野坂参三さんはなぜ、日本共産党の中央委員会議長を長年務めることができたのでしょうか。山添拓議員ら若い日本共産党員は、こんな疑問を持たないのでしょうか。
私見ではこの問題を掘り下げていくと、日本共産党が「分派」という語を単なるレッテル貼りに用いていることが明らかになります。
志位さんら今の日本共産党指導部は松竹伸幸さん、鈴木元さんに分派というレッテルを貼っていますが、これは昔から日本共産党指導部が用いてきた手法の一つです。
世界各地で共産党は、史実を修正するために、自分たちにとって都合の悪い人物に分派というレッテルを貼ります。
今の日本共産党の歴史観では、野坂参三さんは50年問題の際に分派の長だった
今の日本共産党の歴史観では、野坂参三さんは徳田球一さんと共に昭和25年からの50年問題の際、分派の長だった方です。
不破哲三著「日本共産党史を語る 上」(新日本出版社より平成18年刊行、第三章)によれば、野坂参三さんはソ連の情報機関と特別の関係を結んだ内通者でした。
今の日本共産党の歴史観では、巨悪ともいうべき野坂参三さんはなぜ中央委員会議長を長年務めることができたのでしょうか。結論を先に言うと、以下の二点です。
第一に、昭和20年代前半の日本共産党の理論、共産党員の常識としては、ソ連共産党から立派な幹部と認められている事は立派な共産主義者であることの証明でした。
野坂さんは自らがソ連の情報機関と内通している事を内緒にしていましたが、国際共産党(コミンテルン)の大幹部だったことはよく知られていました。
ソ連共産党から大幹部と認められている事は、当時の日本共産党員にとって尊敬に値する事でした。
第二に、昭和25年からの50年問題の際、圧倒的多数の日本共産党員は北京機関、臨時中央指導部を党中央と認識していました。徳田球一さんがこの時期も続けて、日本共産党の書記長でした。
徳田球一さんが亡くなったので、野坂参三さんが党首になる事は自然でした。
50年問題の時期、北京機関は日本共産党の最高指導部だったー51年綱領を実践していた
徳田・野坂分派などという語は、昭和25年からの50年問題当時には存在しません。
昭和25年1月に出された、共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)からの突然の野坂批判により日本共産党は大混乱して分裂しました。
昭和26年8月に、ソ連が徳田球一さん、野坂参三さんら「所感派」が正当であるという裁定を出した事により、分裂状態は解消されていきました。
昭和26年10月の第五回全国協議会で、新綱領が採択されます。いわゆる、51年綱領です。
暴力革命論だった51年綱領を当時の中央幹部は皆、認めたのですから、51年綱領は日本共産党の綱領そのものでした。
51年綱領とこの時期の混乱について、第七回大会の政治報告は次のように述べています。
政治報告をしたのは野坂参三さんです(「日本共産党の50年問題について」に所収。同書p26より抜粋)。
・1951年10月に開かれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された会議だった。
・五全協で「日本共産党の当面の要求ー新綱領」が採択された。これは、日本がアメリカ帝国主義の直接支配のもとに従属していること、その支柱としての日本独占資本の売国的役割を明らかにした。そして、この状態からの解放のために、労働者階級を中心に、幅広い民族解放民主統一戦線の結成を訴え、この闘争の先頭に立って統一戦線の結成のために奮闘する事を、わが党の基本任務と規定した。
・この綱領には若干の重要な問題についてあやまりをふくんでいたが、しかし、多くの人びとに深い感銘を与え、かれらのたたかいを鼓舞し、激励した。
昭和33年7月に開催された第七回大会で、昭和26年10月の第五回全国協議会で新綱領が採択された事を認めていることに注目してください。
第七回大会の代議員の皆さんは、新綱領に依拠して全国の党員を指導した徳田球一書記長と北京機関、臨時中央指導部が党中央だったことを当然の前提としていたと考えられます。
昭和26年10月に日本共産党が「ともかくも一本化された」と第七回大会の代議員の方々が認めたのですから。
今の日本共産党は、野坂参三さんが行った第七回大会政治報告を事実上否定しています。51年綱領を党綱領と認めていないのですから。
第七回大会決定を破棄する、という決定は存在しないのですが、事実上破棄されています。
「日本共産党の七十年」によれば、昭和25年8月に徳田球一さん、同9月に野坂参三さんが北京に渡っています(同書p218より)。この頃、北京機関が形成されたと記されています。
「日本共産党の七十年」によれば、北京機関は分派の国外指導部であり、政治的にも、財政的にもソ連、中国両共産党の支配下にあり、党規約に反する分派の機関でした(p220より)。
党規約、というなら、第四回大会(昭和20年12月1~3日)で決定され、第六回大会(昭和22年12月21日~23日)で改正された規約のどの条項に反していたというのでしょうか。
第七回大会を担った幹部の方々は皆、第六回大会とその後の第五回全国協議会を正規の会議と認識し、そこで綱領が採択され、その時の指導部(臨時中央指導部)を党中央と認めていたのですから、臨時中央指導部、北京機関がこの時期の党中央だったのです。
今の日本共産党が採用している北京機関=徳田野坂分派説に従うなら、昭和25年から30年までの日本共産党は分派だけになってしまいます。
中央委員会が解体していたのなら、徳田球一さんこそ党書記長だと信じて新綱領とその方針に従っていた一般党員は皆、分派活動をやったことになります。
この時期の日本共産党員は全員分派だったというなら、日本共産党はこの時期、五年ほどに解体していたというべきです。
徳田球一さんは第六回大会でも、書記長に選出されています。参考のため、中央委員会政治局員、書記局員の名前を記しておきます(「日本共産党の七十年」p187より抜粋)。
政治局員は以下の九名です。
徳田球一・伊藤律・金天海・紺野与次郎・志賀義雄・野坂参三・長谷川浩・宮本顕治
書記局員は以下の五名です。
徳田球一・伊藤律・亀山幸三・野坂参三・長谷川浩
この人事から、徳田球一書記長が伊藤律を重用していた事が明らかで、徳田書記長の専横が既に始まっていたという説もあります。
野坂参三さんが第一書記になれたのは、ソ連共産党の承認があったから
野坂参三さんは第七回大会開始時に、第一書記でした。第一書記、という表現はソ連共産党流です。フルシチョフは第一書記でした。
「日本共産党の七十年」の年表によれば、野坂参三さんは第六回全国協議会第二回中央委員会総会(昭和30年8月17日。第六回全国協議会の約二十日後)で第一書記に選出されました。
この少し前の8月2日に、宮本顕治さんが常任幹部会の責任者になっています。
昭和29年夏に北京機関の代表(野坂参三・紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎・西沢隆二各氏)と、袴田里見さんがモスクワで、第六回全国協議会の原案を作成したと七十年史の年表に出ています。
「日本共産党の七十年 上」(p242)によれば、昭和28年末に徳田球一さん死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎さん、河田賢治さん、宮本太郎さんが中国に行き、北京機関の指導部に加わりました。
昭和29年3月に野坂さんら北京機関のメンバーは、討議して新しい方針案を作成し、代表(野坂参三・紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎・西沢隆二各氏)がそれを持ってモスクワに行きました。
モスクワにいた袴田里見さんがこれに加わりました。新しい方針案に対し、ソ連側のスースロフ、ポノマリョフと中国の王稼祥が別の案を示しました。
それを野坂さんらが討議して、第六回全国協議会の決議原案ができたそうです。これは昭和29年8月頃です。
推測ですが、モスクワで行われた北京機関のメンバーと袴田里見さんの話し合いで、第六回全国協議会での基本的な幹部人事が決定されたと考えられます。
野坂参三さんが第一書記、宮本顕治さんが常任幹部会の責任者という事です。これをソ連共産党と中国共産党が承認し、野坂さんは第七回大会で中央委員会議長に就任したと考えられます。
日本共産党中央委員会党建設局は、最も適切と判断された方を指導部に選んできたと宣伝
昨年8月23日に発表された論考によれば、日本共産党は日本社会の根本的変革を目指す革命政党ですから、党首公選制は不適切です。
日本社会の根本的変革を実現するためには、前途を切り開く政治的・理論的な力を持った指導部が必要です。
現在の中央委員会と指導部は、この考え方に基づき、日本共産党大会によって民主的に選出されました。日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か 一部の批判にこたえる|党紹介│日本共産党中央委員会 (jcp.or.jp)
日本共産党はこの幹部政策に基づいて、最も適切と判断された中央委員会及び党指導部を民主的に選んできたそうです。
個々の幹部の在任期間は、その結果にすぎないそうです。
この論文を書いた日本共産党中央委員会党建設局の皆さんは、分派の長だったとみなされている野坂参三さんが昭和33年7月の第七回大会から、昭和57年7月の第十六回大会まで中央委員会議長だったことをどうお考えなのでしょうか。
それだけの期間、以前は分派の長だった方を中央委員会議長に選出する事が最も適切だったと判断しているのでしょうか。
50年問題の時期の日本共産党員は全員分派だった、と日本共産党中央委員会党建設局の皆さんは考えているのでしょうか。
後の人間に都合が良いように歴史を修正すると、今の価値観、世界観と適合しない行動をとっている昔の人たちは奇人の集合体だったという変な歴史認識が形成されてしまいますよ。
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