登場人物の台詞に自分なりの解釈を
小説では、登場人物の台詞に作者の人生観、世界観がいろいろ現れてきます。台詞だけではなく、登場人物が辿ることになる運命や出会う事件、様々な設定、仕掛けにも、作者のそれらが現れるものです。
読者の私たちには、小説の登場人物の台詞や運命を、自分の人生経験や世界観に照らし合わせて読み込み、解釈していくことが求められるのでしょう。
今回は遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)より、私が好きな部分をメモしておきます。またの機会に、この部分について考えたところを述べます。
本ブログを、外国の方や在日本朝鮮人総連合会の方も時折見て下さっているようなので、私が好きな部分の英訳と韓国語訳もメモしておきます。御参考までに。
英語訳はMark Williams, The Girl I Left Behind (A New Directions Book)です。
韓国語訳は이평춘, 내가 버린 여자 (어문학사)です。
人生はもっと偶然というやつが働いている
「しかしこの人生で我々人間に偶然でないどんな結びつきがあるだろう。人生はもっと偶然というやつが働いている。
長い一生を共にこれから送る夫婦だって、始めはデパートの食堂でお好みランチを偶然、隣りあわせに食べるという、詰らぬ出来ごとから知りあったかもしれないのだ」(同書p25より)
「もし、神というものばあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人間にみせたのかもしれない」(同書p26より)
But which encounters in our daily lives do not stem from chances? And yet chance plays an even greater part in other events during the course of our lives.
Maybe the occasion when you first met the spouse with whom you end up sharing the rest of your life was no more auspicious than the time you happened to share a lunch table in some department store cafeteria.
But were such a God to exist, perhaps He would chose such insignificant and routine incidents in our everyday lives to reveal His existence (p22).
우연이 찾아온 기회라고 생각할 수도 있겠지만, 인생에 있어 우연이 아닌 인연이 있을까? 인생에는 원래부터 우연이라는 것이 작용한다.
앞으로 기나긴 일생을 함께 할 부부도 처음에는 우연히 백화점 식당의 옆자리에서 점심을 먹었다는, 하찮은 사건이 계기가 되어 서로 알게 되었는지도 모른다.
당시 나는 신 같은 것은 믿지 않았지만, 만일 신이 있다면 그 신은 이러한 하찮고 평범한 일상의 우연에 의해서 자신의 존재를 인간에게 드러내 보였는지도 모른다(p29-30).
0 件のコメント:
コメントを投稿