自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した
雑務に追われるような日々を、現代人は皆過ごしているのではないでしょうか。余裕がなくなると、些事が気になってしまいます。
同じ事柄が何度も心中に浮かんできたり、自分が実につまらない存在に思えてきてしまう。独り言が多くなってしまう。
そんなとき、他人の眼で自分が直面している状況、自分の立場と自分の暮らしを観察してみたい。
他人なら、今の自分をどう思うだろうか。他人に成り変わってみたい。
雑務に追われて疲れてしまうと、ふとそんな気分になってしまいます。
他人に成り変わるなどできるはずもありませんが、こんな気分を変身願望というのでしょうか。
変身願望という語の語源になっているのかどうかわかりませんが、フランツ・カフカの「変身」の冒頭文はよく知られています。
冒頭の文章だけ読むと、怪奇物語のように思えてしまいます。
自分が「なにか気がかりな夢」から目をさますと、巨大な毒虫に変わってしまったらどうなるのでしょうか。
巨大な毒虫に変身してしまえば、それまで自分が築き上げてきたものはすべて無くなってしまいます。
普通なら、巨大な毒虫に変身した自分を家族や友人が自分と認めてくれるはずがありません。毒虫が職場に通えるわけがありません。
ところが、「変身」の主人公グレゴール・ザムザ(Gregor Samsa)は外交販売員の仕事を続けられると思っています。
さあ、今はもう起きなければならない、汽車が出るのは五時なのだから(新潮文庫p8)
グレゴールが時計を見ると、六時半でした。次の汽車は七時発です。心配して部屋のドアのところまで来た母親にグレゴールは「今起きるところです」旨答えます。
毒虫に変身しても、昨日までの自分の声の中に、苦しそうなびいびいいう声がまじってくるとあります(p9)。
グレゴールの面影を僅かに残しているのは、声だけなのです。その程度で巨大な毒虫を父母や妹が自分と認識してくれるものかどうか、疑問ですが。
四人家族で、外交販売員のグレゴールは一家の大黒柱でした。妹はまだ16歳。両親は年老いています。
しかし毒虫が外交販売員を続けられるはずもありません。グレゴールは部屋に閉じ込められてしまいます。
妹は兄の嗜好を試験するためにさまざまなものをかき集めて持ってきた。それも古新聞紙の上に並べ立てて。半分くさった古野菜。まわりに白ソースのこわばりついた夕食の残りの骨...(p37)
登場人物の中で、妹がいちばん親切に毒虫に変身したグレゴールの世話をしてくれます。
毒虫だからくさった古野菜を好むのでは、と妹は考えたのでしょう。
妹はグレゴールが閉じ込められている部屋の掃除もしてくれます。
妹が部屋に来てくれるとき、グレゴールは寝椅子の下で身を隠します(p47)。
変身により、兄弟愛はこうなってしまいました。
母親は変身した息子と会いたいと言いますが、父親と妹に押しとどめられていました。
部屋の片付けをしているとき、壁にへばりついているグレゴールを見ることになった母親は「助けてえ、助けてえ」と叫んで、寝椅子の上へ倒れて動かなくなってしまいます(p57)。
このとき妹は、「兄さんったら」と拳固を振上げてグレゴールをにらみつけます。
これは変身以来妹が直接兄に向かっていった初めての言葉でした。
「兄さんったら」と拳固を振上げるところに、もはやまともな意思疎通ができなくなっているグレゴールへの妹の愛情が出ています。
自分の部屋から出てしまったグレゴールに対し、父親は林檎を投げつけます。二つ目のリンゴがグレゴールの背中にぐさりとめりこんでしまいます。
グレゴールはのびてしまいます。そのとき母親は父親のもとに駆け寄って、グレゴールのために命乞いをします(p62)。
この小説の一つのテーマは、家族愛とは何かということなのでしょう。
醜い毒虫となってしまったグレゴールですが、母親はひょっとしたらまた息子が人間に戻れるかもしれないと望んでいました(p52)。
しかし、家族といえども、毒虫グレゴールに愛情を持ち続けることはできませんでした。妹の次の言葉は毒虫グレゴールの心に強烈にひびいたでしょう。
もしこれがグレゴールだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んでいられないというくらいのことはとっくにわかったはずだわ、そして自分から出て行ってしまったわ、きっと。(p82)
毒虫グレゴールは妹の提案に同意します。父親が毒虫グレゴールに投げつけた林檎は、一ヶ月以上経っても背中にのめり込んだままでした。
毒虫グレゴールはその傷のためにからだを自由に動かせなくなっていました(p63)。食欲が減退し、衰弱しきっていたのです。
妹の言葉に傷ついた毒虫グレゴールは、やっとの思いで自分の部屋に戻っていきます。
毒虫グレゴールの最期は次です。
変身前までは、一家の大黒柱だったグレゴールなのですが、あまりにも寂しい死に方です。
自分が消えてなくならねばならぬということに対する彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。
こういう空虚な、そして安らかな瞑想状態のうちにある彼の耳に、教会の塔から朝の三時を打つ時計の音が聞こえてきた。
窓の外が一帯に薄明るくなり始めたのもまだぼんやりわかっていたが、ふと首がひとりでにがくんと下へさがった。
そして鼻孔からは最後の息がかすかに漏れ流れた(p84)。
「さて、これで神様に感謝できるというものだ」とザムザ氏がいった(p85)。
家族は毒虫グレゴールの死を悲しみませんでした。
死骸を見た妹の「ねえ、まあなんて痩せていたんでしょう。なにしろずいぶん長いことなんにも食べなかったんだから。...」という言葉がせめてもの救いです。
悲しむどころか、毒虫がいなくなったことにより新たな未来が自分たちに開けた、という描写で小説は終わります。
この終わり方にも、作者の大事なメッセージがこめられているのでしょう。現代人は限りなく孤独な存在なのでしょうか。
現実には、人がある朝毒虫に変身することはありません。しかし、突然業病になったり、大事故に遭遇することはありえます。
そのとき、健康だった身体は一転して限りなく不自由になってしまいます。
毒虫の自分でなく、業病になってしまった自分を想定しつつ、「変身」を読んでみるべきなのかもしれません。
業病や突然の大事故なら、誰しも外交販売員の仕事を続けることを模索するでしょうから。
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