2013年9月29日日曜日

私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。-「異邦人」韓国語訳(이방인, 알베르 카뮈,김화영 옮김)の解説より思う-

他の人たちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた、処刑されるだろう(新潮文庫p125-126)。




体が資本だ、という言葉があります。何をやるにしても、健康でなければ達成できませんから。そう思って私はジョギングと足腰の鍛錬を日々心がけています。

それでも、誰しもいずれは老いて死んでいくのです。事故や、突然の病で倒れるかもしれません。中高年になれば、あんな元気だった人がなぜ...という経験を持っているものです。

知人が残念無念なことこのうえない死を迎えてしまったとき、神も仏もないのかと呟きたくなります。不条理とはそのようなときに出てくる言葉ではないでしょうか。

不条理(Absurdity)という漢字からなら、理屈にあわないこと、納得がいかないことという意味を私は感じます。

不条理(Absurdity)を韓国語訳ではそのまま、부조리と訳しています。題名のL'Etrangerを日本では異邦人と訳したのですが、韓国でもそのまま이방인(異邦人)と訳されています。


Camusのメッセージの一つは、人は死にゆくことを直視することにより、充実した生き方ができるということではないでしょうか。

上述の文章は、小説の最後にあるムルソー(Mersault)の独白部分からとったものです(新潮文庫p126)。私はこの文章をそのように解釈しました。



Albert Camusの世界―生の喜びと死の展望―




「異邦人」韓国語訳の解説は、翻訳した金ファヨン高麗大学名誉教授が執筆しています。

韓国語訳にはロジェ・キーヨという方の「異邦人」50周年記念論文が掲載されています。この方がどういう方かわからなかったのですが、Roger Quillotという方だとわかりました。

Roger Quillotは海と牢獄」というCamusについての著作を出しています。政治家としてもかなり活躍された方です。Camusとも交流があったようです。

以下、金ファヨン教授の解説で心に残ったことを抜書しておきます。



Albert Camusの描く世界は、生の喜びと死の展望、光と貧困、王国と遺跡、肯定と否定など、裏表の両面が常に噛み合わさり、共存している世界である(韓国語訳p187)。

生の終点である希望のない死は、それをして世間万事の無意味さを感じさせないではおかない。「異邦人」はまさにこの虚無感の表現であると同時に、虚無感を前にしての抵抗を語ってくれる(p187)。



いずれは処刑される私たちですが、それではより良い生の満足を求めて何になるのか?という問いかけそれ自体が、それまでの自分を見つめ直し、死ぬまでのより充実した生を形づくるものではないでしょうか。



「異邦人」の一部と二部の違い―ムルソーへの読者の共感を呼び起こす手法―




金ファヨン教授の解説をもう少し、簡単に紹介しましょう。


「異邦人」の一部と二部は対照的になっており、違いは鮮明です(p195-196)。一部のムルソーには、追憶や未来、計画はありません。今その瞬間を満足のために生きています。

一部のムルソーは奇異な行動をとりますが、純粋な人物です。読者は一面では彼に共感を抱かざるをえません(p198)。

二部ではムルソーは殺人のため収監されていますから、自分の死に対する省察をすることになります。

二部の法廷に登場する人物は、裁判長、検事、弁護士、証人などの役割があるだけで、個人としての名前はありません。

一人称の話者による叙述方式により、読者はいつのまにか殺人者の側になるように仕向けられています。殺人者が社会の被害者となっていきます。

読者はムルソーの眼で彼の行動と現実を見ることになり、ムルソーを見ることができにくくなります。

話者であるムルソーが自分の運命に無関心であるほど、読者は殺人者であるムルソーの側に立っている自分を見出すことになります(p197-198)。

いつのまにか、ムルソーは一種の殉教者となり、法定の喜劇性を風刺し、公の社会を告発する手段となります(p198)。


作家は読者をどのように導くかを考え抜くものなのですね。私も自然に、ムルソーの側に立って「正当防衛ではないか」「こんな法廷は人民裁判だ」などと考えていました。

遠藤周作の「さらば夏の光よ」に登場する作家が、作家は一行たりとも無駄には書いていない、一冊の本をどう噛み締めるか、噛めばどのような味がするかを考え抜くことだ旨述べていました。

「異邦人」にはまだまだ論じたい点があります。

小説の最後にある、ムルソーの司祭に対する怒りをどう考えるべきなのでしょうか。

少し後に書かれた「シーシュポスの神話」(新潮文庫)とともに、「異邦人」のメッセージを考えるべきだという議論がどこかであったと思います。またの機会に論じましょう。



君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない(新潮文庫p125)





「異邦人」の最後のムルソーの独白部分を、何ども噛みしめてみたいものです。上の文章も素敵です。

いろいろ苦しいこと、嫌なことがあっても、生きていく勇気を奮い起こさせるような文章です。

下記は「異邦人」の中で私が気に入っている一節です。英語訳と韓国語訳を抜き書きしておきます。最初の文章は、上述の文章の英語訳と韓国語訳です。


The others would all be condemned on day. And he would be condemned, too.

다른 사람들도 또한 장차 사형을 선고받을 겅이다. 그 역시 사형을 선고받을 것이다.



すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった(新潮文庫p127)。


For everything to be consummated, for me to feel less alone, I had only to wish that there be a large crowd of spectators the day of my execution and that they greet me with cries of hate.


모든 것이 완성되도록, 내가 덜 외롭게 느껴지도록, 나에게 남은 소원은 다만, 내가 사형 집행을 받는 날 많은 구경꾼들이 와서 증오의 함성으로 나를 맞아 주었으면 하는 겄뿐이었다.

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