ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった(新潮文庫p210)
Albert Camusの「シーシュポスの神話」は、ギリシャ神話を題材にしています。神々は地獄におちたシーシュポスに、上述の無益で際限のない苦役を強制したというのです。
シーシュポスは既に地獄に落ちているのですから、再度死ぬことはできません。ですからこの苦役は神々のシーシュポスに対する怒りがとけるまで続くのでしょう。
Camusによれば、シーシュポスは「不条理な英雄」(新潮文庫p211、The absurd hero, Penguin books, traslated by Justin O'Brien, p116)です。
その情熱によって、また同じくその苦しみによって、シーシュポスは不条理な英雄であるとCamusは述べています(p212)。
全身全霊を打ちこんで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責苦(Unspeakable penalty in which the whole being is exerted towards accomplishing nothing, p116)
Camusはシーシュポスの苦役をこのように表現しています(p212)。
古代ギリシア人は何を想像して、苦行に従事するシーシュポスを描きだしたのでしょうか。
Camusは「神話とは想像力が生命をふきこむのにふさわしいものだ」(Myths are made for the imagination to breathe life into them)と述べています。
Camusは、山頂まで運びあげた岩がころがり落ちるのを見て下山していくときのシーシュポスは「どの瞬間においても、自分の運命よりたち勝っている」と述べています。
こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。
The workmen of today works every day in his life at the same tasks and this fate is no less absurd.
私には、不条理(Absurdity)という哲学用語の正確な意味などわかりようもありません。
しかしCamusのこの文章を読み、自分のこれまでの人生を思い起こしてみると、いろいろな思いが胸をよぎります。
三十数年前、東京に行き来するようになっていろいろな人と出会い、苦楽をともにし、様々な経緯から袂をわかって行きました。
その後また、随分異なる考え方を持つ人と出会いました。その方々から学ぶことは多かったのですが、その人たちともある経緯から、袂をわかつ事になりました。
人生はそんなことの繰り返しなのでしょうか。
私の場合、ある程度の期間で考えてみると同じことを繰り返しているようです。
ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。
若い頃の自分が考えていた将来像がふと、思い出される経験はありませんか。
私なりにその実現のために、日々努力してきたつもりです。多少は成し遂げたこともあれば、できなかったことも多々あります。
できなかったことの中には、自分の努力と能力が不足していたことによるものが多いですが、どうしようもない運命によるものもあるように思えます。
それは宿命だったのでしょうか。
勿論今の私がシーシュポスのような苦行の日々をおくっているわけではありません。
いろいろ努力しつつ何とか普通の暮らしをしてきた人なら、何事も成就されないということはないでしょう。
しかし、そういうことを成就して一体何が残るのか。地位や名誉、多少の金銭、財産...。どれも泡のようなものでしかありません。
あることを達成しても、所詮それがどうなるのだと思うと虚しくなったりします。この程度のことしかできない自分が情けなくなったりします。
そんな気持ちが、Camusのいう「幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である」(p215)という意味なのでしょうか。
そんなときCamusの言葉を少しずつ噛み締めるように読んでいくと、いつしか励まされている自分に気づきます。
次の一節は、「異邦人」のムルソーが最後に到達していた心のありかたではないでしょうか。
「侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである」(p214)。There is no fate that cannot be surmounted by scorn.
すくなくとも、そういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。
上の文章は何らかの宿命により、どうしようもない悲惨な状況に追い込まれた人、あるいはそういう気持ちになっている人へのCamusのメッセージなのでしょう。
突然生じた出来ごとにより、そういう状況に追い込まれてしまうことはありうるのです。
たった一つの宿命を、軽蔑により乗り越える。これはなかなかできそうもないことですが。しかしそれができれば、何も怖くないでしょう。
Camusはさらに私たちに次のように語りかけます。軽蔑により宿命を乗りこえられれば、自分の日々を支配できるというのです。
それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。For the rest, he knows himself to be the master of his days.
いろいろな困難に見舞われても、日々の暮らしを着実に過ごして年老い、死んで行く人々とその姿をCamusは限りなく愛していたのではないでしょうか。
「異邦人」のムルソーや、「ペスト」のリウーがそうでした。
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