「しかし実際にはこの時期にソビエト社会では皮相な観察者の目に見えない、また見ようとしないところで、全く新しい生活がはじまっていたのである。
それは工場、農村、その他の生産点に注意を向け、またソビエト社会とその文化の成り立ちを研究するものだけに見えるものであった。そして宮本百合子は当時においてこのような現実に眼をむけ、それを正しく観察し、それを祖国に伝えた数少ない外国人の一人であった」(蔵原惟人評論集第四巻p138-139より抜粋)。
蔵原惟人氏(1902-91)は、小林多喜二の師です。小林多喜二の小説「党生活者」に出てくる「ヒゲ」は蔵原氏を想定しています。
蔵原氏による宮本百合子「ソヴェト紀行」解説によれば、氏は1925、26年と1930年の後半の二回をソ連で過ごしました。
この解説は昭和27年ごろ執筆されたのでしょうから、フルシチョフによるスターリン批判より4年くらい前です。
スターリンによる「富農一掃」という名の大量虐殺を蔵原氏が知るのは難しかったでしょう。政治犯収容所の存在も、昭和27年では知りようがない。
1932年から33年頃、ウクライナを中心にして数百万人にも及ぶと言われる大量の餓死者が出ました。
これも、当時の日本共産党員が知るのは無理だったでしょう。そういう事情を考慮しても、この解説は酷い。「富農」=反革命=極悪人という「公式」を普及しています。
在日本朝鮮人総連合会の皆さんによる北朝鮮社会論とよく似ています。
蔵原惟人「しかしこの間にソビエトの人民は社会主義のゆるぎない基礎をなす五ヵ年計画を黙々として完遂しつつあったのである。」
蔵原氏が二回目にソ連を訪れた1930年は、五ヵ年計画の第三年目で、四ヵ年で完了しうる見通しがついたときだったそうです。
「五ヵ年計画を四ヵ年で」というスローガンが、いたるところに掲げられ、それを強行するためにかなりの犠牲がしのばれていたと蔵原氏は述懐しています。
それに乗じて社会主義化をよろこばない富農や技師、商人そのほかの反動分子がいたそうです。
彼らは国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて、生産や流通を妨害し、政府の転覆をはかっていたと蔵原氏は断言しています。
蔵原氏は「国内の反革命政治家」として誰のことを思い浮かべていたのでしょうか。
「富農」とやらが国内の反革命政治家や外国の帝国主義者と気脈をつうじて生産や流通を妨害し政府の転覆をはかっていたそうです。
少しばかりの土地や家畜を持っているだけの農民が一体どんな手法で生産や流通を妨害し、政府を転覆できると蔵原氏は考えたのでしょうか。
蔵原氏は「プラウダ」にそんな記事が載っていたことから、それを丸ごと信じただけではないでしょうか。
この解説には、興味深い記述もあります。
1925、26年頃の新経済政策の時期には失業者や乞食、浮浪者や売笑婦がいた
蔵原氏によれば、新経済政策(NEP)は資本主義的な経済を部分的に許容した政策でした。
新しい資本家や商人が頭をもたげました。1925,26年には失業者や乞食、浮浪者、売笑婦さえもがいました。
生活物資は豊富で、金さえあればなんでも買え、労働者や勤め人の給料も悪くなかったので一般の生活はいちおう安定しているように見えたそうです。
しかし1930年の後半には、食料品店の前には長い行列があり、衣料や紙、石鹸などの日常必需品の入手が困難になっていたそうです。
これらの物資は工場や農村には重点的に配給されていましたが、それでも不足していたそうです。
ヤミに流れた物資は、半ば公然となったヤミ市で、個人商人の手によって十倍、二十倍の価格で売られていたそうです。
蔵原氏はこういう現象だけをとらえれば日本の戦時および戦後数年のありさまに似ていたと正直に述べています。
それならば、「五ヵ年計画」によりソ連庶民の暮らしは、新経済政策の時期より貧しくなっていったのではないでしょうか?日常生活必需品すら入手しにくくなったのですから。
労働者、勤め人は、配給だけでは生活していけないから闇市で高価格でも物資を得るしかなかったのです。闇市、すなわち資本主義経済が庶民の苦しい生活を支えていたのです。
ソ連宣伝が頭の隅々まで染み込んでしまうと、何も見えなくなってしまうのでしょう。在日本朝鮮人総連合会の皆さんにも、国家安全保衛部の恐ろしさがわからない。
わかっていても、保身のために北朝鮮礼賛をやめられないのかもしれません。左翼は保身を重視します。
俊英ブハーリンを尊敬するソ連国民は少なくなかった
蔵原氏の知っているモスクワのある党員の家庭では、そこの息子の青共員(青年共産団員のことか?)が、党のモスクワ県委員会の書記でブハーリン主義者であった叔父の影響をうけていました。
彼はさかんにスターリンとその政策の悪口を言っていたそうです。
蔵原氏はロシア語をかなりできた方ですから、当時のソ連国民の話を聞き取ることができたのです。
ブハーリンが処刑される八年ほど前の話です。
「社会主義工業化の資金源をどこに見出すか」でトロツキー派と論争した俊英ブハーリンを尊敬していたソ連国民はいくらでもいたはずです。
1930年後半に闇市がモスクワのどこかの地域にあったのでしょう。このころ徐々に飢饉がソ連各地に忍び寄っていたのかもしれません。
蔵原氏はブハーリンが「反革命」の大悪人であることを確信しています。ブハーリンは処刑に値するような人物であると本気で考えていたのでしょう。
今にして考えれば、庶民の愚痴を聞き取ることができるようなロシア語力を持つ日本人は、スターリンと秘密警察にとって日本のスパイ以外でしかありえない。
もう数年後に蔵原氏がソ連を訪れていたら、スパイとして処刑されてしまった可能性が高い。蔵原氏は日本の特別高等警察に逮捕されたので、「命拾い」をしたようなものです。
「暗黒政治」下にあったはずの日本で共産党員として活動した自分が刑期を終えたら出所できたのに、レーニンの愛弟子だったブハーリンは「反革命」とやらで処刑されてしまったのです。
それならばソ連社会の方が反体制分子に対して過酷な抑圧をしているのではないか?という疑問は当時の蔵原氏には思いつきもしなかったのでしょうか。
蔵原惟人氏は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのか
蔵原氏によれば、二十余年前の1930年の困難な時期に、今日のソ連の繁栄の萌芽をみて、それを正しく伝えた旅行者は少なかったそうです。
多くのソビエト旅行者は、ソビエト社会の表面のマイナス現象だけを見て、「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予言したそうです。
宮本百合子はソビエト社会を緻密に観察し、ソビエトの繁栄を予見した数少ない旅行者の一人だったと蔵原氏は大真面目に考えていたのでしょう。
蔵原氏は杉本良吉らソ連で行方不明になった左翼芸術家や共産党員を一体どう考えていたのでしょうか。病死したのだろう、くらいの気持ちだったのでしょうか。
蔵原氏や宮本顕治氏、宮本百合子は極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為をどう考えていたのでしょうか。
極東ソ連軍による満蒙開拓民への残虐行為や、シベリアに抑留されている旧日本兵の存在を、昭和27年頃の日本人が知らないはずがない。
蔵原氏の思考方式は、今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんのそれとよく似ています。
私には、徳田球一氏の方が宮本顕治氏、蔵原惟人氏よりソ連への盲信の程度が弱かったように思えます。
徳田球一氏は、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の幹部を「若造ども」というように馬鹿にしていたらしい。
蔵原惟人、宮本百合子は「人間抑圧社会」を礼賛した
「ソビエト人民は今悲惨のどん底にある」と報告し、ソビエト政権の滅亡を予見した旅行者とは、例えば仏の小説家アンドレ・ジイドを想定しているのではないでしょうか。
蔵原氏が力説しているソビエト社会の「新しい生活」とは、ソ連共産党の宣伝でしかなかった。餓死や「政治犯」としての囚人労働の「暮らし」が「新しい生活」でしょうか。
蔵原氏、宮本百合子はソ連宣伝の片棒を担いでしまったのです。
「プロレタリア文学運動」に参加している作家や評論家の皆さんは、蔵原惟人氏や宮本百合子のソ連礼賛評論をどのように受け止めているのでしょうか。
プロレタリア文学とは、「人間抑圧社会」礼賛文学なのでしょうか。金日成、金正日を礼賛する文学は「プロレタリア文学」ですか?
この時期のソ連社会を、今日の不破哲三氏は「人間抑圧社会」と規定しています。
吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんには、蔵原氏や宮本百合子の「人間抑圧社会」礼賛評論を是非読んで頂きたい。
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