2013年9月11日水曜日

世俗的な野心は鉄の首枷―遠藤周作「鉄の首枷 小西行長伝」(中公文庫)より思う―

あるべき自分と生きるために選択した自分の姿




現代企業社会は厳しい競争社会です。各企業はそれぞれの市場で競合していますから、気を抜けば市場を奪われてしまい、企業存亡の危機に直面しかねません。

勤めている企業が倒産してしまえば、生活の糧を得られなくなってしまいます。またその企業の中で出世できなければ、リストラ、早期解雇の対象になってしまうかもしれません。

そんな中で保身をはかるためには、処世術を駆使せねばならないものです。

嫌だと思いつつも、多少なりとも出世するためには上司へのおべっか使いや付和雷同をせねばならない。そういう経験は誰にでもあるものでしょう。

筋を曲げることをあくまでも拒否して生きようとすれば、世俗的な意味では身の破滅となってしまうかもしれません。

出世のためには、競争者の欠点を周囲に言いふらし、貶めるようにせねばならないかもしれません。それが裏目に出る場合もありえますが。

自分にとっての正義、あるべき自分と、生きるために選択した自分との矛盾。これは現代人だけでなく、戦国時代の切支丹武将も直面していました。

基督教に接し、他者への無償の愛こそ大事なのだという考え方に接した戦国の切支丹武将の場合、あるべき自分と現実の自分との矛盾は大きかったでしょう。

生きていくためには、敵の首をとっていくさに勝たねばならない時代でしたから。生存競争の厳しさは現代人と比較になりません。

遠藤周作「鉄の首枷 小西行長伝」は(中公文庫)は、戦国後期の切支丹大名小西行長の内心の動きを掘り下げていきます。



神は豊臣秀吉による高山右近追放を踏み台にして、小西行長におのれの内面を見るよう仕向けた




豊臣秀吉に基督教への信仰を取るか、領地を取るかと問いただされた高山右近は、迷わず信仰をとりました。

小西行長には、高山右近のような烈しい生き方はできませんでした。

高山右近の追放をきっかけに、小西行長は真剣に神について考えるようになったと遠藤周作「鉄の首枷」(中公文庫)は説きます。

遠藤によれば、小西行長は子供の頃洗礼を受けていましたが強い信者ではありませんでした。

神は高山右近追放を踏み台にして、小西行長におのれの内面を見るよう仕向けたと遠藤は考えます(p89)。

小西行長はこのあと、面従腹背の生き方を選択するようになります(同書p95)。



小西行長は豊臣秀吉の大陸侵攻作戦の無謀さを悟っていた





小西行長は堺の商人の息子ですから、周囲に朝鮮半島や明との交易ないしは往来を経験した人物がいたのではないでしょうか。

小西行長は、中国大陸の広さを知っていたのでしょう。当時は地球儀など殆ど入手不可能でしょうが、世界地図のようなものは南蛮船を通じて手に入ったかもしれません。

切支丹の小西行長は、宣教師からも中国大陸の大きさを知り得たでしょう。豊臣秀吉には、そのような情報を率直に伝えるような人物はいなかったのではないでしょうか。

豊臣秀吉は心中にどんな世界地図を描いていたのでしょうか。明の大きさなど、わからなかったのではないでしょうか。

対馬の領主、宗義智も豊臣秀吉の作戦の無謀さを十分に悟っていたでしょう。対馬は朝鮮半島と長年交易していましたから。

小西行長は娘を宗義智と結婚させ、秀吉の朝鮮出兵を食いとめる同盟関係をつくります(p115-116)。

秀吉の命に従って戦うとみせかけながらひそかに和平工作を行うこと。加藤清正と助け合うようなふりをして実は彼とは別行動をとること(p130)。

小西行長はこのような二重生活をしていたということですが、説得力があります。



小西行長の野心とその挫折




小西行長はなぜ李氏朝鮮、明との和平を望んだのでしょうか。小西行長は太閤秀吉死後の豊臣政権で大きな力を持つのは海外貿易の担い手であると感じていました(p176)。

小西行長の野心は、戦争や征服でなく戦国時代の終わりと共にはじまる新しい時代に向けられていました(p177)。

小西行長は太閤死後の豊臣政権で、明と李氏朝鮮に支持された外務大臣、通産大臣になろうとしていました(p223)。

小西はそのために講和が成立するよう、策をこらしたのですが土壇場で決裂してしまいます。

野心が絶たれた後、小西行長は太閤秀吉と加藤清正に復讐の気持ちを持つようになったと遠藤は考えます(p223)。




小西行長は太閤秀吉の死を待ち望んでいた(p233)―疲れきった小西行長―





太閤秀吉が死ななければ、朝鮮から撤退することはできません。戦意を喪失していた小西行長は太閤の死を待ち望んでいました(p233)。

太閤秀吉は慶長3年(1598年)8月18日に亡くなります。朝鮮から撤退していく小西行長には、虚しさしかなかったでしょう。

朝鮮から九州の土を踏んだとき、行長の心は肉体とともに疲れきっていました(p241)。

二年後の関ヶ原の戦いに敗れ、逃げた後小西行長は進んで縛につきます(p256)。小西行長は大津にあった徳川家康の陣に、鉄の首枷をはめられて留め置かれました(p258)。

大阪と堺で、市中ひきまわしにさらされたときにも、小西行長の首には鉄枷がはめられていました(p261)。



太閤秀吉も運命には逆らえなかった




時代の制約、大きな運命には誰しも逆らえないものです。小西行長は太閤秀吉に引き立てられたからこそ大名となれたのです。太閤秀吉に正面から反抗することなどできようもありません。

晩年に強大な権力をふるった太閤秀吉でさえ、最期は愛児秀頼のことが気がかりでどうしようもありませんでした。

太閤秀吉には、自分の死後徳川家康が権力を掌握していくことが見えていたはずです。秀頼が天寿を全うできる可能性は低いと予想していたのではないでしょうか。

太閤に後継者がいないからこそ、並みいる戦国武将は太閤の死を待って面従腹背の姿勢を取り続けたのではないでしょうか。豊臣家の天下は長くないと皆が予想していたいうことです。

それを太閤秀吉が見抜けなかったとは思えません。

太閤秀吉に成年になった後継者がいれば、面従腹背でなく諸大名は豊臣家に臣服していたかもしれません。「賤ヶ岳のたたかい」あたりで名を上げるような長男がいれば、随分違ったはずです。

北政所の息子ということです。その長男が、文禄・慶長の役でも中心になっていたかもしれません。

加藤清正や小西行長と同世代の長男がいれば、徳川家康でさえ臣服させることができたかもしれませんね。徳川家康は石橋を叩いて渡る人ですから、冒険はしなかったでしょう。

北政所の息子がいれば、その子供、太閤の孫もいたでしょう。太閤の孫は徳川家康の娘と縁組したかもしれません。


太閤が亡くなれば、豊臣家は形だけの存在となる。そこで再び天下をめぐる争いが起きる。天機が塾するそのときまで力を蓄えよう。徳川家康は当然、そう目論んでいたでしょう。

毛利輝元や宇喜多秀家、上杉景勝、あるいは伊達政宗にもそのくらいの読みは当然あったはずです。有力な戦国大名が、太閤秀吉に心から臣服していたとは思えません。


絶大な権力を謳歌した太閤秀吉といえども、しかるべき年齢で子供に恵まれなかったという運命には逆らいようもありませんでした。



鉄の首枷-現世での野望と野心-




面従腹背は小西行長だけではなかったでしょうが、普通の戦国武将は基督教の世界観、価値観を知りません。

従って自分の野望の他に、自分が実現したい心中の願いのようなものは切支丹でない戦国武将にはあまりなかったでしょう。

世俗的な野心と、良心の矛盾に苦しむというような心中の苦しみは少なかったでしょう。無常観は持っていたと思われますが。

イエスが罪深い人間のために十字架を背負い、苦しみながら死んだという話を聞きつつも、保身のためにいくさを重ねねばならない戦国武将の心中の苦しみは相当なものがあったでしょう。

小西行長が最期にはめられていた鉄の首枷には、戦国武将なら誰でも持っていた世俗的な野心があったと遠藤は考えます(p259)。

京都の六条河原で斬首される直前には、鉄の首枷は外されたでしょうが、そのときは現世での野望と野心を捨てるときでした。



現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬ




斬首の前に、小西行長は肌身からはなさなかったキリストと聖母の絵を両手で捧げ、三度頭上に頂き「晴朗なる顔をもってしばらく天上へ両眼を見据えてから御絵を眺め」介錯人に首を差し出したとあります(p262)。


小西行長は妻子にあてた遺書で、身にふりかかった不運は神の与えた恩恵に由来すると考え、主に限りない感謝を捧げています。妻子に今後は神に仕えることを述べ、さらに次を言い渡します。


「現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つ見当たらぬからである」(p263)


遠藤は小西行長のこの言葉を、神のみが頼るべきただ一つの存在であることを妻子に語ったものと考えます(p263)。


遠藤によれば、神は野望という首枷を使って、小西行長を最期に救いの道に至らせました(p264)。



神は我々の人生のすべてを、我々の人生の善きことも悪も、悦びも挫折をも利用して、最後には救いの道に至らせたもう(p264)。



私には、神なるものがこのような働きを実際にしてくださるのかどうかわかりません。しかし、このような考え方があれば、絶望せずに最期まで生き抜くことができるのではないでしょうか。

大きな運命には、誰も逆らえないものなのでしょう。小西行長は勿論、太閤秀吉ですらそうだったのですから。

京都の六条河原で小西行長の最期を見物していた人々の心に、切支丹小西行長は死に行く姿で消せぬ痕跡を残したことでしょう。






















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