2013年8月1日木曜日

運命が百八十度変わるとき―遠藤周作「妖女のごとく」(講談社文庫)より思う―

とるに足りないきっかけから、運命は百八十度変わる



今の自分が、なぜこうなっているのか。目を閉じて来し方を振り返っていくと、自分の人生に節目のようなときがあったことを思い出しませんか。

その節目で自分なりの選択をした結果として、今の自分があるはずです。

節目とは進学、恋愛と失恋、就職、退社と転職、あるいは病。結婚、離婚等など、人それぞれでしょう。

しかし自分がある選択をすることになった背景、局面には、他人の何気ない意志と行動があった。そしてそれにより自分がある選択をして、運命が変わっていった。

振り返ってみれば誰しも、思い当たるふしがあるのではないでしょうか。

とるに足りないきっかけとは、神が骰子(サイコロ、dice、주사위)をふっているのかもしれない。

人生における、とるに足りないきっかけに意味を見出せ。

これは、遠藤周作が読者に繰り返し発しているメッセージの一つでしょう。遠藤の作品に繰り返し出てきます。

「妖女のごとく」(講談社文庫)でも、主人公の辰野は自分の運命を大きく変えることになったのはとるに足りないきっかけだったと述懐しています(p16)。


美人女医、大河内葉子との出会い―学生時代の友人同士の集まりで―



この物語の主人公は辰野という、三十歳過ぎで製薬会社に勤務している男です。二年前に離婚しています(p11)。

辰野が、妖女ともいうべき女医、大河内葉子と会うきっかけになったのは、学生時代からの友人たちの集まりでの話からです。

有名な食品会社のあととりであり、御曹司という仇名をもつ柳沢は、病院の定期検診で柳沢を担当してくれた女医、大河内に惚れてしまいました。

そこで大河内がどんな女性であるかを、学生時代の仲間が調べてやろうという話になり、辰野にその役が回ってきたのです。

遠藤の作品には、運命を大きく変えることになる人物の出会いや親交のきっかけとしてこのような設定が少なくありません。

「さらば夏の光よ」や、「深い河」がそうでした。

山口百恵に似ており、聡明で患者にも看護婦にもやさしいという噂のある大河内葉子。非のうちどころがありません。辰野は柳沢に嫉妬心を覚えます。

そんな大河内を、何と原宿近辺にあるホスト・クラブで辰野は見かけました。辰野の心の真底に、柳沢が目を丸くする光景がうかびます。

辰野は柳沢から幸福を奪ってやりたいという衝動を感じます(p30)。辰野は柳沢から調査費10万円を受け取り、大河内葉子の身辺調査を続けます。

辰野が調査を続ける中で、殺人事件が起きていきます。


極悪人に悪霊が憑依している



遠藤周作がこの小説で描きたかったことの一つのは、極悪人と言われる人々の心の真底ではないでしょうか。

通常、極悪人と呼ばれるのは殺人犯のような人間でしょう。わたしたちの中に聖人ともいうべき素晴らしい人が存在するなら、同じ比率で極悪人ともいうべき人間も存在するのではないでしょうか。

あるとき、ある場では極悪人であっても、別のとき、別の場では善人という人も存在するのでしょう。

そんな人物に対して、遠藤周作は多重人格そして悪霊の憑依という見方を提起しています。「スキャンダル」と同様の問題意識です。

多重人格者の中には、悪霊に憑依されている場合もあるのかもしれません。

少し前インターネットで、ローマ法王が車椅子にのっている信者に、悪霊祓い(An exorcism)の儀式をしたのではないかという記事を見かけました。テレビでも放映されたようです。


真偽はわかりませんが、基督教のなかには悪霊の存在を認め、悪霊祓いをする宗派も存在するのでしょう。

米国映画「エクソシスト」(The Exorcist、1973年)は悪魔祓いを扱っていました。


悪霊の憑依を防ぎ、運命を好転させるためには



霊魂が存在するなら、悪霊も存在するのではないでしょうか。

何らかのきっかけで悪霊に出会ったり、憑依されそうになったとき、悪霊を払いのけるのは自分の強い意志ではないでしょうか。

あるいは、愛の力なのかもしれません。この小説の最後の場面でそれを示唆しています。

とるに足らないきっかけから訪れた悪い運命を、好転させることもできるということでしょう。

この小説は、名取裕子主演で随分昔に映画化されましたね。「妖女の時代」という題名です。映画では双子という設定になっていたようです。






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