その立派さ、しっかりさが自分だけの独善性を人生のなかにみちびき入れる
基督教の特徴のひとつは、人間が犯す「罪」についてあらゆる角度から思考することなのでしょう。
罪とは何でしょうか。
盗みや詐欺行為、あるいは傷害などの犯罪行為は当然、罪でしょう。
基督教でいう罪とは、不倫は勿論、嫉妬や他人の悪口、陰口なども含まれます。
そう考えると、ほとんどの人が罪を犯していることになるのでしょう。人間原罪論とはそういう見方なのでしょう。
人間原罪論により、心中で自分のあり方をどこまでも見つめ直していくことは苦しいですね。私などは、日常的に基督教で言う罪を犯しているのかもしれません。
これも罪、あれも罪と思えてしまい、息苦しくなってきてしまいます。基督教徒でもこれは同じではないでしょうか。
罪を通常の犯罪行為や、非倫理的行為とみなすなら、誰しも日常的に罪を犯している、などということにはならないでしょう。
しかし罪をそのように狭く定義すると、心の甘え、精神の弛緩が生じるのかもしれません。心の甘え、精神の弛緩は非倫理的な行為、罪を生むのかもしれません。
人は心の寂しさから、心の弱さから罪を犯すと遠藤周作「聖書のなかの女性たち」(講談社文庫、p61)は語ります。
罪の定義と罪を犯した人をどう見るか。
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」(講談社文庫)のメッセージの一つは、それを考えてみようということではないでしょうか。
良妻賢母、貞女が犯しうる罪―罪の泥沼に陥った人を拒絶し、軽蔑する心―
凶悪行為を犯す人は、顔つきや表情が普通の人と随分異なっているように思います。~組の大幹部の方の顔写真や映像が時折、テレビや週刊誌に出てきますが、普通の人ではないですね。
北朝鮮の金正日の映像から、邪悪な後光のようなものを何となく感じていたのは私だけでしょうか。
凶悪行為でなくても、不倫や小さな非道徳的行為を犯している人はいくらでもいます。見かけは真面目でも、内実は..、という人々です。
勿論、見かけも内実も、真面目そのものの人はいくらでもいます。女性なら、まさに良妻賢母、貞女のような方です。
そんな人に、遠藤周作は次のように問いかけます。
良妻賢母型の女性には、自分が正しい立派な女性である(少なくともそうなるべきという)気持ちから、罪の泥沼に陥った人を拒絶し、軽蔑する心が生まれてくる(p60)。
心の悲しい人、罪に躓かざるをえなかった人を自分の世界から拒絶し、それをひそかに軽蔑する危険ももっていないだろうか。
人間はみな弱いのだ、その弱さを自分の中にも認めない者はいつかやはり知らずに他人をさばいてしまうだろう(p63)。
「罪の泥沼に陥った人」とは例えば、不倫関係に陥ってしまった人や、分不相応の贅沢をして借金まみれになってしまった人をさすのでしょう。
あるいは、自殺した人もさすのでしょう。基督教では自殺は大罪です。
「聖書のなかの女性たち」(p60-61)に、良妻賢母そのもののご夫人が、恋人とともに心中をした妻子ある男性を評して、「その人、莫迦じゃない」と呟いたという話がでてきます。
遠藤は次のように語ります。
その人、莫迦じゃない―この言葉の背後には、彼女が女と共に自殺した男の人生の哀しみを冷酷につき放す気持ちがにじみでています(p61)。
その男を自殺まで持っていった人生の苦しみや歎きをこの夫人は真実、考えてやろうとはしなかったのでした(p61)。
思考不能状態から脱皮するために
厳しい問いかけですね。
誰しも、得手不得手があります。数学が得意な人は往々にして、語学や文学を嫌います。単純な暗記、あるいは人の感情の揺れをおっていくことが苦手なのです。
語学や文学が得意な人の中には、数学や理科を嫌う人は多いですね。
嫌いな分野について、人は往々にして思考不能状態になってしまいます。
毎日の雑務に追われて、他人の苦しみや歎きまでとてもとても、というのが多くの人の実感ではないでしょうか。
現代人の周囲には、次から次へと新しい問題が生じてしまいます。私たちはそれらに対処するだけで精一杯で、その物事の意味をを整理する余裕など、ほとんどありません。
現代人は他人の苦しみや歎きに対して、思考不能になっているともいえるでしょう。
思考不能がやがては独善性を導きうる、というのが遠藤のメッセージなのでしょう。これも罪なのでしょう。
人が心の弱さ、寂しさから罪を重ねうるということを、想像力を働かせて考え、議論していくことが、人間の生き様に対する理解を深めていくのでしょう。
思考不能になっている分野について、思考を重ね、深めていくことは心の苦しい営みです。苦しいことですけれど、それを重ねていけば逆に心に余裕ができていくのかもしれません。
古代の聖人とは、現代人には及びもつかないような思考力と想像力を持っていた人なのでしょう。
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