけた(p47)



しじゅうあちらへ行きこちらへ移って決して満足せず、気ままに快楽から快楽を追う生活は、夫によって絶えず興奮させられながら性的満足を与えられないために生ずる臨床的に言って典型的な結果なのである(同書p47)。

若い頃のマリー・アントワネットは、朝の4時、5時までオペラ座の仮面舞踏会、賭博場、夕食会、いかがわしい社交場を転々と遊び歩いていたそうです(p48)。

マリー・アントワネットが激しく遊びまわった背後に、女としての絶望が潜んでいたとZweigは指摘しています(p49)。

性的な抑圧、あるいは性的不能が人間の言動に大きな影響を与えるのは間違いないでしょう。

若い頃のマリー・アントワネットの言動の背後に、七年間の性的抑圧があったこと、ルイ16世との人間関係は若年時の性生活の欠落に依存していたというZweigの指摘は興味深いものです。










2013年11月22日金曜日

凡人は運命に問いかけられるまでは、自己をきわめつくそうというやむにやまれぬ気持ちを自分から感ずることはないし、-Stefan Zweig「マリー・アントワネット 上」(関楠生訳 河出文庫)より思う-

また、自分自身を問題にしようという好奇心を感ずることもないのである(同書p11)




マリー・アントワネットの伝記小説はいくつもあるようですが、Stefan Zweig(1881-1942年。 Vienne、ウィーン生まれ)によるものはその中でも定評があります。

Zweigは、マリー・アントワネットの生涯を追いつつも、珠玉のような言葉、警句により読者に問いかけます。

私たちは、マリー・アントワネットの絶頂からどん底に転がり落ちるような人生を見ていく中で、自分の生き方、これまでの人生をふりかえっている自分に気づきます。

生きていく中で誰しも、様々な人と出会い、交流し、感銘を受けることがあります。そんな人とあるきっかけから争い、対立していくことは少なくありません。

それは、やむをえない選択だったのでしょう。自分の主張を正面からぶつけることができなければ、自分らしい生き方はできませんから。

あのとき、自分はこの道を選択をしたが、それはどんな意味を持っていたのだろうか。異なる選択をしたら自分はどうなっていっただろうか。

運命に問いかけられる、というような窮地に陥る前に、可能な限り自分を見つめ直すこと、自己への問いかけを続けたいものです。

以下、Zweigの本の上巻から、マリー・アントワネットその人と生き方について、私の印象に残ったことを書き留めておきます。



母のマリア・テレジア(Maria Theresia、啓蒙専制君主の一人)は娘の将来を見通していた




マリー・アントワネットとお母さんMaria Theresia(1717-1780)との手紙が今日でもかなり残っていて、そこから彼女の性格がわかるのですね。Zweigは手紙をいくつも紹介しています。

ルイ15世が死亡し、マリー・アントワネットの夫がルイ16世、マリーアントワネットは王妃となりました。このとき、Maria Theresiaは娘に手紙で次のように述べています(同書p115)。



「あなたがた二人ともまだ若く、しかも荷は大きいのです。ですから私は心配です。ほんとうに心配なのです...。今私が忠告できるのは、何事も必要以上に急いではいけないということだけです。

すべてを自分の目でしかと見、何も変えず、すべてを発展させるがままにまかせなさい。さもないと、混乱と陰謀は尽きることがないでしょう。

そしてあなたがたは混乱におちいり、もうそこからほとんど抜け出すことができなくなるでしょう」



Maria Theresiaはまた、娘の軽率さと快楽を追う性向をよく承知していました。これについては、次のように戒めています(p116)。



「私があなたのことで一番心配しているのはこの点です。まじめな問題に身を入れて、とりわけ度はずれな出費をすることのないよう気をつける必要が大いにあります。

私たちのあらゆる期待を越えるこの幸福な出発がいつまでもつづき、国民を幸福にすることによってあなたがたお二人とも幸福になるということ、すべてはそれにかかっているのです」(p116)



良き母であり、啓蒙専制君主(Enlightened despotism)でもあったMaria Theresiaらしい言葉です。




フランス国王の権力は国民の敬愛心に強く依拠していた





王の権力は、国民の素朴な国王信仰に強く依存していることを、Maria Theresiaは十分に承知していたのでしょう。

フランスにもオーストリアにも、国民の動向を常時監視するような秘密警察はなかったのでしょう。中国や北朝鮮と随分違います。絶対王政とは言っても、全体主義国家ではないですね。

国民に言論の自由、表現の自由がかなり認められているようです。

後にバスティーユ監獄を守っていた兵士が暴徒に殺害されてしまうのですから、軍隊はさほどの武装をしていなかったのでしょう。

当時のフランスの王の権力は、古くからの儀式を威厳をもって行い、伝統を保ち、国民に常に国王の素晴らしさ、偉大さを示して国民の中に国王に対する敬愛心を維持することに強く依拠していたのではないでしょうか。

軽薄で、多少の長い思考を不得意とするマリー・アントワネットには、伝統と格式を維持することの大切さなど理解できなかったのではないでしょうか。

Maria Theresiaは透徹した眼でそれを見抜き、心底憂慮していたのでしょう。

ハプスブルグ家からブルボン王朝に輿入れする際の、伝統と格式とはどんなものだったのでしょうか。その一例は次のようなものでした。




マリー・アントワネットがフランスの王太子妃になる瞬間から、彼女の身を包むものはすべてフランス製の生地でなければならない(p29)。





マリー・アントワネットが故国オーストリアからフランスに輿入れする際、両国でこのように決められていたそうです。

故国の随員はだれ一人、皇女について目に見えない国境線を越えてはならない。礼式の要求するところによって、皇女は故国の製品を一糸も素肌にまとってはならない(p29)。

オーストリア側の控えの間で、十四才の少女はオーストリア全随員の前で素裸にならなければならなかった、とあります(p29)。

言い聞かされていたことでしょうが、マリー・アントワネットは辛かったのではないでしょうか。

マリー・アントワネットは国境近くのアルザスの街、Strasubourgで民衆により大歓迎されたようです。豪華な花嫁行列だったのでしょう。

大歓迎してくれる国民がいつしか豹変していくことなど、十四才の少女には全く予想できなかったでしょう。母が予想したとおり、荷が大きすぎたのかもしれません。

王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットの婚姻後の暮らしには、大きな問題がありました。これについては、また考えたいと思います。
























2013年11月16日土曜日

「挑戦的な態度」で断頭台の急な階段をのぼり、頭をさっと振って帽子を落とすと、ギロチンの刃の下に首を置いたという。-「王妃マリ-・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ著 塚本哲也監修、創元社)より思う-

刃が落ちると、死刑執行人は血まみれの頭をつかみあげた。それを見た民衆は、「共和国ばんざい!」と口々に叫んだ(同書p115)




マリー・アントワネットには覚悟ができていたのでしょう。潔さを感じます。

フランス革命とは自由、平等、博愛の精神により行われたと昔習ったように思いますが、37歳の若い女性に対するこんな残虐行為のどこが自由、平等、博愛なのでしょうか。

マリー・アントワネットは1793年10月16日午後12時15分に処刑されました。前日に革命裁判所の大法廷で、41人の人間が虚偽で固められた証言を行いました(同書p109)。

それらの証言に、王妃ははっきりと反論しました。裁判長は彼女を有罪とする決定的な証拠を引き出せませんでした(p109)。

実は、王妃が死刑になることははじめから決まっていたそうです(同書p114)。この本のp141-145に、革命裁判所の裁判長エルマンの質問と、マリーアントワネットの答えが掲載されています。

裁判長の語調は、証拠など無用、王妃は間違いなくフランス国家に背いたから有罪だ、というものです。

これでは、通常の意味における裁判ではありません。革命裁判、人民裁判というものです。

中国の江青の裁判も、裁判長が率先して江青を弾劾していました。もう30年くらい前でしょうか。テレビのニュースで見ました。マリー・アントワネットの革命裁判も、同様だったのでしょう。




国王夫妻は、外国軍の武力により、革命勢力を一掃できると考えていた(p94)




革命派は、反革命勢力を壊滅させるため、彼らを支援する諸外国に宣戦布告しようとしていました。

1792年4月20日、両者の思惑が一致し、フランスはオーストリアに宣戦布告しました(p94)。

マリー・アントワネットはフランス軍の配備や計画を次々と恋人フェルゼンやオーストリア大使メルシーに知らせました。

それでもマリー・アントワネットは、自分がフランス国民を裏切っているなど一瞬たりとも思わなかっただろう、とあります(p94)。

母国オーストリアの軍隊により窮地から救われたいという一心だけだったそうです。

敵国に作戦計画や軍の配備を知らせることなど、売国奴そのものの行為ですが、ルイ16世とマリー・アントワネットには国民が自分たちをどう考えているか、という思考ができにくかったようです。

ただ、革命裁判所の秘密尋問でマリーアントワネットは次のように答えています。



「革命以来、私はみずから外国との連絡をいっさい断ってきました。また、私は一度も、国内問題に干渉したことはありません」(同書p142)



これは真っ赤な嘘です。オーストリアに作戦や軍の配備を知らせた証拠を革命側が入手できていないことをマリー・アントワネットは確信していたのでしょう。



国民の反応がどうであれ、浪費と軽薄な言動を続けた





彼女は、国民のことなど何一つ知らなかった。彼らが思っていることにも、彼らの生き方にも、少しも思いをはせようとはしなかった(p65)、とあります。

ハプスブルグ家はブルボン家よりすぐれた家系だと明言したそうです(p65)。これが民衆に知れ渡り、人望を失って行きました。

自分の実家と嫁ぎ先を比較して嫁ぎ先を貶めれば、反感を買うのは今も昔も同じでしょう。

国民生活が苦しいのに浪費を続けていれば、不満と怒りの矛先になってしまいます。マリー・アントワネットにはそうした思考が一切できなかったのでしょう。

後先のことを考えず、今楽しければそれで良い。楽しいこと、気分の良いことをどんどんやっていこう。そんなタイプの人は少なくありません。

マリー・アントワネットにはそうした傾向が強かったのでしょう。破滅に至ったのは身から出た錆、という面も大きかったことでしょう。

しかし軽薄な人には、狡猾さ、ずる賢さはあまりないのではないでしょうか。革命裁判所で嘘をついたことは確かですが、革命裁判で真実を言うのはよほどのお人好しです。

他人の言動を読めないならば、狡猾に他人を利用することもできないでしょう。

1791年6月20日のパリからの逃亡劇はあまりにもお粗末です。

マリー・アントワネットは恋人フェルセンの英雄的な努力だけを頼っていたとあります(p87)。

唯ひとりの恋人フェルセンを信じるなど、マリー・アントワネットには一途なところがあったのです。

軽薄ですが、狡猾な悪女ではないでしょう。有吉佐和子の「悪女について」(新潮文庫)で描かれている女実業家のような人ではありません。




立憲王政を支持していたミラボー伯爵の助言を受け入れていたら...人生の岐路





マリー・アントワネットの人生を振り返ってみると、悲惨な最期になるのはどうしようもない運命だったのかもしれません。

ブルボン王家が、フランスに君臨する地位を維持できるはずもありません。立憲王政を認めるしかなかったのは、今日の私たちから見れば明らかです。

シュテファン・ツヴァイクの言葉を借りれば、ミラボー伯爵は「王政と民衆を調停できたかもしれない最後の人物」だったそうです(同書p84)。

ルイ16世とマリー・アントワネットはミラボー伯爵をもっと重用すべきだったのでしょう。

ミラボー伯爵は国王一家がパリから、フランス軍を頼りに白昼堂々と脱出すべきで、外国の軍隊をあてに逃亡すべきでないと考えていたとあります(同書p86)。

こうしていれば、「国王の安全のための当面の措置」と言えますから、民衆の王室への敬愛心を失わせるようなことにはならなかったでしょう。

しかし、マリー・アントワネットは恋人フェルセンの脱出計画に賭けてしまったのです。結果から見れば、これが人生の岐路だったのかもしれません。

誰にも、人生の岐路はいくつかあるものです。それは過ぎ去った後にわかってくるものなのでしょう。

マリー・アントワネットには自分の来し方を見つめ直し、人生の岐路を見出す時間がなかったかもしれません。

















2013年11月8日金曜日

自らの生命を縮め、ブルボン王家を滅亡に追い込んだほどの軽薄さ―藤本ひとみ「マリー・アントワネットの生涯」(中公文庫)より思う―

しかし、人間の性格は、生まれ持った遺伝子と生育環境の相互作用によって決定するものである(中公文庫p13)




マリー・アントワネット(Marie Antoinette)というと、フランス革命の頃に断頭台の露と消えた悲劇の王妃というイメージがあります。

飢えた民衆に対し「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃないの」と言ったとかいう話をどこかで読んだ記憶があります。

私はこれまで、マリー・アントワネットについてその程度の知識しかなかったのですが、藤本ひとみ「マリー・アントワネットの生涯」(中公文庫)により、いろいろ考えさせられました。

以下、思ったこと、感じたことを書き留めておきます。



愛される花嫁であった1770年5月から、赤字夫人の非難を最初に浴びる1785年末までの間に、マリー・アントワネットは、一四歳の少女から三十歳の中年女性に変貌している(p75)




マリー・アントワネットは1755年11月2日に、ウィーンで生まれました。

マリー・アントワネットの母は、オーストリアの女帝、ハプスブルグ家のマリア・テレジアです。父親はロートリンゲン公国の公子の一人だったフランツ・シュテファンです。

父親は、流れるままに流されつつ、その中で幸福を追い求める人間の典型だったとあります(p21)。おとなしく、政治や軍事に興味のない人物でした(p20-21)。

マリー・アントワネットは、大政治家だった母親よりも、楽しい毎日をおくることを求めていた父親の遺伝子をより多く受け継いでいたのでしょう。


1770年5月16日に、マリー・アントワネットとフランスの王太子ルイ・オーギュストの結婚式典がヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂で挙行されました(同書p74)。

ルイ・オーギュストはのちのルイ16世です。

このあと、マリー・アントワネットが赤字夫人という非難を浴びる1785年末までの間に、彼女の身辺で起こった主な事件は以下の五つとあります(p76)。


・国王ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との対立

・国王の死去

・兄の訪仏と警告

・長男長女次男の誕生

・詐欺に利用される

この他、異常気象による酷暑と乾燥による家畜の死亡、穀物の価格暴落、アメリカ独立戦争を援助するために庶民に重税をかけたことなどが、背景にあったと作者は指摘します(p76)。

1778年に物価暴落、景気の後退による低賃金と失業、企業家の破産が生じたとあります(p114)。何かの要因で不況になったのでしょう。

物価が暴落したとき、名目賃金がさほど下がらなければ実質賃金(名目賃金÷物価水準)は上昇します。雇用は実質賃金が上昇すると減少するので、失業が増えたのでしょう。


不況のとき、貴族が奢侈品に多額の消費をすれば、需要と生産が喚起され、不況打開策になりえます。奢侈品生産が国内でなされていればの話ですが。

マリー・アントワネットの豪華な生活を支えた奢侈品が主にフランス製であるなら、彼女はフランスの景気回復に多少は貢献していたことになります。

北朝鮮の金王朝のように、豪華な生活を支える奢侈品のほとんどが輸入物資であるなら、奢侈生活が国民生活を支えることにはなりません。



フランス王妃としての義務や責任を顧みない女性(p167)




フランス革命当時の社会経済事情については、また改めて検討してみたいと思います。

筆者は厳しい時代背景を考慮してもやはり、マリー・アントワネットは軽薄そのものの女性だったという判断です。

それどころか、マリー・アントワネットは1792年4月の普墺戦争の際、マリー・アントワネットがフランスの作戦計画を次々と自分の故国オーストリアに通報していたとあります(p167)。

これは、彼女がオーストリアに送った手紙により明らかになっているそうですが、当時のフランスでは明らかではありませんでした(p167)。

罪を立証できるだけの証拠がなかったのです。

マリー・アントワネットはそれを知り、裁判で無実を主張して生き残りをはかったそうです。あまりにも酷いですね。

作戦計画を敵側に漏らされたら、戦地の兵士たちはたまったものではありません。死罪に値する重罪とありますが(p167)、これは今も昔も同じでしょう。

筆者が描き出すマリー・アントワネットの人物像は、良いところは何もないように思えます。

マリー・アントワネットは裁判で、外国との通謀や敵国に作戦計画を漏らしたことなど、自分にかけられた容疑のすべてを否定します(p196)。

実際には容疑の殆どが事実だったのですから、彼女は大嘘をついていたことになります。

筆者は、マリー・アントワネットは一切を否認し続ければ、すべてがなかったことになるかのような錯覚を抱いていたのではと考えます(p198)。

現実感をかき、夢の中に生きているような人間なら、ありえることでしょうね。

自分の行動や言動が周囲の人にどのような影響を及ぼし、いずれは自分にはねかえってくるかを思考、予測できない人はいます。軽薄とは、そういう人柄のことなのでしょう。




旧特権階級の人間-嫌な奴(p168)




筆者はパリを訪れた際、友人から旧特権階級の人間評価を聞いたそうです。一言でいって、すべからく嫌な奴とのこと。

嫌な奴とは、自分だけが偉いと思い込み、けちで利益に聡く、道徳心や博愛精神など微塵も持っていないということだそうです(p168 )。

マリー・アントワネットとその周囲の人間たちも、そういうタイプだったのかもしれません。

現在の北朝鮮で、金正恩とその周囲に侍っている高級幹部らもそういう人たちなのでしょう。

それだけでは権力を維持できませんから、長年帝王の座にあった金日成や金正日は周囲の人物をよく観察していたのでしょう。

ブルボン王朝には、秘密警察のような組織はなかったのかもしれません。


























2013年11月1日金曜日

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが...(Albert Camus「シーシュポスの神話」新潮文庫、The Myth of Sisyphus)より思う

ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった(新潮文庫p210)


Albert Camusの「シーシュポスの神話」は、ギリシャ神話を題材にしています。神々は地獄におちたシーシュポスに、上述の無益で際限のない苦役を強制したというのです。

シーシュポスは既に地獄に落ちているのですから、再度死ぬことはできません。ですからこの苦役は神々のシーシュポスに対する怒りがとけるまで続くのでしょう。

Camusによれば、シーシュポスは「不条理な英雄」(新潮文庫p211、The absurd hero, Penguin books, traslated by Justin O'Brien, p116)です。


その情熱によって、また同じくその苦しみによって、シーシュポスは不条理な英雄であるとCamusは述べています(p212)。


全身全霊を打ちこんで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責苦(Unspeakable penalty in which the whole being is exerted towards accomplishing nothing, p116)



Camusはシーシュポスの苦役をこのように表現しています(p212)。

古代ギリシア人は何を想像して、苦行に従事するシーシュポスを描きだしたのでしょうか。

Camusは「神話とは想像力が生命をふきこむのにふさわしいものだ」(Myths are made for the imagination to breathe life into them)と述べています。

Camusは、山頂まで運びあげた岩がころがり落ちるのを見て下山していくときのシーシュポスは「どの瞬間においても、自分の運命よりたち勝っている」と述べています。


こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。

The workmen of today works every day in his life at the same tasks and this fate is no less absurd.




私には、不条理(Absurdity)という哲学用語の正確な意味などわかりようもありません。

しかしCamusのこの文章を読み、自分のこれまでの人生を思い起こしてみると、いろいろな思いが胸をよぎります。

三十数年前、東京に行き来するようになっていろいろな人と出会い、苦楽をともにし、様々な経緯から袂をわかって行きました。

その後また、随分異なる考え方を持つ人と出会いました。その方々から学ぶことは多かったのですが、その人たちともある経緯から、袂をわかつ事になりました。

人生はそんなことの繰り返しなのでしょうか。

私の場合、ある程度の期間で考えてみると同じことを繰り返しているようです。


ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。



若い頃の自分が考えていた将来像がふと、思い出される経験はありませんか。

私なりにその実現のために、日々努力してきたつもりです。多少は成し遂げたこともあれば、できなかったことも多々あります。

できなかったことの中には、自分の努力と能力が不足していたことによるものが多いですが、どうしようもない運命によるものもあるように思えます。

それは宿命だったのでしょうか。

勿論今の私がシーシュポスのような苦行の日々をおくっているわけではありません。

いろいろ努力しつつ何とか普通の暮らしをしてきた人なら、何事も成就されないということはないでしょう。

しかし、そういうことを成就して一体何が残るのか。地位や名誉、多少の金銭、財産...。どれも泡のようなものでしかありません。

あることを達成しても、所詮それがどうなるのだと思うと虚しくなったりします。この程度のことしかできない自分が情けなくなったりします。

そんな気持ちが、Camusのいう「幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である」(p215)という意味なのでしょうか。

そんなときCamusの言葉を少しずつ噛み締めるように読んでいくと、いつしか励まされている自分に気づきます。

次の一節は、「異邦人」のムルソーが最後に到達していた心のありかたではないでしょうか。


「侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである」(p214)。There is no fate that cannot be surmounted by scorn.

すくなくとも、そういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。


上の文章は何らかの宿命により、どうしようもない悲惨な状況に追い込まれた人、あるいはそういう気持ちになっている人へのCamusのメッセージなのでしょう。

突然生じた出来ごとにより、そういう状況に追い込まれてしまうことはありうるのです。

たった一つの宿命を、軽蔑により乗り越える。これはなかなかできそうもないことですが。しかしそれができれば、何も怖くないでしょう。

Camusはさらに私たちに次のように語りかけます。軽蔑により宿命を乗りこえられれば、自分の日々を支配できるというのです。


それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。For the rest, he knows himself to be the master of his days.



いろいろな困難に見舞われても、日々の暮らしを着実に過ごして年老い、死んで行く人々とその姿をCamusは限りなく愛していたのではないでしょうか。


「異邦人」のムルソーや、「ペスト」のリウーがそうでした。