死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。
自分はどういう死に方をするのだろうか。時折これが、気になります。
今は健康でも年年歳歳、体は弱っていきます。あるいは、思いもよらぬ事故に遭遇してしまうかもしれません。五十代ですから。癌や梗塞になることを想定せねばなりません。
癌患者の手記を読むと、末期癌になると激痛と体の変容で苦しいことこのうえないようです。癌のどういう作用によるものなのかわかりませんが、腹水が溜まってしまいます。
食欲がなくなりやせ細ってしまいますが、腹が膨れてしまいます。
ある癌患者は、「自分は餓鬼のようになってしまった」と書いていました。餓鬼の絵を書いた昔の人の身近に、末期癌の方がいたのかもしれません。
痛みに苦しみつつも、最期の最期のときには平安な心を取り戻したいものです。可能なら、徐々に衰えつつ、自分の生命が長くはないことを意識しながら、眠るような死に方をしたいものです。
「異邦人」のムルソーの母はきっと、養老院で慎ましくも穏やかな暮らしをしていたことでしょう。ムルソーは養老院での母親の最期の日々を上述のように推測しています(新潮文庫p127)。
「何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない」(p127)というムルソーの言葉に、母親への愛を感じます。母親の死に方は、決して悪いものではなさそうです。
裁判長が奇妙な言葉つきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ、といったからだ。
「異邦人」韓国語訳の解説で、金ファヨン教授は次のように述べています。
「異邦人」には三つの死が小説全体の輪郭を作っている(韓国語訳p201)。第一にムルソーの母の死、第二にムルソーによるアラブ人の殺害、そして第三にムルソーの死刑宣告。
死は生きることの価値をより引き立たせる暗い背景であり、鏡だ。この小説の真の主題は生への賛歌、幸福の賛歌である(韓国語訳p213)。
「異邦人」は、死について読者に考えさせる小説なのでしょう。病死、殺人、そして非業の死。
「健康なひとは誰でも、多少とも、愛するものの死を期待するものだ」(p68)とあります。英語訳では次になっています。
At one time or another all normal people have wished their loved ones were dead.
これは身近な人の死に方について、ときには想像してしまうことを意味しているのでしょう。死を常に意識して日々を生きることにより、充実した生が得られるのかもしれません。
「異邦人」最後の部分(第二部の5)は、斬首刑での死に直面したムルソーの独白です。4の最後で、裁判長が淡々と判決を言い渡します。
私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。
ムルソーは無理やり面会してきた司祭との対話で、心の底をぶちまけます。この長い独白の部分(p124-127)にこそ、Camusの読者へのメッセージが最大限込められているのではないでしょうか。
誰しも死は恐ろしい。
立身出世など、普通の人間が最大限関心を抱くようなことには一切関心を持たなかったムルソーですが、何とか斬首刑から逃れられないものかといろいろ思案します。
ムルソーは思索の末、特赦請願の却下と、赦免がありえないことを納得します。そんなときに司祭がやってきたのです。
司祭の慰めの言葉を拒否したムルソーは、基督教が説く神への絶対的な帰依による救いの道を否定したのでしょう。
「人民裁判」により、斬首刑という悲惨な死を余儀なくされているムルソー。彼の思索をおっていくと、いつの間にか自分のこれまでの生き方を思い起こしてしまいます。
ムルソーの最後の独白部分の意味を、自分のこれまでの生き方と重ね合わせて考えてみたいものです。そうした思索ができることは、人間が等しく持っている特権なのでしょう。
自分なりの生き方ができたのなら全て良し、とみなして死んでいければ幸福なのかもしれません。
何らかの力により、どうしようもなく絶望的な状況に陥ってしまった人はいくらでもいます。しかし、そういう人と、世間的に大成功した人の死に方にどれだけ違いがあるでしょうか。
生きとし生ける物は皆、いずれ処刑されるのです。
そう考えると、ムルソーの母の言うように人間は全く不幸になることはないのかもしれません。
大成功した人でも、最期の最後には「自分はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした」と思いながら亡くなっていくのです。
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