2016年11月14日月曜日

川越敬三「社会主義朝鮮」(新日本新書、昭和45年刊行)より思う。

「では、朝鮮労働党と共和国政府は、米日反動勢力と朴正ヒ一派が宣伝しているように、共和国北半部からいわゆる『ゲリラ』を南朝鮮におくりこんで、その力で朴正ヒかいらい政権を倒そうとしているのだろうか」(同書p167より抜粋。朴正ヒの「ヒ」は漢字で表記されている)


川越敬三氏は、昭和43年1月の「青瓦台事件」を主に想定しているものと考えられます。

この事件について、当時の「赤旗」には「朴かいらい一派との南朝鮮人民のたたかいの発展」などという「報道」がなされていました。

しかし、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党最高幹部は、北朝鮮の武装工作員が青瓦台(韓国の大統領府)を急襲して朴大統領殺害を策した事件であることを認識していました。

これは、赤旗編集局編「北朝鮮覇権主義への反撃」(新日本出版社1992年刊行)や、「不破哲三 時代の証言」(中央公論新社、p80-81)からも明らかです。

宮本顕治氏、不破哲三氏らは北朝鮮の武装工作員が韓国の朴大統領殺害を策した事実を川越敬三氏、新日本出版社の社員ら「赤旗」読者と下部党員に一切伝えなかったのです。

日本共産党最高指導部の北朝鮮認識を察知できなかった川越敬三氏や新日本出版社は、はからずも宮本顕治氏、不破哲三氏の認識と異なる宣伝を断行してしまいました。

「先進的な社会主義制度のもとで、人びとは生気に満ちて、たくましく前進をつづけている」(同書はしがきより)


この本の著者川越氏は、「38度線の北」を著した寺尾五郎氏とならび、最も北朝鮮を礼賛したジャーナリストの一人です。

一昔前の新日本出版社は、北朝鮮礼賛本を出版し全力で普及していました。

川越氏によれば、南北朝鮮人民の意思を結集しておこなわれた朝鮮民主主義人民共和国の創建は、南朝鮮におけるかいらい「国家」「政府」でっちあげにたいする全朝鮮人民の断固たる意志の表明です(p2)。

「社会主義朝鮮」を読むと、北朝鮮には悪いところなど一つもない。医療と教育は無料、住宅も水道料と光熱費を含めて格安です。

朝鮮民主主義人民共和国の社会主義建設は、千里馬のようなはやさで進んできたし、いまも進んでいます(同書p23 )。

労働者は国の主人公であり、誰も搾取されていません。人々は能力に応じて働き、労働量に応じて生産の分け前を受け取ります(p51)。

ところで、労働者の「能力」「労働量」をだれがどんな基準で評価するのでしょうか。

金日成が机に向かって1時間業務をするときに受け取る賃金と、労働者が建設工事や炭鉱で1時間働くときに受け取る賃金は異なっているのでしょうか。

金日成には「賃金」などなく、豪勢な生活を全て国費で賄っているのなら労働者は搾取されていませんか。

金日成の私生活の原資は労働者の労働の成果ではないでしょうか。この本を出版した新日本出版社の方にお尋ねしたいものです。

金日成に粉砕された反党分子はその後どうなったのか


内外の日和見主義者、大国主義者が妨害、干渉、陰謀をたくましくしていた時期がありました(同書p27-28)。

1956年8月の朝鮮労働党中央委員会は反党分子たち(副首相だった崔昌益と朴昌玉らのグループ)の陰謀を粉砕しました。

それでは、反党分子の方々が「粉砕」された後どうなったのか、この本は何も述べていません。川越氏の脳裏にはそんなことは微塵も浮かばなかったのでしょうか。

私見では、反党分子は裁判のような手続きもなく処刑された可能性が高い。北朝鮮では昔から、政治犯には裁判のような制度はありません。

「裁判」があっても、反党分子に弁護人がつくかどうか、極めて怪しい。弁護人も一緒になって反党分子を全力で弾劾してもおかしくない。

川越氏の脳裏には、二次大戦終了前にソ連軍が満州から朝鮮半島の北部まで侵攻し占領していった史実は思い浮かばなかったのでしょうか。

中国共産党と金日成の関係も、川越氏は想像すらできなかったのでしょうか。

北朝鮮の絶賛本としか言いようがないのですが、興味深い箇所について以下指摘します。

川越氏は上田耕一郎氏から「甲山派」の行方不明について情報を得られなかったのか


川越氏は昭和38年、44年と二度訪朝しています。この時期の日本共産党は、北朝鮮、在日本朝鮮人総連合会と親密な関係を維持していました。

川越氏は平壌国立大劇場で音楽舞踊叙事詩「栄えあるわが祖国」や創作オペラを観ました。

「栄えあるわが祖国」は金日成の父親の「朝鮮国民会」運動をとりあげていたそうです。

これには、金正日が何らかの役割を果たしていると考えられますが、この本には金正日の名は出ていません。この時期には金日成の妻、金聖愛がまだ権勢をふるっていました。

川越氏の二度目の訪朝時には、「甲山派」と呼ばれる労働党幹部らが追放、粛清されていたはずですが、川越氏はそれに気づかなかったのでしょうか。

不破哲三氏と上田耕一郎氏は当時からそれを察知していました。「北朝鮮 覇権主義への反撃」から明らかです(同書p20,p70)。川越氏は、上田兄弟と面識はなかったのでしょうか。

昭和45年の出版時なら、その前の朝鮮労働党の文献に「唯一思想体系の確立」という表現が出ていたはずですが、川越氏はその異様さに気づかなかったのでしょうか。

川越敬三氏は舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎の現状について関心はなかったのか


川越氏は朝鮮人が優れた芸能の素質を持っている例として、舞踊の崔承喜と声楽の永田弦次郎(金栄吉)の名前をあげています(同書p133)。

二人とも昭和45年頃には既に消息不明になっていたはずですが、川越氏は訪朝時に北朝鮮当局に二人の現状について質問ぐらいはしなかったのでしょうか。

この本の「あとがき」によれば、昭和35年の夏、帰国協定の延長問題をめぐる日朝両国赤十字会談が約一か月にわたって新潟で行われました。

川越氏は報道陣の一人として、双方の記者会見を毎日聞きました。

川越氏によれば日本側の主張は、帰国事業を一日もはやく打ち切らせようとする自民党政府の方針に縛られたものでした(同書p214)。

朝鮮側の主張は、苦しい境遇にある在日朝鮮人への思いやりに満ちており、在日朝鮮人を激励する立場が貫かれていました。

川越氏はりっぱな政策をうちだしてくる朝鮮の社会主義について、ぜひ勉強したい思うようになりました。

川越氏の云うように、当時の自民党政府が帰国事業を一日もはやく打ち切らせようという方針を確立していたとは極めて考えにくい。

そういう方は政府内に少数ならいたかもしれませんが、多数派なら簡単に打ち切っていたはずです。

川越氏の主張通りなら、当時の自民党政府は北朝鮮当局が在日朝鮮人を奴隷として利用するために帰国事業を始めたことを察知していたことになります。

また、当時の日本政府が在日朝鮮人を厄介者扱いして皆帰国させようという方針を持っていたというような「研究」がありますが、それはありえない。

帰国事業を現場で見ていた川越氏の記述からもこれは明らかです。

昭和38年8月20日、川越氏、畑田重夫氏ら6人の訪朝団が金日成と会った


この本によれば、川越氏、畑田重夫氏ら6名が昭和38年8月20日に金日成と会いました(同書p174)。

会見場所は朝鮮労働党中央委員会本部でした。一行は1時間半、金日成と懇談しました。

金日成は日本の言論界が共和国北半部の社会主義建設についてとりあげると、その報道が南朝鮮にも伝えられ、南朝鮮人民に北半部の実情を知らせるのに役立っていると述べました。

金日成によれば、日本人民の闘争は朝鮮の自主的統一のかけ橋の役割をしています。

金日成は日本での北朝鮮宣伝が「南朝鮮革命」に重要な役割を果たすことを熟知していたのです。「朝・日両国人民の運命は一つです」と金日成は述べたそうです。

川越氏、畑田重夫氏らは深く感銘したことでしょう。「南朝鮮革命」すなわち大韓民国滅亡への協力こそ、日本人民の使命であると胸に刻んだことでしょう。

「社会主義朝鮮」を出版し、川越氏は金日成の期待に立派にこたえました。

53年も前のことですが、畑田重夫氏に当時の訪朝体験を語っていただきたいものです。北朝鮮による大韓民国滅亡策動を、国際政治学者畑田重夫氏はどう評価しているのでしょうか。

川越氏と大槻健早大教授(教育学)は、昭和44年訪朝時、両江道恵山にも行った(p41-42)


川越氏は共に訪朝した大槻健早大教授と、昭和44年訪朝時に平壌から両江道恵山に、北朝鮮の社会科学院幹部二人と列車で行ったそうです。

平壌からいったん南下して東に行き、ハムフン、新浦、北青、端川、金さくの各駅を経て吉州駅に到着。ここで列車が二つに切り離され、清津に向かう列車と恵山に向かう列車に分かれました。

恵山駅に着いた時には夜になっていました(p43)。この列車速度は、私が知っている北朝鮮のそれよりかなり速い。当時の北朝鮮は、90年代以降ほど電力、資源不足ではなかったのでしょう。

在日本朝鮮人が身内(帰国者)と会うために訪朝できる時期になると、「案内員」という監視役が常に同行するようになっていました。

川越氏と大槻健教授には「案内員」はついていなかったようです。川越氏らは恵山市の北側を流れる鴨緑江を見ました。川幅は渇水期のためせいぜい10メートル程度でした。

20数年後に、相当数の北朝鮮の人々がこの町から鴨緑江を越えて脱北します。渇水期なら川を渡ること自体は難しくない。警備隊を買収する外貨があれば大丈夫だったでしょう。

川越氏と大槻健早大教授が北朝鮮当局から聞いた金日成神話―普天堡戦闘はテロ行為、朝鮮人民革命軍は山賊


川越氏と大槻健教授は、車で普天の街まで行きました。普天には、かつて日本が警官の駐在所、面事務所(町役場)、郵便局、消防隊本部、金融組合などを設置しました。

川越氏によれば、これら機関の実態はみな朝鮮人民抑圧のための暴力装置で日本人たちが武器を持って集まっていたそうですが、荒唐無稽な話です。

町役場や郵便局、消防隊、金融組合に武器などあるはずがない。当時の日本では拳銃、鉄砲は貴重品でしたから、警察ですらいつも保有していたわけではない。

1920年生まれの川越氏には、その程度の推察力すらなかったのでしょうか。

川越氏によれば、1937年6月4日夜、金日成将軍が自ら引きいた朝鮮人民革命軍の一隊が鴨緑江と佳林川を越え、この町の日本の各機関をいっせいに襲撃しました(p43)。

敵を倒し、駐在所の留置場にとらえられていた朝鮮人を開放し、建物に放火したパルチザンは住民から歓声で迎えられました。

金日成将軍は群衆に向かって反日愛国勢力の団結を訴える演説をしました。

朝鮮人民革命軍の隊員たちは、「祖国光復会10大綱領」や朝鮮人あてのアピールを町中に張り出した後引き上げました。

「この町の日本の各機関をいっせいに襲撃」とありますがから、警察の駐在所はもちろん町役場や郵便局、消防隊も襲撃したのでしょう。

銃声が聞こえたでしょうから、役場や郵便局、消防隊の近くに住んでいた朝鮮人たちはどんなに恐ろしかったでしょう。

放火などしたら、普通の朝鮮人の家まで延焼してしまうかもしれません。消防隊も襲撃されたのでは、誰も消火できなくなってしまいます。

金日成の部隊が金融組合を襲撃したのなら、金品を強奪した可能性もあります。放火や金品強奪をして山中に逃げてしまう連中を、一般に山賊と呼びます。

川越氏らは遊撃隊の抗日スローガンがいまなお墨黒ぐろと読めるのを見た(p45)


川越氏らは金日成の指揮する遊撃隊の野営地と、隊員たちが樹の幹を削って書き記した抗日スローガンが今なお墨黒ぐろと読めるのを見ました。

「墨黒ぐろ」なら、その抗日スローガンはごく最近記されたのではないでしょうか。1930年代から、川越氏が訪朝した昭和44年(1969年)まで三十数年の歳月が流れています。

三十数年経てば、墨は雨で流れてしまうはずです。川越氏にはその程度の推察もできなかったのでしょうか。

この本を出版した新日本出版社の担当者は、川越氏の記述の奇妙さに気づかなかったのでしょうか。

川越氏らは恵山で普天堡戦闘勝利記念塔を参観しました。若き金日成将軍を先頭にたくましく前進する61人のパルチザン戦士と人民の彫像で、高さ38.7メートルの石とブロンズの塔です。

金日成の神格化が、川越氏の訪朝時でかなり進んでいたことがこの記述からもわかります。金日成の彫像など、無駄な公共事業の典型です。

川越敬三氏、国際政治学者畑田重夫氏は関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう評価していたのか


この本を執筆する際の資料として、訪朝した人の視察報告や、在日本朝鮮人総連合会のジャーナリスト、研究者の協力を得たそうです。

在日本朝鮮人総連合会関係者の中に、日本共産党や左翼人士の政治工作を担当する方がいらっしゃったのでしょう。「国際部」という部署の方がそういう仕事をする場合があるそうです。

在日本朝鮮人総連合会副議長だった金柄植氏もそういう仕事を担当していたはずです。上田耕一郎氏は、金柄植氏としばしば会っていました(「北朝鮮 覇権主義への反撃」p64)。

関貴星氏の「楽園の夢破れて」はすでに出版されていたのですが、川越氏は資料価値がなど全くないと判断したのではないでしょうか。

川越氏と共著を出している畑田重夫氏に、関貴星氏の「楽園の夢破れて」をどう考えていたのか、お尋ねしたいものです。

「社会主義朝鮮」と、関貴星氏の「楽園の夢破れて」のどちらが北朝鮮の現実を適切に認識していたのか。今日ではあまりにも明らかではないでしょうか。

川越敬三氏が礼賛した「主体思想」の文献を黄長ヨップ氏が主に執筆した―国際政治学者畑田重夫氏に問う


吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員の皆さんは、川越敬三氏の「社会主義朝鮮」を読んだことがないかもしれません。絶版になっているのは残念です。

川越氏によれば、主体思想こそ朝鮮が世界に誇る指導理念です。

「チュチェ」という朝鮮語は、最近では西側諸国の進歩的な思想家のあいだでもそのまま新しい用語として使われ始めているそうです(同書p194)。

ところで、川越氏が礼賛した「主体思想」に関する当時の文献を主に執筆したのは、のちに亡命した黄長ヨップ氏です。

国際政治学者畑田重夫氏は、川越氏の「社会主義朝鮮」と黄長ヨップ氏による主体思想批判の数々の文献を、今日どう分析しているのでしょうか。


2016年11月12日土曜日

宮本百合子「モスクワの姿―あちらのクリスマス―」(「宮本百合子全集」第九巻。原著は「婦人サロン」昭和6年12月号掲載)より思う。

「五ヵ年計画がソヴェト同盟に実行されてはじめて、教会と坊主は、プロレタリアートと農民の社会主義建設の実践からすっかりボイコットされてしまった。農村で、青年・貧農・中農たちが現実に有利な集団農場を組織しようとする。

農村ブルジョアの富農は反対で、窓ガラス越しに鉄砲をブチ込み積極的な青年を殺したりした。坊主をおふせで食わせ飲ますのは富農だ。坊主と富農は互に十字架につらまって、農村の集団化の邪魔をする。

坊主を追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際からソヴェト同盟の反宗教運動は完成された。一九二九年、坊主はXマスであった日にパン屋の入口に職業服のまま立って乞食していた。」(同書より)


宮本百合子は1927年12月15日から3年弱、ソ連に滞在しました。この短い紀行文は帰国してから書かれたものです。

熱烈なソ連信者だった宮本百合子は、ソ連が搾取者だった富農を排除して着実に社会主義を建設し、労働者と農民の国になっていくことを示したかったのでしょう。

共産主義理論によれば、ロシア正教会は基督教という非科学的な世界観で労働者と農民を奴隷的地位に縛り付ける役割を果たしています。

宮本百合子が買った本「聖書についての愉快な物語」


宮本百合子は、ロシア語はあまり読めなかったそうですが、モスクワの国立出版所で「聖書についての愉快な物語」という本を買いました。この本には次のように記されていました。

「諸君。一冊の本がある。それを教会で坊主が読むときには、みんな跪いて傾聴する。開けたり閉めたりするときは、一々接吻する。その本の名は聖書だ。

ところで、聖書には、神の行った実に数々の奇蹟が書かれている。神は全智全能だと書かれている。

けれども、妙なことが一つある。それは、その厚い聖書を書いたのは神自身ではない。みんな神の弟子たちだということだ。ヨブだのマタイだのと署名して弟子が書いている。

全智全能だと云いながら、して見ると神というものは本はおろか、自分の名さえかけなかった明きめくらだったんだ。」

1927年当時のソ連では、実に品のない基督教批判がなされていたのです。私は基督教徒ではありませんが、これは酷い。

神が自分で本を書くわけがない。ばかばかしいことこの上ない。

宮本百合子はロシア正教会の聖職者を「坊主」と訳していますが、悪意のこもった訳です。

「坊主」とは仏教の僧侶を、見下して使う俗語ですから。普通は「お坊さん」と言います。

そもそもロシア正教会の聖職者は仏教徒ではない。宮本百合子は仏教も「封建社会の遺物」などと把握していたのでしょう。

富農と聖職者の追放、粛清はレーニンの遺訓


当時のソ連共産党は、レーニンの遺訓に依拠し、教会の聖職者は富農の手先だから粛清せよ!という方針を保持していました。

宮本百合子はそれを「坊主を村から追っぱらえ!レーニンの云った通り、社会主義建設の実際から、ソヴェト同盟の反宗教運動は完成した」と表現しました。

レーニンは繰り返し、富農の粛清を強調しています。

いささか奇妙ですが、私は宮本百合子は社会の動きに関する感覚の鋭い人だったと思いました。

宮本百合子が滞在していた時期に、ソ連社会は「人間抑圧型社会」(不破哲三氏の表現)に変貌していきます。

全体主義がソ連で確立されていく時期だったのです。

工業化を急速に達成するためには、「五ヵ年計画」と農業集団化で農村の余剰を工業化に強制配分せねばならない。

そのためには農民から移動の自由、職業選択の自由を奪い、共産党の指令に服従するよう、思想改造をせねばなりません。労働者もソ連共産党の指令に従い、黙々と働くようにせねばならない。

宮本百合子はソ連共産党の反宗教運動を「社会進歩」と認識していた


労働者、農民がスターリンとソ連共産党よりロシア正教会の聖職者を偉いと考えているようでは、共産党の指令に従わなくなってしまいます。

ロシア正教会のおしえは、ロシア人の心に深くしみ込んでいました。ロシア正教会の聖職者に対する尊敬感は社会主義建設の障害でしかない。

ソ連共産党はこれを上記のような本で除去しようとしたのです。クリスマスも徐々に廃止させようとしました。

宮本百合子によれば、1928年のクリスマスの日には樅の木売りがモスクワの目抜きの広場から姿を消していました。

モスクワの労働者クラブで、夜明け頃まで反宗教の茶番や音楽、ダンスがあったそうです。

富農とロシア正教会の聖職者を追放し、建設現場や政治犯収容所で奴隷のごとき囚人労働をさせることは、工業化の財源確保のためでもありました。

宮本百合子が上記のような背景を承知していたとは考えにくいですが、富農と聖職者の追放が社会を大きく変える重大事であることを宮本百合子は感知していました。

富農と聖職者の追放、下品な反宗教運動を宮本百合子は大真面目に「社会進歩」などと把握していたのです。

Christmasに乞食をしていた聖職者はその後どうなったのか


ところで、宮本百合子が目撃した、1929年のクリスマスの日にパン屋の入り口で乞食をしていた聖職者はその後、どうなったのでしょうか。

この方が所属していたであろう教会は反宗教運動により破壊されてしまったのでしょうか。

ロシア正教会聖職者の多くは、凍えるモスクワの冬を越えられず、餓死していったのかもしれません。

宮本百合子が本質的に残虐な性格の持ち主だったとまでは思えませんが、この一文には「搾取を擁護してきた坊主は死ね!」というメッセージが込められている。

「階級的憎悪心」というものでしょう。乞食をしていた聖職者は失業していたと言えるはずですが、憎しみでいっぱいになってしまっているこの方にそんな発想の転換ができるはずがない。

ソ連にも、失業者がいたということです。「人民の敵」として囚人労働をさせられなかったが、その類とみなされて国有企業で職を得られなかった人はいたはずです。

十年ほど後には、スターリンが国民を戦争に徹底動員するため、ロシア正教会を利用します。そのときまで、ロシア正教会の聖職者たちはどうやって暮らしていたのでしょうか。気になりますね。

吉良よし子議員は宮本百合子のソ連礼賛文を読んでいるのか


吉良よし子議員や「民主主義文学運動」に参加されている皆さんは、宮本百合子の数々のソ連礼賛文をどう評価しているのでしょうか。

吉良よし子議員は読書好きだそうです。宮本百合子の「モスクワの姿」は、青空文庫でも読めます。是非読んで、感想をホームページなどに書いて頂きたいものです。

私には吉良よし子議員が教会の牧師や神父、仏教の僧侶を憎んでいるとは到底考えられないのです。宮本百合子のような発想で宗教者を見ているのなら、「市民との共闘」などありえません。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子のソ連礼賛文を御存知でしょう。その話をするといろいろ厄介なことになるから黙っているのでしょうね。

宮本百合子の「歌声よおこれ」の「歌」とは、在日本朝鮮人総連合会の皆さんが歌う「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」と大差ない。

「モスクワの姿ーあちらのクリスマス」を読んで改めてそう感じました。







2016年11月4日金曜日

アンドレ・ジイド「ソヴェト旅行記修正」(昭和27年新潮文庫)より思う

「立身出世の早道は密告である。密告をすると警察とよきつながりができるし、その庇護をうけることになる。但し警察から利用されることにもなるが。

一度、これをやりはじめたが最後、もはや名誉や友情に拘ることなく、ただ密告一筋道あるのみとなる。(途中略)不穏な言葉を耳にしながら、早速申し出なかった者は投獄または流刑に処せられる。したがって、密偵行為は一つの市民的な美徳とすらなっているわけである。」(同書p30-31から抜粋)


スターリンの時代のソ連社会の特徴の一つは、市民間の密告です。知人が不満を言ったら警察に密告しないと、自分が投獄、流刑されるかもしれない社会でした。

今の北朝鮮と同じです。こんな社会で生きていくことはどんなに困難だったでしょう。

1956年のフルシチョフによるスターリン批判より約20年も前に、ソビエト社会の実情を暴いたジイドの慧眼に感服させられます。

「ソヴェト旅行記修正」の解説(小松清氏)によればジイドのこの評論は、前著「ソヴェト旅行記」が出てから半年あまり後の1937年6月(昭和12年6月)に発表されました。

「ソヴェト旅行記」は、ロマン・ローランにより厳しく批判されました。ジイドはこれらに答えるため再度ソ連批判をしました。上記はその一部です。

スターリンとソ連共産党による独裁体制、今日の不破哲三氏によれば「人間抑圧型社会」が形成されていることをジイドはいち早く看破したのです。

不破哲三氏がソ連を「人間抑圧型社会」と規定したのはソ連崩壊後です。

ソ連について、日本共産党員がジイドと同様の認識に至るまでおよそ53年の歳月が必要だったのです。

宮本百合子のジイド批判―「こわれた鏡」は「人間抑圧社会」礼賛


ジイドの反論文は、「中央公論」昭和12年10月号に「ローランその他への反撃」という題名で翻訳されて掲載されたようです。

宮本百合子は「こわれた鏡―ジイド知性の喜劇―」(「帝国大学新聞」昭和12年10月11日号)と題してジイドを批判する評論を書いています。

宮本百合子は、ジイドが引用している統計をソ連当局が公開し発表していること自体が、ジイドによって描かれているとは異なった現実があることを読者に感じさせると主張しています。

宮本百合子は、ジイドは歴史の本質を把握しておらず猛烈な自己分解を行っていると論じています。

今日の不破哲三氏から見れば、宮本百合子は「人間抑圧型社会」の形成が「歴史の法則的発展」であると断言したことになります。

宮本百合子の「歌声よ、起これ」という新日本文学会の由来の呼びかけは、日本をソ連のような人間抑圧社会に変えていくための「歌声」だったのです。

「私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な動きをごまかすことなく映し返して生きてゆくその歌声」と宮本百合子は新日本文学を規程しています。

「歴史のより事理にかなった発展」「世界歴史の必然的な動き」とやらの先頭に立っているのは、スターリンとソ連共産党が指導するソ連邦である、と宮本百合子は考えていたに相違ありません。

宮本百合子ら当時の日本共産党員はスターリンとソ連共産党を深く信頼し、敬愛していました。

夫君の宮本顕治氏はマルクス・レーニン・スターリン主義とやらへの盲信を「前衛」掲載論文で表明しています。

百合子のソ連社会生活体験が、宮本顕治氏の盲信を深めさせてしまったことは想像に難くない。

在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」を歌っていらっしゃるでしょうが、宮本百合子が起こそうとした「歌声」はこれと大差ありません。

スターリンの時代のプラウダ、イズベスチヤにはソ連の問題点を暴く記事があった―ブハーリンの意志か?


ジイドの「ソヴェェト旅行記修正」にはプラウダやイズベスチヤに掲載されている統計やソ連の問題点を暴く記事を根拠にしてソ連の問題点を述べている部分は確かにあります。

これには私も少し驚きました。1936年なら、イズベスチヤの編集長はブハーリンです。ブハーリンは1937年の早い時期に逮捕されてしまいます。

当時のソ連の新聞には、現在の北朝鮮の「労働新聞」「民主朝鮮」と異なり、自国の問題点を多少は暴く記事があったのですね。ブハーリンの意志が反映されていたのかもしれません。

「多少」としか言えないのは、「富農」「人民の敵」とレッテルを貼られた人々が政治犯収容所やシベリアで強制労働をされている事実や、彼らによるソ連共産党批判が当時のソ連の新聞に掲載されていたとは考えにくいからです。

1932年から33年のウクライナでの大飢饉についても、当時のソ連の新聞に記事が掲載されていたのでしょうか。ジイドですらこれを知らなかった可能性が高い。

肝心なところは書かないで、枝葉末節部分を掲載するしかなかったのでしょう。キーロフ暗殺後のソ連社会で、スターリンの権威を根本的に脅かすような記事が掲載されるとは考えにくい。

ソ連における搾取―資本家はいないが特権層が存在する


ジイドは、ソ連には資本家はいないが高額の報酬を受け取り、権力をふるう官僚、特権層が存在していると指摘しています。

高級官僚、特権層はスターリンと運命共同体ですから、現行制度の忠実な支持者です。彼らの高収入の源泉は、労働者の低賃金による剰余です。

そんな連中より、市場経済で倒産の危険を引き受けて企業経営をする資本家のほうがどれだけましかわからない。

普通の資本家や企業経営者には政治家の御機嫌を取らねばならない誘因はありません。

私見では、ソ連や中国の共産党員は資本家というより、地代を得ている地主に近い。彼らは土地を所有していませんが、国家の権限を利用して高収入を得ています。

権限を利用した収入(賄賂)や地代を英語ではRentと言います。

寡占市場にも、Rentは生じます。国家の権限利用という「サービス」を供給する官僚は「独占企業」ともいえる。独占市場、寡占市場では資源が非効率的に配分されてしまいます。

マルクス主義経済学の理屈はどうあれ、ソ連社会で一般の労働者は低賃金で黙々と働くしかなかった。所属企業の運営方針に正直に意見を述べることは殆どできなかった。

国営企業の運営方針に不満を述べれば、監獄行きか流刑になってしまいかねません。労働者がそんな状態なら、通常の日本語では搾取されているというべきです。

ジイドによれば個人の内部的な改革を伴わずして社会状態の変化はない。ソ連で新しく形成されつつあるブルジョアジーは、西欧のブルジョアジーと大差ない。

彼らは共産党員かもしれないが、心の中のどこに共産主義があるのか。一向に見当たらないとジイドは述べています(同署p61)。

ジイドはなぜソ連の本質を見抜けたのか―ソ連から戻ってきたルドルフ氏の叫び「スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!」


ジイドはなぜ、ソ連が全体主義社会になっていることを看破できたのでしょうか。

本人の慧眼もさることながら、ソ連から仏に逃げてきた人々がもたらした情報をジイドが得ていたことも重要な要因でしょう。

「ソヴェト旅行記修正」の末尾に、当時の読者がジイドにあてた手紙が掲載されています。p131-134に、A・ルドルフという方のジイドへの手紙があります。

ルドルフ氏はかつて共産党員であり、ソヴェト政府の役人として三年以上新聞関係の仕事をしました。1934年12月のキーロフ暗殺事件の後、ルドルフ氏は仏に戻りました。

ルドルフ氏は実体験からソ連社会の恐ろしさを知り、「ソヴェト・ロシアよりの決別」という著書を出したそうです。

ルドルフ氏はジイドへの手紙で、ジノヴィエフ・カーメネフ裁判、白海やシベリア、トルキスタンにいる数千の「反革命家」の問題に関心を訴えています。

スターリンの犠牲者を救い出すため、どうか力になって下さい!とルドルフ氏は書いています(同署p134)。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)、吉良よし子議員は宮本百合子による「人間抑圧社会」礼賛をどう受けとめているのか


「ソヴェト旅行記修正」が新潮社から出版されたのは昭和27年でした。

ジイドのソ連批判を、当時の宮本顕治氏や蔵原惟人氏は一蹴してしまったのでしょう。

宮本顕治氏、蔵原惟人氏ともに狂信的なソ連礼賛論文を「前衛」に掲載していたことを、本ブログで何度か指摘してきました。

昭和27年頃若き活動家だったであろう不破哲三氏や畑田重夫氏も、ジイドのソ連批判には一切耳を傾けなかったのでしょう。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員や、「民主主義文学運動」に参加している方々は、宮本百合子が「人間抑圧社会」を礼賛してしまった史実をどう受けとめているのでしょうか。

ソ連問題の「専門家」聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)なら、宮本百合子によるジイド批判を御存知のはずです。

ジイドの見解は「こわれた鏡」である、という宮本百合子のソ連論は適切だったと聴濤弘氏は本気で考えているのでしょうか。

共産主義者は「反党・反革命分子」「反党宗派分子」の処刑を支持する


宮本百合子の観察眼は、少なくともソ連社会に関する限り完全に曇っていたのです。色眼鏡で見てしまうと全てがバラ色に見えてしまう。

この件に深入りすると不破哲三氏から批判されて厄介なことになるから黙っていよう、と民主主義文学運動の参加者は判断しているのでしょうか。

そうであるなら、文学者というより海千山千の狡猾な政治家ですね。「民主主義文学者」として生きていくためには、共産党の最高指導者の顔色を常に窺わねばならない。

今日の在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、脱北者の声に一切耳を傾けません。在日本朝鮮人総連合会の皆さんは、「反党反革命宗派分子」張成澤の処刑を大喜びしているのでしょう。

宮本百合子や宮本顕治氏も、「人民の敵」ブハーリンの処刑を当然視していたのでしょう。宮本夫妻が「モスクワ裁判」への疑問を表明したなどという話は聞いたことがありません。

共産主義者とは、「反党・反革命分子」「宗派分子」の処刑を支持する「こわれた鏡」を持っている方々なのです。







2016年10月23日日曜日

統一朝鮮新聞特集班「『金柄植事件』-その真相と背景」(昭和48年統一朝鮮新聞社発行)より思う

「『総連』の内部事情からみれば、1971年1月ひらかれた『九全大会』で、金柄植は筆頭副議長に選出され(後に『第一』副議長をせん称)『総連』は、韓・金体制で完全に固められるところとなった。だが、それは韓・金両人、就中金柄植が、自分に気にくわぬか、阿諛追従せぬ良心的にして気骨のある古い幹部や中堅活動家等千数百名を、あるいは宗派分子、あるいは非組織策動分子といったレッテルをはるなど、あらんかぎりの理不尽な手段方法でもって追放した結果、確立されたものであった。」(同書p20より抜粋)


北朝鮮の現実を考えるためには、金日成、金正日そして金正恩に絶対的な忠誠を誓ってきた在日本朝鮮人総連合会が行ってきたこと、果たしてきた役割を分析することは大事です。

金父子への絶対的忠誠を、「唯一思想体系」「唯一指導体系」の確立と表現します。北朝鮮の特殊用語・表現を、在日本朝鮮人総連合会の文献で少しずつ理解しなければなりません。

昭和48年に発行されたこの本は、当時の在日本朝鮮人総連合会で生じた最高幹部間の権力争いと在日本朝鮮人総連合会の実態を赤裸々に暴いています。

「統一朝鮮新聞社」は、後に「統一日報」になります。「統一日報」に近年掲載された故佐藤勝巳氏の手記について、本ブログでは何度も批判してきました。御時間のあるときにご覧下さい。

この本を読むと、金日成や朝鮮労働党から在日本朝鮮人総連合会に、在日本朝鮮人総連合会の「経済使節団」や万景峰号(北朝鮮の船)を通して「提講」という指示が出されていたことがわかります。

「提講」という語は日本語にはありません。韓国でも、企業や団体の長が社員や会員に指示を出すときこんな言葉を使わないでしょう。北朝鮮の特殊用語です。

「提講」と、金日成の「教示」や金正日の「お言葉」がどう違うのか、私にはわかりません。この本には金正日の名前は出てこない。70年代前半にはまだ金正日は表に出ていなかったのです。

この時期の「提講」にも、金正日の決済があった可能性もあります。

この本には私たち日本人にはなじみのない方々の御名前が次から次へと出てくるので、わかりにくい。

韓徳銖議長と金柄植氏による在日本朝鮮人総連合会支配と、権力闘争


この本の中心内容は、次です。

当時の在日本朝鮮人総連合会の議長は韓徳銖氏でした。

この本によれば、韓徳銖議長は在日本朝鮮人総連合会の全組織を自分一人の支配下におき、縁戚関係にある金柄植氏を自分に次ぐ第二人者に仕立てようと策してきました。

昭和46年の「九全大会」で金柄植氏は名実ともに在日本朝鮮人総連合会の第二人者になりましたが、今度は韓徳銖議長をもさしおいて、在日本朝鮮人総連合会の運営を自分勝手に仕切るようになりました。

金柄植氏は自分に直属する秘密工作部隊である「ふくろう部隊」(総連内の俗称)に命じて、韓徳銖議長宅に盗聴器をつけていたそうです(同書p4)。

四十五年くらい前のことですが、「ふくろう部隊」という組織があったことは間違いない。私はその組織に入っていた方とお会いしたことがあります。

在日本朝鮮人総連合会の所業について、当時の日本共産党最高幹部は怪しいと感じていた可能性があります。

油井喜夫氏の力作「汚名」(平成11年毎日新聞社刊行, p81-89)は、昭和47年5月頃「新日和見主義者」とレッテルを貼られた民青同盟幹部が北朝鮮との関係を当時の日本共産党中央から疑われたことを記しています。

権力闘争は朝鮮労働党の「鶴の一声」で決着がついた


盗聴器を付けた方がそれを自白し、韓徳銖議長も黙っていられず巻き返しにでました。朝鮮労働党は様々な経路で在日本朝鮮人総連合会の動向を常に把握しています。

韓議長と金柄植氏の争いは結局、朝鮮労働党の次の指示で決着を見ます。

昭和47年12月13日に新潟港に停泊していた北朝鮮の船「万景峰号」で総連側に次の指示が示されました。

提講「総連内に主体思想を徹底的に樹立することは、在日本朝鮮人運動の勝利的前進のための決定的担保」が金柄植氏を「反党、反革命、宗派策動分子」と規定しました。

この奇奇怪怪な表現も普通の日本人にはなじみにくいですが、要は歴史上最悪の人間ということです。北朝鮮では朴憲永、後に張成澤らがこの類のレッテルを貼られました。

同時期の日本共産党は、民青同盟の幹部たちに「新日和見主義者」というレッテルを貼り過酷な「査問」をしました。

旧ソ連では、「富農」「人民の敵」、中国では「走資派」というレッテルを貼られた人たちがいました。

金柄植氏は昭和47年秋ぐらいには北朝鮮に召喚され、「学習」にやられたようです。その後長く金柄植氏の消息は伝えられませんでしたが、金日成が亡くなる少し前に出てきました。

二十年ほど、金柄植氏が何をしていたのか、なぜ突然出てきたのかは不明です。「反党反革命宗派分子」が復権した珍しい例です。

金日成の還暦祝いに莫大な贈り物-総額50億円以上と「人」-


この本によれば、在日本朝鮮人総連合会は金日成の還暦祝いと称して莫大な贈り物をしました。総額で50億円以上とあります(p100)。以下、少し紹介しておきます。

・総連「中央」はフィルム製造やオフセット印刷等3つの工場設備に技術者をつけておくった。その費用が約20億円。

・大阪本部は、金日成の邸宅の家具調度・装飾一式でその負担金1億5千万円。

・兵庫本部は内閣の首相執務室の調度・装飾一式で1億3千万円。

・東京が「労働党」総秘書事務室の調度・装飾一式で1億3千万円。

昭和47年に総額50億円の「贈り物」が真実ならとんでもない額です。主に供出したのは、朝鮮商工人の皆さんでしょう。朝鮮商工人は、どこからどうやって資金を出しているのでしょうか?

正確な金額は不明ですが、途方もない金品と物資がこれまで北朝鮮に運ばれて行きました。核兵器や生物・化学兵器を製造するための資金だけでなく設備や機器も運ばれている可能性が高い。

「平和運動」に励む左翼の諸団体はなぜ、朝鮮商工人による北朝鮮への核軍拡資金提供を批判しないのでしょうか。

上記からも明らかですが、在日本朝鮮人総連合会は「技術者」すなわち人を「贈り物」にしてしまう組織なのです。

この時期、「オートバイ部隊」などと呼ばれた若者たちが200人くらい、北朝鮮に「贈り物」として送られました。人の贈り物とは、「奴隷」ではないでしょうか。

朝鮮労働党の「南朝鮮革命路線」から考えれば、「南朝鮮解放」のために資金と物資、「奴隷」を在日朝鮮人が「朝鮮半島北半部の民主基地」である北朝鮮に献上するのは当然です。

日本は大韓民国滅亡策動に協力すべきなのか


「南朝鮮解放」とは大韓民国を滅亡させることです。日本人、日本政府はこれに協力すべきなのでしょうか。日本人、日本政府は金正恩の贅沢生活維持に協力すべきなのでしょうか。

かつての日本の左翼、特に日本共産党は朝鮮労働党の「南朝鮮革命路線」を支持していました。大韓民国を国家として認めていなかったのです。「米国の傀儡」と規定していました。

これは、1960年代の「赤旗」や「前衛」を図書館などで探して調べればすぐにわかります。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、日本共産党と朝鮮労働党の共同声明や帰国事業など御存知ないかもしれません。

最近の「赤旗」や「前衛」には掲載されていませんから。

若い共産党員には、一昔前の日本共産党の文献を直接読んで自分たちの先輩がやってきたこと、主張してきたことを考えることができないのです。

知的誠実さ、粘り強さが欠けている。

聴濤弘氏(日本共産党元参議院議員)や国際政治学者の畑田重夫氏なら、日本共産党と朝鮮労働党が日韓条約粉砕、米国批判などで協力してきたことをよく御存知です。

国際政治学者畑田重夫氏に問う―大韓民国は滅ぶべきなのか


「現代朝鮮論」を研究テーマの一つになさっている国際政治学者畑田重夫氏は、普段から新聞各紙を熱心に読み込んでおられるそうです。

それならば、畑田重夫氏は金柄植氏の所業や北朝鮮の政治犯収容所、出自で個人を差別する「成分」制度について十分な情報を得ているはずです。

畑田重夫氏は、在日朝鮮人による集団的帰還事業である帰国事業の実現のために粉骨砕身の努力をされました。

「社会主義朝鮮」とやらへ笑顔で帰国していった元在日朝鮮人や日本人妻のことを、畑田重夫氏なら今でも覚えているはずです。

帰国者と呼ばれる彼らは、北朝鮮で徹底的に差別され、常に監視対象におかれました。自由な日本社会を知っている元在日朝鮮人は、気軽に朝鮮労働党幹部を批判してしまいます。

結果から見れば、帰国事業とは「奴隷運搬事業」でしかありませんでした。

昭和30年まで、在日朝鮮人の共産主義者は日本共産党員でした。畑田重夫氏なら、当時の事情を御存知でしょう。

畑田重夫氏は在日本朝鮮人総連合会の幹部の方々と、かつては共に日韓条約粉砕などの社会運動に参加されたのではないでしょうか。

畑田重夫氏の若い頃の著作「朝鮮問題と日本」(新日本新書、昭和43年刊行)では、朝鮮半島は北朝鮮により統一されるべきであること、すなわち大韓民国は米国の植民地だから滅亡されるべきであるという論調で一貫しています。

当時の日本共産党は、朝鮮労働党との共同声明で、「南朝鮮革命路線」支持を表明していました。畑田重夫氏の著作「朝鮮問題と日本」は当時の日本共産党の路線に沿っています。

畑田重夫氏は国際政治学者としての社会的責任を果たすべきだ


今の畑田重夫氏は、若い頃の御自分の著作は出鱈目だったと本音では思っているが、それを吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員には内緒にしているのかもしれません。

若い頃の失敗は人生経験として大事ですが、畑田重夫氏の著作を信じて大韓民国滅亡のための宣伝や運動に参加してしまった元民青同盟員は少なくない。

その方々も今では、70歳近くになっているのでしょうけれど。

畑田重夫氏には是非、かつての御自分の著作と北朝鮮の凄惨な人権抑圧の実態、大韓民国の滅亡が必要か否かについて見解を表明して頂きたい。

それが、国際政治学者として果たすべき社会的責任ではないでしょうか。













2016年10月16日日曜日

H. G. ウェルズ「影のなかのロシア」(みすず書房昭和53年刊行。Russia in the Shadows by H. G. Wells, 1920)より再び思う

「私は、広く支持された教育的なキャンペインによって、現存の資本主義組織をコレクティヴィズム的な世界組織へと教化していくことができる、と信じている。これに反してレーニンは、不可避的な階級闘争、再建への序曲としての資本主義秩序の崩壊、プロレタリアート独裁等々といったマルクス主義のドグマを何年来信奉しているのである。

だから彼の主張は、近代の資本主義が癒し難いほど略奪的、浪費的で、教えることなどできないものであり、打倒されるまで人類の遺産を愚かしく無目的に搾取しつづけるであろう、...それは本質的に奪い合いなのだから不可避的に戦争をひきおこすであろう、ということであった。」(同書p103-104より抜粋)。


英国のSF作家ウェルズは1920年十月にソ連を訪れ、モスクワでレーニンと会いました。ウェルズはそのときの経緯と中身を、同書で明らかにしました。

上記はレーニンとウェルズの討論内容の一部です。

ウェルズは、自らを漸進的なコレクティヴィストと位置づけ、マルクス主義者であるレーニンと大きく異なっていると述べています。

戦争はなぜ起きるか―ウェルズ「資本主義的社会組織から起きるのではない」


ウェルズによれば、戦争は国家主義的帝国主義から起きるのであり、資本主義的社会組織から起きるのではありません(同書p104-105)。

これに対しレーニンは資本主義はつねに奪い合うものであり、コレクティビズム的な活動の正反対であるから社会的、世界的な統一に発展することはできないと述べました。

ウェルズの主張は、ドイツ社会民主党の理論家カウツキーの「超帝国主義論」ないしは後の構造改革論者に近い。

「構造改革論」とは、昔の社会党の江田三郎氏や神奈川県知事になった長洲一二氏らが唱えたマルクス主義の理論です。

私見では現在の日本共産党の帝国主義論も、ウェルズの主張に接近しています。現在の日本共産党の革命理論も、「構造改革論」と似ています。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は、「構造改革論」を御存知でしょうか。若き不破哲三氏、上田耕一郎氏は「構造改革論」を「修正主義」と徹底批判しました。

両氏の「マルクス主義と現代イデオロギ―」(大月書店刊行)を読んで頂きたいものです。

戦争はなぜ生じるか―開戦時と非開戦時それぞれで得られる「利益」の大小


私見では戦争、組織的暴力は開戦した場合に得られる「利益」と、開戦しなかった場合に得られる「利益」を国家や社会組織の支配者が比較し、前者が後者より大きいと見なせば生じます。

「利益」の大きさは、開戦時に勝利できる確率に依存する。「利益」は勝利時に得られる物的、人的資源や「名誉」に依存する。

社会の中で資本主義企業の占める位置は戦争の勃発とはほとんど関係はありません。

レーニンとボリシェヴィキは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と主張し内戦を起こしましたが、彼らは「独占資本」とは直接関係がない。

レーニンがドイツ政府から資金援助を受けていたという疑惑はありますが。

独占資本、大企業が存在しない時期にも、欧州諸国は植民地争奪戦を繰り返しました。

中国史は、北方遊牧民族との抗争の歴史でもあります。匈奴や突厥、鮮卑、モンゴルや満州族には独占企業は存在しませんでした。その頃の漢族にも、独占企業は存在しない。

北朝鮮が韓国に侵攻したのは、スターリンと毛沢東の承認を受け、金日成は勝利できると予想したからです。

ウェルズの戦争論のほうが、レーニンの「戦争の根源は独占資本主義だ」論より歴史の現実にふさわしい見方でした。

しかしウェルズも、その後のソ連が勢力圏を広めるべく、東欧や朝鮮半島に侵攻することは予想できなかったでしょう。

ウェルズは西側が「トラスト」(企業合同)を結成してボリシェヴィキと交易すべきと主張した


ウェルズは、前に本ブログで紹介したようにロシア革命後のペテルブルグとモスクワの現実をよく見ていました。

ウェルズによれば、ボリシェヴィキはロシアで私有財産と私的な商取引を便宜的でなく正義の問題として抑圧しました。

ロシア全土には、西欧の商業生活の慣習・慣例を尊重するような商人、商業団体は残っていません(同書p111-112)。

実際には、闇屋がかなり残っていたはずですが。闇屋が農民から穀物を買い上げ、都市に運んでいたからこそ、生き延びることができた都市住民は少なくなかった。

ボリシェヴィキは私企業家たちを海賊のようにみなしていたそうです。

この時期のレーニンとボリシェヴィキは私企業家を敵視していました。商業活動を禁止する「戦時共産主義」策は、市場取引を抑圧し住民生活を悪化させました。

ウェルズによれば、ロシアの共産主義者は買い物や市場での売買を禁止したとき、店やマーケットをどう扱うかを実際に考えていませんでした(同書p36)。

ボリシェヴィキは資本主義を打倒しさえすれば、貨幣の使用と商売を中止すれば、そして社会的差別を一切廃止すれば、それだけで一種の至福千年王国がやってくると信じている狂信家たちです(同書p68)。

これでは、社会が荒廃し経済がどん底に落ちていくのは当然です。狂信家に国家の運営、特に軍と警察を任せたらとんでもない凶行をやりかねない。

ウェルズは絶望的な経済破壊に直面しているロシアを救うために、西側諸国がトラスト(企業連合)を形成してボリシェヴィキと交易することを主張しています。

それでもウェルズは、ボリシェヴィキのロシアが新しい何かを作り出すと期待していたのです。


ウェルズの期待は裏切られ、社会主義は商人の集合体になった―共産党員が権限を使って金もうけをする現代中国


その期待は、富農の一掃とロシア正教会の徹底弾圧を指令し断行したレーニンにより裏切られました。

レーニンは「新経済政策」により戦時共産主義の失敗を認めました。

農民が生産した穀物を一定割合の現物税を支払った後、自由に処分して良いなら簡単に「富農」になれます。闇市が公然化し小商業ができるなら、金儲けをする人はいくらでも出ます。

皆が富農になって金もうけをしてよいなら、社会主義とは商人の集合体でしかない。

金もうけを正当化したら、共産党員と言えども金が一番大事という流れになります。

スターリンは新経済政策により金もうけをした「ネップマン」を敵視し、再び富農を一掃しました。富農一掃は、レーニン主義です。

権力から生じる権限の配分により金もうけをする共産党員は「商人」です。新経済政策の帰結は共産党員の商人化です。

不破哲三氏らの主張する「社会主義を目指すレーニンの探求」が新経済政策であるなら、中国共産党と朝鮮労働党がそれを立派に継承しています。

金正日は39号室という外貨稼ぎ(金山や石炭、鉄鋼石生産部門も含まれる)、外貨管理部門を持っていました。「経済の管制高地」を金正日が掌握していたのです。まさに新経済政策です。















2016年10月9日日曜日

畑田重夫・川越敬三著「朝鮮問題と日本」(昭和43年新日本出版社刊行)より思う

「朝鮮の統一という課題を追及する努力とたたかいが民主主義のためのたたかいとして承認されるのなら、戦争は政治の継続ですから、民主主義のための戦争(内戦)もまた承認されなければなりません。



その意味で、わたしたちも、だれが、どちらが朝鮮戦争を始めたかということよりも、「韓国」およびアメリカの支配階級の客観的情勢の分析に主力をそそいできたのでした」(同書p107より抜粋)。


畑田・川越両氏は、朝鮮戦争を始めたのが北朝鮮、朝鮮労働党であったとしてもそれを民主主義のためのたたかいとして正当化しています。

この本の奥付によれば畑田重夫氏は1923年(大正12年)生まれで国際政治学者です。川越敬三氏は1920年(大正9年)生まれでジャーナリストです。

御二人とも、日本朝鮮研究所所員と出ています。残念ながらこの本は現在は絶版になっているようです。

昭和43年当時の日本共産党員は、この本を現代朝鮮研究の最高の到達点として受けとめていたことでしょう。

「団塊の世代」くらいの日本共産党員が、民主青年同盟員としてこの本を一生懸命学習したはずです。

畑田重夫氏は現在でも、日本平和委員会や原水協、労働者教育協会などで活動されています。

民主主義とやらのために、朝鮮人民軍がソウル市民を殺戮することが正当化されるのなら、日本人や韓国人の拉致、大韓航空機爆破なども正当化されるのでしょう。

民主主義のために韓国人は死ね!という主張と上記に違いがあるでしょうか。この本は、韓国をアメリカの完全植民地と規定しています(同書p99, p180)。

南朝鮮人民にとっては、「日韓条約」を破棄し、アメリカ帝国主義に従属する日本独占資本と日本帝国主義の南朝鮮侵略のたくらみとたたかうことが、南朝鮮を解放する革命の大きな課題となっていると両氏は主張しています(p180)。

吉良よし子議員、池内さおり議員ら若い共産党員は畑田重夫氏のこの本を御存知ないかもしれません。この本は、当時の日本共産党の朝鮮問題に関する政策と十分整合的でした。

若い共産党員は、一昔前の日本共産党の文献を図書館などで探して読み、日本共産党と「平和運動」「民主運動」の歴史を自分の頭で考え、整理していくことができにくい。

共産主義者として朝鮮問題を語ろうとするなら、この本は必読です。

畑田氏と川越氏は、朝鮮戦争の歴史的意義として次を指摘しています(同書p118-119)。

畑田重夫・川越敬三両氏が語る朝鮮戦争の歴史的意義


第一に、朝鮮人民とその武装力である人民軍は、その英雄的闘争によって、祖国、朝鮮民主主義人民共和国を外国帝国主義の侵略から守りました。

祖国の自由と独立、社会主義制度を守り通し、第三次世界大戦を防止するという偉業に大きな貢献をしました。

第二に、朝鮮人民と人民軍は、その英雄的たたかいをとおして、祖国を守ったのみならず、社会主義陣営の当方の哨所を確固と守り抜きました。

第三に、朝鮮人民のたたかいは、中国人民の闘争とあいまって、東邦被抑圧民族の反帝民族解放運動の旗じるしとなり、その後の全世界的な民族解放闘争を限りなく激励しました。

第四に、朝鮮戦争は、全世界の組織的な平和運動の発展の一大契機となりました。

第五に、朝鮮戦争はアメリカ帝国主義は万能であるという「伝統」と「神話」をうちくだきました。

朝鮮人民をふくむ全世界の人民は、社会主義と平和と民主主義の諸勢力がかたく団結してたたかいさえすれば、帝国主義と反動と侵略の諸勢力に勝利できることを教訓として引き出せます(同書p119)。

「団塊の世代」、あるいは聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)ら年長の日本共産党員は、北朝鮮こそ社会主義陣営の東方の哨所だと固く信じていたのです。

最も、宮本顕治氏、不破哲三氏ら当時の日本共産党中央の最高幹部は、この時期にはすでに北朝鮮の危険性に気づいていました(不破哲三「時代の証言」中央公論新社p80-84参照)。

宮本顕治氏、不破哲三氏は北朝鮮が「民族解放」と称してテロ部隊をソウルに送っていることも気づいていたのですが、それを下部党員や「赤旗」読者には一切知らせませんでした。

金日成はスターリン、毛沢東の承認をもらって準備を整え、朝鮮戦争を始めました。中国の参戦は、大韓民国への侵略です。

畑田重夫氏は今でも、「抗米援朝保衛祖国」を掲げた中国人民軍の朝鮮戦争参戦を支持しているのでしょうか。

それなら、畑田氏は今でも北朝鮮により大韓民国は滅亡させられてしかるべきだ、と考えていることになります。畑田氏と川越氏は、次のように北朝鮮への帰国事業を礼賛しています。

「日本海を平和の海に」「帰国船を日朝間の平和の懸け橋に」といったスローガンではじまった帰国事業は、日朝友好運動史上の画期的なできごとでした(同書p191)


畑田氏・川越氏によれば、内外の反動勢力は何回も帰国事業の破壊をこころみましたが、その都度、日朝両国人民の連帯の力でこれをはねかえしてきたそうです。

これによって帰国事業は1967年末までの八年間つねに順調にすすめられ、合計八万八千余人が無事祖国へ帰って新しい生活に入りました(同書p191)。

しかし帰国事業は、重大な危機にさらされているそうです。

佐藤内閣と自民党は「日韓条約」発効以後、帰国事業をうちきる策動をあらためて開始し、帰国協定の延長を一方的に拒否したそうです(同書p191)。

畑田氏、川越氏によれば朝鮮学校で行われている民主的民族教育は、祖国を愛し、平和を望むりぱな共和国公民を育てることを目的としています(同書p193)。

昭和43年時点で北朝鮮に帰国した元在日朝鮮人とその家族(約6000人の日本国籍者を概ね含んでいる)は約88000人だったのでしょう。

畑田氏や日本共産党の努力と北朝鮮礼賛宣伝が実り、さらに約5000人が北朝鮮に帰国できました、というより帰国してしまいました、と書くべきでしょう。

以前にブログに書きましたが、昭和43年頃には相当数の元在日朝鮮人が行方不明になっていました。山間へき地への追放(山へ行った)、あるいは政治犯収容所送りでしょうか。

少数ですが、何かの「罪」で処刑されてしまった元在日朝鮮人もいたようです。

昭和43年頃には「唯一思想体系の確立」と称して金日成の神格化が始まっていました。

朝鮮労働党は住民の追放や政治犯収容所への連行を「学習に行った」ことにしますから、裁判などありません。

「三年すれば里帰りさせてやる」と在日本朝鮮人総連合会関係者に日本人妻は言われていましたが、この時点では誰も帰国できていません。

テロ国家北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人に北朝鮮への帰国を奨励した畑田重夫氏


今日の畑田重夫氏は、かつてテロ国家北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人に北朝鮮への帰国を奨励した史実をどう考えているのでしょうか。

テロ国家北朝鮮で、「民族反逆者」などとレッテルを貼られ政治犯収容所に連行されてしまった元在日朝鮮人もいます。

佐藤内閣と自民党は在日朝鮮人が北朝鮮に帰国することを妨げたそうですが、「奴隷船」の運行を妨げることこそ民主主義です。

北朝鮮へ帰国した元在日朝鮮人の多くは、北朝鮮社会では「動揺階層」に区分され、進学、就職、居住、配給など生きていくすべての面で差別されました。

帰国した元在日朝鮮人たちも、北朝鮮の人々と価値観が大きく異なっていましたから住みにくいことこの上ない。元在日朝鮮人は北朝鮮の人々を「原住民」「アパッチ」などと呼んでいます。

金正日の愛人となった高英姫(金正恩の母で、大阪市生野区出身)は、例外中の例外です。

高英姫は「地上の楽園」ともいうべき消費生活を満喫できましたが、金正日の正妻にはなれませんでした。金日成は金正日に元在日朝鮮人との結婚を許さなかったらしい。

金日成と金正恩が一緒にいる写真が出てこないのは奇妙です。金正日は高英姫との子供を、金日成に紹介できなかったのでしょう。

元在日朝鮮人に対する差別感情は北朝鮮社会で根強い。韓国でも同様かもしれません。

畑田氏、川越氏によれば「日韓条約」そのものがアメリカ帝国主義のアジア侵略体制の一環です。

畑田重夫氏はテロ国家北朝鮮による蛮行の歴史、御自分が韓国を罵倒した史実をありのままに見るべきだ


日本人民が「安保」条約破棄のたたかいを一つ一つ具体的にすすめているのと同じ意味で、日朝両国人民は「日韓条約」の具体化の一つ一つと着実にたたかわねばなりません(同書p181)。

畑田氏、川越氏は南朝鮮革命、すなわち大韓民国滅亡こそ朝鮮人民の解放であると考えていたのです。

畑田重夫氏は、今でも「日韓条約」破棄、すなわち韓国と国交を断絶すべきと考えているのでしょうか。本気でそういうなら、極右翼も顔負けです。

畑田重夫氏は、「現代人の学習法 社会科学を学ぶ人のために」(学習の友社昭和61年刊行)も著しています。

この本で畑田氏は次のように述べています(同書p212)。

一つの活動が終わったら、その活動の行われてきた過程を一つの流れとしてつかみ、同時にそこにあらわれているすべての問題について検討してみなければなりません。

その場合、何よりも恐れることなく、事実をありのままに見ることが必要です。

畑田重夫氏は、テロ国家北朝鮮による蛮行の史実、御自身が北朝鮮を礼賛し、韓国を罵倒した史実をありのままに見つめるべきでしょう。

御自分の書いた本の内容には、御自分の行動で責任を持っていただきたいと思うのは私だけでしょうか。























H. G. ウェルズ「影のなかのロシア」(みすず書房、昭和53年刊行。H.G. Wells, Russia in the Shadows, 1920の翻訳)より思う。

「共産党は大地主の土地没収を許したり、対独講和を結んだりしたことによって農民の消極的な支持をたちまちに確保した。また、多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復した。しばらくの間は、許可なく武器を所持していたものはすべて銃殺されたのである。


この処置は拙劣で血なまぐさくはあったが、効果はあった。共産党政府はその権力を確保するために、事実上、無限の権力を持つ臨時委員会を組織した。そしてすべての反対勢力を赤色テロによって粉砕したのである。」(同書p44より抜粋)。


1917年のロシア革命とは一体何だったのでしょうか。

聴濤弘氏(元日本共産党参議院議員)によれば、1917年11月7日にロシア社会主義革命が成功し、その四日後に全ロシアで8時間労働制が実施されました。

同じ日に革命政府は社会保障制度を導入することを宣言し、確立したそうです。

1918年には教育の無料制、そして医療の無料制を実施したそうです(「社会主義をどう見るか」新日本出版社昭和61年刊行、p48-50より)。

聴濤弘氏が描いたロシア革命後のソ連社会では搾取制度の廃止により労働者が解放されていますから、短時間の労働で十分に暮らしていけそうです。

教育と医療が無料なのですから、労働者は賃金を全額使ってしまっても老後の心配、家族の医療費の心配をする必要がなさそうです。

夢のような社会が、約100年前のロシアで実現されていたことになります。ソ連崩壊の4,5年前まで、日本共産党はソ連をこのように宣伝していたのです。

ロシアでは暴力による住民支配が横行する―ロシア革命後には飢饉も


現実のロシア社会は聴濤弘氏が宣伝してきたような「労働者の祖国」だったのでしょうか。

今の私たちは、ソ連が崩壊しロシアがマフィア資本主義になったことを知っています。

ロシア社会の重要な特徴の一つは、マフィアの暴力による住民支配です。

どんな社会でも、何かの理由で政府が弱体化し、警察が国民の安全を守れなくなるとマフィアや暴力団のような連中が武装力を背景にしてのさばります。

帝政ロシアやソ連邦崩壊後のロシアでは、暴力が横行しました。聴濤弘氏によればコーカサス・マフィア、チュチェン・マフィア、ロシア・マフィアなどいろいろな組織があります。

専門的な職業としてのマフィアだけでなく、マフィアとつながった国家管理のマフィアがいます(「新ロシア紀行 見たこと、聞いたこと、読んだこと」新日本出版社2004年刊行、第二章より)。

マフィア資本主義化またはその危険は、ロシア革命直後のロシアにも蔓延していました。不破哲三氏、聴濤弘氏にはそれがわからないようです。

日本共産党員はいまだに、レーニンが生きていた時期のソ連では「市場経済を通じて社会主義を建設する新たな道が探求されていた」等と信じています。

レーニンが生きていたロシア革命直後のロシアでは、ソ連崩壊後のロシアと同様に暴力が蔓延していました。

ソ連崩壊後には、飢饉というほどの事態は起きなかったようですが、ロシア革命直後のロシアでは飢饉が生じました。

これは、「タイムマシン」「モロー博士の島」「宇宙戦争」などで有名な英国のSF作家H. G. ウェルズ(1866-1946)の「影のなかのロシア」(Russia in the Shadows, 1920)などからも明らかです。

ウェルズが見た1920年9月末のペテルブルグ―巨大な、修復不可能なまでの破壊―


英国のSF小説家ウェルズは1914年1月に、二週間ほどペテルブルグとモスクワを訪れました。次には1920年9月末から十五日間、主にペテルブルグに滞在しました。

ウェルズはペテルブルグの第一印象として上記のように記しています(前掲著p3)。

以下、ウェルズの前掲著より抜き書きします。1920年9月末から10月のペテルブルグの住民生活の実情が、おぼろげながら見えてくるでしょう。

ウェルズによれば、巨大な解体のさなかにあって約十五万の党員を持つ訓練された一つの政党、共産党によって支持された臨時政府が支配権を掌握していました(p3)。

臨時政府は数多くの銃殺により盗賊行為を鎮圧し、荒廃した諸都市に一応の秩序と安全をもたらし、粗雑ながら一つの配給制度を確立しました(p3-4)。

配給制度のためには、農民の生産物を徴発するしかありません。必需品の統制を維持するため、商店が閉鎖されていきました(p5-6)。

路面電車が走っていますが、ラッシュアワーには満員になります。人々は乗れないと外側にぶらさがります。事故は珍しくありません(p6-7)。

路面電車の走っている道路は酷い状態で、3,4年間全く補修されていません。いたるところ穴ぼこだらけです。木造家屋は昨年の冬に全て焼き尽くされました(p7)。

ペテルブルグの人口は(1919年以前の)120万から、70万を少し越えたぐらいまで減少しました。

闇で食糧を高値で売る人は、「不当利得を得た」とかいう理由で直ちに銃殺されました(p9)。普通の取引でも厳しく処罰されました。

取引は全て「投機」と呼ばれて違法だが、食糧取引は黙認されていた


取引は全て「投機」と呼ばれて違法とされています。しかしぺテルブルグでは、道路の片隅で行われている食糧取引は大目に見られています。モスクワでは公然と行われています(p10)。

食糧取引を黙認しなければ、農民に食糧を提供させることができません。

駅という駅はみな青空市場で、列車の止まる場所には牛乳やりんご、パン、その他いろいろなものを売りつけようとするおおぜいの農民が群がっています(p10)。

農民の暮らし向きは良くなっているようです。しかし赤軍が統制価格で農民から食糧を徴発する際、抵抗する場合があります。

十分な兵力を持たない赤軍が攻撃され、殺戮されることもあります(p10-11)。農民より上のすべての階層は、官僚も含めて極度の窮乏状態にあります。

各種の商品を生産した金融・産業組織が倒壊してしまったからです(p11)。新しい日用品は全くもい当たらない。お茶と煙草、マッチはうまく供給されています。

医薬品は払底し、医療は受けられません。風邪、頭痛に対する処置はありません。軽い症状の病気もたちまち重くなってしまいます。出会う人々は殆ど皆、元気がありません(p12)。

あらゆる種類の物資が不足しているので、病人が来ても治療できません。病人を力づけるような食事を出すことはできません。患者の家族が食事を持ち込むしかない(p12)。

最低水準の配給食糧はボールいっぱいの水っぽいオートミールと、ほぼ同量のリンゴの砂糖煮です。人々は配給カードを持ってパンをもらうために行列を作っていました(p14)。

去年の冬、多くの人々は零度以下の室内で生活しなければなりませんでした。水道管が凍結し、衛生施設が役に立たなくなりました(p15)。

1920年の秋がこういう状況なら、冬を越えられなかったペテルブルグ市民は相当いたはずです。21年には飢饉が生じます。

ロシアの各地で農民反乱が相次いだ―農民により館が焼かれた


ウェルズは、ロシア革命後のロシアで農民反乱が相次いだことを指摘しています。戦争に負けたロシア軍の兵士は、武器を手にしたままばらばらになってロシアに戻ってきました。

おびただしい数の農民兵士が、希望も、糧食も、規律もなく故郷に戻ってきたのです(p20)。

ロシア各地で農民反乱が相次ぎました。館が焼かれ、凶行が起きました(p20)。

誰も止めるものがいないので、ペテルブルグやモスクワでは白昼公然と路上で脅迫され、シャツまで剝ぎ取られました。時には死体が水に一日中放置され、その傍らを人々が通り過ぎました。

武装した男たちはしばしば赤軍と称して家に押し入り、略奪し人を殺しました。

1918年はじめの数か月間、ボルシェヴィキ新政権は反革命に対するだけでなく、あらゆる種類の泥棒や盗賊に対しても激しい闘争をしました(p21)。

1918年の夏になってようやく、数多くの強盗や人殺しが銃殺された後で、ロシアの大都市に治安が回復し始めました。

それでもウェルズは、共産党、ボリシェヴィキに対しては好意的に評価しています。

ロシアがすべて、農民たちのように無感動であるか、錯乱状態でしゃべりまくるか、あるいは暴力ないし恐怖に駆り立てられているとき、共産主義者だけが確信を抱き、行動への準備ができていました(p43)。

共産党は多くの銃殺刑を施行することによって大都市の秩序を回復したのです(p44)。赤色テロを行った人々は社会的な憎悪と反革命の恐怖で気が立っていました(p44)。

赤色テロを行った人々は狂信的でしたが、正直でした(p44)。

ウェルズは、マルクス主義についても鋭い批判をしています。レーニンとモスクワで会見しています。これらについては、別の機会に紹介します。

聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝-公式文献の盲信


ロシア革命後のロシアのどこに、8時間労働制や無料医療が存在したのでしょうか。飢饉に直面した労働者は、無料医療制度をなぜ利用しなかったのでしょうか。

搾取制度が廃止されると、たくさんの労働者が餓死するなら、資本家に搾取されていたほうがどれだけ良いかわからない。

資本家、企業経営者は投資や企業運営を行い、社会に貢献しています。富農も農産物を生産していました。地主が何の労働をしていなかったとしても、殺害されねばならない存在ではない。

聴濤弘氏にお尋ねしたいものです。吉良よし子議員、池内さおり議員はロシア革命後のロシアについて、何か御存知なのでしょうか。

聴濤弘氏のソ連宣伝と、在日本朝鮮人総連合会の北朝鮮宣伝は同じような水準です。社会の現実を、地域住民や旅行者から聞き取って調査し把握するという姿勢がない。

自分が現地に滞在し、公式宣伝と異なる現実を見ても、それがなぜ生じるのかを解明していく気概がない。

公式文献への疑問を表明すると、「反革命」「反党分子」「民族反逆者」というレッテルを貼られてしまうのが怖いのでしょう。共産主義者は保身を重視します。

聴濤弘氏は、公式文献への疑問を少しは抱いていたようですが、ソ連崩壊までそれを公にできませんでした。

1917年のロシア革命後、レーニンが生きていた時期(1924年死亡)のロシアは、経済と社会の崩壊、暴力が横行していました。

秩序の確保のために銃殺が簡単になされていたのです。大規模な飢饉の一要因は、ボリシェヴィキが農民から穀物を強制的に徴発したことです。