心中にある黒い自分
心中には常に、いろいろな思考が生じては消えていきますね。
男性の心中には時折、凶暴な欲求や願望、あるいは下品なことこの上ない性欲に関する思考も存在しうるものです。
立身出世を成し遂げた男性は、強い精力と活力を持っていますから、性欲も人一倍強いことが多いのではないでしょうか。
政治家や芸能人の醜聞が時折、週刊誌などに出てきますが、その人たちの心中には激しい性欲と自己顕示欲が渦巻いているのでしょう。
表面は真面目で誠実そのもののような方でも、心中には全く別の人間がいるのかもしれません。
聖書には「汝、姦淫するなかれ」という教えがあるはずです。しかし基督教信者でも、不倫関係に陥る人はやはりいるそうです。
不倫関係に陥っている基督教信者の心中はどうなっているのでしょうか。主の教えを真っ向から否定する行為が、心中では正当化されてしまうものなのでしょうか。
映画「The Godfather」の家族(Family)は、敬虔な基督教信者(Catholic)ですが、一家の長、マフィアのボスであるドン・コルレオーネは対立する人間の殺害指令を次から次へと出します。
「家族を守るため」とドン・コルレオーネは殺害を正当化しています。しかし実兄の殺害については、実兄は家族の一員ですから、良心の呵責に苦しみます。
誰しも、心中に黒い自分が住んでいるのでしょう。黒い自分の悪の囁きを全て口外してしまえば、周囲との人間関係が破壊されてしまいます。
悪の囁きを抑え込まねばなりませんね。誰しもこれを日々、実行しているのではないでしょうか。そうして日々を過ごしていると、黒い自分が存在することを忘れがちです。
しかし、汚れ切ったどす黒い自分を静かに見つめることが、時には必要なのでしょう。
「黒い自分」を掘り下げ、見つめていくこと
遠藤周作「スキャンダル」(新潮文庫)は、心中の汚れ切った自分をみつめることを読者に訴えますが、この作品は私には仕掛けが懲りすぎているような気がしました。
主人公は勝呂という、65歳で肝臓を患っているクリスチャン作家です。長年の友人で作家の加納によれば、勝呂は日本という風土と彼の宗教をどのように調和させるかをその文学の主題にしてきました(p10)。
勝呂のモデルは、遠藤周作自身でしょうね。勿論、「スキャンダル」は私小説ではありません。あくまでフィクションで、怪奇物語の一種とも言えそうです。
加納によれば、勝呂は暗中模索の末に、罪の中には再生の欲求がかくれていることを作品のなかで示すようになりました(p12)。
勝呂自身は、人間の罪は当人の再生の欲望をあらわす、と述べています(p118)。
しかし、罪とは何なのでしょうか。単なる法律上の犯罪行為や不倫だけではないでしょう。
他人を蹴落としたり、徹底的に利用してでも自分の願望を実現したいという欲求を持ち、そのように行動することも含まれるのでしょう。
再生の欲求と淫行、凶悪行為、聖人の役割
性的に淫らな行為をしたいと思うだけでも、罪となるのでしょう。人の悪口や陰口をたたくことも罪に含まれるのでしょう。
勝呂の前に現れた成瀬夫人によれば、性は当人も気づかない、一番の秘密を顕します(p53)。
ある人を観るとき、その人の性に関する言動は大切な判断基準でしょうが、多くの場合これは隠されています。
淫らな行為を繰り返す人は、罪を重ねていることになりますが、そこには再生の欲求が隠れているものなのでしょうか。
勝呂の中にある醜悪そのものの自分、真っ黒な自分は罪を重ねているが、再生の欲求を見いだせるのでしょうか。勝呂はこう自問自答しています(p273)。
淫行を繰り返す醜悪な勝呂の正体ですが、これはよくわかりません。
小説家としての勝呂が主張してきたのは「再生の欲求」ですから、罪を重ねてきた人間が必ず再生できると述べているわけではありません。
欲求は持っていても、自分を制御できない人はいつまで経っても再生できないと考えるべきなのでしょう。
真っ黒な自分を、何らかの別の理屈で正当化してしまう人も少なくないはずです。その中には、基督教でいう罪どころか、とんでもない凶悪犯罪を犯してしまう人もいるのでしょう。
「~組」という反社会組織の構成員はそういう人たちなのでしょう。
人々の中に、ある比率で素晴らしい善人、聖なる人ともいうべき方が存在するなら、同じ比率でどうしようもない凶悪人間も存在しうるのではないでしょうか。
どうしようもない悪の陥穽とも言うべき所に落ち込み、いつまでも脱出できない人はいるのでしょうね。そうした人たちを救うために、聖なる人が現れると遠藤周作は考えていたのかもしれません。