2012年11月22日木曜日

浅田次郎「椿山課長の七日間」よりー魂は脳の一部なのかー

浅田次郎「椿山課長の七日間」(朝日文庫)に思う


人は死んだら何も無くなり、全てがおしまいなのでしょうか?それとも肉体は滅びても魂は残り、あの世へ行くのでしょうか?これは古来より、人類にとって永遠の問いでしょう。

浅田次郎「椿山課長の七日間」によれば、人は亡くなったあと、四階建てのビルにはいり、写真撮影の後審査をうけます。審査により、立派な生き方であったと係員に認定されれば、講習を免除されて④のエスカレーターに乗ります。エスカレーターの先には輝かしい光が射しています。

審査をする場所は通称SAC, Spirits Arrival Centerといいます。昔はここを中陰役所と読んでいたそうです。ここでの講習とは、極楽往生するためのものです。

現世が封建社会出会った頃は、SACも「六道輪廻」や「因果応報」という考え方にこり固まっていましたが、現世の進歩発展により、来世も近代化され、今ではほとんどの人が何らかの方法で極楽往生できるようになったそうです。

SACで講習を受けた後、犯した罪について「反省ボタン」を押せば罪をまぬがれ、極楽にいけます。

随分ユニークな死後の世界ですね。死者は閻魔大王の前で生前の行為について釈明せねばならない、などということは過去の話ということです。

46歳で急死した椿山課長、小学校2年生で交通事故死した連ちゃん、射殺されたテキヤの武田勇



46歳で百貨店の婦人服課長になった椿山和昭は、料理屋で会食中に突然吐き気をもよおし、洗面所で吐いた後、急死してしまいました。脳溢血かクモ膜下出血のようだと、椿山は死後考えます。

SACの審査により、「邪淫の罪を犯した」と認定されてしまった椿山は納得できませんでした。結婚前に、同期入社の女性社員佐伯知子と約18年間恋愛関係にあっただけなのですから。

SACによれば、邪淫の罪とは不倫などだけではなく、どのくらい相手を傷つけたか。おのれの欲望を満たす目的で、相手の真心を利用した罪、これが邪淫の定義です。

邪淫をこのように定義すると、男でも女でも相当数が邪淫を犯していることになりそうですね。佐伯知子からすれば、20歳からの18年間とはかけがえのない青春の日々でしょう。椿山さえその気になってくれれば、この期間に結婚し出産して子育てをしていくという道があったはずです。

椿山は佐伯を「セックスのできる親友」としか考えていなかったのかもしれません(p266, 和子の言葉)。

しかし、椿山は納得できませんし、残してきた妻子や、痴呆症の父のことも気がかりです。椿山は再審査を審査会に申請し、現世への逆送が認められました。

現世への逆送期間は死後七日間です。同じ日に亡くなり、現世でやり残したことがあるので再審査を申請した人が2人いました。一人は小学校2年生で交通事故死した根岸雄太、戒名にちなんだ呼び名が連ちゃん。

もう一人は見ず知らずの人間に人違いで殺された45才のヤクザ、武田勇。四代目共進会会長で、祭礼や縁日に出店を張るテキヤ稼業一筋の人間です。

それぞれ自分の死亡に納得がいかない3人が、現世に逆送されます。3人それぞれ、生前の姿とは正反対になって現世に戻り、会って確認したかったことや、やり残したことを少しずつ成し遂げていきます。その中で、生前には見えていなかった自分の周囲の人々の姿と真実を知っていく、という物語です。

人生劇場の主役と脇役


人は誰しも、自分が歩む人生劇場の主役ですね。また自分の配偶者や親子、友人が歩む人生劇場の脇役でもあります。劇中で主役の自分には見えていなかった自分の役割が、脇役の眼からみると明らかになってくることもあるはずです。

死んでしまった3人は、現世に七日間だけ戻ることにより、脇役の眼からみた自分を発見していきます。本当は、生きているときにこれができていたら随分違った人生になっていたのでしょうけれどね。自分を他人の眼から、客観的に見つめる。これはなかなか、できないものですね。

以下、この物語の中で、私が好きな部分を書き留めておきましょう。

逆送されるための「相応の事情」と「空疎な言葉の遊び」


死者が現世に逆送されるためには、「相応の事情」がなければなりません。相応の事情があれば逆送されるのですが、椿山に対応した係員によれば、逆送された人の半分くらいは「こわいこと」になるそうです。

下りのエスカレーターに乗り、どんよりとした瘴気の立ち込める暗い場所に降りていきます。「相応の事情」があるのでリスクを犯してまで逆送されて思いを達成しようとする椿山に対し係員は次のようにたたみかけます(p85)。

「だからさあ、その相応の事情が何だっていうんだよ。あんた、生きているときに生きるべき相応の事情なんて考えたか。死ぬときに死ななきゃあならない相応の事情なんて考えもしなかったろう。その程度の人間がだね、生き返る相応の事情なんて、おかしいとは思わないのかよ」

椿山は係員のこの言辞に対し、「こいつはたぶん、若い自分に学生運動をやっていたのだろう」「空疎な言葉の遊び...」と感じました。

係員の言辞は、いかにももっともらしいように聞こえますが軽薄ですね。要は、自分にとって面倒だから、お前は思いを達成することなど諦めてしまえ、というだけのことなのです。自分の主張が社会を運営するために現実的なことなのかどうか、一切考えない学生運動家の主張と一脈通じるものがありますね。

泣いたり憎んだり悩んだりする間に、一歩でも前に進め


自宅や元恋人佐伯和子の家を訪れるうちに椿山は、妻の背信を知ります。新婚旅行で幸福そうな表情をしていた妻はそれほど幸福ではなかったのです。

結婚当初からずっと妻は、人生に妥協してしまった自分と闘い続けてきたのでした。妻の心の闇に気づくことのなかった自分を椿山は呪わしく思います(p341)。

自分の血を分けた子供と思っていた長男も、実はそうではなかったのですが、死者となった椿山にはそんなことはどうでも良いことでした。椿山は生前と似ても似つかぬ姿で息子と会い、つぶやきます(p379)。

「人生はおまえの考えているほど長くはない、泣いたり憎んだり悩んだりする間に、一歩でも前に進め。立ち止まって振り返る人間は、決して幸せになれないんだ」

椿山が息子に託したこの言葉は金言ですね。ときには立ち止まって振り返ることも必要なのでしょうけれど、前に進めるような振り返り方をしないといけないのでしょうね。前に進むこととは何か。それを模索しつつ生きていかねばならないのでしょうね。

似ても似つかぬ姿の親分から親心を感じた子分―魂とは脳の一部なのか


テキヤだった武田勇は、自分の子分たちにも会いに行きます。逆送のときのルールにより、自分が死者であることを誰にも明かすことはできません。

しかし、子分の一人は、生前とは似ても似つかぬ姿の武田勇と話を交わすうちに、もしや親分が戻ってきたのではと思い、「親分!」と叫びました。見知らぬ男の中に霊魂を感じるほど、子分は亡くなった親分を慕っていたのです(p305-306)。

霊魂を感じるほどの死者への思いとは、私には現実に有りうる事のように思えます。人の思い、心の波とは、脳のどこかの部分の働きなのでしょうか。

魂とは単なる脳の一部なのでしょうか。これは永遠の問いでしょう。












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