2013年9月22日日曜日

「異邦人」韓国語訳掲載の刊行50周年記念論文と英語版への序文より思う( L'Etranger, 김화영 옮김, 민음사, 로제 키오論考)

Maman died today. Or yesterday, maybe, I don't know. 오늘 엄마가 죽었다. 아니 어쩌면 어제.



Albert Camus「異邦人」(The Stranger, Translated by Matthew Ward, Vintage Books)の冒頭文ですが、Matthew Wardの英語訳では上記になっています。

My mother died todayという英訳もあるようです。題名も、The Outsiderという訳もあります。

キム・ファヨン高麗大学名誉教授による韓国語訳では冒頭文は上記になっています。

I can't be sure(私にはわからない), Idon't knowの部分が韓国語訳されていないように思えますが、「아니」で良いのでしょう。

mamanを、어머니(オモニ)ではなく、엄마(オンマ)と翻訳しています。韓国人の語感にはこちらが合うのでしょう。英語ではMamanになっています。

日本語訳では、ママンという片仮名になっていました。ママンという語の響きは、遥かなる異国を感じさせます。

韓国語訳には、Camusによる英語版への序文が掲載されています。

韓国語訳には、「『異邦人』を再び読む 『異邦人』50周年記念論文」と題して、ロジェ・キーヨ(로제 키요)という方の論考が掲載されています(p145-162)。

50周年ですから、1992年に執筆されています。おそらく著名な方なのでしょう。原文は英文か仏文なのでしょう。英語版序文とこの論考を読んで思ったことを書き留めておきます。



ムルソー(Meursault)は嘘を拒否する-実際にあること以外のこと、自分が感じている以上のことを言うのは嘘-




英語版への序文でCamusはムルソー(Meursault)について、嘘を拒否する人物であると述べています。

嘘とは、ありもしないことをいうというだけでなく、実際にあること以外のこと、自分が感じている以上のことを言うことのです。

実際の私たちは、その程度のことなら日常的に行っています。さほど感謝してもいないのに有難うと礼をいい、悲しくもないのに悲しそうな表情をつくったりします。

世間を渡り歩いていくためには、その程度のことはどうしようもありません。ムルソーは世渡りを徹底的に拒否しているのです。

ではムルソー(Meursault)が求めているもの、愛するものは何か。

アルジェの焼けるような日差し、太陽です。永遠普遍の太陽こそ、絶対的な真実をあらわしているのではないでしょうか。

ムルソー(Meursault)は太陽、絶対的な真実を渇望しているのです。真実を徹底して追求したがために、世間の人々から糾弾されて死刑を宣告されてしまったとも言えます。

裁判長から犯行の動機をきかれたとき、ムルソー(Meursault)は自分の滑稽さを承知しつつ、「それは太陽のせいだ」と答えます(新潮文庫p107)。

英訳では次になっています(p103)。I blurted out that it was because of the sun.

「それは太陽のせいだ」とは滑稽ですが、アルジェリアの焼けるような日差しがムルソー(Meursault)に正常な判断力を失わせていたという言い方であるなら、首肯できるのではないでしょうか。

匕首を持ったアラブ人が恐ろしかった。5発も打つ必要がなかったのに、極度の緊張のあまり打ってしまったという程度の嘘をムルソー(Meursault)には言えないのです。

「それは太陽のせいだ」とは事実を正直に告白しているだけです。


Camusは人民裁判(モスクワ裁判など)を裁判している




「異邦人」が刊行されたのは1942年6月です。ロジェ・キーヨ論考によれば、この時代は「裁判の時代」でした(前掲著 p161)。

モスクワ裁判というスターリン統治下のソ連での裁判や、ナチス・ドイツ統治下の裁判を、Camusはムルソーの裁判を通して「裁判」しています。

人間の世界では、そもそも裁判自体が不可能であるとロジェ・キーヨ論考は述べています。裁判をするなら必然的に、外観だけを見て判断することになるからです。

正義こそ疑わしいという考え方は、福音書の「他人を裁くな」という教えに通じるものがあります。



キリストは石を投げられて死んでいった。人々はキリストが死んだとき拍手をし、顔に唾を吐いた




イエス・キリストの死に方について、ロジェ・キーヨ論考はこのように述べています(p162)。


真実の内心を正直に述べたがために死刑を執行されることになったムルソー(Meursault)こそ、「我々にふさわしいただひとりのキリスト」(p161)なのかもしれません。

死刑を前にしてのムルソーの最期の望みは、「処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて私を迎えることだけ」です。

Camusは、イエス・キリストの死に方を想定していたのでしょう。

社会で生き抜いていくためには、嘘や方便が必要であるなら、ムルソーは人間存在の罪を背負って死んだと言えるのかもしれません。

ムルソー(Meursault)のような人間は現実にはありえないでしょう。

しかし空洞のような心をもちつつも、真実を渇望し虚偽を徹底的に拒否する人間像を観察することにより、嘘と方便にまみれた私たちの内心を見つめ直すことができるのでしょう。


Camusによる英訳への序文の上記部分と、「異邦人」の最後の部分の英訳を下記に記しておきます。



私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった




To lie is not only to say what isn't true. It is also and above all, to say more than is true, and as far as the human heart is concerned, to express more than one feels.

This is what we all do, every day, to simplify life.


すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった(新潮文庫p127)。

For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.





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