2013年7月16日火曜日

数え切れない生活と人生がある―遠藤周作「わたしが・棄てた・女」より(講談社文庫)思う―

灰色の雲の下に、無数のビルや家がある


先週金曜日の夜、ちょっとした用件で夜の難波に行きました。関西在住の方なら御存知でしょうが、金曜日夜の難波はいつまで経っても人通りが絶えません。

大都会です。

誰もが忙しげに、早足で歩いていきます。大阪の代表的繁華街ですから。私はふと、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の一節を思い出しました。

灰色の雲の下に、無数のビルや家がある。ビルディングや家の間に無数の路がある。バスが走り、車が流れ、人々が歩き回っている。そこには、数え切れない生活と人生がある(同書p 254)。

現代人は、忙しすぎるのでしょう。誰しも次から次へと他人と出会い、ふれあい、そしてお互い去っていく。私たちの毎日はこの繰り返しとも言えます。

大阪、東京、ソウル、台北、上海、北京。行ったことのある都市の夜をふと思い出しました。大都会に住む人々の生き様はどこでも大差はないでしょう。

大都会の富める人々は、高い消費生活のため猛烈に働いています。新たな奢侈品への需要、奢侈品をより多く販売するための技術革新が次から次へと生じています。

ドイツの社会経済学者ゾンバルトは、奢侈品需要を生み出すものは野心、はなやかさを求める気持ち、うぬぼれ、権力欲そして性の楽しみであると主張します。

そしてこれらにより資本主義経済が形成されていったと述べています(W. ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、第四章と第五章、Werner Sombart)

虚栄心は経済発展の源泉である、という見方ですね。日本や韓国の高度成長期、そして近年の中国にも、虚栄心の虜である一方、技術革新を行う優秀な企業家がたくさんいたのでしょう。

有吉佐和子の「悪女について」(新潮文庫)の主人公富小路公子もそんな企業家です。


虚無主義(Nihilism)とたたかう現代人



大自然と必死でたたかっていた古代人と比べれば、現代人の暮らしは随分便利で楽になっています。

しかし現代人の毎日は、次から次へと他人と出会い、ふれあい、一定の人間関係を築いたかと思うとそれを解消して次へという繰り返しですから、安定的な人間関係を築きにくいのです。

人生にたった一度でも横切るような人が、私たちの心中に消すことのできぬ痕跡を残すのなら、心中が痕跡だらけになってしまう人は少なくないでしょう。

人間関係が次から次へと変化すると、虚しくなってしまうものです。現代人の心中は、虚無感(Nihilism ニヒリズム)とのたたかいなのかもしれません。虚栄心は虚無感と表裏一体なのでしょう。


遠藤周作や三浦綾子は、虚無感を克服していくためにも、絶対的な存在である神への信仰を読者に呼びかけていたのでしょう。

正直言って私は、絶対的な存在を信仰する気持ちを持てません。皆さんはどうでしょうか。


虚無感を克服するために



最初の出会いのきっかけが偶然としか言いようのないものであっても、その後の関係の発展、深化により、おたがいの人生に大きな痕跡を残すようになった人。

齢を経た人なら、そんな人を何人も見いだせることでしょう。人生を振り返り、今後の生き方を考える際、どういう偶然から自分にとっての貴重な人間と出会ったのか。

どういう偶然から、自分はある道を歩むようになったのか。

偶然という観点から自分のこれまでの生き方やあり方を改めて見つめ直したら、新たな自分そして自分の周囲にいた人々の新たな姿が見えてくるのかもしれません。

自分の姿を見つめ直していくことが、虚栄心をやわらげ、虚無感を克服していくことになるのかもしれません。












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