2023年3月31日金曜日

昭和59年以降、日本共産党を除名された方々についてー文学運動参加者、大阪府議と千葉県の書記長、松竹伸幸さんと鈴木元さんを除くー

 昭和59年以降、日本共産党を除名された方について、私が持っている文献に依拠して一覧表にしてみました。

他にも、除名された方はいると考えられます。昭和59年頃、文学運動の参加者でも除名された方がいそうですが。

吉田嘉清さんの除名に関連して、平和運動参加者で除名された方がいるかもしれません。除籍になった方は少なくないでしょう。

東大阪選出の大阪府議、千葉県の書記長についても省略しました。このお二人の除名は、下記の方々の除名と事情が大きく異なると考えます。

調べて気づいたのですが、兵本達吉さん以降、日本共産党は除名した方に敬称をつけています。

「反党分子」という語は、兵本達吉さんについては用いられていないようです。理由はわかりません。 

氏名(敬称略)

除名時期

除名を決定した組織

査問・調査の時間

日本共産党がその方を除名した理由(簡略化)

依拠した文献

吉田嘉清

昭和59720日付の文書が出ているが、除名は926日(「鮮烈なる体験」p166

統制委員会

不明

不明。恐らく、原水協の代表理事を辞任せよという指示に従わなかったから。

「原水協で何が起こったか」日中出版

柳瀬宣久

昭和60222

日本共産党日中友好協会グループ

昭和59830日以降、計四回、のべ十数時間

吉田嘉清さんの本を出すことを日中出版社長として決めた。

「鮮烈なる体験」日中出版

篠崎泰彦

昭和60816

統制委員会

「党機関の指導と調査を拒否」と出ている。

吉田嘉清さんの本を出すことに日中出版の社員として協力した。

「鮮烈なる体験」日中出版

安藤玲子

昭和60816

統制委員会

「党機関の指導と調査を拒否」と出ている。

吉田嘉清さんの本を出すことに日中出版の社員として協力した。

「鮮烈なる体験」日中出版

矢田智子

昭和60816

統制委員会

「党機関の指導と調査を拒否」と出ている。

吉田嘉清さんの本を出すことに日中出版の社員として協力した。

「鮮烈なる体験」日中出版

伊里一智

昭和60127

東京都委員会常任委員会が決定し、書記局が承認。

不明。

第十七大会の際、大会会場に通じる路上で大会参加の代議員に対し、反党文書を配布した

「投稿主義者の観念論史観」日本共産党中央委員会出版局

兵本達吉

 

 

平成108月末。

「拉致調査妨害」など事実無根/前参議院議員 橋本敦 (jcp.or.jp)

より。

 

恐らく、統制委員会。

 

 

 

五日間、全20時間。

公安警察と会食をし、国会議員秘書を退職した後の就職を斡旋してもらうための面接を受けた。

「日本共産党の戦後秘史」産経新聞社

 

 下里正樹さんの事を忘れていました。平成6年11月末に除名されたようです。 

氏名(敬称略)

除名時期

除名を決定した組織

査問・調査の時間

日本共産党がその方を除名した理由(簡略化)

依拠した文献

下里正樹

平成6年11月末。

宮地健一さんのHPが参考になる。

共産党、森村誠一 (biglobe.ne.jp)

 

恐らく、統制委員会

 

第一回査問は平成51120日。この後、本人の最終弁明の機会を含めて七回。一回の査問は45時間続いたらしい。

 

 

日本共産党の戦前の指導者である市川正一に対し、公刊の雑誌上で中傷・誹謗をした。

奥原紀晴「虚構につらぬかれた反日本共産党の『手記』」(「赤旗」平成6112122日)。

下里正樹「私が見た『赤旗』の暗黒」文藝春秋199412月号掲載

 下里正樹さんについては、日本共産党は「元赤旗記者」と呼んでいます。

上記の奥原紀晴論文は下里正樹さんを、落ちるところまで落ちた、まぎれもない反共文筆家に成り果てたと断言しています。

 こうまとめてみると昔は、除名決定前の査問(調査)に随分時間をかけたことがわかります。

松竹伸幸さんの場合は1時間少し、鈴木元さんの場合は30分程度だったそうです。

「調査」の前に、日本共産党京都はお二人を除名するという結論が出ていたのでしょうね。

結論が出ているなら、長時間の調査など時間の無駄でしかありません。

今後も、除名前に日本共産党の担当部署が結論を出し、「調査」の簡便化を推進する可能性がありますね。

 

 

 





2023年3月24日金曜日

日本共産党は鈴木元さんを批判する論文を出せなかった―今の日本共産党には、「理論幹部」がいない

 鈴木元さんの除名について、改めて思った事、感じたことを記しておきます。

鈴木元さんのFacebookでの連載元鈴木 | Facebook によれば、3月9日に鈴木元さんに対する調査が行われ、15日に鈴木元さんの除名処分が決定されました。鈴木元氏の除名処分について | JCP京都: 日本共産党 京都府委員会 (jcp-kyoto.jp)

鈴木元さんの記者会見はこちらです。日本共産党から不当に除名された鈴木元氏の会見(前半) - YouTube 

鈴木元さんの記者会見によれば、3月9日の調査は30分程度でした(youtube開始後16分頃)。

このときに調査を担当した日本共産党京都の方が、早口で鈴木元さんを問いただす文書を朗読しました(youtube開始後12分程度)。

そこで鈴木元さんは、この場では即答できないので、改めて文書で回答したいからそれに基づき、二回目の調査の会議を開いてほしいと要求しました。

日本共産党京都の幹部の皆さんのお名前は以下に出ています。人事と機構 | JCP京都: 日本共産党 京都府委員会 (jcp-kyoto.jp)

その場では読み上げた文書を渡すかどうか即答できないとのことでした。

鈴木元さんが改めて田村和久組織部長に電話をして文書を下さいと要求したところ、13日に文書をくれたそうです。

3月15日に日本共産党京都の常任委員会(19名だが、2名欠席)が開催され鈴木元さんに「弁明の機会を与える」とのことで、鈴木元さんもそこに出席しました。

このときは45分程度だったそうです。

「弁明の機会」で主に発言したのは、寺田茂副委員長と田村和久組織部長でした。他には渡辺和俊委員長が少し発言しただけで、残りの14名の方は一言も発言しなかったそうです。

日本共産党京都は、松竹伸幸さん、鈴木元さんの除名をほぼ同時期に決めていた

日本共産党京都は松竹伸幸さんと鈴木元さんの除名を、ほぼ同時期に決めていたと考えられます。

松竹伸幸さんの除名理由の一つは、日本共産党を批判する鈴木元さんの本を自分の本と同じ時期の出版を促した事でした。日本共産党京都はこれを分派活動と解釈しました。【コメント】松竹伸幸氏の除名処分について | JCP京都: 日本共産党 京都府委員会 (jcp-kyoto.jp)

松竹伸幸さんが鈴木元さんと分派活動を行った事になっているのに、鈴木元さんは何のお咎めもなし、ではつり合いが取れませんから。

鈴木元さんの除名最終決定がなぜ松竹伸幸さんの除名決定より一か月も遅れたのか、についてですが、以下のように考えられます。

鈴木元さんは何度か、日本共産党本部に手紙や意見書を送付していたので、「正規の経路で意見をあげなかった」という志位さん流の理屈は成り立ちません。

分派活動といっても、本を出版するための相談ですから、鈴木元さんと松竹伸幸さんが自民党の派閥のような団体を結成したわけではない。

そこで除名のためには分派活動だけではなくもう少し別の理由を案出せねばならない。日本共産党京都の皆さんがこれを案出するのに時間がかかり、遅れたのではないでしょうか。

志位さんは鈴木元さんを批判する論文を出せなかったー今の日本共産党には理論幹部がいない

私見では、鈴木元さんの除名理由の案出を日本共産党京都に背負わせるのは酷です。

鈴木元さんは昨年4月に出した著作「ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える」(かもがわ出版)のp304で、日本共産党の党首公選制導入を主張していました。

p308では、志位さんは日本共産党の党大会で選出されていない事、遡れば宮本顕治さんの推薦で歴代の日本共産党幹部会委員長が就任していると指摘しています。

「はじめに」ではマルクスが説いた「共産主義」を政党の目標とすることは無理があると指摘しています(p10)。

マルクスの共産主義社会論はキリスト教の「千年王国」やヘーゲルの「自由の王国」と同様の観念的最終理想社会論だと指摘しています(p10)。

これらを一年近く前の著作で主張していたのに、日本共産党は鈴木元さんを批判できませんでした。

共産主義を目標とすべきでないなら、日本共産党綱領の社会主義・共産主義論の否定とも解釈できます。

最近出した著作「志位和夫委員長への手紙 日本共産党の新生を願って」(かもがわ出版)で同様の事を強く主張したら規約違反で除名、とは変な話です。

鈴木元さんが二冊の著作で提起している事を徹底批判する論文が「赤旗」や「前衛」に掲載されていれば、日本共産党京都の方々はそれに依拠して、鈴木元さんを調査する場で論争をできたと考えられます。

伊里一智さんの事件の頃の日本共産党は、伊里さんを批判する論考を出せた

昭和60年の、伊里一智さんの事件の頃には、伊里さんの主張を徹底批判する論考が「赤旗」などにいくつも掲載されました。

当時、日本共産党本部の職員だった志位さんは、「変節者のあわれな末路」という論考を「赤旗」に出し、注目されました。

伊里さん批判の諸論考は、「投降主義者の観念論史観」(日本共産党中央委員会出版局)にまとめられています。

鈴木元さんに対しては、志位さんは著作を批判する論考を出せませんでした。今の日本共産党には、理論幹部と言えるような方がいないと考えられます。

37年ぐらい前の日本共産党は第十七大会で伊里一智さんに対する非妥協的な闘争を訴えていました。


鈴木元さんを批判する論文が「赤旗」などに出ないので、日本共産党京都の皆さんは「調査」の場で鈴木元さんと論争をすることができなかったのです。

論争ができないなら、一方的に文書を読み上げて鈴木元さんが自分の「過ち」を認めるか否かだけを確認すればそれでよい、と日本共産党京都の皆さんは判断したと考えられます。

そんなことはない、黒坂は日本共産党を誹謗していると志位さんがお考えなら、今からでも鈴木元さんの著作を徹底批判する論考を沢山出したらいかがですか。






2023年3月18日土曜日

鈴木元さんの除名より思うー日本共産党指導部は一般党員と路線や理論問題について対話と議論をしたくないー

 鈴木元さんが除名されました。鈴木元氏の除名処分について | JCP京都: 日本共産党 京都府委員会 (jcp-kyoto.jp) 

私は厳しい処分になるだろうと予想してましたが、それでも驚きと怒りを禁じえませんでした。

常日頃、日本共産党を批判している私がこの件で怒りを感じるのは変かもしれませんが。

鈴木元さんの場合、志位さんの辞任を訴える著書の出版前に志位さんに手紙や意見書を提出していたようなので、除名まではされないかなという気持ちもあったのです。

萩原遼さんと同様の、除籍になるかなという気持ちもありました。

松竹さん、鈴木元さんの除名は日本共産党にとって、大きな損失かもしれません。宮本顕治さんの時期の日本共産党なら、もっと早く除名していたかもしれませんが。

松竹伸幸さんは正規の経路で異論を表明せず、突然外から規約と綱領を批判したから規約違反

松竹伸幸さんの除名について説明した記者会見で志位さんは、松竹さんが規約にある正規の経路で異論を表明せず、突然外から規約や綱領を批判したことを規約違反と力説していました。志位委員長の記者会見/松竹氏をめぐる問題についての一問一答 (jcp.or.jp) 

志位さんの論法なら、正規の経路で異論を表明し、志位さんに意見を提起していた鈴木元さんの言動を規約違反とみなすことはできにくい。

それでも鈴木元さんの著書の記述が規約に反しているというなら、正規の経路で異論表明の有無に関わらず、著書で異論を表明して日本共産党を批判したら誹謗・中傷したと解釈され、処分されうることになります。

田村智子政策委員長は、異論については所属の組織で徹底議論すべきと主張

この件について、17日の田村智子政策委員長の記者会見でどなたかが質問をしていました。

田村智子政策委員長の会見 2023.3.17 - YouTube 

開始後10分30秒くらいで、鈴木元さんが志位さんに手紙を送っていたが返事が来なかった、どうすれば除名という事態はさけられたのかという質問が出されました。

これに対し田村智子政策委員長は、所属する党組織で徹底的に議論すべきだったと答えています。相次ぐ党員除名、長崎新聞への抗議撤回 共産・田村政策委員長が見解 - 産経ニュース (sankei.com) 

田村智子政策委員長は鈴木元さんが志位さんに出した手紙や意見書の存在を知らなかったのかもしれませんね。

日本共産党の一般党員が日本共産党の路線や政策の根本について、指導部に手紙や意見を出しても無視、黙殺されてしまうことが少なくないと考えられます。

指導部が一般党員からの意見書や手紙を無視、黙殺しても規約には全く反していない。

貴方の意見については、貴方が所属する組織で徹底討論してください、でおしまいになってしまう。

田村智子政策委員長の回答はこんな調子です。

日本共産党指導部は一般党員と路線について対話と議論をしたくない

思うに、志位さんら日本共産党指導部は一般党員と、路線や理論問題について対話と議論をしたくないのです。

一般党員との対話は雑談に限定してもらいたいのでしょうね。黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 日本共産党幹部は、日本共産党の指導部を批判する一般党員と対話をしないー松竹伸幸さんのブログより思う (blueribbonasiya.blogspot.com)

松竹伸幸さんも、除名について、正規の経路で異論表明の有無は無関係なのだなと慨嘆しています。3.15ジョメイ記念日 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba (ameblo.jp)

田村智子政策委員長は鈴木元さんが出した意見書や手紙を読みましたか

厄介な事、面倒な事には関わりたくない、という気持ちが、田村智子政策委員長ら日本共産党指導部の皆さんには強いように感じます。

そもそも田村智子政策委員長は鈴木元さんが志位さんに出した手紙や意見書を読んだのでしょうか。

それらを読まなくても、一般党員を除名できるのなら正規の経路での異論表明の有無、などどうでも良いという結論になりませんか。

2023年3月7日火曜日

野坂参三さんは第七回大会(昭和33年7月)から第十六回大会(昭和57年7月)まで中央委員会議長だったー「分派の長」が長年、党首だった

野坂参三さんはなぜ、日本共産党の中央委員会議長を長年務めることができたのでしょうか。山添拓議員ら若い日本共産党員は、こんな疑問を持たないのでしょうか。

私見ではこの問題を掘り下げていくと、日本共産党が「分派」という語を単なるレッテル貼りに用いていることが明らかになります。

志位さんら今の日本共産党指導部は松竹伸幸さん、鈴木元さんに分派というレッテルを貼っていますが、これは昔から日本共産党指導部が用いてきた手法の一つです。

世界各地で共産党は、史実を修正するために、自分たちにとって都合の悪い人物に分派というレッテルを貼ります。

今の日本共産党の歴史観では、野坂参三さんは50年問題の際に分派の長だった

今の日本共産党の歴史観では、野坂参三さんは徳田球一さんと共に昭和25年からの50年問題の際、分派の長だった方です。

不破哲三著「日本共産党史を語る 上」(新日本出版社より平成18年刊行、第三章)によれば、野坂参三さんはソ連の情報機関と特別の関係を結んだ内通者でした。

今の日本共産党の歴史観では、巨悪ともいうべき野坂参三さんはなぜ中央委員会議長を長年務めることができたのでしょうか。結論を先に言うと、以下の二点です。

第一に、昭和20年代前半の日本共産党の理論、共産党員の常識としては、ソ連共産党から立派な幹部と認められている事は立派な共産主義者であることの証明でした。

野坂さんは自らがソ連の情報機関と内通している事を内緒にしていましたが、国際共産党(コミンテルン)の大幹部だったことはよく知られていました。

ソ連共産党から大幹部と認められている事は、当時の日本共産党員にとって尊敬に値する事でした。

第二に、昭和25年からの50年問題の際、圧倒的多数の日本共産党員は北京機関、臨時中央指導部を党中央と認識していました。徳田球一さんがこの時期も続けて、日本共産党の書記長でした。

徳田球一さんが亡くなったので、野坂参三さんが党首になる事は自然でした。

50年問題の時期、北京機関は日本共産党の最高指導部だったー51年綱領を実践していた

徳田・野坂分派などという語は、昭和25年からの50年問題当時には存在しません。

昭和25年1月に出された、共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)からの突然の野坂批判により日本共産党は大混乱して分裂しました。

昭和26年8月に、ソ連が徳田球一さん、野坂参三さんら「所感派」が正当であるという裁定を出した事により、分裂状態は解消されていきました。

昭和26年10月の第五回全国協議会で、新綱領が採択されます。いわゆる、51年綱領です。

暴力革命論だった51年綱領を当時の中央幹部は皆、認めたのですから、51年綱領は日本共産党の綱領そのものでした。

51年綱領とこの時期の混乱について、第七回大会の政治報告は次のように述べています。

政治報告をしたのは野坂参三さんです(「日本共産党の50年問題について」に所収。同書p26より抜粋)。


・1951年10月に開かれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された会議だった。

・五全協で「日本共産党の当面の要求ー新綱領」が採択された。これは、日本がアメリカ帝国主義の直接支配のもとに従属していること、その支柱としての日本独占資本の売国的役割を明らかにした。そして、この状態からの解放のために、労働者階級を中心に、幅広い民族解放民主統一戦線の結成を訴え、この闘争の先頭に立って統一戦線の結成のために奮闘する事を、わが党の基本任務と規定した。

・この綱領には若干の重要な問題についてあやまりをふくんでいたが、しかし、多くの人びとに深い感銘を与え、かれらのたたかいを鼓舞し、激励した。

昭和33年7月に開催された第七回大会で、昭和26年10月の第五回全国協議会で新綱領が採択された事を認めていることに注目してください。

第七回大会の代議員の皆さんは、新綱領に依拠して全国の党員を指導した徳田球一書記長と北京機関、臨時中央指導部が党中央だったことを当然の前提としていたと考えられます。

昭和26年10月に日本共産党が「ともかくも一本化された」と第七回大会の代議員の方々が認めたのですから。

「日本共産党の七十年」は歴史を修正している

今の日本共産党は、野坂参三さんが行った第七回大会政治報告を事実上否定しています。51年綱領を党綱領と認めていないのですから。

第七回大会決定を破棄する、という決定は存在しないのですが、事実上破棄されています。

「日本共産党の七十年」によれば、昭和25年8月に徳田球一さん、同9月に野坂参三さんが北京に渡っています(同書p218より)。この頃、北京機関が形成されたと記されています。

「日本共産党の七十年」によれば、北京機関は分派の国外指導部であり、政治的にも、財政的にもソ連、中国両共産党の支配下にあり、党規約に反する分派の機関でした(p220より)。

党規約、というなら、第四回大会(昭和20年12月1~3日)で決定され、第六回大会(昭和22年12月21日~23日)で改正された規約のどの条項に反していたというのでしょうか。

第七回大会を担った幹部の方々は皆、第六回大会とその後の第五回全国協議会を正規の会議と認識し、そこで綱領が採択され、その時の指導部(臨時中央指導部)を党中央と認めていたのですから、臨時中央指導部、北京機関がこの時期の党中央だったのです。

今の日本共産党が採用している北京機関=徳田野坂分派説に従うなら、昭和25年から30年までの日本共産党は分派だけになってしまいます。

中央委員会が解体していたのなら、徳田球一さんこそ党書記長だと信じて新綱領とその方針に従っていた一般党員は皆、分派活動をやったことになります。

この時期の日本共産党員は全員分派だったというなら、日本共産党はこの時期、五年ほどに解体していたというべきです。

徳田球一さんは第六回大会でも、書記長に選出されています。参考のため、中央委員会政治局員、書記局員の名前を記しておきます(「日本共産党の七十年」p187より抜粋)。

政治局員は以下の九名です。

徳田球一・伊藤律・金天海・紺野与次郎・志賀義雄・野坂参三・長谷川浩・宮本顕治

書記局員は以下の五名です。

徳田球一・伊藤律・亀山幸三・野坂参三・長谷川浩

この人事から、徳田球一書記長が伊藤律を重用していた事が明らかで、徳田書記長の専横が既に始まっていたという説もあります。

野坂参三さんが第一書記になれたのは、ソ連共産党の承認があったから

野坂参三さんは第七回大会開始時に、第一書記でした。第一書記、という表現はソ連共産党流です。フルシチョフは第一書記でした。

「日本共産党の七十年」の年表によれば、野坂参三さんは第六回全国協議会第二回中央委員会総会(昭和30年8月17日。第六回全国協議会の約二十日後)で第一書記に選出されました。

この少し前の8月2日に、宮本顕治さんが常任幹部会の責任者になっています。

昭和29年夏に北京機関の代表(野坂参三・紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎・西沢隆二各氏)と、袴田里見さんがモスクワで、第六回全国協議会の原案を作成したと七十年史の年表に出ています。

「日本共産党の七十年 上」(p242)によれば、昭和28年末に徳田球一さん死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎さん、河田賢治さん、宮本太郎さんが中国に行き、北京機関の指導部に加わりました。

昭和29年3月に野坂さんら北京機関のメンバーは、討議して新しい方針案を作成し、代表(野坂参三・紺野与次郎・河田賢治・宮本太郎・西沢隆二各氏)がそれを持ってモスクワに行きました。

モスクワにいた袴田里見さんがこれに加わりました。新しい方針案に対し、ソ連側のスースロフ、ポノマリョフと中国の王稼祥が別の案を示しました。

それを野坂さんらが討議して、第六回全国協議会の決議原案ができたそうです。これは昭和29年8月頃です。

推測ですが、モスクワで行われた北京機関のメンバーと袴田里見さんの話し合いで、第六回全国協議会での基本的な幹部人事が決定されたと考えられます。

野坂参三さんが第一書記、宮本顕治さんが常任幹部会の責任者という事です。これをソ連共産党と中国共産党が承認し、野坂さんは第七回大会で中央委員会議長に就任したと考えられます。

日本共産党中央委員会党建設局は、最も適切と判断された方を指導部に選んできたと宣伝

昨年8月23日に発表された論考によれば、日本共産党は日本社会の根本的変革を目指す革命政党ですから、党首公選制は不適切です。

日本社会の根本的変革を実現するためには、前途を切り開く政治的・理論的な力を持った指導部が必要です。

現在の中央委員会と指導部は、この考え方に基づき、日本共産党大会によって民主的に選出されました。日本社会の根本的変革をめざす革命政党にふさわしい幹部政策とは何か 一部の批判にこたえる|党紹介│日本共産党中央委員会 (jcp.or.jp) 

日本共産党はこの幹部政策に基づいて、最も適切と判断された中央委員会及び党指導部を民主的に選んできたそうです。

個々の幹部の在任期間は、その結果にすぎないそうです。

この論文を書いた日本共産党中央委員会党建設局の皆さんは、分派の長だったとみなされている野坂参三さんが昭和33年7月の第七回大会から、昭和57年7月の第十六回大会まで中央委員会議長だったことをどうお考えなのでしょうか。

それだけの期間、以前は分派の長だった方を中央委員会議長に選出する事が最も適切だったと判断しているのでしょうか。

50年問題の時期の日本共産党員は全員分派だった、と日本共産党中央委員会党建設局の皆さんは考えているのでしょうか。

後の人間に都合が良いように歴史を修正すると、今の価値観、世界観と適合しない行動をとっている昔の人たちは奇人の集合体だったという変な歴史認識が形成されてしまいますよ。