2012年11月27日火曜日

パチンコの球が落ちていくように

資本主義経済を生きる~激烈な競争社会


資本主義経済では、人々は企業や公共団体などの組織に所属し、財やサービスを所属組織を通じて提供して所得を得ねばなりません。自分たちが提供する財やサービスが市場で評価されなければ所属組織は存続できなくなリ、所属していた経営者、労働者は失業してしまいます。

同種の財やサービスを供給する各企業、組織は競合していますから、資本主義経済は弱肉強食の世界という面があります。各企業や組織内でも、職階や地位がありますから、労働者間で激烈な競争があります。

この程度のことは、資本主義経済で暮らしてきた人間であれば分かりきったことです。資本主義経済で生活していくためには、自分が常に激烈な競争に直面していることを意識せざるをえない。

資本主義以前の社会、例えば江戸時代の日本でも江戸や大阪には商業が発展していましたし、武士の世界にも競争はあったでしょう。農民であれば自然とたたかうために過酷な労働を強いられたでしょう。

江戸時代の日本人と現代の我々のどちらが、生き抜いていくために過酷であったかという点について単純な比較はできませんが、現代のほうがより多くの人間にいろいろな形で接さねばならず、人間同士の競争が多様な形態で行われていることは明らかではないでしょうか。

競争に敗れた組織や人は没落し、冷遇される。勝利した人や組織は豊かになり、称賛される。芸能界ではこれは明らかですね。企業社会も同じようなものでしょう。

泡のごとく浮かんでは消える人間関係〜人は役割を演じる存在


成功して財をなし、最高の人間だと絶賛されていた人が、ちょっとした失敗をきっかけに没落し世の罵詈雑言を浴びるようになる。「手のひらを返す」という言葉がありますが、こんなこと、現代の我々はいくらでも見聞していますね。

源平の昔、源氏と平家が激しく争って興亡を繰り広げましたが、現代人は競争相手から殺されはしないまでも昔よりもっと速い速度で興亡を繰り広げているのではないでしょうか。
「猿は木から落ちても猿だが、政治家は落ちたら何もなくなる」という言葉をどこかで聞いたことがあります。

現代は、人間関係の移り変わりが激しすぎるのです。次から次へと別の人が現れては、消えていく。これがお互い様になっているのです。濃密な人間関係を築くことなど、至難の技ともいえます。泡のごとく浮かんでは消えてしまうような人間関係。これでは誰しも、不安になってしまいます。少なくないビジネスマンが精神にいろいろな支障をきたすのも無理はありません。

社会学には、人間は社会の中での役割を演じる存在である、といった人間観があります。他人が次から次へと現れ、泡のごとく浮かんで消えていくようでは、自分の役割を確定することが難しくなってしまいます。

昔から人は圧迫感と不安感を抱いて生きている


激烈な競争に、自分はいつ破れ脱落してしまうかもしれない。そんな圧迫感、不安感を抱いて多くの現代人は生活せざるをえないのですが、圧迫感や不安感という点では昔も同じです。

江戸時代の農民なら、自然とのたたかいに敗北して凶作となり、飢餓に直面してしまうかもしれないという圧迫感を抱いて生活していたかもしれない。武士であれば幕府の締め付けにより自分の所属する藩が取り潰されてしまうのではないかという圧迫感を抱いて生きていたかもしれない。

幕府で政道を預かる老中らも、関ヶ原あるいは島原の乱のような大乱にいつ見舞われるかもしれないといった圧迫感を抱いて生きていたかもしれませんね。

大名ならば江戸城で何らかの職にある間、自分の担当範囲で不祥事が起きれば切腹もありうるというのは、当時の常識かもしれませんね。

しかし、江戸時代の人間関係は身分制度ですから、現代よりずっと固定的です。次から次へと人が現れては消えていく、というほどのことではありません。人の流れはずっと固定的で穏やかだったはずです。

昔も今もより良く生きよう、立身出世しようとするならば、人は常に、ある種の圧迫感そして捉えようのない不安感を抱いて生きていくことになるのでしょう。

パチンコの球が釘にぶつかり、はねかえり、次第に落ちていくように


遠藤周作「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)に登場する人物も、資本主義経済すなわち激烈な競争社会に生きているのですから、ある種の圧迫感を抱いて生きています。競争に敗れて行く人々を時折多少の軽蔑感をもってみつめて感傷に浸り、自分はそんな生き方をしまい、と思います。

そしてときには「自分もいつかそうなるのでは」という圧迫感から生まれる絶望感にさいなまされています。例えば、語り部のぼくこと吉岡努の場合は森田ミツを次のように見ています(p148)。

「パチンコの球が釘にぶつかり、はねかえり、次第に落ちていくようにあいつも堕ちてったんだ。なぜ、もう少しうまく俺のように毎日を渡れないんだろう。他人のやった罪までひっかぶって、わざわざ自分の運命を狂わしてやがる」


「堕ちていく人間」であるミツが吉岡にはパチンコの球のように見えたのですね。でも、競争に勝利して立身出世していく人間も、同じ人間なら所詮はパチンコの球なのかもしれません。誰がパチンコを弾いているのでしょうか。

大当たりの穴に入れる球もあれば、外れてただ落ちていく球もありますね。その違いは球を弾く存在によるちょっとした力加減の違いでしかないのかもしれません。飛んでいく球にとっては、この力加減が大きな違いとなって具現してしまう。運命とはそういうものなのかもしれません。

このあたりの記述で、遠藤周作は「神」の存在を示唆しているのかもしれません。

吉岡は昼休みに洗面所に入り、鏡の前で「俺は出世する。断じて出世する」と呟きます(p99)。針問屋に入社したばかりの若者ですからね。呟くことにより、自分を暗示にかけ、圧迫感と不安感から逃れようとしているのでしょう。

人生とよぶ路の中で、全くひとりぼっちである自分


ハンセン病であると告げられた森田ミツも、新宿駅でどうしようもない悲しみにつつまれます。

この霧雨の降る新宿の人ごみの中で、―いや、人生とよぶ路の中で、自分が全くひとりぼっちであり、ひとりぼっちであるだけでなく、病んだ犬よりももっとみじめで見捨てられていることを彼女ははっきりと知った。(p175)

ハンセン病という過酷な運命に直面してしまえば、誰でもこんな気持ちになってしまうことでしょう。しかし現実には、激烈な競争に勝利して立身出世していった人物でも、ちょっとした偶然をきっかけにして全てを失い、世の人々から罵詈雑言を浴びることはいくらでもありますね。

ミツは「あたしだって三浦さんのように生まれたかった。あたしだって、もう少し綺麗で可愛いくて、吉岡さんの気にいられて、それからみんなにもやさしくしてあげたかった」(p175)と悩みますが、美人の三浦さんの人生も実は前途多難なものなのです。

どれだけ美しい方でも、パチンコの球を弾く存在が定める大きな運命には逆らえないのかもしれません。芸能人でそんな方はいくらでもいますよね。

ハンセン病の病院で働く決意をしたミツは、自分がひとりぼっちではないことを知ったと思います。そうであるなら、ハンセン病と誤診されたことは、ミツの心境の変化のきっかけになっていたのかもしれません。

誤診されなければ、いかがわしい酒場で働き続けていたのでしょうから、全くのひとりぼっちだ、見捨てられているという心境に何かのきっかけではまりこんでいってしまったかもしれませんね。

パチンコの球の行く末


吉岡が述懐するように、人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残すのでしょう(p254)。厳しい競争社会を生きる現代人はお互いの人生で次から次へと横切っていますから、痕跡は限りなく多く、深くなっているのかもしれません。

社会がそのように変容していったのが、パチンコの球を弾く存在の意思であるのかどうか、私にはわかりようもありません。

「大当たり」の穴に入ろうと、外れて落ちてしまおうと、パチンコの球は最後には消えていきます。大金持ちも貧乏人も、聖者も悪人も最後には誰もが死を迎え、後世にとっては先祖となる存在であることを見つめていきたいですね。












2012年11月25日日曜日

遠藤周作「わたしが・棄てた・女」より-人生をたった一度でも横切るもの-

遠藤周作「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)を読んで



現代人の毎日は本当に忙しすぎますよね。次から次へとやらねばならぬ仕事に追われている人は少なくないでしょう。

これは、インターネットやメールなどの情報伝達技術の発達により、情報伝達時間が飛躍的に短縮されたことと密接に関係しているのでしょう。メールや携帯電話だけでは全ての仕事が達成できるはずもありませんから、現代人は次から次へと他人と会っていろいろと対話をせねばなりません。

遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」のひとつの重要なメッセージは、「人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできない」(p150)ですが、この意味を私たちは仕事の合間に立ち止まって考えるべきではないでしょうか。

私たちは忙しすぎる毎日の中で、他人の人生に何らかの痕跡を残しているはずなのです。

女の子が欲しいなら、どんな女の子でもいいじゃないか


遠藤周作「わたしが・棄てた・女」は昭和23年の神田近辺の下宿から始まります。ぼく、という語り部吉岡努は親の仕送りを殆ど当てにできず、アルバイトに忙しい苦学生です。

昭和23年頃に学生で、朝鮮事変が始まった年、昭和25年(1950年)に大学を卒業できたとありますから(p97)、吉岡は昭和2年生まれくらいということになりますね。平成24年には85歳くらいになっているはずですね。

吉岡は、アルバイト先の農家の庭に落ちていた古雑誌を下宿に持ち帰っていたのですが、翌日それの「読者交歓室」に投稿していた森田ミツと言う娘と連絡をとることを思い立ちます。

「そうだ。女の子が欲しいなら、どんな女の子でもいいじゃないかと心の中で促すものがあった」(p25)

吉岡は彼女をものにするべく、雑誌を見て手紙を書きます。後に、吉岡は人生には偶然というやつがもっと働いていること、神が存在するなら、神はつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人間に見せたのかもしれないと述懐します。後の吉岡には、森田ミツこそ聖女です。

雑誌に投稿していた森田ミツは、「青い山脈」に出ていた若山セツ子のファンで、吉岡努に漢字間違いだらけの手紙を送ってくるような娘です。森田ミツの故郷は埼玉県川越市で、経堂の薬工場で給料三千円で働いています。

吉岡より少し年下なのでしょうから、平成24年には82、83歳位になっている方ということになりそうですね。

昭和23年の三千円が現在ではどれくらいの価値なのか、私たちにはわかりにくいですが、町工場で働く若い女性の給料を15万円と仮定すると、金銭の価値は現在の五分の一から十分の一くらいを目安にすればよいのではないでしょうか。下北沢の喫茶店のコーヒー価格が三十円とあります(p28)。

下北沢での出会い、小さい十字架と渋谷にて


吉岡努と森田ミツは、下北沢の駅改札で会いました。吉岡努ははじめから森田ミツの体が目的でした。森田ミツは、憧れのインテリ学生さんと会えるという気持ちで胸いっぱいでした。ミツはこのとき、四百円もってきていたとあります(p33)。これはコーヒー13杯分ですから、今なら五千円位持ってきたことになりそうですね。給料三千円のミツとしてはそれなりの大金です。

吉岡はミツを渋谷の酒場に連れていき、焼酎にサイダーを混ぜたものを飲ませます。吉岡は「好きなんだよ、君が」「好きになったから君とさっきの酒場にも行ったんじゃあないか。好きになったから一緒に歩いているんじゃあないか。」などとまくし立て、大和田町の旅館に連れ込もうとします。

ミツは拒否しますが、子供の頃小児麻痺を煩い、ゆがんだ右肩に時折激痛が走り、足の悪い吉岡の姿を見て、吉岡を受け入れる決意をします。

「安っぽい映画に安っぽいやくざが使うようなセリフ」(p47)を吐いた吉岡ですが、この日はミツをそのままかえしました。ミツはお守りとして、露店の横の救世軍の老人からすずを溶かしてつくった薄っぺらな小さい十字架を吉岡に渡します。

その次の日曜日、渋谷の旅館で吉岡はミツと関係を結びます。事が終われば、吉岡にとってミツは不要な存在でした。「もう二度とこんな娘とは寝たくねえや。一度やれば十分さ」と吉岡は心中でつぶやきます。
三十分後に二人は渋谷駅で別れますが、ミツは代々木駅までついてきました。一言もものを言わず、満員電車に乗りこんだ吉岡に向かってミツは叫びます(p69)。

「ああ、あんた」「いつ、今度、会って...」

その声が終わらないうちに扉がしまってしまいます。

ミツが吉岡に渡した十字架は、ビクトル・ユーゴの「レ・ミゼラブル」(ああ無情)でミリエル司教がジャン・バルジャンに渡した銀の燭台を思い起こさせますね。悪の道からジャン・バルジャンの魂を救い出すために、ミリエル司教はあえて、ジャン・バルジャンが教会から盗んだ銀の燭台を彼に与えたことにします。

しかし吉岡はこの十字架を歩道の溝に捨ててしまいます。十字架の意味を吉岡が悟るのは、ずっと後です。人生には、その時点でどういう意味があったのか丸っきり当人にはわからなくても、ずっと後に意味がわかってくるようなことはいくらでもありますよね。

御茶ノ水駅の改札で、吉岡の姿を求めて佇む森田ミツ


渋谷での別れの後、吉岡から再び連絡が来ると信じていたミツですが、半月以上たっても葉書も手紙も来ませんでした。下宿に行ってはいけないと固く言われたのだけれど、もし病気なら自分が行って世話をせねばと思い、ミツは御茶ノ水界隈の吉岡の下宿を訪ねていきます。

しかし、吉岡はすでに最後の部屋代と電気代をみ払いにして下宿を引き払っていました。何処に行ったのかわかりようもありません。御茶ノ水駅の改札口で、ひょっとしたら吉岡さんに会えるのじゃあないかとミツはぼんやり佇んでいました。

ミツとの再会とオデキの病気―ハンセン病


吉岡が森田ミツの消息を手にしたのは、大学を出て日本橋にある針問屋に勤めるようになってからです。出会いより二年後とあります(p113)。ミツは新宿歌舞伎町近くのソープで働いていたのです。吉岡の相手をしたソープ嬢の胸に、ミツが吉岡に買った小さな十字架がぶらさがっていたのです。ミツはこの店でソープ嬢ではありませんが、なぜか半年ほど働いていたのです。

ソープの後はパチンコ屋の店員、そのあとは川崎の「サフラン」という怪しげな酒屋で「咲子」という名で働いていました。吉岡は学生時代にアルバイトを紹介してくれた朝鮮人の助けを借りて、ミツの行方を突き止めたのです。ミツはオデキの病気でした。

 一週間ほどあとに吉岡はミツからひどく寂しく切なそうな文面の葉書を受取ります。川崎駅の近くの「ロッキー」という店でミツと再会した吉岡の心中は、ミツを今後、新宿の女をだくかわりの相手にしようというものでした。

愛しい吉岡にようやく会えたミツですが、ハンセン病に罹っていたのです。吉岡と会う四日前にミツは大学病院に行き、ハンセン病と診断されていました。吉岡の前でミツは、顔に手をあてて泣きます(p155)。

昭和25年当時ハンセン病は不治の病とみなされ、患者は隔離されていました。森田ミツのように真底の善人であるにもかかわらず、とんでもない不幸に見舞われる人々がなぜ存在するのか。これは遠藤文学の共通の問題意識でしょうね。ハンセン病の病院に勤めている修道女スール・山形は次のように言います(p209)。

「世の中には心のやさしい人ほど辛い目に会ったり、苦しい病気にかかったりするのね。何のために神さまはそんな試練を与えるのか、あたしもよく考えるわ」
「この不幸や泪には決して意味がなくはないって、必ず大きな意味があるって....」

森田ミツに襲う過酷な運命と吉岡がもたらした「幸運」


森田ミツの実母は幼い頃に亡くなっています。ミツは自分の存在が新しい母親の幸せを妨げることを幼い頃から感じていたので、故郷の川越から東京に出て働いていたのです。幼い頃に実母の死という大きな不幸だけでなく、ハンセン病患者とされてしまった不幸。ハンセン病にかかったというのは誤診だったのです(p215)。ハンセン病患者のために御殿場の病院で働く決意をするミツですが、さらなる悲劇に見舞われてしまいます。

大学病院のような専門的機関で誤診されてしまったのも悲劇ですが、ミツの腕に赤い痣ができなければ、ハンセン病などと診断されることはありえなかったはずです。

過酷な運命に押しつぶされてしまった森田ミツですが、ミツにとって吉岡は楽しい思い出の象徴でした。「寂しい人間には偶像が必要なのだ」(p24)とありますが、ミツにとっての偶像は吉岡だったのでしょう。

人の運命が生まれながらに定められているものなら、吉岡が偶然にアルバイト先の農家で古い雑誌を拾って持ち帰り、記事を見てミツに手紙を書いてくれたことは、ミツにとって人生で最も大きな幸運の訪れだったのかもしれませんね。

たまたま、農家に古い雑誌が落ちていなかったら、吉岡とミツが会うことはなかったのです。吉岡が別のところでアルバイトをしていたら、古い雑誌を拾うこともありえなかったでしょう。

二年後に、吉岡が店を探して川崎まで訪ねてきてくれたときも、ミツはどんなに感謝していたかわかりませんね。吉岡は二年前と同様に、ミツを新宿で抱く女のかわりにしようとしていただけでしたが、「もう一度、つきあいたい」という吉岡の言葉がどんなに嬉しかったことでしょう。

「しかしこの人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるのだろう。人生はもっと偶然というやつが働いている」と吉岡は後に述懐します(p25)。ミツは吉岡の目的はどうあれ、吉岡と出会えたこと自体が短い人生の中で最大の幸せだったのではないでしょうか。吉岡はミツの人生をわずかに横切って、大きな痕跡を残したのです。

吉岡はミツと出会い、ミツの悲劇の人生を知ったことにより、聖女の存在、そして神の存在を信じるようになっていったのかもしれませんね。ミツもまた、吉岡の人生に大きな痕跡を残したはずです。












 







2012年11月22日木曜日

浅田次郎「椿山課長の七日間」よりー魂は脳の一部なのかー

浅田次郎「椿山課長の七日間」(朝日文庫)に思う


人は死んだら何も無くなり、全てがおしまいなのでしょうか?それとも肉体は滅びても魂は残り、あの世へ行くのでしょうか?これは古来より、人類にとって永遠の問いでしょう。

浅田次郎「椿山課長の七日間」によれば、人は亡くなったあと、四階建てのビルにはいり、写真撮影の後審査をうけます。審査により、立派な生き方であったと係員に認定されれば、講習を免除されて④のエスカレーターに乗ります。エスカレーターの先には輝かしい光が射しています。

審査をする場所は通称SAC, Spirits Arrival Centerといいます。昔はここを中陰役所と読んでいたそうです。ここでの講習とは、極楽往生するためのものです。

現世が封建社会出会った頃は、SACも「六道輪廻」や「因果応報」という考え方にこり固まっていましたが、現世の進歩発展により、来世も近代化され、今ではほとんどの人が何らかの方法で極楽往生できるようになったそうです。

SACで講習を受けた後、犯した罪について「反省ボタン」を押せば罪をまぬがれ、極楽にいけます。

随分ユニークな死後の世界ですね。死者は閻魔大王の前で生前の行為について釈明せねばならない、などということは過去の話ということです。

46歳で急死した椿山課長、小学校2年生で交通事故死した連ちゃん、射殺されたテキヤの武田勇



46歳で百貨店の婦人服課長になった椿山和昭は、料理屋で会食中に突然吐き気をもよおし、洗面所で吐いた後、急死してしまいました。脳溢血かクモ膜下出血のようだと、椿山は死後考えます。

SACの審査により、「邪淫の罪を犯した」と認定されてしまった椿山は納得できませんでした。結婚前に、同期入社の女性社員佐伯知子と約18年間恋愛関係にあっただけなのですから。

SACによれば、邪淫の罪とは不倫などだけではなく、どのくらい相手を傷つけたか。おのれの欲望を満たす目的で、相手の真心を利用した罪、これが邪淫の定義です。

邪淫をこのように定義すると、男でも女でも相当数が邪淫を犯していることになりそうですね。佐伯知子からすれば、20歳からの18年間とはかけがえのない青春の日々でしょう。椿山さえその気になってくれれば、この期間に結婚し出産して子育てをしていくという道があったはずです。

椿山は佐伯を「セックスのできる親友」としか考えていなかったのかもしれません(p266, 和子の言葉)。

しかし、椿山は納得できませんし、残してきた妻子や、痴呆症の父のことも気がかりです。椿山は再審査を審査会に申請し、現世への逆送が認められました。

現世への逆送期間は死後七日間です。同じ日に亡くなり、現世でやり残したことがあるので再審査を申請した人が2人いました。一人は小学校2年生で交通事故死した根岸雄太、戒名にちなんだ呼び名が連ちゃん。

もう一人は見ず知らずの人間に人違いで殺された45才のヤクザ、武田勇。四代目共進会会長で、祭礼や縁日に出店を張るテキヤ稼業一筋の人間です。

それぞれ自分の死亡に納得がいかない3人が、現世に逆送されます。3人それぞれ、生前の姿とは正反対になって現世に戻り、会って確認したかったことや、やり残したことを少しずつ成し遂げていきます。その中で、生前には見えていなかった自分の周囲の人々の姿と真実を知っていく、という物語です。

人生劇場の主役と脇役


人は誰しも、自分が歩む人生劇場の主役ですね。また自分の配偶者や親子、友人が歩む人生劇場の脇役でもあります。劇中で主役の自分には見えていなかった自分の役割が、脇役の眼からみると明らかになってくることもあるはずです。

死んでしまった3人は、現世に七日間だけ戻ることにより、脇役の眼からみた自分を発見していきます。本当は、生きているときにこれができていたら随分違った人生になっていたのでしょうけれどね。自分を他人の眼から、客観的に見つめる。これはなかなか、できないものですね。

以下、この物語の中で、私が好きな部分を書き留めておきましょう。

逆送されるための「相応の事情」と「空疎な言葉の遊び」


死者が現世に逆送されるためには、「相応の事情」がなければなりません。相応の事情があれば逆送されるのですが、椿山に対応した係員によれば、逆送された人の半分くらいは「こわいこと」になるそうです。

下りのエスカレーターに乗り、どんよりとした瘴気の立ち込める暗い場所に降りていきます。「相応の事情」があるのでリスクを犯してまで逆送されて思いを達成しようとする椿山に対し係員は次のようにたたみかけます(p85)。

「だからさあ、その相応の事情が何だっていうんだよ。あんた、生きているときに生きるべき相応の事情なんて考えたか。死ぬときに死ななきゃあならない相応の事情なんて考えもしなかったろう。その程度の人間がだね、生き返る相応の事情なんて、おかしいとは思わないのかよ」

椿山は係員のこの言辞に対し、「こいつはたぶん、若い自分に学生運動をやっていたのだろう」「空疎な言葉の遊び...」と感じました。

係員の言辞は、いかにももっともらしいように聞こえますが軽薄ですね。要は、自分にとって面倒だから、お前は思いを達成することなど諦めてしまえ、というだけのことなのです。自分の主張が社会を運営するために現実的なことなのかどうか、一切考えない学生運動家の主張と一脈通じるものがありますね。

泣いたり憎んだり悩んだりする間に、一歩でも前に進め


自宅や元恋人佐伯和子の家を訪れるうちに椿山は、妻の背信を知ります。新婚旅行で幸福そうな表情をしていた妻はそれほど幸福ではなかったのです。

結婚当初からずっと妻は、人生に妥協してしまった自分と闘い続けてきたのでした。妻の心の闇に気づくことのなかった自分を椿山は呪わしく思います(p341)。

自分の血を分けた子供と思っていた長男も、実はそうではなかったのですが、死者となった椿山にはそんなことはどうでも良いことでした。椿山は生前と似ても似つかぬ姿で息子と会い、つぶやきます(p379)。

「人生はおまえの考えているほど長くはない、泣いたり憎んだり悩んだりする間に、一歩でも前に進め。立ち止まって振り返る人間は、決して幸せになれないんだ」

椿山が息子に託したこの言葉は金言ですね。ときには立ち止まって振り返ることも必要なのでしょうけれど、前に進めるような振り返り方をしないといけないのでしょうね。前に進むこととは何か。それを模索しつつ生きていかねばならないのでしょうね。

似ても似つかぬ姿の親分から親心を感じた子分―魂とは脳の一部なのか


テキヤだった武田勇は、自分の子分たちにも会いに行きます。逆送のときのルールにより、自分が死者であることを誰にも明かすことはできません。

しかし、子分の一人は、生前とは似ても似つかぬ姿の武田勇と話を交わすうちに、もしや親分が戻ってきたのではと思い、「親分!」と叫びました。見知らぬ男の中に霊魂を感じるほど、子分は亡くなった親分を慕っていたのです(p305-306)。

霊魂を感じるほどの死者への思いとは、私には現実に有りうる事のように思えます。人の思い、心の波とは、脳のどこかの部分の働きなのでしょうか。

魂とは単なる脳の一部なのでしょうか。これは永遠の問いでしょう。












2012年11月18日日曜日

遠藤周作「さらば、夏の光よ」雑感

 遠藤周作「さらば夏の光よ」(講談社文庫)


私がこの小説を初めて読んだのは高校生のときですから、もう34、35年前のことになります。当時印象に残ったのは、小説のあらすじもさることながら、小説の舞台となっている御茶ノ水界隈の風景と、大学生の生活スタイルでした。

私は当時千葉県に住んでおり、御茶の水はさほど遠い地域ではなかったのですが、やはり知らない街ですからね。わかりようもありません。

「学生たちの群れが流れていく駿河台の坂道」「日仏会館のある静かな屋敷町」とはどんなところなのだろうか。そうした街で繰り広げられているであろう大学生たちの青春に、思いをめぐらせていました。

この本の語り部は短大でフランス文学を担当している「周作」という作家です。周作先生の講義は、フランス文学史ではなく、「一冊の本をどう噛みしめるか、噛めばどう味がするかを伝えたい。一頁だって一行だって、小説家は無駄に書いてはいない」(文庫本p13)というものです。

こんな文学講義、是非受けてみたいですね。高校生のころの私もそう思っていました。

私の思い出話はさておき、この小説をごくごく簡単に紹介しましょう(講談社文庫)。
小説の舞台は昭和30年代後半の御茶ノ水界隈の短大と、信州塩名田です。

短大の男子学生、格好よい南条と不細工なことこの上ない野呂文平、長い黒い髪と大きな眼の女子学生戸田京子3人の哀しい物語です。アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」の広告が映画館に出されている頃の話ですから、昭和35、36年頃ということになりますね。

その頃に短大の学生だった3人の年齢を逆算すると、昭和15、16年生まれということになりますから、現在では70代前半ということになります。

戸田京子に恋した南条は、周作先生の恋の指導と親友野呂の協力により、戸田京子の心を射止めます。南条は戸田京子を故郷の信州塩名田、親元に連れていき、お互い婚約者となりました。南条は周作先生の紹介で出版社に就職し、戸田京子は広告会社に就職します。

戸田京子は南条の子供を体内に宿します。近く結婚することになった二人。二人にとって限りなく幸せな日々でしたが、突然の悲劇が訪れます...。悲劇はさらなる悲劇を招いて行きました。

ずんぐりと太って背が低く、真ん丸な顔で細い眼の野呂文平


この物語の第一の主役は、野呂文平でしょう。ずんぐりと太って背が低く、真ん丸な顔で細い眼の人物です。こんな容貌では、いかにも若い女性から毛嫌いされそうですね。

容貌とは、ある程度生まれつきのものですから、遠藤はこうした容貌の人物を描き出すことにより「宿命」を描きたかったのでしょう。神の所業ともいうべき「宿命」と、それと抗いつつも何も得られず敗れ、滅んでてしまう人々の姿。これは遠藤文学に共通する人間像ではないでしょうか。

眼には一種、兇暴にもみえる光がかがやいた―南条ー


野呂と対照的な青年南条は、周作先生に戸田京子の評価を尋ねます。南条の眼には一種,兇暴にもみえる光がかがやいた、とあります(p27)。南条は貧乏学生ですが、将来必ず大きな仕事をしてやるぞ、といった野望と情熱に満ちた青年なのでしょう。

短大の卒業式の日、南条は赤坂の小さいが小綺麗なロシア料理店で戸田京子に求婚します。京子が自分に好きな人がいたらどうするのか、諦めるのかと聞かれたとき、断じて諦めない、どうしても君を奪ってやるぞ、と大きな声で言い返します。

南条に惹かれていく戸田京子


若さいっぱいですね。南条のこの返事に戸田京子はびっくりしたでしょうけれど、本当はとても嬉しかったのではないでしょうか。戸田京子はこのとき、南条となら生涯寄り添っていけるのかな、と無意識かもしれないですけれど、思い始めていたかもしれませんね。

当惑しつつも、ロシア料理を食ながら戸田京子は南条の表情や声調、言葉が心に響いて、南条に惹かれていったのでしょうね。

周作先生への手紙で戸田京子は、「朝、雨戸をあけると思いがけなく、パアッと陽がまぶたにあたったように、私は彼の婚約者となった」と述懐しています。無意識のうちに、南条を感じ始め、周作先生の仕掛けをきっかけにほのかな想いを持つようになっていったのでしょうね。

周作先生の仕掛けにかかった戸田京子―青白く燃える怒りの炎


周作先生の仕掛けとは、南条が戸田京子と切支丹の展覧会を見に行く約束をしているとき、周作南条の昔からも知り合いと称する若い女性が南条とばったり出会い、戸田京子の目の前で親しげに「ボクちゃん、ボクちゃん」と呼びながら次から次へと機関銃ののように話をする、というものです。

この女性は周作先生の従兄妹です。完全に無視された戸田京子は、次のように怒っていました。

その眉とみけんのあたりや、頬のあたりに何か鋭い怒りの炎のようなものが青白く燃えているーそんな怒り方だった。

戸田京子は南条に恨みと非難と怒りのこもった眼をむけて、「さよなら」と言って展覧会場を去ってしまいます。この日の夜に戸田京子は南条の下宿に電話をかけ、自分以外と交際しないって約束して頂戴、と言います。

ここまでなら、何でもない若者の恋の物語であり、南条と戸田京子は幸せになった、という話になってしまいます。しかし次に突然出てくる戸田京子の周作先生への手紙で、幸せいっぱいの若者たちを襲った悲劇が明らかになります。

戸田京子に訪れた過酷な宿命



戸田京子の手紙に記されている「主人」という語は、ここまでの話なら南条を指すしかないはずですが、どういうわけか戸田京子は小肥りでまるい顔、細長い眼、そして猪首の野呂文平と結婚していたのです。

南条と戸田京子は、結婚の約束をしていたのですが、交通事故で突然亡くなってしまったのです。戸田京子が病院に到着する30分前に南条は亡くなっていました。

南条の死に目にすら会えず、南条の手を握ること、祈ることすらできなかったと雨降る墓地で戸田京子は悔やみました。南条がいない以上、自分がこの世界に生きていて何の意味があるのだろう、と思った瞬間、お腹の中で赤ちゃんが動きました。

死んではならぬ自分に気づき、戸田京子は自分ひとりで、南条の子供を生み育てる決意をします。

そんな戸田京子に、野呂文平が求婚してきたのです。戸田京子は当初は野呂を徹底的に拒否しましたが、老いた両親は娘が「未婚の母」となることを何より恐れ、野呂との結婚を懇願します。憔悴した老親の姿をみて戸田京子はついに結婚を承諾します。

結果から見れば、この結婚が大きな過ちだったのでしょうね。南条の事故死はどうしようもないことですが、この結婚は老親がどうあれ、戸田京子の選択でもあったのですから。

しかし野呂文平が戸田京子に求婚しなかったら、戸田京子は野呂と結婚することもなかったのですから、戸田京子にとっては野呂の求婚それ自体が悲劇でもありました。

野呂文平を生理的に嫌う戸田京子、さらなる悲劇


戸田京子は、野呂文平を初対面から生理的に嫌っていました。「そばにいられるだけで身震いがするほどイヤなんです。彼が吸っている空気を自分も吸っているーそう感じただけで肌に粟がたつような嫌悪感」(講談社文庫p79)とあります。

少なくない女性にはこうした経験があるようですね。しかし戸田京子は、野呂を好きになるべく、随分努力したようです。野呂の好きな小鳥の世話を嫌悪感に耐えながらやったのです。

特有の臭いにする糞をする九官鳥の世話すら、戸田京子は吐き気をこらえながらやりました。そんな戸田京子を見て、野呂は友人の子供に九官鳥をやろうとしますが、戸田京子のやめてよ、の一声で野呂は九官鳥をもとに戻します。

このとき、九官鳥を友人の子供にあげていれば、戸田京子は野呂を多少見直したかもしれませんね。野呂の限りない善人さそれ自体が、戸田京子にとって嫌だったのです。

戸田京子は、南条の子供を生んで育てることだけを思い、暮らしていました。しかし出産予定日に、赤ちゃんは死産になってしまったのです。

戸田京子に残された道は、南条の思い出がいっぱいの塩名田で、死を選ぶことしかなかったのです。

恐らく、浅間のどこかの山からの飛び降り自殺でしょうね。南条の死、野呂の求婚、赤ちゃんの死産という、3つもの過酷な試練に、戸田京子は耐えられなかったのです。

 多分戸田京子は、どこかの尾根から飛び降りて息を引き取る前、小鳥のような死を迎えたのではないでしょうか。少なくとも、野呂は戸田京子の死に方をそのように想像して生きていくでしょうね。野呂によれば、息を引き取るとき、小鳥は一度だけ大きく眼を開くのだそうです。

白い膜が眼にだんだん、かかってくるのに、一生懸命、眼を開くそうです(文庫p40)。

宿命を背負って生きる野呂文平


残された野呂は、戸田京子の墓地を南条の墓地と同じところにつくり、遺体をそこに埋葬することにしました。人は善意だけでは生きることができない、善意がむしろ他人には重荷、苦痛になってしまうこともあると野呂は知りました。

戸田京子の杖になろうとしたことそれ自体が、戸田京子に限りない苦痛を与えていた、自分はどうしようもない罪を犯してしまったのではないか。野呂はこれからの人生をずっと、そんな思いを抱えつつ生きていかねばならないでしょう。

亡くなった二人の宿命を、善意そのものの化身のような野呂も背負うことになってしまったのです。

雪に覆われた浅間山界隈の荒野に飼っていた十羽の十姉妹を野呂は放ちました。かよわい十姉妹だからこそ、放たなくちゃあいけない。野呂はそう思ったのです。長く飼われている十姉妹は飛ぶ力もさしてないので、雑木林まで飛ぶのが精一杯だったでしょう。

餌をこれからはもらえないのですから、さして長生きできないかもしれません。

それを知りつつ,あえて十羽の十姉妹を荒野に放った野呂は、過酷な宿命を背負いながら、生き抜く決意を固めていったのではないでしょうか。雑木林まで飛ぶことができれば、過酷な宿命に少しでも十姉妹は抵抗したことになる。

鳥籠の中で餌をもらって長く生きる命より、過酷な自然に抵抗して、短くも精一杯生きる命を選ばせたい。そんな思いだったかもしれませんね。

多かれ少なかれ、人は誰しも何らかの宿命を背負っているのでしょうね。人生は、何らかの選択の連続です。出逢いと別れは、ちょっとした自分の選択行為により、あたかも必然的なように訪れてしまいます。

あのとき、こんなことをせずにあのように行動していたら、自分のその後は大きく変わっていたかもしれない。そんな思いに浸った経験は、多少齢を重ねた人ならば誰でもあることでしょう。

些細な選択それ自体が、宿命だったのかもしれません。南条が戸田京子との待ち合わせの場所に行くとき、別の道を選んでいたら交通事故に遭わなかったのかもしれないのです。

大きな運命、宿命には誰も逆らえないのでしょう。それでも、少しばかりは宿命に抵抗して生き抜きたいものです。

白い膜が眼にだんだんかかってくるにも関わらず、一生懸命眼を開く死ぬ前の小鳥は、宿命に逆らおうとする、ちっぽけな人間たちの姿なのでしょう。












































2012年11月12日月曜日

遠藤周作「イエス巡礼」(文春文庫)を読む

 名画を通して迫ったイエスの生涯


私はキリスト教信者ではなく、キリスト教の歴史や教義については殆ど何も知りません。ですから、遠藤周作「イエス巡礼」(文春文庫)が、キリスト教研究史の中でどういう位置を占めているかは、わかりようもありません。

しかしこの著は、私のようにキリスト教、イエスの生涯や西洋の宗教画について無知ではあるが、少しずつでも知りたいという気持ちを持っているものにとって、格好のものと思えます。

この著には、処女マリアの「受胎告知」の描いた絵(p12)や、イエス生誕の絵(p29)、イエスが驢馬に乗ってエルサレムに入る時の絵(p124)など、イエスの生涯のある時期を象徴するような絵と、それらに対する遠藤周作の解釈が記されています。

聖書や西欧の宗教画に詳しい方なら、それらが聖書のどのような部分にあるのか、同じ場面を描いた他の宗教画とどう違うのか、すぐにわかるのでしょう。

数々の名画とそれに対する遠藤の解釈の中で、私には「最後の晩餐」の絵(p132)とその解釈が印象に残りました。

「最後の晩餐」を遠藤周作はどう考えたか


遠藤によれば、「最後の晩餐」はイエスとその弟子たちの静かなひとときではなく、イエスに期待と好奇心を描いた巡礼客がその食事の家を取り囲んでいたと考えられます。イエスとその弟子ユダの間に論争がありました。

ユダは、イエスを地上的な救世主にしようと考えるグループの代表でした(p135)。しかしイエスは愛の神と神の愛を説き、最後の晩餐でユダと論争しました。イエスはユダの考え方を退け、ユダたちは晩餐の席から退出していったと遠藤は考えます。

晩餐の家には、イエスを反ローマ運動の旗頭としたいという群衆もいたのですが、彼らもユダとともに席をたちました。

民衆はイエスを反ローマ運動の英雄として歓迎したのであり、「最後の晩餐」はその期待が幻滅に変わる場面でした(p137)。

私には遠藤のこの解釈が、初期キリスト教の歴史学研究から考えて適切かどうか、判断する能力は全くありませんが、歴史的事実の究明はそれとして、大事なことは古代人の生きざまを私たち自身が、私たちなりに思考することではないでしょうか。

イエスの生涯への思い―自分の生き方と死に方をみつめるために


イエスとその生涯について、凡人の私たちも多少の頭をひねり、思いを馳せることそれ自体が、貴重な知的作業ではないでしょうか。

西欧では古来より多くの優れた芸術家や知識人が、聖書の場面をそれぞれの考えで解釈し、イエスの生涯について思いをめぐらしてきたのです。

その思考過程を我々なりに再体験すると、自分のこれまでのありさま、心の旅路のようなものが見えてくるのではないでしょうか。

物語を読むときは誰しも、自分の体験と多少関連付けて考えるものです。

自分の生きかたと死にかた、自分のこれまでの心の旅路を、イエスの生きかたと死にかた、心の旅路を考えるなかで見つめ直すことが、忙しくて自分の姿が見えなくなっている現代人に必要な思考法の一つではないでしょうか。

人は誰しも、旅人なのでしょうからね。

過酷な運命に立ち向かうイエス


イエスの生涯は、素人判断では報われるものがほとんどなく、最期があまりにも苦しいものだったように思えます。

「最後の晩餐」は静かで厳粛なものではなく、喧騒の中で行われた。ユダたちが去っていくとイエスは自分がどうなっていくか、予見していた。それでもイエスは、自分に与えられた使命を果たすべく過酷な運命に立ち向かっていった、という遠藤のイエス解釈は、私の素人判断では、現実にありそうに思えてなりません。

真の偉人は偉人であるが故に、その言動の素晴らしさは同時代の人々には理解しがたくなってしまうのかもしれません。

イエスは生前、ほとんど報われず、ある意味では孤独と絶望の淵に沈んで生涯を終えてしまったのかもしれません。

それでもイエスは自分が十字架で苦しみながら死ぬことが、去っていった弟子たちのため、後世のためになるかもしれないと見抜いていたのかもしれませんね。

誰しも死ぬのなら、死ぬべきときがある。神への絶対的な帰依を十字架で説くことが、自分の使命だとイエスは思ったのではないでしょうか。





2012年11月9日金曜日

殺し屋稼業に生きる男、The Man with the Golden Gun

敵対組織の首領を除去するために


悪行を重ねるためには奸智が必要ですが、徹底的な暴力、力を誇示せねばならないときもあるのでしょう。
あるときには、利害の敵対する組織の首領を除去せねばならないでしょうね。敵の首領殺害を、自分の部下にやらせれば自分たちの仕業と発覚してしまいます。

一匹狼の暗殺者に、金を払って殺人を依頼すれば良い。そういう話にもなりうるのでしょう。

30数年前の007映画「黄金銃を持つ男」(The Man with the Golden Gun)のテーマ曲は、Luluによるものです。

この歌は、殺し屋稼業に生きる男、最高の暗殺者an assasin second to noneを力強く歌っています。

この暗殺者は黄金銃を持ち、百万ドルで殺しを引き受けるそうです。


黄金は力の象徴なのでしょうか。古来より、人々は黄金を求めて争ってきたとも言えますよね。

この暗殺者は普段から、黄金銃を衣服に隠しているのでしょうね。殺した相手方から復讐され、狙われていることをいつでも意識して生きねばなりませんからね。

黄金銃を持つ男は、どうやって殺しを実行するのでしょうか。標的の居場所を嗅ぎ付けたら、どうやって接近するのでしょうか。

標的を待つ黄金銃を持つ男

(歌詞をむやみに書く事は著作権上、問題があるようなので、削除)

次のような歌詞があります。


どこかの暗がりに隠れている奴

屋根の上で、近づいてくる標的から見えないように身をかがめている奴


殺しの前のひととき


殺しの前に奴はひとときの愛を求める

誰も奴を捕まえることなぞできやしない。

最後に頼れるのは


私が翻訳するとあまり原曲の雰囲気がでません。Luluは力強く、躍動感あふれるリズムで暗殺者の生きざまを歌っています。

自分のすべてを賭けて、与えられた目的を着実に断行する暗殺者。自分自身がいつ、標的になるもやもしれないことを知りつつも、黄金銃を持つ暗殺者は走り続ける。

世の中を生き抜くのは厳しいものですよね。誰しも、最後に頼れるのは己のみです。誰しも明日のことは結局よくわからない、そんな気持ちを持ちつつも走り続けているのではないですか。

暗殺という、陰惨な目的を屋根の上に潜んで断行する男の力強い姿を思い浮かべながら、躍動感あふれるこの歌を聴くと、なぜかやる気が出てきませんか。
















 

黄金指の大悪党,Goldfinger


大悪党の強い意志と才覚


悪党とは、何らかの意味で力のある人間なのでしょうね。奸智に長けた人間であるなら、頭の回転が速いのでしょう。腕っ節の強い人間でなければそもそも暴力を振るうことはできませんね。悪党のボスは、部下を心服させ統率するような操縦力がなければ、ボスの地位を保てないでしょうね。

悪党とは、道徳的には勿論悪人ですけれど、悪いことを実行し続ける強い意志と才覚をもっている人間なのでしょうね。

Goldfinger, Dame Shirley Bassey


私は007の映画はさほど好きではありません。アクションが極端すぎるような気がしますし、おとぎ話というほどでもないからです。各国は諜報機関を持っていますからね。物語として中途半端なように感じます。

でも、007のテーマ曲は素晴らしいものが沢山ありますね。Goldfingerは、歌詞をそのまま読めば悪党を礼賛するものですが、大事なのは読み方ですよ。私には、大悪党の強力な意思と強靭な体力、奸智に長けた悪党の才覚を高らかに歌いあげることにより、凡人の我々を励ましてくれているような気がします。

Goldfingerは48年くらいまえの007映画で、テーマ曲を歌っているのは英国の美空ひばりともいうべきDame Shirley Basseyです。

気迫に満ちた歌い方をしています。声量もさることながら、指と腕の使い方が素晴らしいですね。指の絡ませ方で、歌詞の次の部分、悪党の奸智を表現しているのでしょうね。

黄金指を持つ大悪党は、the midas touchの能力を持っているとあります。

the midas touchのmidasとは、ギリシャ神話に出てくる、触るとすべての物を金に変えてしまう王様のことだそうです。次の一節があります。


黄金指を持つ奴は、すべてのものを黄金に変えることができるのさ。


A spider's touchとは、蜘蛛が触ることですが、飛んできた蜘蛛が手に触れてしまうとぞっとしますよね。軽い感触で、冷たそうですね。



黄金指を持つ奴は、その冷たい指でお前を罪悪の蜘蛛の巣に引き入れようとしている。


黄金の言葉を奴はお前の耳でささやくだろう。



私が翻訳すると原曲の味が出ませんね。Dame Shirley Basseyの格調高き振り付けは、you tubeでも見ることができますよ。

黄金指を持つ奴の黄金の言葉とささやき


すべてのものを黄金に変える、黄金指を持つ奴がささやく黄金の言葉、ささやきって、どんなものなのでしょうね。黄金指を持つ奴の作った奸智の計略とはどんなものなのでしょうか。

若い女性なら、思わずそんな奸智に騙されてしまいそうですね。大悪党ならば、部下や若い女性を
心服、魅了するような夢を描けなければならないはずです。

大悪党ならば、敵の策略を見破ることができる知恵と、大事な場で冷静に物事を判断できる力を兼ね備えているものなのでしょうね。

大悪党への徹底的な讃歌を聴くと、凡人の私たちもなぜか励まされてきませんか。

勿論これは、大悪党は皆素晴らしい、ということではありえません。この歌は黄金指を持つ男という架空の存在を描くことにより、人間のひとときの、ある一面を極端化して描いているだけですからね。

架空の存在の凄みを、言葉から心中に描き想像することにより、現実の我々の心の世界は広がっていくのでしょうね。















2012年11月7日水曜日

井上靖「天平の甍」より-時代と運命の大波の中で-

若い頃の夢と今の自分


若い頃に、これこそが自分に与えられた使命だと思っていたことが、降り注ぐ歳月の中で実現できた人は幸せなのでしょうね。

しかし、自分の使命と思って数十年かかってやったことが、荒ぶる自然により雲散霧消してしまう人もいるかもしれませんね。それも運命なのでしょうか。予想もしなかった出来事が私たちの生き方、その後の生きる道を大きく変えてしまう。それはさほど珍しいことではないかもしれません。

私の好きな小説の一つ、井上靖の「天平の甍」(新潮文庫)は、運命と自然の力に翻弄されつつも自分なりに生き抜いていった僧侶たちの姿を描いています。

伝戒の師を招くために


井上靖の「天平の甍」の時代は、聖武天皇の天平四年、西暦でいうと732年とあります。遣唐使が送られていた時代の物語です。

この本によれば、当時の日本にはまだ戒律が備わっていませんでした。そこで伝戒の師を招いて、日本に戒律を施行すべく、二人の若い僧侶、大安寺の僧普照と興福寺の僧栄叡が唐に送られました。

同じ船に筑紫の僧侶戒融と紀州の僧玄朗がいました。この4人の若い僧侶が、大波に揺らされつつも進んでいった遣唐使船のように、運命とたたかいつつも生き抜いていく姿が描かれています。

私はこの時代の船の模型を見たことがありますが、どうやってこれで大海原を渡ったのだろうと思いました。信じられないくらい小さいのです。多少の波で大揺れになってしまうでしょう。


物語では、4人の青年僧侶が乗った船は筑紫の大津浦を出てから三か月以上経って漸く蘇州に漂着します。唐では、玄宗の治世でした。玄宗の愛妃は楊貴妃です。唐の最盛期でしょうね。

分かれていく4人~具足戒を得て出奔、妻帯した僧侶たち


唐に渡った4人はその後どうなったのか。詳しくは物語を読んでいただくとして、到着して二年後に4人は「具足戒」を受けます。これが仏教の中でどういう意味なのか、私にはよくわかりませんが、本の脚注20によれば、比丘・比丘尼の具えなければならない戒律で、この戒を持すれば、徳はおのずから具足するとあります。

しかし受戒後まもなく、戒融は広い唐の地を歩いて何かを見つけるべく、出奔してしまいます。暫く後に玄朗は僧侶としての地位を放棄し、中国人の妻をめとり2人の子供を得ます。当時の仏教界の常識ではこの人たちは、堕落したことになるのでしょうね。

高僧鑑真を日本に招く


伝戒の師を日本に招くという使命を背負っていた栄叡と普照は、ときの高僧鑑真と出会います。栄叡は韓進に伝戒の師の推薦を要望します。鑑真は弟子たちに誰か行くものはないかと問いますが、誰も行こうとしません。

仏法興隆のためなら何も惜しまない、強力な意思を持つ高僧鑑真は、「お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」と渡日を決意します。
鑑真と、十七名の高弟が日本へ渡ることが須臾の間に決まったとあります(p70)。

そうはいっても、渡日は簡単ではありません。荒波に船は何度も押し戻されてしまいます。その過程で栄叡は病に伏せり、亡くなってしまいます。

異彩の僧、業行


物語には4人の僧侶のほかに、生涯を写経に捧げた僧侶、業行が登場します。業行は在唐20数年で、寺を渡り歩いては経論を写しました。五十歳近く、小柄で脆弱な体とあります(p42)。業行によれば、今の日本で一番必要なものは一字の間違いもなく写された経典です。業行は次のように語ります(p169)。

私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。..。

業行は生涯をかけて写した経典を日本に運ぶべく、帰りの遣唐使船に乗りますが、本土到着を目前にして自分も経典も海の藻屑となってしまいます。屋久島のあたりでしょうか(p171)。

別の船に乗っていた普照には、夢の中で業行の悲痛な絶叫が聞こえました。普照は青く透き通った潮の中、海底に次々と沈んでいく経典が見えました。

日本に着いた鑑真と普照、そして戒融


幾多の困難を乗り越えて、鑑真とその一行日本に来ました。4人の青年僧のうち、このとき帰国できたのは普照だけでした。その後戒融も優婆塞一人を伴って唐から渤海国を経て帰国したが、途中暴風雨に会い、船師は優婆塞を運に投じたということが古い記録に載っているとあります(p187)。戒融の愛妻が海の藻屑となったということなのかもしれません。

時代と運命の大波の中で~業行の生涯


誰しも、時代と運命の大波には逆らえないのでしょうね。この物語の登場人物の世界観、価値観では、経典をもっぱら写しまくるなど殆ど意味のないことでした。しかし、その後の日本と仏教の歴史を考えれば、徹底的な写経こそが最も貴重なものだったはずです。私の知る限り、中国の仏教者たちは印度から持ち帰った経典を漢語に翻訳すると廃棄してしまいます。古代の経典は中国や印度よりもむしろ、日本に残されている場合が少なくないはずです。業行が写したという諸経典が日本にわたっていれば、その後の仏教界は大きく変わっていたかもしれないということになります。

しかし、当時の最高の秀才とされていた高僧の智慧をもっても、そのような歴史の流れを見通すことはできませんでした。凡僧とみなされていた業行のほうが、遥かなる時の流れを見通していたのです。

異彩の僧業行の姿は、人は誰しも時代と運命の大波には誰しも逆らえないこと、その中で自分なりに生き抜いた人々の気高さを感じさせますね。私は「天平の甍」の登場人物の中でこの業行が最も好きです。

写した経典は業行とともに全部海中に消えたのですから、ある意味では業行の生涯は全くの無駄だったということになります。遣唐使の時代には沈んでしまう船は少なくなかったのですから、海中に絶叫とともに沈んでいった僧侶はいくらでもいたでしょう。彼らが写したであろう経典がどれだけ沈んだか、誰にもわかりません

「天平の甍」の解説では、業行の事業はより壮大な規模で時代の空海に受け継がれていったことになると記されています(p212)。先人の思いを受け継ぐものがいれば、その時代の人たちには達成できなかった夢や事業が実現できるということでしょうね。

今の私たちは、無数の先人の事業の上に立っていることを忘れないようにしたいですね。古来より何千万、何億人もの業行がいるのでしょう。




2012年11月5日月曜日

「第三の男」とハリーのテーマ


今はDVDが普及していますから、本当に好きな映画を何度も見て、あらすじや有名な場面を詳細に語れる人は多いでしょうね。でも、次から次へと仕事が入って、ゆっくり映画を見ている暇もない人も多いでしょうね。

私はその中間くらいです。

ですから、映画のあらすじを忘れてしまっても、何となくあるシーンが印象に残り、ふとしたときに脳裏に蘇る...そんなことが時折あります。

私にとってオーソン・ウェルズの「第三の男」はそんな映画の一つです。

ウィーンと大観覧車、「ハリーのテーマ」


この映画の舞台は二次大戦後のウィーンでした。
定かではありませんが、オーソン・ウェールズ演じるハリーが、大観覧車の傍で出てきたように思います。有名な「ハリーのテーマ」が、映画の中でいつ流れたのか、覚えていません。この音楽は旅情あふれるもののように私には聴こえます。

並木道のラストシーン


ラストシーンでは、並木道を遠くからヒロインが歩いてきて、去っていく。男はそれを黙って見つめていました。この男女はもう会うこともないのでしょうね。誇り高い女と、彼女への思いを心に抱きつつも、新たな生き方を模索すべく、黙って彼女を見送る男。

人は皆、旅人なのでしょうね。そう思うと、「ハリーのテーマ」も、旅立っていく人への讃歌のように聴こえてきませんか。

私は楽器のことは何もわからりません。「ハリーのテーマ」で演奏されている楽器は一体何でしょうか。ギターではなさそうに思えるのですけれどね。

オーストリアなど、東欧や中欧はジプシーが多い地域です。ジプシーが使っている楽器や、彼らが演奏する音楽にも、似たものがあるのかもしれませんね。ジプシーは、「流浪の民」ですね。
 

 

2012年11月3日土曜日

心の試練と先人への思い、中島敦「李陵」

心の試練と先人への思い



 年を取れば誰しも、生きていく中でいろいろな壁にぶちあたりますよね。仕事のこと、人間関係のこと、思いもよらなかった苦しみと挫折...。これを何とかしないとどうにも前に進めないのだけれど、いったいどうすればよいのかわからない。

どんな道を選んでも、苦しく、大変な結果しか得られないかもしれない...。

自分が泥沼にはまり込んでいるような気分、そうした経験は多かれ少なかれ、誰でもあることでしょう。

そんなときこそ、心の試練のときなのでしょうね。たましいが試されているようなときなのでしょう。

先人への思いと中島敦「李陵」


泥沼からの脱出策として、特効薬のようなものはないと思います。でも、誰しもそうした経験はあるはずですから、先人の経験に思いをはせることは大事ではないでしょうか。

古代中国、漢の時代の歴史家司馬遷は、匈奴に投降した李陵将軍を擁護して、ときの皇帝武帝の怒りをかい、宮刑にされてしまったそうです。宮刑とは、男子の性器を切除するという、残酷なことこの上ない刑罰です。中国には古代から清の時代までありました。

自らこの手術をする人もいました。その人たちは皇帝の近くで働きます。宦官と言います。

司馬遷は李陵将軍を擁護すれば、武帝が激高することを十分に予想していたはずですね。死刑も予想していたはずです。ではなぜ司馬遷は、李陵を擁護したのでしょうか。

司馬遷は日々,過去の英雄の話を聞き集めて英雄とは何か、いかに人は生きるべきかを考えていたはずです。あるいは、李陵の投稿を許容せねば何らかの形で他の要因が働き、漢王朝の存続が困難になる、という判断もあったのかもしれません。

司馬遷としては、自分がこの局面でどのような主張と態度をとるかが、後世の歴史家に評されることになると思ったのではないでしょうか。

英雄も凡人も富者も貧者も結局死ぬのです。生き方も大事ですが、死に方も等しく大事な場合がある。そう判断した司馬遷は、先人と後世をみつめて李陵擁護論を展開したのではないでしょうか。

中島敦の傑作「李陵」はそんな風に、司馬遷を描いていたと思います。

泥沼に浸かってもいつかは這い上がる

司馬遷が直面したほどの苦しみに、現代の我々がぶち当たることは少ないはずです。いろいろ考えても、うまい解決策が見つからない場合は、先人と後世に思いをはせて決断するしかないのでしょう。

その結果、さらに泥沼に浸かるようなことになっても、それは自分なりの選択なのですから、いつかは泥沼から這い上がれるはずです。

良い音楽を聴くと、泥沼と思っていた自分の状態がそうでもないな、と思えてくることもありますね。The Sound of Silenceをじっくり聞いてから、The Immigrant Songを聴くと、何となく力が湧いてくるような気がしませんか。