2016年9月24日土曜日

不破哲三氏は中国覇権主義、「鉄砲政権党」に屈服した―志位和夫氏は中国、北朝鮮の人権抑圧と中国によるベトナム、韓国侵略(朝鮮戦争参戦)を批判できない

「6月4日未明、北京の天安門でおこった中国人民の平和的な民主的要求運動への、軍隊―武器・鉄砲による鎮圧事件とそれ以後の「人間狩り」は、世界中の心ある人々を驚かせ、この人権無視の事態への大きな怒りがひろがっています。」(宮本顕治氏の1989年7月10日談話冒頭より抜粋)

「中国の政権党は『鉄砲政権党』とよぶにふさわしいものです」(宮本顕治氏談話より抜粋)


平成元年の天安門事件から27年もの歳月が流れました。宮本顕治氏(当時は日本共産党議長)は、中国共産党を「鉄砲政権党」とよび、上記のように強く批判しました。

日本共産党の最高幹部の一人だった小林栄三氏は「中国の事態と社会主義のもつべき基本」という論文で、次のように述べました。

天安門での中国人民軍による蛮行を「内政問題」として抗議も論評もしないという態度は、人権問題の国際性を少しも理解していない。

外国からの非難や抗議を「内政干渉」だなどという中国共産党と政府指導部の態度には国際法など眼中になく、人権軽視を示している(「前衛」1989年8月号掲載)。

不破哲三氏も、中国でおこっていることの本質は、科学的社会主義・共産主義の原理の「放棄」であり、本質的に言って「共産党」の名を裏切るものと述べていました(「日本共産党国際問題重要論文集22、p89)。

かつての日本共産党は、鄧小平によるベトナム懲罰論と中国のベトナム侵略を強く批判した


鄧小平による「ベトナムを懲罰する」という発言(昭和54年)についても、当時の日本共産党は強く批判しました。

中国によるベトナム侵略の事実を報道した「赤旗」記者が人民解放軍に射殺されています(「三月七日、ランソンにて」新日本出版社昭和54年刊行)。

当時の日本共産党は、「赤旗」などで中国によるベトナム侵略を強く批判しました。

立木洋氏は、民主主義の長期にわたる蹂躙、基本的人権の軽視は社会を破壊する重大な誤りであると述べました(「日本共産党国際問題重要論文集22、p19)。

27年くらい前のことですから、40代後半以上の日本共産党員なら当時のことをよく覚えているはずです。

中国共産党は鉄砲政権党だ、というビラを駅前などで必死に配布した思い出がある方は少なくないはずです。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、当時のことは何も御存知ないかもしれませんが。

不破哲三氏による路線転換―中国共産党(鉄砲政権党)と関係を正常化し「理論交流」


天安門事件からおよそ9年後に日本共産党は中国共産党との関係を正常化します。「鉄砲政権党」と関係を正常化し、不破哲三氏の主導で「理論交流」を始めました。

天安門事件の頃の不破哲三氏の言を借りれば、不破哲三氏は科学的社会主義の原理を放棄した組織と「理論交流」を始めたことになります。

このときに、天安門事件については中国と異なる見解を持っている旨、日本共産党は通告したようですが、それだけでハイ終わり、にしてしまいました。

中国共産党は天安門での大弾圧、その後の「人間狩り」をいまだに正当化しています。虐殺を正当化する連中が、中国の一般国民の基本的人権を保障するわけがない。

中国の一般国民と中国居住外人を監視する国家安全部


中国の一般国民が公の文献、公の場で中国共産党を批判すれば、国家安全部に何をされるかわからない。出鱈目な罪をでっちあげられ、「経済犯」として投獄されてしまいかねない。

国家安全部とは、旧ソ連のKGBや北朝鮮の国家安全保衛部に相当する秘密警察です。

メールやインターネットの掲示板も国家安全部は始終監視しています。

どういう手法で国家安全部が国民のメールを見るのか、私にはわかりませんが、中国在住の日本人に「天安門」という字の入ったメールを送ると国家安全部が察知する場合があるそうです。

それで直ちに中国在住の日本人が監獄行きになるわけではありませんが、以降日本からの郵便物が届きにくくなったりします。

どなたか、国家安全部から依頼されて中国在住日本人の言動を監視している方がいるのです。

チベット人やウイグル人、モンゴル人も、中国共産党、国家安全部により徹底的に監視され、抑圧されてきました。

少数民族が中国共産党と国家安全部の監視外で子供たちの教育や言論活動、宗教活動を自由にやりたいと思うのは当たり前です。

中国社会には言論と表現の自由がない。知識層はどれだけ苦しいでしょうか。

中国社会に蔓延している農民差別と「赤旗」の沈黙


戸籍が農村にある人が北京や上海など大都市に来て建設労働等に従事するとき、その方の子供は大都市の小学校や中学校に原則として入学できません。

都市の学校は、都市住民の子供たちが学ぶ場であり、農村戸籍の子供が学ぶ場ではないのです。

農村出身の方々は、子供たちの教育のために私費を出し合って私設の「学校」をつくっています。「民工学校」と呼ばれているそうです。

「民工」とは、農村から都市に出稼ぎに出てきている労働者のことです。建設現場やタクシーの運転手などに多い。

地域によって多少の差はあるそうですが、「民工」には健康保険や年金はない。建設現場で「民工」がケガをしても、労災が適用されない場合が多い。

経営者に労働法を守らせる労働基準監署のような官庁が中国にはありませんから。「民工」が経営者を訴えたくても、裁判費用がかかりますし勝訴できる可能性は高くない。

「赤旗」は中国共産党による少数民族抑圧、農民差別について、完全に沈黙しています。

中国共産党が国際法を守るわけがない。中国はベトナム侵略も一切反省していません。「赤旗」記者の射殺など反省も謝罪もしていません。

不破哲三氏は中国共産党と関係を正常化する際、中国人民解放軍に射殺された高野功記者のことを何とも思わなかったのでしょうか。

「赤旗」記者の生命と人権より、「野党外交」のほうが大事だという判断だったのでしょう。

不破哲三氏は、日本共産党の「野党外交」は98年の中国との関係正常化が転機となったと自慢気に著書で述懐しています(「不破哲三 時代の証言」p194、中央公論社刊)。

中国は韓国とベトナムを侵略した


朝鮮戦争への中国の参戦は、大韓民国への侵略です。朝鮮戦争は北朝鮮が韓国に侵攻して始まりました。

金日成、朝鮮労働党は開戦前に、スターリンと毛沢東から了解を得ていました。

中国が最初に核実験を行ったのは昭和39年、東京オリンピックの頃です。この少し前に、毛沢東が主導した「大躍進」により、数千万規模で餓死者が出ました。

大量餓死者を出しつつも、貴重な資源を核軍拡に配分するのが中国共産党と朝鮮労働党なのです。

中国共産党は数々の国際会議で長年、自らが核兵器を廃絶することを目指しているかのような虚言を吐いてきたのです。不破哲三氏はこれくらいのことは百も承知です。

結局、不破哲三氏は中国覇権主義、鉄砲政権党に屈服したのです。不破氏は「野党外交」が赤旗」記者の生命と人権より大事と判断したのです。

志位和夫氏は中国と北朝鮮による人権抑圧に沈黙せざるを得ない―歴史の隠蔽のために


最近、志位和夫氏は中国を批判し始めていますが、中国の人権問題、中国によるベトナムや韓国侵略を批判することはできないでしょう。

これらを志位氏が公の場で論じ始めたら、不破哲三氏への批判が下部党員からかなり出てきてしまいかねません。

「不破さんが熱心にやってきた中国との理論交流、野党外交は何だったのだ」

「不破さんは鉄砲政権党の『理論』から何を学んだのか」

といった疑問が下部党員から噴出してしまいます。「赤旗」記者が中国人民解放軍に射殺されたことについても、志位和夫氏は沈黙を貫かざるを得ないでしょう。

北朝鮮による人権抑圧、政治犯収容所の存在を志位和夫氏が中央委員会総会などで取り上げたらどうなるでしょうか。

そんなひどい国に、なぜ十万人近くの元在日朝鮮人が帰国したのか、という疑問が下部党員から出てきてしまいます。

そうなったら、宮本顕治氏がかつて北朝鮮を礼賛した史実が、吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員にも知られてしまいます。

昔の日本共産党は「鉄砲政権党」だった―吉良よし子議員、池内さおり議員は宮本顕治氏の論文「ソ連邦共産党第二十一回臨時大会の意義と兄弟諸党との連帯の強化について」(「前衛」1959年5月号掲載)を御存知なのか


ところで、宮本顕治氏も若い頃は、「議会を通じての革命」を全面的に否定する論文を書いていました。本ブログではこれを何度も紹介してきました。

昔の日本共産党は、国民に武装蜂起、武力闘争でソヴェト権力を樹立しようと訴えていました。

日本共産党も、「鉄砲政権党」だったのです。朝鮮戦争の時期に、実際に日本共産党は武装蜂起をしました。宮本顕治氏は武装蜂起を正当化する論文を「前衛」に発表しました。

レーニン、スターリン、毛沢東を崇拝してきた方々ですから。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」「自国政府が敗北するように行動せよ」はレーニン主義の中心命題です。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、一昔前の日本共産党の文献を少しは読んで頂きたいものですね。宮本顕治氏の上記論文をお勧めします。

追記


宮本顕治氏による「議会を通じての政権獲得、平和革命」全面否定論文は下記です。

「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(「前衛」49号、1950年5月掲載。「日本共産党50年問題資料集1」、昭和32年新日本出版社刊行、p27-35にも掲載)



2016年9月23日金曜日

アンドレ・ジイド「ソヴェト旅行記」(Retour de L' U. R. S. S. 小松清訳。岩波文庫昭和12年、1937年刊行)を読みました。

「スターリンはいつも正しいということは、とりもなおさず、スターリンがすべての権力を握っているということと同じである。人々は「プロレタリアの独裁」を約束した。しかし、約束の感情はあまりにも桁違いでなかろうか。いかにも独裁はある。だが、それは唯一人の人間の独裁であって、結合したプロレタリア、即ちソヴェトのそれではない。...人々が願ったものは、あんなものではなかった。、もう一歩向こうに行くと、こんなことも言えるだろう。人々が願わなかったものは、正しくこれだったと」(同書p98より抜粋)


アンドレ・ジイド(1869-1951)は、「狭き門」等で有名なフランスの作家です。

ジイドはマキシム・ゴーリキーの病が重いという知らせを聞き、1936年(昭和11年)6月にモスクワを訪れました。

それまでジイドはソ連を熱烈に支持していたのですが、一か月ばかりのソ連滞在でその本質を見抜きました。

ソ連ではスターリンによる専制支配体制が確立していることを、ジイドは僅かな滞在期間で看破したのです。当時の仏共産党員はこの文をどう受けとめたのでしょうか。

この本が出版されてすぐ、欧州でかなりの反響をよんだと翻訳者が解説しています。

ジイドが見たスターリン専制下でのソ連国民の暮らし―順応主義(Conformisme)


ジイドはソ連国民の日常生活を緻密に観察し、今の私たちにも参考になることをいくつも見出しています。

第一に、モスクワの民衆は呑気で無精です。ソヴェトでは労働者を少しでも放っておくと、十人中八、九までもが怠け者になってしまいます。

そこでスタハノフ運動という生産性向上運動が必要だったのだろうとジイドは述べています。

第二に、ソヴェトでは全てのことに、一定の意見しか持てません。人々は非常によく訓練された精神の持ち主となっています。

画一主義、順応主義(仏語ではConformisme)がソヴェト社会に蔓延しています。

プラウダ(ソ連共産党の機関紙)は国民が知り、考え、信じるにふさわしいことを教えています。その教えの範囲から外に出ることは危険です。

第三に、ソヴェトの市民は、外国のことについて徹底的に無知です。ソヴェト市民は、外国ではすべてのものがあらゆる方面でソヴェトよりうまく行っていないと教え込まれています。

ソヴェト市民は自分たちが外国より優れていると思い込んでいます。

第四に、ソヴェトではほんの僅かな抗議や批判さえも最悪の懲罰をうけます。

抗議や批判はすぐに窒息させられます。

ソヴェトではヒットラー独逸より、人間の精神が不自由で、圧迫され、恐怖に脅えて従属させられています(同書p85-86)。

ジイドは、人々を政治犯収容所に連行する秘密警察の存在を知っていたのでしょうか。

ジイドは農業集団化のための富農一掃が、富農とレッテルを貼られた農民の大量虐殺であることを見抜いたのでしょうか。

大量餓死の存在まで、短い期間でジイドが知ったとは考えにくい。

関貴星「楽園の夢破れて」は金日成による専制支配を看破した


この本を読み、私は関貴星氏の「楽園の夢破れて」(亜紀書房より再刊)を思い出しました。

関貴星氏も、僅かな北朝鮮滞在で金日成による専制支配の存在を見抜き、告発しました。

ジイドによるソヴェト批判は、日本ではすぐに「中央公論」誌に翻訳されて掲載されました。宮本百合子はジイドに反発し、「こわれた鏡」などと論じています。

レーニン、スターリンとボリシェヴィキを盲信していた宮本百合子には、3年ほど居住してもソ連社会の真実を全く見抜けませんでした。

宮本百合子の「鏡」こそ、完全に破壊されていたのです。

宮本顕治氏はジイドのこの文章が発表された頃監獄にいましたから、その頃はこれを読めなかったでしょう。

しかし戦後、監獄から出てきた後には読む気があれば読めたはずです。

宮本百合子がジイド批判を書いていたことを宮本顕治氏は承知していたはずですから。

「人間抑圧社会」ソ連を礼賛した宮本夫妻の生き方より―「民主主義文学運動」とは、人間抑圧社会礼賛運動なのかー


宮本顕治氏がジイドの「ソヴェト旅行記」を読んだかどうか不明ですが、ソ連とスターリンへの盲信を表明する論文を宮本氏はいくつも書いています。

本ブログを何度か訪問して下さった方なら御存知ですね。ソ連居住経験のある宮本百合子は、宮本顕治のソ連盲信を「実体験」の知識を提供して支えたことでしょう。

今の日本でも、北朝鮮を盲信し金日成、金正日、金正恩を礼賛する在日本朝鮮人総連合会で専任職員として勤務している御夫婦はいらっしゃるでしょう。

宮本夫妻の生き方と在日本朝鮮人総連合会職員の御夫婦の生き方はよく似ています。

吉良よし子議員、池内さおり議員は、中国、北朝鮮による凄惨な人権抑圧を直視すべきだ


現在の日本共産党員の御夫婦は、中国や北朝鮮における凄惨な人権抑圧をどう考えているのでしょうか。

日本共産党員には、中国と北朝鮮の核軍拡が日本の平和と安全を脅かしていることについて思考と議論ができにくい。

日本共産党員の中では、ジイドのいう「順応主義」が蔓延しています。不破さん、志位さんの言うとおりにしていればよい、という調子です。

「順応主義」は、日本共産党職員の方の中で根強いようです。有事の際に自衛隊の出動を認めるか否か、中国の人権問題などで突出した発言をすると厄介ですから。

吉良よし子議員、池内さおり議員はジイドの「ソヴェト旅行記」や宮本百合子のジイド批判を御存知でしょうか。

早大文学部卒の吉良よし子議員は読書好きだそうですから、宮本百合子のソ連礼賛文を少しは読んでいることでしょう。

宮本百合子による「人間抑圧社会」礼賛文は、「民主主義文学」「プロレタリア文学」なのでしょうか。読書好きの吉良よし子議員にお尋ねしたいですね。

関貴星氏の「楽園の夢破れて」(亜紀書房より再刊)を、吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには読んで頂きたい。

ソ連を礼賛した宮本夫妻の生き方を、「民主主義文学運動」に参加している作家の皆さんや吉良よし子議員、池内さおり議員は一切批判できないのでしょうか。

「民主主義文学運動」とは、日本共産党を盲信する人々を描く文学運動なのでしょうか。

不破哲三氏や金日成、金正日を盲信する共産党員や在日本朝鮮人総連合会の皆さんの内面をえぐりだしていく文学こそ、「民主主義文学」ではないでしょうか。




2016年9月18日日曜日

市川正一「日本共産党闘争小史」(大月書店昭和29年刊行。市川正一氏が昭和6年7月の公判での代表陳述にもとづいて編集)より思う。

労働者・農民大衆は資本家と地主の搾取、隷属、失業、飢餓、堕落から解放されるためには、また帝国主義戦争の悲惨からまぬかれるためには、日本共産党の指導のもとに大衆的な武装蜂起をもって公然と資本家・地主の国家権力と武力闘争をなし、労働者・農民のソヴェト権力を樹立しなければならぬことを知るにいたっている(同書p182より抜粋。市川正一氏の最終陳述の一部)。


市川正一氏(1892-1945)を日本共産党は「創立時の党員で、第二次大戦前の、わが党の誇るべき指導者のひとりです」(「赤旗」平成19年8月16日)と評価しています。

市川正一氏は16年間の監獄生活で徐々に衰弱し、昭和20年3月15日に宮城刑務所で亡くなりました。

日本共産党としては、市川氏は不当に投獄されたと言いたいのでしょうが、「武装蜂起」「武力闘争」により「ソヴェト権力」とやらの樹立を策した人物が投獄されるのは当たり前です。

市川氏ら共産党員を逮捕できる法律がなければ、共産党は「武装蜂起」「武力闘争」を断行して地主や企業経営者、あるいは政府の要人にとんでもない危害を加えてしまったかもしれません。

今こそ革命的情勢だ!などという思い込みで、人を殺めてしまったら被害者だけでなく、加害者にも不幸です。日本共産党は、特別高等警察に感謝すべきです。

治安維持法と特別高等警察が、戦前の日本共産党による「武装蜂起」「武力闘争」、すなわち地主や企業経営者、要人殺害などの蛮行を防いだのです。

「武装蜂起」「武力闘争」など、民主主義の根源的否定です。「戦前のわが党は、主権在民を掲げてたたかった」という現在の日本共産党の宣伝に騙されてはいけません。

武装蜂起に反対する人は、「プロレタリア赤軍」により「反革命」とレッテルを貼られて投獄、場合によっては処刑されるのでしょうから。

戦前の日本共産党は、コミンテルン(世界共産党)の一支部でした。コミンテルン(世界共産党)はソ連共産党の支配下にありました。

日本共産党員は、レーニン、スターリンとソ連を盲信していました。

日本共産党は、日本社会をソ連のようにするために「不屈の闘争」を、コミンテルンの援助を受けて行いました。「労働者、農民のソヴェト権力樹立」とは、日本のソビエト化です。

市川正一氏が「不屈の獄中闘争」をしていた頃、ソ連では「人間抑圧社会」化が進んだ


市川正一氏の投獄期間に、「労働者の祖国」ソ連ではスターリンによる専制支配が確立されました。

「富農が隠している穀物を徴発せよ」「富農一掃」はレーニン、スターリンによる重要指令です。

これをボリシェヴィキが数百万人規模で餓死者を出しつつも断行したからこそ、ソ連が「人間抑圧型の社会」になったのです。

これを獄中にいる市川正一氏が知ることは不可能だったでしょう。しかし、1921年から23年にロシアで大飢饉が存在したと、市川氏は明言しています(同書p79)。

大飢饉の存在自体は、適切な認識です。

市川氏は大飢饉を「反革命があれくるったため」と主張していますが、「反革命」とやらが荒れ狂うとなぜ農業生産高が激減するのでしょうか?

「反革命の荒れ狂い」とやらと農民の生産意欲、農産物の流通にはどういう関係があったのでしょうか?

当時の日本共産党員には、農作業の経験がある方がいたはずですが、その程度の疑問も持てなかったのは奇妙です。

レーニンが出した穀物徴発指令が内戦を勃発させた


ロシア革命後の「戦時共産主義」の時期にレーニンとボリシェヴィキ(後のソ連共産党)は農民から穀物を徹底的に取り上げました。

自分が食べる分や来年の種までも取り上げられるなら、農民は生きるために穀物を隠すか、ボリシェヴィキに抵抗するしかない。

レーニンはそういう農民に「富農」のレッテルを貼り、掃討を命じました。ロシア正教会も徹底的に弾圧されました。

ロシア革命で農民は土地を与えられたはずでした。しかし収穫物(農産物)を強制的に取り上げられるのなら、農民から見ればボリシェヴィキは地主より悪質です。

武装したボリシェヴィキに抵抗するためには自分たちも武装するしかない。内戦です。

内戦に勝利したレーニンとボリシェヴィキは、農民を懐柔するために、農産物の自由販売を一定程度認めました。これが新経済政策(NEP)です。

新経済政策により豊かになった農民は、数年後にスターリンにより「富農」のレッテルを貼られ、政治犯として囚人労働を強制されました。

「富農一掃」による農業集団化とは、豊かになった農民の大弾圧でした。特に、1932年から33年にかけて、ボリシェヴィキはウクライナを徹底攻撃したようです。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は内戦の呼びかけ―日本共産党も「鉄砲政権党」だった


市川正一氏によれば、日本共産党こそ、中国革命の支持、帝国主義戦争反対のスローガンをかかげてそのために真にたたかっています。

「中国革命の支持」とは、毛沢東と中国共産党への服従表明です。このころの中国共産党は、中国の農村地域で「地主とのたたかい」と称し収奪と反対者の虐殺を断行していました。

獄中の市川正一氏がソ連や中国共産党による蛮行、残虐行為を知るのは困難だったでしょうが、盲信は知性ある人間のやることではない。

ソ連や中国の現実を調べるためには、ボリシェヴィキや中国共産党による宣伝文句をうのみにしてはいけません。

市川氏によれば日本共産党は「帝国主義戦争を内乱へ」「自国政府の敗北」というスローガンをもって、実際に自国ブルジョアジーの政権と闘争する唯一の存在だそうです。

日本とソ連は対立していました。日本共産党はソ連が日本に勝利するように「たたかう」政党だったのです。

「帝国主義戦争を内乱へ」はレーニン主義の中心命題と言っても良い。内戦を聖戦と盲信していた日本共産党員は、今の〇〇〇〇原理主義者の連中と大差ありません。

後に宮本顕治氏は、中国共産党を「鉄砲政権党」と呼びました。

昔の日本共産党は「帝国主義戦争を内乱に転化」させるため、武装蜂起を策していたのです。昔の日本共産党も「鉄砲政権党」でした。

宮本顕治氏自身、若い頃は武装闘争を正当化、合理化する論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を昭和25年に雑誌「前衛」で発表しています。

宮本顕治氏御自身が、「鉄砲政権党」の「理論」を担当する大幹部だったのです。

この論文発表の少し後に、日本共産党は実際に武装闘争を始めました。朝鮮戦争に参戦した米軍の後方かく乱の「任務」を日本共産党はソ連・中国から与えられたのです。

戦前でも、日本共産党の影響力がもっと大きくなっていたら、ソ連は日本共産党に実際の武装蜂起を命令していたでしょう。

レーニン、スターリンを盲信し忠誠を誓っていた日本共産党員と、金日成、金正日を盲信し忠誠を誓う在日本朝鮮人総連合会


市川正一氏はコミンテルン(世界共産党)が作成した「綱領」「理論」に依拠して公判で「天皇制打倒」「資本家的・地主的搾取私有財産制度の打破」等と主張しました。

武装蜂起、武力闘争に反対、抵抗する労働者や農民が圧倒的多数であることを、市川正一氏は全く想像できなかったのでしょうか。

レーニン、スターリンを盲信すると、内戦、テロが聖戦に思えてしまうのです。当時も今も、日本共産党員には「革命」についての実証的な思考ができない。

「労働者・農民のソヴェト権力の樹立」を日本共産党員が労働者や農民に呼びかけても、全く相手にされなかった。ソヴェト権力など、一体全体どんな組織なのかわかりようもない。

地主に反感を持っている農民は少なくなかったでしょうが、武装して地主や企業経営者から財産を取り上げ、抵抗すれば殺すような野蛮行為に手を貸すほど日本の農民や労働者は愚かではなかった。

市川正一氏には、公判で自分の主張を大宣伝する機会を与えられたのです。この点だけでも、昔の日本は旧ソ連、現在の中国や北朝鮮よりずっと民主的です。

「反党反革命宗派分子」張成澤が「裁判」で国家安全保衛部に反論することができたのでしょうか。張成澤に弁護人はついていたのでしょうか。何もわかっていません。

吉良よし子議員、池内さおり議員は「武装蜂起」を「革命運動」「民主的変革」と認識しているのか


在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、金日成、金正日そして金正恩を盲信し、忠誠を誓っています。

同様に、市川正一氏、宮本顕治氏ら昔の日本共産党員はレーニン、スターリンを盲信し忠誠を誓っていました。

世界共産党(コミンテルン)から与えられた綱領を市川氏らは「実践」すべく武装蜂起を策していたのです。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんも、金日成の「教示」、金正日の「お言葉」を盲信しています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、武装蜂起など愚行そのものであることが理解できないのでしょうか。

大韓航空機爆破や日本人、韓国人拉致は、「南朝鮮革命」に貢献しているのでしょうか。これらは金正日の指令により北朝鮮工作員が行いました。

吉良よし子議員、池内さおり議員は、武装蜂起を「革命運動」「民主的変革」と認識しているのでしょうか。労働者・農民ソヴェトとやらを武装して樹立すると「民主的変革」ですか。

「鉄砲政権党」という表現を、吉良よし子議員や池内さおり議員は御存知ないかもしれません。

殺人やテロは「民主的」ですか。暴力団は民主主義を広める団体なのでしょうか。




2016年9月11日日曜日

蔵原惟人「宮本百合子の『ソヴェト紀行』」(蔵原惟人評論集第四巻所収、新日本出版社刊。青木文庫「ソヴェト紀行」昭和27年11月の解説)より思う

「しかし実際にはこの時期にソビエト社会では皮相な観察者の目に見えない、また見ようとしないところで、全く新しい生活がはじまっていたのである。

それは工場、農村、その他の生産点に注意を向け、またソビエト社会とその文化の成り立ちを研究するものだけに見えるものであった。そして宮本百合子は当時においてこのような現実に眼をむけ、それを正しく観察し、それを祖国に伝えた数少ない外国人の一人であった」(蔵原惟人評論集第四巻p138-139より抜粋)。


蔵原惟人氏(1902-91)は、小林多喜二の師です。小林多喜二の小説「党生活者」に出てくる「ヒゲ」は蔵原氏を想定しています。

蔵原氏による宮本百合子「ソヴェト紀行」解説によれば、氏は1925、26年と1930年の後半の二回をソ連で過ごしました。

この解説は昭和27年ごろ執筆されたのでしょうから、フルシチョフによるスターリン批判より4年くらい前です。

スターリンによる「富農一掃」という名の大量虐殺を蔵原氏が知るのは難しかったでしょう。政治犯収容所の存在も、昭和27年では知りようがない。

1932年から33年頃、ウクライナを中心にして数百万人にも及ぶと言われる大量の餓死者が出ました。

これも、当時の日本共産党員が知るのは無理だったでしょう。そういう事情を考慮しても、この解説は酷い。「富農」=反革命=極悪人という「公式」を普及しています。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんによる北朝鮮社会論とよく似ています。

蔵原惟人「しかしこの間にソビエトの人民は社会主義のゆるぎない基礎をなす五ヵ年計画を黙々として完遂しつつあったのである。」


蔵原氏が二回目にソ連を訪れた1930年は、五ヵ年計画の第三年目で、四ヵ年で完了しうる見通しがついたときだったそうです。

「五ヵ年計画を四ヵ年で」というスローガンが、いたるところに掲げられ、それを強行するためにかなりの犠牲がしのばれていたと蔵原氏は述懐しています。

それに乗じて社会主義化をよろこばない富農や技師、商人そのほかの反動分子がいたそうです。

彼らは国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて、生産や流通を妨害し、政府の転覆をはかっていたと蔵原氏は断言しています。

蔵原氏は「国内の反革命政治家」として誰のことを思い浮かべていたのでしょうか。

「富農」とやらが国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて生産や流通を妨害し政府の転覆をはかっていたそうです。

少しばかりの土地や家畜を持っているだけの農民が一体どんな手法で生産や流通を妨害し、政府を転覆できると蔵原氏は考えたのでしょうか。

蔵原氏は「プラウダ」にそんな記事が載っていたことから、それを丸ごと信じただけではないでしょうか。

この解説には、興味深い記述もあります。

1925、26年頃の新経済政策の時期には失業者や乞食、浮浪者や売笑婦がいた


蔵原氏によれば、新経済政策(NEP)は資本主義的な経済を部分的に許容した政策でした。

新しい資本家や商人が頭をもたげました。1925,26年には失業者や乞食、浮浪者、売笑婦さえもがいました。

生活物資は豊富で、金さえあればなんでも買え、労働者や勤め人の給料も悪くなかったので一般の生活はいちおう安定しているように見えたそうです。

しかし1930年の後半には、食料品店の前には長い行列があり、衣料や紙、石鹸などの日常必需品の入手が困難になっていたそうです。

これらの物資は工場や農村には重点的に配給されていましたが、それでも不足していたそうです。

ヤミに流れた物資は、半ば公然となったヤミ市で、個人商人の手によって十倍、二十倍の価格で売られていたそうです。

蔵原氏はこういう現象だけをとらえれば日本の戦時および戦後数年のありさまに似ていたと正直に述べています。

それならば、「五ヵ年計画」によりソ連庶民の暮らしは、新経済政策の時期より貧しくなっていったのではないでしょうか?日常生活必需品すら入手しにくくなったのですから。

労働者、勤め人は、配給だけでは生活していけないから闇市で高価格でも物資を得るしかなかったのです。闇市、すなわち資本主義経済が庶民の苦しい生活を支えていたのです。

ソ連宣伝が頭の隅々まで染み込んでしまうと、何も見えなくなってしまうのでしょう。在日本朝鮮人総連合会の皆さんにも、国家安全保衛部の恐ろしさがわからない。

わかっていても、保身のために北朝鮮礼賛をやめられないのかもしれません。左翼は保身を重視します。

俊英ブハーリンを尊敬するソ連国民は少なくなかった


蔵原氏の知っているモスクワのある党員の家庭では、そこの息子の青共員(青年共産団員のことか?)が、党のモスクワ県委員会の書記でブハーリン主義者であった叔父の影響をうけていました。

彼はさかんにスターリンとその政策の悪口を言っていたそうです。

蔵原氏はロシア語をかなりできた方ですから、当時のソ連国民の話を聞き取ることができたのです。

ブハーリンが処刑される八年ほど前の話です。

「社会主義工業化の資金源をどこに見出すか」でトロツキー派と論争した俊英ブハーリンを尊敬していたソ連国民はいくらでもいたはずです。

1930年後半に闇市がモスクワのどこかの地域にあったのでしょう。このころ徐々に飢饉がソ連各地に忍び寄っていたのかもしれません。

蔵原氏はブハーリンが「反革命」の大悪人であることを確信しています。ブハーリンは処刑に値するような人物であると本気で考えていたのでしょう。

今にして考えれば、庶民の愚痴を聞き取ることができるようなロシア語力を持つ日本人は、スターリンと秘密警察にとって日本のスパイ以外でしかありえない。

もう数年後に蔵原氏がソ連を訪れていたら、スパイとして処刑されてしまった可能性が高い。蔵原氏は日本の特別高等警察に逮捕されたので、「命拾い」をしたようなものです。

「暗黒政治」下にあったはずの日本で共産党員として活動した自分が刑期を終えたら出所できたのに、レーニンの愛弟子だったブハーリンは「反革命」とやらで処刑されてしまったのです。

それならばソ連社会の方が反体制分子に対して過酷な抑圧をしているのではないか?という疑問は当時の蔵原氏には思いつきもしなかったのでしょうか。

蔵原惟人氏は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのか


蔵原氏によれば、二十余年前の1930年の困難な時期に、今日のソ連の繁栄の萌芽をみて、それを正しく伝えた旅行者は少なかったそうです。

多くのソビエト旅行者は、ソビエト社会の表面のマイナス現象だけを見て、「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予言したそうです。

宮本百合子はソビエト社会を緻密に観察し、ソビエトの繁栄を予見した数少ない旅行者の一人だったと蔵原氏は大真面目に考えていたのでしょう。

蔵原氏は杉本良吉らソ連で行方不明になった左翼芸術家や共産党員を一体どう考えていたのでしょうか。病死したのだろう、くらいの気持ちだったのでしょうか。

蔵原氏や宮本顕治氏、宮本百合子は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのでしょうか。

極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為や、シベリアに抑留されている旧日本兵の存在を、昭和27年頃の日本人が知らないはずがない。

蔵原氏の思考方式は、今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんのそれとよく似ています。

私には、徳田球一氏の方が宮本顕治氏、蔵原惟人氏よりソ連への盲信の程度が弱かったように思えます。

徳田球一氏は、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の幹部を「若造ども」というように馬鹿にしていたらしい。

蔵原惟人、宮本百合子は「人間抑圧社会」を礼賛した


「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予見した旅行者とは、例えば仏の小説家アンドレ・ジイドを想定しているのではないでしょうか。

蔵原氏が力説しているソビエト社会の「新しい生活」とは、ソ連共産党の宣伝でしかなかった。餓死や「政治犯」としての囚人労働の「暮らし」が「新しい生活」でしょうか。

蔵原氏、宮本百合子はソ連宣伝の片棒を担いでしまったのです。

「プロレタリア文学運動」に参加している作家や評論家の皆さんは、蔵原惟人氏や宮本百合子のソ連礼賛評論をどのように受け止めているのでしょうか。

プロレタリア文学とは、「人間抑圧社会」礼賛文学なのでしょうか。金日成、金正日を礼賛する文学は「プロレタリア文学」ですか?

この時期のソ連社会を、今日の不破哲三氏は「人間抑圧社会」と規定しています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、蔵原氏や宮本百合子の「人間抑圧社会」礼賛評論を是非読んで頂きたい。

2016年9月3日土曜日

宮本百合子のソ連礼賛「共産党公判を傍聴して」より思う(「働く婦人」日本プロレタリア文化連盟、昭和7年(1932年)4月号掲載。青空文庫所収)

「ソヴェト同盟の工場には工場学校があって、そこでは本当にプロレタリアの技術を高めるために勉強がされている。十六歳までの青年は六時間以上の労働はすることなく、しかもそのうち三時間は工場学校で勉強して、六時間分の給料を貰うのだそうです」(「共産党公判を傍聴して」より)


宮本百合子(1899-1951)には、ソ連滞在経験がありました(1927年12月15日~1930年10月25日。途中にワルシャワやベルリン、パリを含む) 。

宮本百合子は友人の湯浅芳子と一緒にこの期間、主にモスクワに滞在しました。「宮本百合子全集」第九巻「ソヴェト紀行」にこのときの手記が掲載されています。

1927年12月とは、ロシア革命から10年ほど後です。この時期にはチェーカーは、GPU(ゲーペーウー、国家政治保安部)という組織に改編されていました。

今の北朝鮮の国家安全保衛部のような組織と考えればよいでしょう。

宮本百合子のソ連滞在時期に、「人間抑圧社会」が形成されていった


この時期に「反革命分子」を収容所に連行し囚人労働を行わせる仕組みができつつありました。宮本百合子、湯浅芳子のソ連滞在期間に、新経済政策(NEP)は終わります。

農業の強制的集団化、富農(クラーク)撲滅、加速的工業化が宮本百合子らの滞在末期に急速に進められていきます。1929年から30年に聖職者、教会への徹底攻撃が再びなされます。

「共産主義黒書-ソ連篇」(恵雅堂出版2001年、p156)によれば、200万人以上の農民が強制収容所に送られました。そのうち180万人は1930、31年のわずか一年で移住させられました。

600万人が餓死し、何十万人が収容所に送られる間に死亡しました。

聴濤弘氏は、富農を「階級敵」と規定し、富農の絶滅をスローガンにして行った農業集団化では、血で血を洗うような凄惨な事態が進行したと述べています(「ソ連はどういう社会だったか」新日本出版社1997年、p48)。

農業集団化は、ロシア農民を帝政ロシアでの農奴、あるいはそれ以下の社会的地位に落とすような蛮行ですから、地方では相当な抵抗があったことも今ではわかっています。

都市モスクワの滞在者でしかない宮本百合子らに、農村で起こっている凄惨な事態を見通すことは無理だったでしょう。宮本百合子はロシア語はあまりできません。

しかし、史実は史実です。宮本百合子は数百万人の大量殺戮が断行されたスターリンの時代のソ連を帰国後礼賛してしまいます。

宮本百合子らがもう5,6年後にソ連を訪問していたら、「スパイ」の疑いをかけられていたかもしれません。

帰国後の宮本百合子は、ソ連と共産党員を礼賛する小説を公刊できた


「共産党公判を傍聴して」という短編小説は、失業中の若い女性が昭和7年3月15日に開かれたという共産党の公判を見に行って感じたことを語るという形式になっています。

日本共産党や左翼人士の歴史観によれば、この時代の日本は絶対主義的天皇制、軍国主義の暗黒社会だったことになっています。

治安維持法という稀代の悪法で国民は一切の自由を奪われていたが、主権在民を掲げていた日本共産党は官憲による徹底的な弾圧にも屈せず戦い抜いたそうです。

「暗黒社会」であるなら、政府を少しでも批判する言論活動は一切許されないはずですが、宮本百合子はソ連と共産党員を礼賛する小説を公にしていました。

昭和恐慌の頃ですから、勤労者の生活は大変でしたが、暗黒社会などではありえません。

共産党員が公判でソ連宣伝をできる社会が「暗黒社会」なのか


この小説では、高岡只一という共産党員が公判でソ連宣伝をします。主人公はそれに感銘します。

「私を失業させたのはこのブルジョア社会です。

私はそれとどんなに闘うかというやり方を少しでも、闘士たちの闘争ぶりから学ぼうと決心したのです。あの人々は命がけで、私達が毎日闘っているものと闘っていてくれるのです。」

と決意を新たにします。

宮本百合子人はスターリンとボリシェヴィキを盲信していました。こうなると、ソ連のすべてがよく見えてしまうのでしょう。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんには、北朝鮮のすべてが素晴らしく思えています。

こんな内容の小説を公にできた国が、暗黒社会であろうはずがない。朴正ヒ政権下の韓国(1960,70年代)より自由があります。

1920年代後半から30年代のソ連では、スターリンによる専制支配が確立されて行きました。

30年代のソ連で、スターリンと共産党を批判する小説は出版可能だったでしょうか。5カ年計画、富農撲滅と加速的工業化に反対する主人公を描く小説が出版できたとは思えない。

出版社はすべて国営ですから、すぐに警察に通告されてしまいます。そんな小説の出版を計画しただけで「人民の敵」とレッテルを貼られ処刑されてしまうでしょう。

今日の不破哲三氏によれば、スターリンの時期のソ連は「人間抑圧社会」になっていました。

今日の不破哲三氏の史観を受け入れれば、宮本百合子は「人間抑圧社会」を礼賛した浅はかな小説家だったことになります。

宮本顕治氏ら当時の共産党員は、日本をソ連のような「人間抑圧社会」にするための「不屈の闘い」をしていました。

「32年テーゼ」の核心「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」は武装闘争、テロ方針


「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」という類の世界共産党の指示に従い、労働者や農民を組織して実際に内乱を起こそうとしていたのが当時の日本共産党でした。

「32年テーゼ」の核心は「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」です。内乱ですから、武装闘争、テロです。「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」はレーニンの教えそのものです。

日本共産党は今日に至っても、「32年テーゼ」を高く評価しています。

労働者、兵士に宣伝、組織活動を行い「プロレタリア赤軍」を結成して内乱を起こすなどという物騒なことこの上ない団体とその構成員が逮捕、投獄されるのは当然です。

そんな連中を放置しておいたら、要人暗殺などとんでもないテロをやってしまったかもしれません。当時の共産党員は、逮捕・投獄して下さった特別高等警察の方々に感謝すべきです。

テロを起こさずに済んだのですから。要人暗殺など、被害者だけでなく殺人者にも不幸な結末になってしまいます。

「転向」した共産党員はテロリストたることを辞めた


共産党員の「転向」とは、テロリストたることを辞めたことなのです。それで本当に良かった。

「非転向」だった宮本顕治氏は、スターリンとソ連への盲従を誓い、武装闘争、テロを正当化する論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を1950年に発表しました。

この論文によれば、日本革命の「平和的発展の可能性」を提起することや、議会を通じての政権獲得の理論は根本的な誤りだそうです。

同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要があると宮本顕治氏はこの論文で力説しています。

この論文発表の約40年後のソ連崩壊時に、宮本顕治氏はソ連崩壊万歳を叫びます。

宮本百合子ら昔の共産党員からみれば、宮本顕治氏は「反革命分子」「反党分子」に転向、変質したことになります。

1960年代から80年代の日本共産党でも、ソ連は崩壊してしかるべきだなどと共産党員が公の文章にしたら除名処分でしょう。

「党の上に個人を置いた」「大会決定に反している」と言われてしまいます。

プロレタリア文学とは「人間抑圧社会」礼賛文学なのか―民主主義文学運動に参加している作家の皆さんと聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)に問う―


プロレタリア文学とは「人間抑圧社会」礼賛文学なのでしょうか。

「宮本百合子全集」第九巻(新日本出版社1980年刊行)には、宮本百合子によるソ連礼賛文章が満載されています。

民主主義文学運動に参加している作家の皆さんや日本共産党のソ連専門家聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)は、これらを読んでいるはずです。

民主主義文学運動に参加している作家の皆さんは、「人間抑圧社会」を礼賛する宮本百合子の随筆や小説を「プロレタリア文学」とみなしているのでしょうか。

宮本百合子は、ブハーリンらは「反革命分子」だから処刑されて当然と考えていたのでしょうか?

そういう疑問を提起し、公の文章で議論すれば日本共産党の規約に触れるから、民主主義文学運動参加者の方々は宮本百合子のソ連礼賛について沈黙しているのでしょうか。

民主主義文学運動の参加者がそうであるなら、その方々の内面を描く文学の方がよほど面白い。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、宮本百合子によるソ連礼賛の歴史を直視して頂きたい。

「宮本百合子全集」すら読んでみようという気概がない方が日本共産党の国会議員をやっているなら、党員と国民を愚弄しています。