平凡につつがなく生きていくことが難しい―利害関係に基づいた人間関係は不安定―
平凡につつがなく生きていくのは、案外難しいものです。中高年の人なら誰しも、これを実感していることでしょう。
有名大学を卒業して一流企業に入社し、出世街道を着々と歩んでいるはずだった友人が、ちょっとした失敗、過ちをきっかけに大きく躓いてしまった...。
突然の病気や事故で健康を大きく損ねてしまった...。
勤めていた会社が経営危機に陥り、解雇されてしまった...。
いろいろな理由から、配偶者との関係が悪化し離婚してしまい、ひとりぼっちの暮らしになってしまった...。
思わぬ偶然から生じた、人生の困難を乗り越えることができなくなってしまう人はいくらでもいるのです。
あるときは世人の賛辞を浴びつつも、何かのきっかけで不幸な亡くなり方を迎えてしまった政治家や芸能人はいくらでもいますね。
何が生じるかわからないから平凡に生き抜くことが難しいとしても、せめて自分の判断、行動により大きな失敗や困難に陥ることは避けたいと誰しも思うものです。
そのためには、保身のために常に自分の周囲の人々の動向に留意せねばならないでしょう。
会社員であれば勤務している会社内の人間関係や、上司の動向、関心事に関する情報をいち早く入手し、保身のために適切な行動をとらねばならない。
経営者であれば、競合関係にある他企業の動向に常に留意せねばならない。
現代社会では誰しも、自分に関する利害関係について、常に打算をして行動をせねばなりません。利害関係に基づいた人間関係は、何かの理由で利害関係が一致しなくなれば変容していくでしょう。
信じていた人から裏切られた。罠にかけられてしまった。
裏切られ、罠にかけられたのなら、やり返せば良い。愚かなことかもしれないが身を守るためにはやむを得まい。そんな思いを抱えつつ、なんとか生き抜いているのが私たち現代人なのでしょう。
強い意志と行動力を持っている人なら、信じる人など殆どいなくても生き抜いて行けるのでしょう。強い意志を持っているのなら、重い哀しみをたくさん背負っていても歩き続けることができるのでしょう。
では、弱くて悲しみをいっぱい背負っている人はどうなるのでしょうか。
弱くて、悲しい者にも何か生きがいのある生き方ができないものだろうか
遠藤周作著「おバカさん」(遠藤周作文庫、講談社刊)に登場する流浪のフランス人ガストンは、この地上が利口で強い人のためにだけあるのではない、と思っています(p93)。
ガストンの生き方を表す記述を少し抜粋しましょう。
弱くて、悲しい者にも生きがいのある生き方ができないものだろうか...(p93)。
どんな人間も疑うまい、信じよう。だまされても信じよう―これが日本で彼がやりとげようと思う仕事の一つだった(p115)。
今の世の中に一番大切なことは、人間を信じる仕事―愚かなガストンが自分に課した修行の第一歩がこれだった(p115)。
ガストンの来日当初の生活の面倒を見ていたのは、ガストンと文通をしていた、大手F銀行に勤めている隆盛と、その妹巴絵です。
そんなガストンを、徐々に理解するようになった巴絵は、「人生に自分のともした小さな光を、いつまでもたやすまいとするおバカさん」と考えます(p244)。
聖人とはこういう人なのかもしれません。聖人はしばしば、惨めな死に方をするということが、遠藤周作文学に頻出するパターンですが、この小説のガストンはそうなりません。
小説の最後で、隆盛は次のように述べています。
彼はまた青い遠い国から、この人間の悲しみを背負うためにノコノコやってくるだろう(p322)。
年老いた野良犬にも、勝者にも最期のときがくる
ガストンを慕ってついてきていたのですが、ある件から離れ離れになってしまった年老いた野良犬ナポレオンが、哀しい最期を迎えます。
ナポレオンは野良犬ですから、区役所の犬とりたちにつかまり、処分されてしまいます。死後数時間後のナポレオンは、次のように描写されています(p227)。
ナポレオンはやせた体を横にして、まるで泳いででもいるように、前脚を内側にまげて死んでいる。歯のむきだした下あごのあたりに、アワのようなよだれの跡がついているのは、わずかであるが苦しんだせいにちがいない。
この本の解説にも記されていますが、この描写は見事ですね。飼い主に捨てられた野良犬は結局、このような最期を迎えるのでしょうが、それは野良犬だけでしょうか。
人生の勝者、世間で言う成功者も、老齢となれば体は衰えていきます。様々な病に罹り、高い医療費を払って最高の治療をしても結局は、あごからよだれを出して死んでいくのかもしれません。
死ぬときは、人生の勝者も一人なのです。
栄耀栄華を極めた実際のナポレオンも、セントヘレナ島で孤独に死んでいったはずです。ナポレオンという名前には、死に対する遠藤のそんな思いがこめられていたのではないでしょうか。
この小説は、朝日新聞の夕刊に昭和34年(1959年)3月26日から8月15日まで連載されたものです。野良犬の死にかたは、聖人の死を彷彿させます。
人は死をどう迎えるのか。死をどう考えるのか。これは遠藤周作の一貫したテーマだったように思います。
底なしの善人、ガストンと私たち
底なしの善人、ガストンのような人物は現実には存在しえないかもしれません。存在し得ない人物を描くことにどんな意義があるのでしょうか?
極端な人物を想像して描き出すことにより、中間にいるであろう私たちの姿が見えてくるのではないでしょうか。
現実の私たちは、利害関係の打算をし、派閥のような人間関係をいろいろなところで形成し、信じたり裏切ったりしています。
私たちは、少しばかりの善人であり、少しばかりの悪人です。弱くて悲しみをいっぱい背負っている人間なのかもしれません。
私たちは自分のそんな面を、極端な善人の存在を想像することにより見いだせるのではないでしょうか。
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