2013年7月28日日曜日

罪の中には再生の欲求がかくれているのか―遠藤周作「スキャンダル」(新潮文庫)より思う―

心中にある黒い自分



心中には常に、いろいろな思考が生じては消えていきますね。

男性の心中には時折、凶暴な欲求や願望、あるいは下品なことこの上ない性欲に関する思考も存在しうるものです。

立身出世を成し遂げた男性は、強い精力と活力を持っていますから、性欲も人一倍強いことが多いのではないでしょうか。

政治家や芸能人の醜聞が時折、週刊誌などに出てきますが、その人たちの心中には激しい性欲と自己顕示欲が渦巻いているのでしょう。

表面は真面目で誠実そのもののような方でも、心中には全く別の人間がいるのかもしれません。

聖書には「汝、姦淫するなかれ」という教えがあるはずです。しかし基督教信者でも、不倫関係に陥る人はやはりいるそうです。

不倫関係に陥っている基督教信者の心中はどうなっているのでしょうか。主の教えを真っ向から否定する行為が、心中では正当化されてしまうものなのでしょうか。

映画「The Godfather」の家族(Family)は、敬虔な基督教信者(Catholic)ですが、一家の長、マフィアのボスであるドン・コルレオーネは対立する人間の殺害指令を次から次へと出します。

「家族を守るため」とドン・コルレオーネは殺害を正当化しています。しかし実兄の殺害については、実兄は家族の一員ですから、良心の呵責に苦しみます。

誰しも、心中に黒い自分が住んでいるのでしょう。黒い自分の悪の囁きを全て口外してしまえば、周囲との人間関係が破壊されてしまいます。

悪の囁きを抑え込まねばなりませんね。誰しもこれを日々、実行しているのではないでしょうか。そうして日々を過ごしていると、黒い自分が存在することを忘れがちです。

しかし、汚れ切ったどす黒い自分を静かに見つめることが、時には必要なのでしょう。


「黒い自分」を掘り下げ、見つめていくこと



遠藤周作「スキャンダル」(新潮文庫)は、心中の汚れ切った自分をみつめることを読者に訴えますが、この作品は私には仕掛けが懲りすぎているような気がしました。

主人公は勝呂という、65歳で肝臓を患っているクリスチャン作家です。長年の友人で作家の加納によれば、勝呂は日本という風土と彼の宗教をどのように調和させるかをその文学の主題にしてきました(p10)。

勝呂のモデルは、遠藤周作自身でしょうね。勿論、「スキャンダル」は私小説ではありません。あくまでフィクションで、怪奇物語の一種とも言えそうです。

加納によれば、勝呂は暗中模索の末に、罪の中には再生の欲求がかくれていることを作品のなかで示すようになりました(p12)。

勝呂自身は、人間の罪は当人の再生の欲望をあらわす、と述べています(p118)。

しかし、罪とは何なのでしょうか。単なる法律上の犯罪行為や不倫だけではないでしょう。

他人を蹴落としたり、徹底的に利用してでも自分の願望を実現したいという欲求を持ち、そのように行動することも含まれるのでしょう。


再生の欲求と淫行、凶悪行為、聖人の役割



性的に淫らな行為をしたいと思うだけでも、罪となるのでしょう。人の悪口や陰口をたたくことも罪に含まれるのでしょう。

勝呂の前に現れた成瀬夫人によれば、性は当人も気づかない、一番の秘密を顕します(p53)。

ある人を観るとき、その人の性に関する言動は大切な判断基準でしょうが、多くの場合これは隠されています。

淫らな行為を繰り返す人は、罪を重ねていることになりますが、そこには再生の欲求が隠れているものなのでしょうか。

勝呂の中にある醜悪そのものの自分、真っ黒な自分は罪を重ねているが、再生の欲求を見いだせるのでしょうか。勝呂はこう自問自答しています(p273)。

淫行を繰り返す醜悪な勝呂の正体ですが、これはよくわかりません。

小説家としての勝呂が主張してきたのは「再生の欲求」ですから、罪を重ねてきた人間が必ず再生できると述べているわけではありません。

欲求は持っていても、自分を制御できない人はいつまで経っても再生できないと考えるべきなのでしょう。

真っ黒な自分を、何らかの別の理屈で正当化してしまう人も少なくないはずです。その中には、基督教でいう罪どころか、とんでもない凶悪犯罪を犯してしまう人もいるのでしょう。

「~組」という反社会組織の構成員はそういう人たちなのでしょう。

人々の中に、ある比率で素晴らしい善人、聖なる人ともいうべき方が存在するなら、同じ比率でどうしようもない凶悪人間も存在しうるのではないでしょうか。

どうしようもない悪の陥穽とも言うべき所に落ち込み、いつまでも脱出できない人はいるのでしょうね。そうした人たちを救うために、聖なる人が現れると遠藤周作は考えていたのかもしれません。

























2013年7月24日水曜日

それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っている―遠藤周作「深い河」(講談社文庫)より思う―

でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ  I have learned, though, that there is a river of humanity. 하지만 난 인간의 강이 있다는 걸 알았어.



好きな小説の中には、心に響いてくる文章があるものです。私は、遠藤周作の「深い河」(講談社文庫)では、前述の他に下記が心に響きます。


遠藤周作「深い河」(講談社文庫、十三章)で美津子は、サリー(sari)を着てガンジス河で沐浴します。周囲ではヒンズー教徒たちが、ガンジスの水で顔を洗い、水を口にふくみ、合掌しています。

インドでは死者の灰をガンジス河に流します。ガンジス河のそばに火葬場があります。

ガンジス河に身を沈めた美津子は祈りの真似ごとをします。誰に向けているのかはわかりません(p342)。


「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。」と、美津子の口調はいつの間にか祈りの調子に変わっている。

「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」


転生と霊魂は存在するのか On the Immortality of the Soul



ヒンズー教徒は、ガンジス河を転生の河と言っていると美津子は聞いています(p324)。

転生(Reincarnation、Rebirth、 韓国語では還生、환생)という現象そのものが実際にあるのかどうか、私にはわかりません。

しかし亡くなった人の考え方や気持ち、感情や心の波長、あるいは魂の叫びともいうべきものが、生きている人に伝わっていくことはありえるでしょう。

「必ず生まれ変わるから」と言い残して亡くなった妻の幻影を求めてインドまでやってきた磯部は亡妻の魂の存在を、ガンジス河のほとりで感じたかもしれません。

遠藤周作の言う転生とはそういうことではないでしょうか。

人は死んでも、魂は残る。すなわち霊魂は存在するのではないでしょうか。人は臨終の間際まで、耳だけは聞こえているようだと語る医師は少なくありません。

霊魂と対話のし易い場所も存在するのではないでしょうか。Power Spotという場所がそうなのかもしれません。私には霊能力などありませんから、断言など何もできません。

京都の鞍馬山にPower Spotがあるそうです。鞍馬山にある鞍馬寺は、源義経が幼少の頃を過ごしたお寺で有名です。清少納言も鞍馬を訪れたことがあるようです。

ガンジス河も、死者との対話がし易い場所なのかもしれません。遠藤周作も、鞍馬山に関心を持っていたようです。

晩年の遠藤周作が、臨死体験と霊魂の存在に深い関心を抱いていたことは間違いありません。この件については、またの機会に語りましょう。


The Sound of Silence by Simon & Garfunkel



美津子がガンジス河で沐浴をする場面に音楽を流すならば、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)のThe Sound of Silenceがぴったりではないでしょうか。

末尾の、ネオンの神に人々が祈りを捧げている様子は、大都会の孤独の中で生きる人々を連想させます。

予言者の警句を、現代人は読み取り歩まねばならないということでしょうか。次です。


And the people bowed and played, To the neon god they made.

And the sign flashed out its warning, In the words that it was forming.

And the sign said, "The words of prophets are written on the subway walls, and tenament halls. "

And whispered in the sounds of silence.


The Sound of Silenceは、ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)主演の映画「卒業」(The Graduate、1967年)の主題歌です。Simon & Garfunkelの、語りかけるような静かな歌いぶりが心に染み入ります。

「深い河」の上述の英語訳と韓国語訳を書き留めておきます。それぞれ微妙に意訳されているような気がしますが、どうでしょうか。

英訳は次からの抜粋です。

Deep River, transklated by VAN C. Gessel, A New Direction Book, p211


韓国語翻訳は次からの抜粋です。

깊은 강 유숙자 옮김, 민음사, p316-317

 I believe that the river embraces these people and carries them away.


What I can believe in now is the sight of all these people, each carrying his or her own individual burdens, praying at this deep river.

 At some point, the words Mitsuko muttered to herself were transmuted into the words of a prayer.

I believe that the river embraces these people and carries them away. A river of humanity. The sorrows of this deep river of humanity. And I am part of it.


그 사람들을 보듬으며 강이 흐른다는 것입니다.



"믿을 수 있는 건, 저마다의 사람들이 저마다의 아픔을 짊어지고 깊은 강에서 기도하는 이 광경입니다. " 하고, 미쏘코의 마음의 어조는 어느 틈엔가 기도풍으로 바뀌었다.

"그 사람들을 보듬으며 강이 흐른다는 것입니다. 인간의 강. 인간의 깊은 강의 슬픔. 그 안에 저도 섞여 있습니다."

2013年7月23日火曜日

神は存在というより、働きです―遠藤周作「深い河」(講談社文庫)より思う―

神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊りなんです。



人生に失敗や躓きは付き物です。現在、立身出世し財を成している人も、思わぬことで大きく躓いてしまい、人々から嘲笑されるような立場に陥ってしまうかもしれません。

政治家や芸能人で、そんな例はいくらでもありますね。躓きを乗り越えることができず、さらにどうしようもない境遇に陥ってしまう人もいれば、躓きをきっかけに新たな自分、別の自分を見出す人もいます。

躓きが次の生き方の出発点になる場合もあるのでしょう。

偶然からある人に訪れた躓き、それはその人の力ではどうにもしようのないことだったとしても、偶然が神がふる骰子(サイコロ、dice)であるなら、運命なのかもしれません。

人はその運命を受け入れて、新たな自分を探し、創造していくしかないのです。偶然が作った運命という形で、その人に神が働きかけているのかもしれません。

遠藤周作の「深い河」(新潮文庫)のメッセージの一つである「神は存在というより、働きです」(p104)の意味はこういうことではないでしょうか。


聖人も、惨めでちっぽけな死に方をする



生きとし生けるものは皆、死を迎えます。数々の善行を成してきた聖人であれば、万人に惜しまれるような安らかな死に方を出来るかというと、必ずしもそうではない。

聖人は、そのときには誰からも称えられないような、惨めでちっぽけな死に方をしてしまう場合もあるのです。

むしろ聖なる人であるからこそ、惨めな死に方を迎えることがふさわしいのかもしれません。

聖なる人は惨めな死に方をすることにより、自分たちがちっぽけな存在であることを改めて人々に認識させて下さったのかもしれません。

誰しも所詮は死ぬのですから、虚栄心を満足させるために権力や富を求めて闘争するのは無益だということを、惨めな死に方により伝えようとしているのかもしれません。

「深い河」の重要な登場人物、大津の死に方をこのように考えたらどうでしょうか。遠藤周作の小説に出てくる聖なる人は、惨めな死に方を迎えます。


愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れる



遠藤周作「深い河」の中で、私の印象に残った部分を書き留めておきます。

以下は、基督教神父であるのに、ヒンズー教徒のバラモンのごとく、アウト・カースト(Out Caste)の貧民が息を引きとったときにヒンズー教の火葬場に運ぶ仕事をしている大津が、学生時代のガールフレンド美津子にする話の一部です。

玉ねぎとは、神を意味しています。美津子は「神」という言葉の実感がないと大津に言ったとき、その言葉が嫌なら玉ねぎでも良いと大津が言ったことに由来します(p103)。

大津によれば、神は存在というより、働きです(p104)。

美津子が宿泊しているインドのホテルの庭園で、大津は次のように述べます(p302-303)。


「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。

たまねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。」


玉ねぎこと神は、どこにでもいるということなのでしょうか。「深い河」の中にも出てきますが、これは汎神論(panpsychism)的な見方かもしれません(p191)。


The river of love that is my Onion flows past,  accepting all, rejecting neither the uglist of men nor the filthiest.



この部分の英語訳をDeep River, translated by VAN C. Gessel, A New Direction Book, p185から抜粋します。

Every time I look at the River Ganges, I think of my Onion. The Ganges swallows up the ashes of every person as it flows along, rejecting neither the begger woman who stretches out her fingerless hands nor the murdered prime minister, Gandhi.

The river of love that is my Onion flows past, accepting all, rejecting neither the uglist of men nor the filthiest.

大津による美津子への話の韓国語訳は次からの抜粋です。

깊은 강 유숙자 옮김, 민음사 (p280)


양파라는 사랑의 강은 아무리 추한 인간도 아무리 지저분한 인간도 모두 거절하지 않고 받아들이고 흘러갑니다.




갠지스 강을 볼 때마다 저는 양파를 생각합니다. 갠지스 강은 썩은 손가락을 내밀어 구걸하는 여자도, 암살당한 간디 수상도 똑같이 거절하지 않고 한 사람 한 사람의 재를 삼키고 흘러갑니다.

양파라는 사랑의 강은 아무리 추한 인간도 아무리 지저분한 인간도 모두 거절하지 않고 받아들이고 흘러갑니다.

2013年7月21日日曜日

自分の愛に骰子を投げねばならぬ時―遠藤周作「父親」(集英社文庫)―より思う

「けじめ」を破ったものはその仕返しを覚悟せねばならん


娘が不倫関係に陥ってしまったら...これはどんな父親でも想像もしたくないことです。

遠藤周作「父親」(集英社文庫)は、戦中派でなにより人間としてのけじめ、節度を重んじる父親と不倫に走った娘の物語です。

東京新聞に昭和54年9月25日(1979年)から昭和55年5月8日(1980年)に連載されたとこの本の解説にあります(p488)。

主人公の石井菊次は56歳。慶応大学文学部社会学科卒業で、原宿の近くにある化粧品会社の商品開発部長を務めています。

菊次の長女の純子は、昭和54年頃に上智大学を卒業し、新宿西口にある会社で中高年のためのスタイリストをしています。

昭和54年(1979年)に23歳くらいとすると、現在は57歳くらいの女性ということになります。

純子は、父親の作った食品会社の社長をしている宗という、妻子ある35歳の男と不倫関係に陥ってしまいます。宗は純子と出逢ったとき、妻子と別居しており、純子に強引に結婚を申込みます(p150)。

宗は現在、69歳くらいですね。宗の長女は7歳くらいとありますから(p367)、現在41歳くらいということになります。

菊次は男と不倫関係になった純子を激しく非難します。自分のやっていることが、他の人をどんなに不幸にするのか考えたことがあるのか(p278)。

純子は家を出て、青山の裏にあるアパートの部屋を借ります。十畳ほどの、キッチン、バスつきの部屋です(p289 )。次の記述は、純子の一途さを思わせます。

女には一生のうち少なくとも自分の愛に骰子を投げねばならぬ時がある。それが今なのだ、と彼女は自分に言い聞かせる...(p 291)。

宗との恋にのめり込んでいく純子に対し、「けじめ」を破ったものはその仕返しを覚悟せねばならんと厳しく言い渡します(p318)。


人間には善魔というものがある




菊次は純子に、宗の二人の子供たちを不幸せにしてはいけないと諭します。善魔について、菊次は純子に説明します。

自分の考えだけが何時も正しいと信じている者、自分の思想や行動が決して間違っていないと信じる者、そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者 ―それを善魔という(p372)。

善魔という人間把握は、遠藤独特のものです。ある人の行為は、他人の心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えない。

そうであるなら正義感や激しい情熱から行った行為が、他人を不幸にしてしまうこともありうるということでしょう。


抑制力のない、身勝手な、臆病な男―純子は父に「サラッとできると思うの」―



宗は結局、戻るべき所に戻って行きます。宗は純子との別れを菊次に告げます。菊次は宗に対し、「あなたは抑制力のない、身勝手な、臆病な男」だと非難します。

純子は宗に捨てられたのですが、自分は後悔していない、本気で一人の男の人を愛したからと父に言います。

これからサラッとできると思うの、と純子は父に言いました。多分純子は、暫くすれば宗をきれいに忘れ去ることでしょう。今後、カメラマンの最上と恋に落ちて行くような気がします。

しかし宗は今後、長く純子の幻影を追い続けるのではないでしょうか。若い女性の後ろ姿を純子だと思ってしまうのですから。

純子が借りていたアパートでともに過ごした日々。純子が食事の支度をしている姿は、宗の心の片隅に長く残るのかもしれません。

再度、妻との関係がまずくなってしまうのかもしれません。今度は妻に一切発覚しないよう、宗は若い女性と関係を持つのかもしれません。


宗はなぜ別居していたのか



私がよくわからなかったのは、宗がなぜ奥さんと別居したのか、別居から離婚を決意した理由をなぜ純子が宗に問わなかったのかという点です。

純子は「どうしてあんな人が奥様と別居したのだろう」と心中で不思議に思っていますが(p50)、理由を宗に問いただしていないようです。

ひょっとしたら、若い女性がいて別居することになったのかもしれない。大学を卒業したばかりの純子でも、そのくらいの想像はできそうに思えます。

純子ばかりか、菊次も宗の別居理由について、ほとんど思考していないように私には思えます。別居理由の如何で、宗が実際に離婚するかどうか、ある程度見当がつくのではないでしょうか。

世慣れた菊次なら、それくらいの見通しをつけそうなものです。


純子がとることになる責任とは



菊次は純子に、「お前は責任をとっていない」と言い渡します。この責任とは、心配をかけた父母に対して謝罪しろ、などというものではないでしょう。

何らかの形で、社会的な制裁を受けることになるのでは...あるいは、純子が今後人生や社会に対して不信感を持ってしまい、別の形で社会的に制裁を受けるような行為をしでかしてしまうのではないか。

菊次はそれを心配しているのかもしれません。

純子が実在するとすれば、今は57歳です。小説の中の菊次より年上となりました。純子はどんな人生を送ったのでしょうか。幸せな結婚をできたでしょうか。

純子が宗のことを忘れていても、結婚相手が純子の過去をどう思うかは全くわかりません。過去の不倫を隠して純子は結婚したのでしょうか。

若い頃から、夫に重大な隠し事をして生きていくのは辛いですね。純子は「仕返し」を何らかの形で蒙ったのではないでしょうか。

純子は若い頃の不倫の「責任」を、何かの形でとっていることでしょう。今の純子なら、父の愛情のこもった言葉の意味が、わかるようになったかもしれません。












2013年7月20日土曜日

お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない―遠藤周作「沈黙」(新潮文庫)より思う―

穴で吊るされている百姓達を救うか、転ぶか―魂のためされるとき―


気軽に行った選択が人生に大きな意味を持つこともありますが、重大な選択であることを自覚して決断を下す場合もありますね。

遠藤周作「沈黙」(新潮文庫、p264-265)にある、ロドリゴ司祭がフェレイラに迫られて行った苦渋の選択はそれでしょう。

教会から「裏切り者」とみなされているフェレイラがロドリゴ司祭に問いかける部分が私には大変印象的なので、書き留めておきます。

齢を重ねれば誰しも、自分の魂の試されるときとも言うべきものに何度か直面するのでしょう。

そんなとき、自分の美しい言葉で自分を誤魔化してはいけない、とは遠藤の私たちに対する問いかけなのでしょう。

お前がこれをできないのは教会の汚点になるのが怖しいからだ、と私たちも時折、自分に問いかけるべきなのでしょう。虚栄心とのたたかい、ということでしょう。

人はいつの時代でも、虚栄心と虚無感に悩んできたのかもしれません。

英語版はSilence, translated by Wiliam Johnson, Taplinger Publishing Company出版です。この本のp169より抜粋しました。

韓国語版は침묵, 김윤성 옮김, 펴낸곳 바오로딸です。翻訳のp292より抜粋しました。


教会を裏切ることが怖しいからだ。It's because you dread to betray the Church.



「誤魔化してはならぬ」 フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」

「私の弱さ」 司祭は首をふったが自信がなかった。「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」

「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。

苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖しいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖しいからだ」


Don't deceive yourself! said Ferreira. Don't disguise your own weakness with those beautiful words.

My weakness? The priest shook his head; yet he had no self-confidence. What do you mean? It's because I believe in the salvation of these people...

You make yourself more important than them.  You are preoccupied with your own salvation. If you say that you will apostatize, those people will be taken out of the pit.

And you refuse to do so.

 It's because you dread to betray the Church. You dread to be the dregs of the Church, like me.


그대는 그들을 위해 교회를 배반하는 것이 무섭기 때문이다.



속여서는 안 된다. 그대는 자기의 약함을 그런 아름다운 말로 속여서는 안 된다.
 페레이라는 조용히 대답했다.

나의 약함, 그렇지 않소. 나는 저 사람들의 구원을 믿고 있기 때문이오.
신부는 고개를 저었지만 자신이 없었다.

그대는 그들보다 자기가 더 소중한 모양이지. 적어도 자기의 구언이 더 중요한 모양이지.
그대가 배교한다고 하면 저 사람들은 구덩이에서 끌어올려진다.

고통에서 구출된다. 그런데도 그대는 배교하려 하지 않는다.

그대는 그들을 위해 교회를 배반하는 것이 무섭기 때문이다. 나같이 교회의 오점이 되는 것이 두렵기 때문이다.


2013年7月16日火曜日

数え切れない生活と人生がある―遠藤周作「わたしが・棄てた・女」より(講談社文庫)思う―

灰色の雲の下に、無数のビルや家がある


先週金曜日の夜、ちょっとした用件で夜の難波に行きました。関西在住の方なら御存知でしょうが、金曜日夜の難波はいつまで経っても人通りが絶えません。

大都会です。

誰もが忙しげに、早足で歩いていきます。大阪の代表的繁華街ですから。私はふと、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の一節を思い出しました。

灰色の雲の下に、無数のビルや家がある。ビルディングや家の間に無数の路がある。バスが走り、車が流れ、人々が歩き回っている。そこには、数え切れない生活と人生がある(同書p 254)。

現代人は、忙しすぎるのでしょう。誰しも次から次へと他人と出会い、ふれあい、そしてお互い去っていく。私たちの毎日はこの繰り返しとも言えます。

大阪、東京、ソウル、台北、上海、北京。行ったことのある都市の夜をふと思い出しました。大都会に住む人々の生き様はどこでも大差はないでしょう。

大都会の富める人々は、高い消費生活のため猛烈に働いています。新たな奢侈品への需要、奢侈品をより多く販売するための技術革新が次から次へと生じています。

ドイツの社会経済学者ゾンバルトは、奢侈品需要を生み出すものは野心、はなやかさを求める気持ち、うぬぼれ、権力欲そして性の楽しみであると主張します。

そしてこれらにより資本主義経済が形成されていったと述べています(W. ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、第四章と第五章、Werner Sombart)

虚栄心は経済発展の源泉である、という見方ですね。日本や韓国の高度成長期、そして近年の中国にも、虚栄心の虜である一方、技術革新を行う優秀な企業家がたくさんいたのでしょう。

有吉佐和子の「悪女について」(新潮文庫)の主人公富小路公子もそんな企業家です。


虚無主義(Nihilism)とたたかう現代人



大自然と必死でたたかっていた古代人と比べれば、現代人の暮らしは随分便利で楽になっています。

しかし現代人の毎日は、次から次へと他人と出会い、ふれあい、一定の人間関係を築いたかと思うとそれを解消して次へという繰り返しですから、安定的な人間関係を築きにくいのです。

人生にたった一度でも横切るような人が、私たちの心中に消すことのできぬ痕跡を残すのなら、心中が痕跡だらけになってしまう人は少なくないでしょう。

人間関係が次から次へと変化すると、虚しくなってしまうものです。現代人の心中は、虚無感(Nihilism ニヒリズム)とのたたかいなのかもしれません。虚栄心は虚無感と表裏一体なのでしょう。


遠藤周作や三浦綾子は、虚無感を克服していくためにも、絶対的な存在である神への信仰を読者に呼びかけていたのでしょう。

正直言って私は、絶対的な存在を信仰する気持ちを持てません。皆さんはどうでしょうか。


虚無感を克服するために



最初の出会いのきっかけが偶然としか言いようのないものであっても、その後の関係の発展、深化により、おたがいの人生に大きな痕跡を残すようになった人。

齢を経た人なら、そんな人を何人も見いだせることでしょう。人生を振り返り、今後の生き方を考える際、どういう偶然から自分にとっての貴重な人間と出会ったのか。

どういう偶然から、自分はある道を歩むようになったのか。

偶然という観点から自分のこれまでの生き方やあり方を改めて見つめ直したら、新たな自分そして自分の周囲にいた人々の新たな姿が見えてくるのかもしれません。

自分の姿を見つめ直していくことが、虚栄心をやわらげ、虚無感を克服していくことになるのかもしれません。












2013年7月13日土曜日

ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えない―遠藤周作「わたしが・棄てた・女」より抜粋―

登場人物の台詞を噛み締めよう



遠藤周作がどこかで言っていたように思いますが、読者は登場人物による重要な台詞を噛み締めるように読み込むことが求められるべきでしょう。

「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)の中から、私が好きな部分をもう少しメモしておきます。またの機会にこれらについて語りたいと思います。

英語訳と韓国語訳もメモしておきます。

英語訳はMark Williams, The Girl I Left Behind (A New Directions Book)です。

韓国語訳は이평춘, 내가 버린 여자 (어문학사)です。


急にぼくはその時、感じたのだ


「(沢山の人生だな。色々な人生だな。)少しつめたくなりだした手すりに靠れて、ぼくはぼんやり呟いた。(この街で、みんなが生きたり、悦んだり、苦しんだりするのだな。)」(同書p95)


「しかし、ぼくは知らなかったのだ。

ぼくたちの人生では、他人にたいするどんな行為でも、太陽の下で氷が溶けるように、消えるのではないことを。

ぼくたちがその相手から遠ざかり、全く思いださないようになっても、ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えないことを知らなかったのだ」(同書p103)


So many lives. A whole spectrum of lives. Leaning against the railing that had grown quite cold, I muttered absently to myself. Everyone in this town is experiencing the ups and downs of life together (p75).


And yet I remained totally oblivious to reality.

To the fact that all our dealings with others, however trivial, are not just destinied to vanish like ice in the sun.

I was unaware that, even though we may distance ourselves and banish thoughts of a fellow human being to the recess of our minds, our actions cannot simply disappear without leaving traces engraved in the depth of our hearts (p81).


참 사람도 많구나. 삶은 다양하구나.

약간 차가워지기 시작한 손잡이에 기대어 나는 멍히니 중얼거렸다.

이 거리에서 모두가 기뻐하거나 괴로워하거나 하며 살아가는구나.(p114)



그러나 나는 몰랐다.

우리 인생에 있어 타인에게 끼친 행위는, 어느 것이건 태양 아래 얼음이 녹듯이 그렇게 사라지지 않는다는 사실을.

우리가 그 상대에게서 멀어져 전혀 생각지지 않게 되더라도, 우리의 해위는 마음속 깊이 흔적을 남긴다는 점을 몰랐던 것이다.(p124)












人間に偶然でないどんな結びつきがあるだろう―遠藤周作「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)より抜粋―

登場人物の台詞に自分なりの解釈を



小説では、登場人物の台詞に作者の人生観、世界観がいろいろ現れてきます。台詞だけではなく、登場人物が辿ることになる運命や出会う事件、様々な設定、仕掛けにも、作者のそれらが現れるものです。

読者の私たちには、小説の登場人物の台詞や運命を、自分の人生経験や世界観に照らし合わせて読み込み、解釈していくことが求められるのでしょう。

今回は遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)より、私が好きな部分をメモしておきます。またの機会に、この部分について考えたところを述べます。

本ブログを、外国の方や在日本朝鮮人総連合会の方も時折見て下さっているようなので、私が好きな部分の英訳と韓国語訳もメモしておきます。御参考までに。

英語訳はMark Williams,  The Girl I Left Behind (A New Directions Book)です。

韓国語訳は이평춘, 내가 버린 여자 (어문학사)です。


人生はもっと偶然というやつが働いている



「しかしこの人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるだろう。人生はもっと偶然というやつが働いている。

長い一生を共にこれから送る夫婦だって、始めはデパートの食堂でお好みランチを偶然、隣りあわせに食べるという、詰らぬ出来ごとから知りあったかもしれないのだ」(同書p25より)


「もし、神というものばあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人間にみせたのかもしれない」(同書p26より)


But which encounters in our daily lives do not stem from chances? And yet chance plays an even greater part in other events during the course of our lives.

Maybe the occasion when you first met the spouse with whom you end up sharing the rest of your life was no more auspicious than the time you happened to share a lunch table in some department store cafeteria.


But were such a God to exist, perhaps He would chose such insignificant and routine incidents in our everyday lives to reveal His existence (p22).



우연이 찾아온 기회라고 생각할 수도 있겠지만, 인생에 있어 우연이 아닌 인연이 있을까? 인생에는 원래부터 우연이라는 것이 작용한다.

앞으로 기나긴 일생을 함께 할 부부도 처음에는 우연히 백화점 식당의 옆자리에서 점심을 먹었다는, 하찮은 사건이 계기가 되어 서로 알게 되었는지도 모른다.


당시 나는 신 같은 것은 믿지 않았지만, 만일 신이 있다면 그 신은 이러한 하찮고 평범한 일상의 우연에 의해서 자신의 존재를 인간에게 드러내 보였는지도 모른다(p29-30).




一本の小さな万年筆が戻ってきた―遠藤周作「口笛をふく時」(講談社文庫)より思う―

あの時この道を左に曲がらず、真っ直ぐ歩いていたら


あの時この道を左に曲がらず、真っ直ぐ歩いていたら自分は別の生き方、別の道をあゆんでいただろう。

人生のある時点では、さほどの考えはなくある道を選択したことが、ずっと後になって大きな選択であることがわかってくる。

そんな経験を誰しも持っているものでしょう。軽い気分で行ったある選択行為が、自分だけでなく他人の人生に極めて重大な影響を及ぼした。

それはその他人が、自分の人生の「傍役」だったからなのでしょう。

道を歩みつつ偶然、人は様々な人生の「傍役」に出会うのでしょう。その偶然に、人生の意味が隠されている。神は偶然を通じて、その存在を人間に垣間見せる。

遠藤周作のメッセージのひとつがこれなのでしょう。


たった一度の触れ合いでも忘れられない人



「口笛をふく時」(講談社文庫)の主人公は、小津という大正11年生まれくらいで、50歳前後の人物です。小津は灘中出身です。灘中の頃の友人、平目は小津の人生の極めて大事な脇役です。

昭和21年3月(1946年3月)くらいに、小津は24歳とありますから、小津や平目は大正11年(1922年)生まれくらいでしょう。

この時代の日本人の人生には、戦争が大きく影を落としています。小津も平目も徴兵され、小津は大連、平目は朝鮮に派遣されます。平目は若くして朝鮮で亡くなってしまいます。

若くして亡くなった平目にとって、終生憧れの存在だったのが甲南女子中学の東愛子でした。平目が愛子を好きになったきっかけは、灘中学の近くのK中学の学生による暴力です。

平目と小津が灘中時代に在学していた頃のことです。西宮の戎神社に出ている屋台で串カツを食べようと、小津と平目は国電に乗りました。

そこで二人はK中学の学生から喧嘩を売られ、芦屋川の川原で喧嘩をする羽目になってしまいました。二人はK中学の学生に殴られてしまい、血を流したまま再び電車に乗ろうと川原を歩いていました。

そこをたまたま通りかかった愛子ら甲南中学の女学生たちが、たまたまその日医務室でもらったガーゼで平目の血を拭いてくれたのです。

「あれがすべての始まりだった」...。三十数年後の小津は振り返ります。平目にとって、この日の優しい愛子が、終生忘れられなかったのです。

もし、K中学の学生が平目と小津に暴力をふるわなかったら、平目が血を流すことはなかったでしょうから、愛子と平目、小津はその後一切関わりを持たなかったことでしょう。

愛子は海軍兵学校の生徒と、既にこの頃婚約していたようです。平目も愛子の心を射止めるべく、海軍兵学校に入学しようと努力しますが、それはかないませんでした。


愛子が平目に渡した万年筆だけが戻ってきた



愛子は平目のことなど、全く記憶していませんでした(p191)。しかし愛子は、小津を通して平目から受け取った10円為替のお返しとして、平目に自分が使っていた万年筆を渡します(p194)。

平目にはこの万年筆を朝鮮に持って行きました。平目は万年筆を使うたびに、愛子を想っていたことでしょう。平目は派遣された朝鮮で肺炎により亡くなります。

戦後に小津は平目の形見として、平目の親から万年筆と手帖を受け取りました。平目はこの万年筆を、疎開先に戦後も住んでいた愛子のもとに届けました。

愛子の夫も戦死していました。赤ん坊は肺炎で病死です。小津は万年筆を愛子に渡した後、もう二度と会うことはないだろうと思いましたが、不思議な縁で愛子の遺体と病院の霊安室で再会します。

愛子は50歳前後で亡くなったのでしょう。夫も子供もいないのですから、寂しいことこのうえない死に方でした。愛子は最期まで、亡くなった主人を想っていました。


哀しい亡くなり方をした友人のために口笛を



愛子は平目や小津に殆ど関心はなかったのですが、亡くなってすぐ後の愛子を小津は見守ることになりました。小津は病院で愛子の昔の友人とも再会します。

何かのご縁があったということでしょう。愛子が万年筆を平目に渡さなかったら、これほどのご縁はなかったかもしれません。

偶然の中に、人生の意味が隠されているということなのでしょう。

誰しも、改めて自分の来し方を振り返ってみれば、偶然により自分なりの選択をする瞬間があったのではないでしょうか。

私には偶然とは神がサイコロを振った結果かどうか、わかりません。しかし、哀しい亡くなり方をした友人のためには、小津が平目や愛子にしたように、口笛を吹いてあげたいものです。













2013年7月7日日曜日

世間の階段のいちばん下の方にいるとしても・・・H. マロー「家なき子」(ちくま文庫)より思う

バルブランお母さんのホットケーキ


若い頃好きだった歌を、時折口ずさむと良い気分になれますね。子供の頃、楽しんで見ていた漫画の歌を歌うのも良いものです。

同じように子供の頃読んだ物語を、40数年の歳月を経て読み直すと、登場人物の台詞の中に作者の人生観、世界観を読み取れるます。

19世紀のフランスの小説家、Hector Malot(エクトール・マロー。1830―1907)の名作「家なき子」(仏語原題はSans Familleですから、英訳すればWithout Familyでしょうか)を私が初めて読んだのは、小学校1年生くらいだったでしょうか。

45年くらい前ということになります。そのときは、主人公レミの育ての母親、バルブラン(Barberin)お母さんがレミのために作るパンケーキとはどんなものなのだろうといろいろ想像したものです。

今の日本でこれに近い料理は恐らく、ホットケーキでしょうね。私はこの物語の影響もあったのか、ホットケーキが子供の頃から好きです。

パンケーキはバルブランお母さんの愛情の象徴ですね。貧しい旅芸人、ヴィタリス(Vitalis)おじいさんが旅の合間にレミに分けてくれる丸パンも、印象に残りました。


元は著名な歌手だったが旅芸人に落ちぶれた



孤児で、8歳で旅芸人ヴィタリスに売られてしまったレミ。小学校1年くらいだった私は、レミと同じくらいの年でしたから、次から次へと襲いかかる困難と苦境を乗り越えて行くレミに感銘しました。

また当時の私には、ヴィタリスおじいさんが元はイタリアの有名な歌手で、年をとって声が出なくなり、旅芸人に落ちぶれたという話も衝撃的でした。

落ちぶれるとは一体どんなことなのだろうか。貧乏になることか。小学校1年の私にはあまり実感がわかなかったのです。

旅芸人ヴィタリスおじいさんのような人物類型は、子供向けの物語ではあまり類例がないように思いますが、どうでしょうか。

作者は読者の子供たちに「落ちぶれる」ということを考えさせたかったのでしょうね。落ちぶれつつも、自分に誇りを持って生き抜いたヴィタリスおじいさん。

レミの師と言えるヴィタリスおじいさんですが、悲惨な死に方をしてしまいます。しかし、レミに沢山の言葉を残してくれています。

大人の私たちも何かの折に、ヴィタリスの言葉を思いだしてみたいものです。


今のおまえは世間の階段のいちばん下の方にいるとしても・・・



ヴィタリスおじいさんの言葉を抜粋して紹介します。ページ数はちくま文庫の上巻のものです。


「人に教えるということは、自分自身に教えるということじゃ」(p98)

「覚えておくのじゃ。いまのおまえは世間の階段のいちばん下の方にいるとしても、おまえにその気があれば、少しずつ、もっと上の段へ登ってゆけるということをな」(p124)

「わしたち人間は、近づきたいと思うそのときに、かえって、別れ別れにならなければならないのが運命なのじゃ」(p303)

「負けないでがんばる勇気のある人間には、悪い運も、そういつまでもつづくもんじゃない」(p306)

「今は、前へ―進め、じゃ、子どもたち!」(p340)


「前へ進め」という言葉をヴィタリスおじいさんがレミに残したのは、夜の寒さをしのぐために石切場に入る直前でした。まもなくヴィタリスおじいさんは悲劇的な最期を迎えてしまいます。

ヴィタリスおじいさんの晩年の「良い運」とは、レミとの出会いだったのでしょうね。

「過労死」寸前のマッティヤの言葉「人に金をくれるのは・・・」



パリでレミは、生涯の友人とも言うべきマッティヤ(Mattia)に会います。マッティヤはこのとき、現代風にいえば過労死寸前でした。

マッティヤの次のようにレミに言います。

「人に金をくれるのは、まず第一に、そうすると自分がいい気になれるからさ。つぎは、相手の子がかわいい顔をしているからだよ。これがいちばん大きい理由だろうね」

僅かな食事しかもらえず、親方に酷使されていたマッティヤは大都会パリの厳しい現実を冷静に見ていました。

大都会に生きる人々の虚栄心と孤独感、そして虚無感。大都会で生きていくということは、これらとの戦いなのかもしれません。

「前へ進め!」というヴィタリスの言葉を忘れないようにしたいものです。


追記

Sans Familleの英訳ですが、Nobody's Boyのようです。意訳ですね。Vitalisの優しい言葉はどのように英訳されているのでしょうか?


















2013年7月3日水曜日

若き不破哲三も夢見た日本のソビエト化―不破哲三・宮森繁「現代資本主義を美化する『社会主義のビジョン』」(「前衛」1963年1月号)より思う―

自己弁護ばかりしている老経営者をときには批判すべきでは



十年一昔、と言います。それなら、五十年前は相当昔ということになりますね。政治家が相当昔に書いた論考を取り上げて、あれこれ言うのは適切でない、という人もいるかもしれません。

失敗や見込み違いは誰にもありますからね。人はいろいろと学びながら主張を変容させていくものでしょう。五十年前と全く同じ主張をしているのなら、むしろそのほうが問題かもしれません。

しかし、自分の失敗や見込み違いを隠して開き直っている政治家や経営者はどんな人なのでしょうか。自己弁護はみっともないものです。

老獪な政治家や、一代で会社を大きくした経営者にも若い時代はありました。高齢になると、誰しも自分の若い頃を振り返り、若輩者にいろいろ自慢をしたくなるものです。

自慢話の中には大変貴重な教訓となるものもありますが、奇妙な話の羅列で当惑させるようなものもあります。

不破哲三(1930年生)は近年、「ソ連は社会主義の反対物」などと旧ソ連を弾劾していますが、これも高齢者の奇妙な自慢話、自己弁護の一つと考えるべきなのかもしれません。

高齢者の自己弁護があまり極端だと、おかしいですねと周囲の人は一言しておくべきではないでしょうか。

高齢となり奇妙な自慢話や自己弁護ばかりしているような経営者は、会社の発展の障害となりえます。

そんなとき、経営者を批判するのは会社の中年幹部が果たすべき役割の一つではないでしょうか。

外部から経営者が批判されるよりは、その会社のためになるように思います。

日本共産党や在日本朝鮮人総連合会には、そのような気概のある中年幹部はいないのでしょうね。


ロシアはまもなくすべての点でアメリカをおいこすところまできている



本ブログでは何度か論じてきましたが、その昔の日本共産党員にとって、ソ連は理想郷でした。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんにとっての北朝鮮と同じように、かつての日本共産党員にとってはソ連こそ、美しく素晴らしきもの、全ての善なるものの象徴であり、あらゆる指導を仰ぐべき存在だったのです。

これは宮本顕治や野坂参三、蔵原惟人のような明治生まれの日本共産党員だけの話ではありません。一世代下の不破哲三も若い頃は、ソ連に心酔しソ連を礼賛していたのです。


不破哲三・宮森繁「現代資本主義を美化する『社会主義のビジョン』―江田『新社会主義』論批判―」(「前衛」1963年1月号掲載)には、若き不破哲三によるソ連礼賛が満載されています。

この論文執筆当時の不破哲三は、32歳くらいです。日本共産党の将来を背負って立つことを期待されている若き秀才だったのでしょうね。

若き不破哲三によれば、ロシアはきわめて短期間に後進国としてのおくれをとりもどし、こんにちではアメリカにおいつき、まもなくすべての点でアメリカをおいこすところまできているそうです。

これはたんなる「社会保障」制度の結果ではなく、資本主義をうちたおし、労働者階級の手に政治権力を奪いとり、生産手段の私的な所有を廃絶した社会主義革命によってもたらされたものにほかならない、そうです(同論文p25より抜粋)。

若き不破哲三のこの論文には、当時の左翼青年のたまり場だった「うたごえ喫茶」の雰囲気がありますね。「インターナショナル」「たんぽぽ」や「アリラン」が聞こえてきそうです。


共産主義の全面的建設が日程にのぼってきた



若き不破哲三はさらに力説しています。

政治・経済文化のあらゆる領域で社会主義の優位がますます明確になり、全人類の明るい未来を約束する共産主義の建設が日程にのぼってきたこんにち、社会主義の「実例の力」がますます決定的なものになっているそうです(同論文p26)。

若き不破哲三には、ソ連の現実が一切見えていなかったのです。当時の日本共産党員は皆そうだったのでしょう。

蔵原惟人や聴濤弘のようなロシア語の達人にも、ソ連の現実を地道に分析していくということは一切できませんでした。

ソ連の労働者には、選挙権など事実上ありませんでした。国有企業は、計画機関の命令により経営されていました。労働者は上からの命令で動くだけです。

労働者に創意工夫の余地など殆どありません。創意工夫など、社会主義計画経済を狂わせるだけですから。

労働者階級の手に政治権力云々など、ソ連社会の実態から大きく乖離した空論の極みだったのですが、それを若き不破哲三に誰かが話しても、一切耳を傾けなかったことでしょう。

現在、在日本朝鮮人総連合会や韓国左翼の皆さんに、北朝鮮の政治犯収容所における過酷な人権抑圧の真実を話しても、馬耳東風となってしまうことと同じです。

在日本朝鮮人総連合会や韓国左翼の皆さんは脱北者の話を一切聞きません。脱北者の話に一切耳を傾けないことがこそ、賢明な人間が取るべき態度という発想です。

脱北者は北朝鮮という栄えある祖国から逃げ出した「裏切り者」ですから。


共産党、労働党は「反党分子」「民族反逆者」に囚人労働をさせる



日本共産党員にとって、共産党を批判する人や、共産党を辞めた人は「反共右翼」もしくは「反党分子」です。四字熟語で表現されるような人間とは、一体どんな人間なのでしょうか。

これだけで、普通の下部党員は「反党分子」「反共右翼」が恐ろしくなってしまうものです。その人たちが妖怪変化、吸血鬼のように見えているのです。

旧ソ連では、体制を少しでも批判するような人を、「人民の敵」と呼び、政治犯収容所で囚人労働を行わせていました。


政治犯に過酷な囚人労働をさせるという点では、旧ソ連、中国と北朝鮮は同じです。共産主義理論に基づき、労働が人間を改造するという発想です。

うたごえ喫茶で「インターナショナル」「たんぽぽ」「アリラン」を歌っていたような在日朝鮮人や日本人妻の中には、北朝鮮に帰国したあと、体制に不満を漏らして政治犯収容所へ連行されてしまった人もいるのです。

聴濤弘のようなある程度の年配の日本共産党員や、在日本朝鮮人総連合会幹部なら、この程度のことは熟知しています。


「上からのお墨付き」が必要な上意下達体質の日本共産党



日本共産党の老党員や在日本朝鮮人総連合会幹部は、北朝鮮による過酷な人権抑圧に対してなぜ沈黙しているのでしょうか。

簡単にいえば、「上からのお墨付き」がないからです。不破哲三や志位和夫が、何かの拍子で突然北朝鮮による人権抑圧批判を始めれば、下部党員は直ちにこれに追随することでしょう。

極端な上意下達の社風がある会社では、上司の判断に異を唱えるのはその会社を辞める決意ができたときです。

数年前に事実上の倒産をしたある小売大手企業は、そういう社風だったようです。オーナー経営者だった方に、そういう体質がありました。知る人ぞ知る会社です。

日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の「社風」はそういうものなのです。

経営者が強権的な体質を持つ会社では、「こういうことをやってみよう」という新たな提案それ自体が悪とみなされてしまいます。

社員にとっての最優先課題は、社長の気分感情を推し量り、それに沿って製品開発や販売をすることです。社員にとって、息が詰まるような会社です。


最高指導者追随癖の心底に虚栄心



日本共産党や在日本朝鮮人総連合会で働く職員も、息苦しい仕事に追われるような日々を過ごしているのです。

日本共産党の職員が上司である不破哲三や志位和夫の判断に正面から異を唱えるときとは、「反党分子」となる決意をしたときです。

日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の職員は、自らを「歴史の法則的発展を促す組織の一員」「民族のために尽くす偉人の忠僕」という調子で、英雄視しています。

日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の方針に異を唱え、組織からたたき出されてしまえば自らは英雄どころか、「反党分子」「民族反逆者」という四字熟語の妖怪変化や吸血鬼のような存在とみなされてしまいます。

職員による最高指導者への追随癖の底には、自らが「英雄」のままでいたい、という虚栄心があるのです。

退職を覚悟し、強権的な経営者を正面から批判する中年幹部は、それまでの虚栄心を捨てるのでしょう。

会社員は転職先の目処がついてから、そういう行動をするものです。

日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の職員には、転職先の目処をつけるのは極めて困難ですから、最高指導者に追随するしかないのです。

虚栄心は人の判断と行動をおかしくさせてしまうものなのでしょう。共産主義理論の奇怪な言語を駆使している人々も実は、虚栄心の虜になっているのです。

日本のソビエト化などありえません。ありえぬ革命理論を駆使する日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の職員も、資本主義経済の中で四苦八苦して生きていくしかないのです。

転職先を探して虚栄心の虜であることを辞めるか。それができなければ引き続き最高指導者に追随するのか。強権的な会社にいる中年幹部はそういう選択に迫られているのでしょう。

「インターナショナル」「アリラン」より、「およげたい焼きくん」の方が日本共産党や在日本朝鮮人総連合会の職員の皆さんにはふさわしいのかもしれません(文中敬称略)。