2013年11月16日土曜日

「挑戦的な態度」で断頭台の急な階段をのぼり、頭をさっと振って帽子を落とすと、ギロチンの刃の下に首を置いたという。-「王妃マリ-・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ著 塚本哲也監修、創元社)より思う-

刃が落ちると、死刑執行人は血まみれの頭をつかみあげた。それを見た民衆は、「共和国ばんざい!」と口々に叫んだ(同書p115)




マリー・アントワネットには覚悟ができていたのでしょう。潔さを感じます。

フランス革命とは自由、平等、博愛の精神により行われたと昔習ったように思いますが、37歳の若い女性に対するこんな残虐行為のどこが自由、平等、博愛なのでしょうか。

マリー・アントワネットは1793年10月16日午後12時15分に処刑されました。前日に革命裁判所の大法廷で、41人の人間が虚偽で固められた証言を行いました(同書p109)。

それらの証言に、王妃ははっきりと反論しました。裁判長は彼女を有罪とする決定的な証拠を引き出せませんでした(p109)。

実は、王妃が死刑になることははじめから決まっていたそうです(同書p114)。この本のp141-145に、革命裁判所の裁判長エルマンの質問と、マリーアントワネットの答えが掲載されています。

裁判長の語調は、証拠など無用、王妃は間違いなくフランス国家に背いたから有罪だ、というものです。

これでは、通常の意味における裁判ではありません。革命裁判、人民裁判というものです。

中国の江青の裁判も、裁判長が率先して江青を弾劾していました。もう30年くらい前でしょうか。テレビのニュースで見ました。マリー・アントワネットの革命裁判も、同様だったのでしょう。




国王夫妻は、外国軍の武力により、革命勢力を一掃できると考えていた(p94)




革命派は、反革命勢力を壊滅させるため、彼らを支援する諸外国に宣戦布告しようとしていました。

1792年4月20日、両者の思惑が一致し、フランスはオーストリアに宣戦布告しました(p94)。

マリー・アントワネットはフランス軍の配備や計画を次々と恋人フェルゼンやオーストリア大使メルシーに知らせました。

それでもマリー・アントワネットは、自分がフランス国民を裏切っているなど一瞬たりとも思わなかっただろう、とあります(p94)。

母国オーストリアの軍隊により窮地から救われたいという一心だけだったそうです。

敵国に作戦計画や軍の配備を知らせることなど、売国奴そのものの行為ですが、ルイ16世とマリー・アントワネットには国民が自分たちをどう考えているか、という思考ができにくかったようです。

ただ、革命裁判所の秘密尋問でマリーアントワネットは次のように答えています。



「革命以来、私はみずから外国との連絡をいっさい断ってきました。また、私は一度も、国内問題に干渉したことはありません」(同書p142)



これは真っ赤な嘘です。オーストリアに作戦や軍の配備を知らせた証拠を革命側が入手できていないことをマリー・アントワネットは確信していたのでしょう。



国民の反応がどうであれ、浪費と軽薄な言動を続けた





彼女は、国民のことなど何一つ知らなかった。彼らが思っていることにも、彼らの生き方にも、少しも思いをはせようとはしなかった(p65)、とあります。

ハプスブルグ家はブルボン家よりすぐれた家系だと明言したそうです(p65)。これが民衆に知れ渡り、人望を失って行きました。

自分の実家と嫁ぎ先を比較して嫁ぎ先を貶めれば、反感を買うのは今も昔も同じでしょう。

国民生活が苦しいのに浪費を続けていれば、不満と怒りの矛先になってしまいます。マリー・アントワネットにはそうした思考が一切できなかったのでしょう。

後先のことを考えず、今楽しければそれで良い。楽しいこと、気分の良いことをどんどんやっていこう。そんなタイプの人は少なくありません。

マリー・アントワネットにはそうした傾向が強かったのでしょう。破滅に至ったのは身から出た錆、という面も大きかったことでしょう。

しかし軽薄な人には、狡猾さ、ずる賢さはあまりないのではないでしょうか。革命裁判所で嘘をついたことは確かですが、革命裁判で真実を言うのはよほどのお人好しです。

他人の言動を読めないならば、狡猾に他人を利用することもできないでしょう。

1791年6月20日のパリからの逃亡劇はあまりにもお粗末です。

マリー・アントワネットは恋人フェルセンの英雄的な努力だけを頼っていたとあります(p87)。

唯ひとりの恋人フェルセンを信じるなど、マリー・アントワネットには一途なところがあったのです。

軽薄ですが、狡猾な悪女ではないでしょう。有吉佐和子の「悪女について」(新潮文庫)で描かれている女実業家のような人ではありません。




立憲王政を支持していたミラボー伯爵の助言を受け入れていたら...人生の岐路





マリー・アントワネットの人生を振り返ってみると、悲惨な最期になるのはどうしようもない運命だったのかもしれません。

ブルボン王家が、フランスに君臨する地位を維持できるはずもありません。立憲王政を認めるしかなかったのは、今日の私たちから見れば明らかです。

シュテファン・ツヴァイクの言葉を借りれば、ミラボー伯爵は「王政と民衆を調停できたかもしれない最後の人物」だったそうです(同書p84)。

ルイ16世とマリー・アントワネットはミラボー伯爵をもっと重用すべきだったのでしょう。

ミラボー伯爵は国王一家がパリから、フランス軍を頼りに白昼堂々と脱出すべきで、外国の軍隊をあてに逃亡すべきでないと考えていたとあります(同書p86)。

こうしていれば、「国王の安全のための当面の措置」と言えますから、民衆の王室への敬愛心を失わせるようなことにはならなかったでしょう。

しかし、マリー・アントワネットは恋人フェルセンの脱出計画に賭けてしまったのです。結果から見れば、これが人生の岐路だったのかもしれません。

誰にも、人生の岐路はいくつかあるものです。それは過ぎ去った後にわかってくるものなのでしょう。

マリー・アントワネットには自分の来し方を見つめ直し、人生の岐路を見出す時間がなかったかもしれません。

















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