2013年11月22日金曜日

凡人は運命に問いかけられるまでは、自己をきわめつくそうというやむにやまれぬ気持ちを自分から感ずることはないし、-Stefan Zweig「マリー・アントワネット 上」(関楠生訳 河出文庫)より思う-

また、自分自身を問題にしようという好奇心を感ずることもないのである(同書p11)




マリー・アントワネットの伝記小説はいくつもあるようですが、Stefan Zweig(1881-1942年。 Vienne、ウィーン生まれ)によるものはその中でも定評があります。

Zweigは、マリー・アントワネットの生涯を追いつつも、珠玉のような言葉、警句により読者に問いかけます。

私たちは、マリー・アントワネットの絶頂からどん底に転がり落ちるような人生を見ていく中で、自分の生き方、これまでの人生をふりかえっている自分に気づきます。

生きていく中で誰しも、様々な人と出会い、交流し、感銘を受けることがあります。そんな人とあるきっかけから争い、対立していくことは少なくありません。

それは、やむをえない選択だったのでしょう。自分の主張を正面からぶつけることができなければ、自分らしい生き方はできませんから。

あのとき、自分はこの道を選択をしたが、それはどんな意味を持っていたのだろうか。異なる選択をしたら自分はどうなっていっただろうか。

運命に問いかけられる、というような窮地に陥る前に、可能な限り自分を見つめ直すこと、自己への問いかけを続けたいものです。

以下、Zweigの本の上巻から、マリー・アントワネットその人と生き方について、私の印象に残ったことを書き留めておきます。



母のマリア・テレジア(Maria Theresia、啓蒙専制君主の一人)は娘の将来を見通していた




マリー・アントワネットとお母さんMaria Theresia(1717-1780)との手紙が今日でもかなり残っていて、そこから彼女の性格がわかるのですね。Zweigは手紙をいくつも紹介しています。

ルイ15世が死亡し、マリー・アントワネットの夫がルイ16世、マリーアントワネットは王妃となりました。このとき、Maria Theresiaは娘に手紙で次のように述べています(同書p115)。



「あなたがた二人ともまだ若く、しかも荷は大きいのです。ですから私は心配です。ほんとうに心配なのです...。今私が忠告できるのは、何事も必要以上に急いではいけないということだけです。

すべてを自分の目でしかと見、何も変えず、すべてを発展させるがままにまかせなさい。さもないと、混乱と陰謀は尽きることがないでしょう。

そしてあなたがたは混乱におちいり、もうそこからほとんど抜け出すことができなくなるでしょう」



Maria Theresiaはまた、娘の軽率さと快楽を追う性向をよく承知していました。これについては、次のように戒めています(p116)。



「私があなたのことで一番心配しているのはこの点です。まじめな問題に身を入れて、とりわけ度はずれな出費をすることのないよう気をつける必要が大いにあります。

私たちのあらゆる期待を越えるこの幸福な出発がいつまでもつづき、国民を幸福にすることによってあなたがたお二人とも幸福になるということ、すべてはそれにかかっているのです」(p116)



良き母であり、啓蒙専制君主(Enlightened despotism)でもあったMaria Theresiaらしい言葉です。




フランス国王の権力は国民の敬愛心に強く依拠していた





王の権力は、国民の素朴な国王信仰に強く依存していることを、Maria Theresiaは十分に承知していたのでしょう。

フランスにもオーストリアにも、国民の動向を常時監視するような秘密警察はなかったのでしょう。中国や北朝鮮と随分違います。絶対王政とは言っても、全体主義国家ではないですね。

国民に言論の自由、表現の自由がかなり認められているようです。

後にバスティーユ監獄を守っていた兵士が暴徒に殺害されてしまうのですから、軍隊はさほどの武装をしていなかったのでしょう。

当時のフランスの王の権力は、古くからの儀式を威厳をもって行い、伝統を保ち、国民に常に国王の素晴らしさ、偉大さを示して国民の中に国王に対する敬愛心を維持することに強く依拠していたのではないでしょうか。

軽薄で、多少の長い思考を不得意とするマリー・アントワネットには、伝統と格式を維持することの大切さなど理解できなかったのではないでしょうか。

Maria Theresiaは透徹した眼でそれを見抜き、心底憂慮していたのでしょう。

ハプスブルグ家からブルボン王朝に輿入れする際の、伝統と格式とはどんなものだったのでしょうか。その一例は次のようなものでした。




マリー・アントワネットがフランスの王太子妃になる瞬間から、彼女の身を包むものはすべてフランス製の生地でなければならない(p29)。





マリー・アントワネットが故国オーストリアからフランスに輿入れする際、両国でこのように決められていたそうです。

故国の随員はだれ一人、皇女について目に見えない国境線を越えてはならない。礼式の要求するところによって、皇女は故国の製品を一糸も素肌にまとってはならない(p29)。

オーストリア側の控えの間で、十四才の少女はオーストリア全随員の前で素裸にならなければならなかった、とあります(p29)。

言い聞かされていたことでしょうが、マリー・アントワネットは辛かったのではないでしょうか。

マリー・アントワネットは国境近くのアルザスの街、Strasubourgで民衆により大歓迎されたようです。豪華な花嫁行列だったのでしょう。

大歓迎してくれる国民がいつしか豹変していくことなど、十四才の少女には全く予想できなかったでしょう。母が予想したとおり、荷が大きすぎたのかもしれません。

王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットの婚姻後の暮らしには、大きな問題がありました。これについては、また考えたいと思います。
























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