2023年2月26日日曜日

鈴木元さんは日本共産党の五十年問題をどう見たかー「志位和夫委員長への手紙」(かもがわ出版、pp. 193-194より)

昭和25年から30年までの日本共産党は暴力革命論を採用しました。この時期、武装闘争に参加する日本共産党員は少なくなかった。

この時期の日本共産党が起こした諸問題を、日本共産党は五十年問題と呼びます。 

鈴木元さんは著書の第七章「日本共産党の歴史とかかわって」で、五十年問題について、大意次のように語っています。

宮本顕治さんはコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)による占領下平和革命論批判に同調

現在の党史では、50年問題は徳田・野坂分派によって行われた問題であり、党の方針ではなかったとされている。

しかし宮本顕治さんらの国際派はずっと正しく、何の責任もない問題なのだろうか。

コミンフォルムが日本共産党の「占領下平和革命論」を批判したとき、それに同調したのは宮本顕治さんら国際派だ。

50年問題を収拾するために開催された第六回全国協議会(昭和30年7月)における決議案文は、ソ連共産党、中国共産党により用意されたものである。

51年綱領は全て正しかったと規定した。

51年綱領(昭和26年8月)はスターリンが作成した。

宮本顕治さんは51年綱領は全て正しかった、という第六回全国協議会の案文に同意したから、第六回全国協議会は成り立った。

また徳田球一さんと並んで、北京機関において中心的役割を果たした野坂参三さんの責任を問うことなく、第一書記(後に議長)に置くことにも宮本顕治さんは同意した。

これらの問題を検証しないで、宮本顕治さんは正しく、徳田・野坂分派が50年問題を起こした、というだけでは歴史の検証に耐えられない。

鈴木元さんは宮本顕治さんが、暴力革命論の51年綱領を正しいと認めた事に着目している

宮本顕治さん、志田重男さんらが中心になって運営した第六回全国協議会の決定の冒頭に「新しい綱領に示されている全ての規定は完全に正しい」と明記されています。

第六回全国協議会決定は、「日本共産党の五十年問題について」(新日本出版社昭和56年刊行)に掲載されています。

宮本顕治さんは、昭和25年5月の「前衛」に掲載された論文で、野坂参三さんの平和革命理論を徹底批判しています。

宮本顕治さんによれば、議会を通じた政権獲得の理論は誤りです。


この時期の宮本顕治さんには、32年テーゼに記されているように内乱を起こして権力を奪取する事が革命だ、という発想が強かったと考えられます。

鈴木元さんの五十年問題論は、本ブログの認識と大差ありません。以下です。

令和2年2月23日黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 日本共産党の暴力革命論について―宮本顕治氏は51年綱領(暴力革命論)の積極面を第七回大会報告で認めていた(昭和33年7月)― (blueribbonasiya.blogspot.com)

令和2年8月17日 黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 日本共産党と歴史修正主義ー「51年綱領」と第七回大会中央委員会の政治報告より思う(「日本共産党の50年問題について」新日本出版社刊行に掲載) (blueribbonasiya.blogspot.com)

令和3年10月1日 黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 不破哲三さんも、昭和26年秋には臨時中央指導部の指導下で日本共産党が分裂を解消したことを認めているー不破哲三「日本共産党史を語る」(新日本出版社刊行, p203)より (blueribbonasiya.blogspot.com)

令和4年2月10日 黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 唱和25年頃、宮本顕治さんは極左冒険主義者だったー野坂参三さんの平和革命論を徹底批判ー (blueribbonasiya.blogspot.com)

令和4年9月3日  黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 宮本顕治さんも昭和26年秋以降、臨時中央指導部(徳田・野坂分派)に従ったー宮本顕治さんは元来、暴力革命論者だったー (blueribbonasiya.blogspot.com)

宮本顕治さんは、第七回大会(昭和33年7月)の「綱領問題についての中央委員会の報告」でも51年綱領の積極面を認めています。


宮本顕治さんは徳田球一さん、野坂参三さんより早く暴力革命論を訴えていたのですから、暴力革命論の51年綱領を完全に正しいと認識したのです。

昭和26年秋には、当時の中央幹部全員がソ連、中国の指令で徳田球一さん、野坂参三さんらの指導下にある臨時中央指導部を党中央と認め、51年綱領を綱領と認めたのですから、臨時中央指導部は分派ではありえません。

日本共産党は「分派」という語を非常に広い範囲で用いてきたのです。ある時点で、殆どの日本共産党員が党中央と認識していた方々を、後から分派とみなすことは歴史の修正です。

若い日本共産党員は、五十年問題の時期の日本共産党の議会、選挙活動や社会運動について何も知らない

若い日本共産党員は、五十年問題の頃に徳田球一さん、野坂参三さんに従った党員は皆、分派で北京に行くか、国内で武装闘争をしていたと認識している可能性が有ります。

昭和27、28年の総選挙に立候補した議員、候補者や選挙活動を行った方々は、宮本顕治さんの指導下にあったと思い込んでいる日本共産党員が相当数いそうです。

当たり前ですが、臨時中央指導部は武装闘争だけでなく、議会や選挙活動、平和運動、労働運動も指導していました。

殆どの日本共産党員は臨時中央指導部の指導下で、これらの活動に従事しました。

今の日本共産党の歴史観では、殆どの日本共産党員は五十年問題の時期、分派活動を行ったことになります。

変なレッテル貼りをすると、奇妙な歴史観が形成されてしまうのです。皆が分派、なら本当の日本共産党員、本当の党中央はどこにいたのでしょうね。








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