2013年6月29日土曜日

宮本顕治とマルクス・レーニン・スターリン主義(「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」、「前衛」1950年5月掲載論考より)

武装闘争の理論家、宮本顕治



若者は旧世代に挑戦するものです。

どんな分野でも、若者の前には旧世代が壁のように立ちはだかっていますから。それは、青年期の息子が父親に反抗するようなものです。

若者から見れば旧世代は、現実に安住してしまい、求めるべき理想を忘れてしまった連中なのでしょう。

そんな若者たちも、理想を求め現実と悪戦苦闘しているうちに、世の中の仕組みを理解していくものです。

しかし、四十を過ぎた分別ざかりの中年が現実を見ないでいつまでも空理空論に拘泥しているようではどうにもなりませんね。軽率な人間と言われても仕方がないでしょう。

日本共産党の党首をおよそ50年務めた宮本顕治は、四十を過ぎてからも大真面目に武装闘争と暴力革命の必要性を喧伝していました。

駅前で「原発をなくせ」などという宣伝をしている今日の日本共産党員は、こんな史実を一切知らないことでしょう。


日本革命の「平和的発展の可能性」を提起することは、根本的な誤り



宮本顕治は、日本共産党の理論雑誌「前衛」掲載論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(49号、1950年5月、p7)で上述のように断じていました。

「日本革命」とは、日本の政治経済の仕組みをソ連のようにすること、日本のソビエト化です。

宮本顕治によれば、「議会を通じての政権獲得の理論も同じ誤りであることは論をまたない」そうです。日本をソビエト化することは、この時代の日本共産党員の夢でした。

日本をソビエト化するためには共産党員たるもの、重武装して警察や米軍と戦わねばならない、という真に物騒な「理論」を、宮本顕治は大真面目に信奉し発表していたのです。

第二次大戦後すぐの時期には、ソ連から帰ってきた野坂参三による「愛される共産党」「平和革命」論で日本共産党は国民の一定の支持を得ていました。

野坂参三の「理論」が突然、ソ連の指導下にあった世界共産党の後継団体、共産党情報局から「誤り」と批判されてしまいました。

大慌てで当時の日本共産党指導部は、「平和革命」論の路線転換を検討し始めました。

野坂参三は「私の自己批判」(「前衛」47号掲載)で、「議会を通じて人民政権の樹立が可能であるということは原則的に誤り」と述べています。

「アカハタ」には1950年2月6日にこの論文が掲載されたようです(「日本共産党五0年問題資料集1」、新日本出版社1957年初版、p18-22掲載)。

野坂はこの論文で「『国会を通じて政権に近づく』という考えは、権力や国会にたいするマルクス・レーニン主義的な原則からの逸脱であって、本質において、社会民主主義への偏向であるといえる」と述べています。


ソ同盟共産党を中心とする国際プロレタリアートの輝かしい活動とその成果から深く学ぶことによって、世界革命運動の一環としての責任を果たしうる(宮本顕治、同論文p11)



駅前で宣伝をしている今日の日本共産党員が、宮本顕治のこんな「理論」を聞いたら、腰をぬかしてしまうかもしれません。

駅前の宣伝なぞ、宮本顕治流に言えば「日本革命の平和的発展の可能性を提起している」行為ですから、「根本的な誤り」です。

日本革命すなわち日本をソビエト化するためには、徹底的な武装闘争と暴力革命しかありえない。
今こそ火炎瓶と手榴弾を作って警察と戦え!山村に解放基地を作れ!

この類の愚論が、ソ連と中国から厳しい指導と批判を受けた結果、当時の日本共産党員がたどり着いた結論だったのです。

現在80代前半以上になる日本共産党員なら、この時代に宮本顕治らの「論文」を読み、「指導」を受けて実際に武装闘争を断行した方がいるはずです。

在日朝鮮人の日本共産党員にそういう方が多かったのです。

火炎瓶を投げた経験がある老共産党員がいるはずです。その後のいろいろな経緯により、除名ないしは除籍されてしまっているかもしれませんが。


同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党


「同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党」という表現は、前述の宮本顕治の論文に出てきます。

「プロレタリア国際主義」「国際プロレタリアート」「ソ同盟」という奇妙な語を、今日の若い日本共産党員は全く知らないことでしょう。80歳前後の日本共産党員なら知っているかもしれません。

聴濤弘さんのような方なら、当時から「アカハタ」や「前衛」をしっかり読んでいたでしょうから「プロレタリア国際主義」「国際プロレタリアート」についてご存知でしょう。

実にもったいぶった表現ですが、宮本顕治の言いたいことは、自分たちはソ連や中国の言うとおりにすればよい、というだけの話です。

ソ連の最高指導者はスターリン、中国は毛沢東ですから、スターリンと毛沢東への絶対的服従こそ共産党員の第一の任務だ、ということです。

北朝鮮の「党の唯一思想体系確立の十大原則」のような水準の話でしかありません。

「マルクス・レーニン・スターリン主義」など、今の日本共産党員にとって奇妙な事この上ない表現かもしれませんが、宮本顕治と当時の日本共産党員は大真面目にこうした言葉を用いていたのです。


下部党員に真実を隠蔽するために



論文の末尾で、宮本顕治は次のように述べています。

「われわれは、党を、マルクス・レーニン・スターリン主義の原則とプロレタリア国際主義にもとずき、政治的・思想的・組織的に強めねばならぬ」


宮本顕治も、金日成と同様にスターリンの忠実なる下僕だったのです。論文執筆当時の宮本顕治は42歳くらいです。軽率な人間とはこういう人のことを言うのでしょう。

この論文のこれらの記述は、今日の日本共産党員から見ればあまりにも愚かなものですから、宮本顕治もまずいな、と思ったのでしょう。

1988年9月発行の宮本顕治著「五十年問題の問題点から」(新日本出版社)ではこれらの部分が削除されています。


「日本共産党五0年問題資料集1」(新日本出版社1957年初版、p27-35)には全文が掲載されています。

駅前で宣伝をしているような日本共産党員には、「武装闘争の理論家であり、スターリンの忠実な下僕だった宮本顕治」は隠しておかねばならない史実の一つなのでしょう。


なぜスターリンと毛沢東は日本共産党に暴力革命路線への転換をさせたのか-大韓民国の滅亡と朝鮮戦争‐



なぜスターリンと毛沢東は日本共産党に暴力革命路線への転換をさせたのでしょうか。野坂参三が共産党情報局から批判された1950年2月は、朝鮮戦争開戦(1950年6月25日)の直前です。

朝鮮戦争は、スターリンと毛沢東の承認を受けて、金日成と北朝鮮の南侵により始まりました。スターリンと毛沢東は、米軍が朝鮮戦争に介入しうることを予見していたのでしょう。

そこで下僕たる日本共産党に武装闘争をやらせ、米軍基地襲撃や米軍のための物資補給を妨害させようと企んだのでしょう。

大韓民国を滅亡させるためには、米軍の朝鮮戦争参戦を防がねばなりません。

当時の日本共産党や在日朝鮮人の力で、それが完全に実現できるとスターリンや毛沢東が判断したかどうかはわかりません。

日本共産党員や在日朝鮮人が火炎瓶や手榴弾を警察や米軍に投げても、逮捕するのは難しくありませんから。多少の騒ぎにはなるでしょうけれど。

火炎瓶を警察官に投げたあと、何をどうすれば日本がソ連のようになるのでしょうね。聴濤弘さんにお尋ねしたいですね。

ひょっとしたら、要人暗殺を考えていたのでしょうか。


大韓民国の滅亡にかけた青春―在日朝鮮人文世光―



現在、80代前半以上になる日本共産党員や在日朝鮮人には、当時の指導部(現在生きていれば百歳位の方々)の指令を受けて、「日本革命」とやらのためにとんでもない暴力行為を断行した人がいくらでもいます。

この人たちの青春は、主観はどうあれ客観的には、「大韓民国の滅亡にかけた青春」だったのです。

同じようなことを、金正恩の指令により在日朝鮮人の若者がやるようなことはない、と私は思いたいのですけれどね。

朴グネ大統領のお母さん、陸英修女史を銃撃して殺害したのは在日朝鮮人の文世光でした。


























2013年6月26日水曜日

わが民族を解放したソヴェト軍隊万歳!-金日成選集第一巻(三一書房、1952年)よりー

共産党、労働党は歴史を塗り替える



齢を重ねれば誰しも、あのとき失敗してしまった、しくじったという経験はあるものです。若気の至りとも言う程度のものでしたら、改めてそれを他人に伝える必要はないでしょう。

自分の胸だけにそっとしまっておけば良いのです。皆そうしているものです。

しかし、統治者たる政治家の言動は国民に影響を及ぼすものですから、過去のものであっても正確に記録し後世の審判を仰ぐべきものではないでしょうか。

共産党や労働党は歴史が正確に記録されることを何より嫌がります。最高指導者の言動は、その後都合が悪くなったら差し替えてそれで良し、とするのが常です。

共産党、労働党とは歴史をそのときの自分たちにとって都合の良いように塗り替える人たちなのです。

北朝鮮の独裁者だった故金日成の著作からもそれは明らかです。


世界人民の偉大な指導者であり、恩人であるスターリン万歳!



金日成選集第一巻(三一書房、1952年)に「三・一革命運動二七周年のために」(1946・三・一)という演説が掲載されています。

編訳者によれば、この演説は金日成が平安南道人民委員会主催の三・一革命運動記念大会の席上で行った演説だそうです。

この演説の末尾で金日成は正直に「わが民族を解放したソヴェト軍隊万歳!」と叫んでいます。そして上述のように、「世界人民の偉大な指導者であり、恩人であるスターリン万歳!」とも叫んでいます。

しかしこの部分は、金日成著作集二巻(朝鮮・平壌・外国文出版社、1980年4月発行)では削除されています。

著作集第二巻には、「三・一運動二七周年に際して」という演説は掲載されていますが、ソ連についての記述が大きく修正されています。

金日成著作集第二巻では、「民主朝鮮を建設すべき歴史的な課題」の六番目として「ソ連人民との友好関係の強化」があげられているだけで、「わが民族を解放したソヴェト軍隊万歳!」「世界人民の偉大な指導者であり、恩人であるスターリン万歳!」はありません。


「金日成が祖国を解放した」という虚偽宣伝のために



1952年刊行の「金日成選集」も史実をどこまで正確に記載しているのか、怪しいものですがそれをさらに都合の良いように修正した金日成著作集を、北朝鮮の史実として見るのは適切ではないでしょう。

近年の北朝鮮がなぜ、スターリンに対する評価を変えたのかという観点から金日成著作集を読むべきでしょう。

「金日成が祖国を解放した」という嘘を普及するためには、ソ連とスターリンに関する記述を徹底的に削除、改ざんせねばならなかったということでしょうね。

「金日成将軍が祖国を解放した」と未だに盲信している在日本朝鮮人総連合会の皆さんや、韓国左翼の皆さんに是非とも、「金日成選集」(三一書房)を読んでいただきたいものです。


金正恩もスターリンを礼賛すべきだ


在日本朝鮮人総連合会の皆さん。

若い頃の金日成は、スターリンの忠実なる下僕だったのですよ。御本人の演説からも明らかではないですか。

金正恩が若い頃の金日成の真似をするなら、スターリン礼賛も真似るべきではないですか。金正恩はお祖父さんの若い頃の演説文など読んでいないでしょうけれどね。






2013年6月23日日曜日

悪口の心底に嫉妬心と原罪ー三浦綾子「光あるうちに」(新潮文庫)より思う―

噂話が好きならば



「他人の不幸は蜜の味」という言葉があります。知人の失敗や不幸を伝え聞くと、表面では知人に同情していても内心は別物だということです。

私も、噂話が好きです。特に、芸能界、芸能人のスキャンダルについてとよく友人と話します。芸能人の失敗やスキャンダルを嘲笑してしまった経験は少なくありません。

私はこれまで、芸能人は知人ではないので、特に問題はないと思っていました。しかし三浦綾子「光あるうちに」(新潮文庫)を読んでいるうちに、芸能界話が好きなのは、「他人の不幸は蜜の味」「著名なあの人は自分より駄目だ」という気持ちが心中にあるからではないかな、という気がしてきました。


人は自分より正しい人間を嫌う



クリスチャン作家の三浦綾子は、「罪とは何か」(同書p26-45)で悪口を言う人々の心のあり方を論じています。少し紹介しましょう。

人間は元来、正しいことや、清いことがあまり好きではないのである(同書p40)。

自分と同じ程度の人と、私たちは仲間になる。その方が安心なのだ。むやみに正しい人が、そばにいると不安になり、気持ちが乱される(同書p40)。


誰しも、自分と同じ程度の人と仲間になるものです。自分とかけ離れたところにいる人、芸能人とは仲間になれるはずもありませんが、職場の人や近隣の人でも、何らかの意味で自分とかけ離れている人とは仲間になれません。

私たちが芸能界の噂話が好きである心底には、有名な誰々はこんな悪いことをしでかしたのだから自分より駄目な人間だ、という思いがあるからではないでしょうか。

噂話をすることにより優越感に浸りたいからではないでしょうか。

華やかな芸能界で世間の人々の称賛を浴びている芸能人に対する、嫉妬心が私たちの心中深くにあるのかもしれません。

同じ職場、同じ業界あるいは近隣で成功した人はいろいろと悪口、陰口を言われるものですが、これも嫉妬心のなせるものではないでしょうか。

成功したあの人も実は自分と対して変わらない存在なのだ、と内心では言いたいのかもしれません。

三浦綾子によれば、自分が正しいとする自己中心的な気持ちは、自分より正しい人間をきらうものです(同書p39)。自分の過失を咎める尺度と自分以外の人の過失を咎める尺度は全く違います(同書p29)。

他人に厳しく自分に甘い、ということは、自分の言動をよく振り返ってみれば誰でも思い当たるのではないでしょうか。

自己中心主義と中国、北朝鮮社会



「他人の不幸は蜜の味」などという思いを全く持ったことのない人は恐らくいないでしょう。しかしこれこそ、自己中心的な考え方そのものと言えます。

自己中心でない人は一人もいないはずですが、これが行き過ぎてしまった人が多数派になると、その社会は中国や北朝鮮のようになってしまうのでしょう。

中国や北朝鮮には、反体制勢力の摘発を奨励する密告制度があります。仲間の密告を警察組織する人は、自分さえ良ければあとはどうでも良いのでしょう。

中国や北朝鮮ほどでなくても、自己中心主義が徐々に蔓延している社会では、とんでもない惨事や悪事が生じ得るものでしょう。

人間誰しも、悪口や陰口を楽しんでしまうなら、何気ない言動で他人を大きく傷つけてしまい、他人の人生の方向を大きく変えてしまうこともあるはずです。

人間誰しも、悪口や陰口を楽しんでしまうなら、三浦綾子が言うように私たちはひとり残らず罪深いのかもしれません(同書p45)。これが原罪、人間が生まれながらにして持っている罪なのでしょうか。

人間の原罪を、自分の心中の経験に照らし合わせて考えていくことが大事なのでしょう。










2013年6月19日水曜日

処世術に悩み、苦しむことから―遠藤周作「キリストの誕生」(新潮文庫)より―

虚栄心から嘘と阿諛追従が生まれるが


「嘘は方便」といいます。社会で生き延びていくためには、誰しも多少の嘘をつかねばならないものでしょう。営業マンであれば、自社の商品の問題点を知っていてもそれに目をつぶり、我が社の製品こそ最高です、とお客さんにいわねばなりません。

どんな会社でも、上司を正面から批判することは難しいものです。理不尽な業務命令を出す上司をときには、阿諛追従せねばならない。

誰しも小さな嘘、虚勢を張ることがあるときには必要になるのでしょうが、とんでもない大嘘をつきまくる人、虚栄心の権化のような人に接すると嫌になりますね。ぞっとするような経験をした人は少なくないことでしょう。

芸能界やテレビ局、あるいは政界には、虚栄心が強い人が多いのでしょう。そうでなければ、生き延びられない社会なのでしょう。

虚栄心が強い人は、処世術にも長けており、嘘と阿諛追従をうまく使い分けて生きていけるものなのでしょう。虚栄心がさほど強くない人でも生き延びていくためには嘘をつき、阿諛追従をせねばならない局面がありえます。

生き延びていくための嘘、阿諛追従は正当化されるものなのでしょうか。この問いに対する答えを、キリスト教徒は歴史の様々な局面で出さねばならなかったのでしょう。これは、現代人も同じではないでしょうか。

ペテロの妥協と取引により弟子たちは生き延びた



遠藤周作の「キリストの誕生」(新潮文庫, p13-14)、「私のイエス」(祥伝社黄金文庫,p159-161)に示されているペテロとその弟子による、大祭司カヤパとの妥協論は興味深いものです。

遠藤によれば、イエスが神殿警備隊に逮捕され、大祭司カヤパの邸に引っ張られていったあと、逃亡した弟子たちはエルサレムから近い場所で隠れていました。

ペテロとその弟子は逃げ隠れしている仲間たちを代表して大祭司カヤパの邸に行き、ある妥協をしました。ペテロとその弟子は大祭司カヤパを議長とするユダヤ衆議会の裁きを受け、イエスを否認することを「激しく誓った」と遠藤は説きます。

これにより、ユダヤ衆議会はその後当分、イエスの弟子たちの存在を黙認し、咎めもせず、放任することになりました。ペテロの「誓い」と妥協のおかげで弟子たちは助かり、その代わりイエスは全員の罪一切を背負わせられる「生贄の子羊」となりました。

史実がそうであるなら、ペテロの狡猾な妥協と取引、処世術により、原始キリスト教団は存続できたのではないでしょうか。

歴史にもしも、は禁物なのかもしれませんが、ペテロが狡猾に立ち回らず、ユダヤ衆議会と真っ向から対決していたら、イエスの弟子たちは一体どうなっていたのでしょうか。

江戸時代の厳しいキリシタン弾圧にもかかわらず日本に残った宣教師たちや、隠れキリシタンも同様の問いに直面したのでしょう。

現代の私から見れば、踏み絵を踏めば人が助かるなら、いくらでも踏めば宜しいとイエスは言って下さるとしか思えませんが、当時の宣教師や隠れキリシタンにはそう思えなかったのでしょう。

エルサレムの弟子集団は消えた‐灰燼に帰したエルサレム‐



ペテロがどこで、どのような死に方をしたかを確実に知る資料はないそうです(「キリストの誕生」p204)。福音書や伝承から、ペテロはローマで殉教したと考えられます(同書p204)。

イエスの死後、ペテロとイエスの従兄弟ヤコブを指導者としてエルサレムでキリストの再臨を待ち続けたエルサレムの弟子集団は、ローマ軍によるエルサレム攻撃後、消滅したとあります(同書p229)。

ペテロが必死で守ろうとしたエルサレムの弟子集団は、圧倒的なローマ軍の侵攻により壊滅してしまったのかもしれません。ペテロらも崇めていたエルサレムの神殿と神の都、エルサレムはローマ軍により灰燼に帰してしまいました(同書p225)。

ローマ軍により破壊し尽くされたことをどこかで伝え聞いたであろうイエスの弟子たちは、どんなにか虚しかったことでしょう。

ユダヤ衆議会と必死で妥協、取引をして生き延び、イエスの教えを少しでも広めようとしてきたはずなのに、全てが無となった、というような思いにかられてしまったかもしれません。

イエスを十字架にかけたユダヤ衆議会も、圧倒的なローマ軍の軍事力を前にしては無力だったのです。「割礼を受けていない異邦人も信徒として認めるべきである」と主張し、イエスの弟子集団と対立したポーロも、ローマでみじめな、哀れな死に方をしました(同書p202)。


人生と世界の謎を解けなかったがゆえに次の世代へ



敬虔な信徒たちがこんな悲惨な目に遭っているのにも関わらず、神はなぜ沈黙しているのか。救世主たるキリストはなぜ再臨しないのか。

遠藤は、解き難いこの二つの謎を突きつけられることにより、原始キリスト教団は信仰のエネルギーを与えられたと考えます。

人生と世界の謎を解くことができなかったゆえに、原始キリスト教団はその信仰を衰えさせることなく次の世代にバトンを渡すことができたと遠藤は述べています(同書p232)。

悩み、苦しみそしてもがきが信仰の源泉なのでしょう。

自分のあり方はこれで良いのかと悩み、苦しむことこそ、人として大事なことなのかもしれません。誰しも多少の虚栄心と処世術は必要なのでしょうが、そんな生き方で本当に良いのか。

毎日雑事に追われる現代の私たちは、その場限りの処世術を弄して生き延びているのかもしれませんが、原始キリスト教徒が直面したであろう苦しみを、時には想像してみたいものです。

処世術に悩みつつも、自分の生き方はこれで良いのだろうかという私たちの悩みと苦しみを何かに記し残していけば、後世に思いが伝わるのかもしれません。













2013年6月15日土曜日

米国兵士のオンリーやパンパン(売春婦)―松本清張「ゼロの焦点」(新潮文庫)より時代を思う―

昭和33年(1958年)頃の日本を支えていた世代



偉人も凡人も、誰しも時代の制約の下でしか生きられません。現代の日本人は、経済面ではデフレと長期不況、国際政治では中国と北朝鮮による軍事的脅迫という時代に生きています。

松本清張「ゼロの焦点」(新潮文庫)は、昭和33年頃の北国の日本を主な舞台とする推理小説です。主人公は板根禎子という26歳の新妻です。昭和33年頃の日本人にとっての時代の制約とは、何だったのでしょうか。

物語を簡単に紹介しましょう。

新婚旅行後、出張に行って帰らなくなってしまった36歳の夫憲一の行方を新妻禎子が追う中で、次から次へと殺人事件が起きる。そして禎子は、夫憲一と、夫を殺害した人物の過去を知ることになるという物語です。

禎子は昭和6,7年生まれということになりますから、今なら82歳くらいですね。夫憲一は92歳くらいの人ということになります。夫憲一は、昭和20年なら23歳くらいということになります。学徒動員の世代です。


教養のあるお嬢さんがアメリカ兵のオンリーやパンパンに



この世代の日本人にとって、何より大きな経験は大東亜戦争と、その後の米国による占領でした。憲一と同世代で、お国のために若くして生涯を終えた方は少なくありません。

女性の中には、米軍の無差別爆撃で全てを焼かれてしまい、米軍兵士相手のパンパン(売春婦)や、米軍兵士のオンリー(恋人を蔑んで指す言葉)になった人はいくらでもいました。

かなり教養もあり、相当な学校も出たお嬢さんが、アメリカ兵のオンリーになったという話が出てきます(p367)。戦後すぐでは、今まで威張っていた日本の男性がだらしなく、無気力になっていたのに対し、女性に親切なアメリカ兵は女性の憧憬だったとあります(p365)。

昭和21年当時、20歳くらいだった女性は、昭和33年には32、33歳になっています。この頃には、自分を取り戻して、幸福な結婚をし、落ち着いた生活をしている人も多いとあります(p366)。

結婚した相手には、自分の前身を打ち明けず秘密にしている人は多いだろうとありますが(p367)、実際にそうだったのではないでしょうか。

「得意だった英語が彼女にわざわいした」と殺人犯の夫は述べています(p399)。努力して得た結果や自分の力が、何かの拍子で大きな躓きのきっかけになってしまうことも、人生にはいくらでもありますね。


明治や大正の日本人ならどうしたか―中国と北朝鮮に対峙する日本―



昭和33年頃の日本社会、日本国家を支えていた日本人は、それぞれ苦しい思いを胸の中に抱えつつも、廃墟だった日本を再建したのです。

55年後、平成25年現在の我々に、厳しい状況にある日本社会と日本国家を支えて後世に残すという強い意志がどこまであるのでしょうか。

中国や北朝鮮の脅迫、軍事的挑発に明治や大正の日本人ならどう対応したでしょうか。明治や大正の日本人も、ロシアと中国にどう対峙していくかという問題に直面していました。

先人の強い意思を思い起こしたいものです。

米国兵士のオンリーや売春婦になったという暗い過去を引きずりつつも、歯を食いしばってその後精一杯生き抜いた御婦人はいくらでもいました。

数えようによっては、一万人以上いたのかもしれません。数百人ではないでしょう。現在90代くらいの方々です。


「ゼロの焦点」は推理小説ですから、米兵相手の売春婦だった貴婦人が、次から次へと殺人まで犯すようになってしまう心理の描写ははっきりしません。

禎子が徐々に真実に近づいていく過程は読者をひきつけます。松本清張の最高傑作という人もいますね。

新婚旅行程度しか付き合いがなかった夫の行方と真実をあくまでも追求する、強い意志をもった女性です。

そういう女性像が、この時代の常識だったのかもしれません。


題名の「ゼロの焦点」ですが、冬の日本海の高波の中に、小さくなって消えて行く犯人の姿を「ゼロの焦点」と表現しているのでしょうか。


映画「ゼロの焦点」と広末涼子



この小説は、数年前に広末涼子主演で映画化されましたね。映画はあらすじが原作と異なっていたように記憶していますが、広末が熱演していました。

広末の「マリー」という絶叫が印象に残りました。このシーンは、原作にはありません。

広末涼子は、歌もかなりのものですね。

明治製菓のチョコレートのコマーシャルで、広末が「チョコレート、チョコレート、チョコレートは明治」と歌うシーンがありますが、リズム感がすごい。まだまだ伸びていく女優と思います。







2013年6月10日月曜日

詐欺師の生き様―有吉佐和子「悪女について」(新潮文庫)より思う―

嘘は大きければ大きいほど良い



他人をうまく利用できる人は、現代社会の様々な競争に勝利できるから、財産を成し立身出世できるものなのでしょう。利用するだけでなく、大嘘をついて他人から金品や物資を巻き上げるような人のことを、一般に詐欺師といいます。

「嘘は大きければ大きいほど良い」とは、アドルフ・ヒトラーの言葉ですね。「わが闘争」のどこかにあったかと思います。

詐欺師とはどんな人なのだろうか?人は、詐欺師に出会ったときどう判断しどう行動するのだろうか?有吉佐和子「悪女について」(新潮文庫)の読者に対する問いかけはこれらではないでしょうか。

この小説には、有吉佐和子の人物観察眼がよく出ているように思います。

「悪女」とは昭和11年10月8日生まれで、41、42歳で急死した実業家富小路公子という架空の人物です。

小説は、富小路公子をめぐる27人の述懐集です。

貧しい八百屋の娘鈴木君子は、出会う人を次から次へと騙して財をなします。他人を騙すためには、知識と能力が必要です。鈴木君子は宝石についての優れた鑑定眼や簿記の知識を夜学や独学で習得しており、優秀な実業家になりました。

鈴木君子は富小路公子と改名するのですが、富小路とはあたかも旧華族のような名前です。

富小路公子は、生きていく中でヒトラーの言葉に表されているような処世術を体得したのでしょう。子供の頃から、空想の世界を好み、虚言を吐くようなところがあったのでしょう。自分が「貰いっ子」であるというのは、虚言ではないでしょうか(p29)。

「その二十一 鈴木タネの話」は富小路公子の母親の話ですが、この中には「貰いっ子」などという話はありません。鈴木タネは窃盗癖のある人間(p364)ですが、娘の公子に関する限り本当のことを言っているように私には思えます。


次から次へと男を騙し続ける女



富小路公子は、次から次へと男を騙し続けました。

富小路公子は16歳の頃に長男、翌年に次男を産みますが、父親が誰だかはっきりしないのです。27人の述懐者のうち、公子から「あなたの子供です」と言われた人は3人です。

16歳くらいの頃の同棲相手の渡瀬義雄、16歳くらいの頃勤めていた中華料理店の経営者だった沢山栄次そして子供の頃、母親と一緒に引き取られた家の長男、尾藤輝彦です。

3人とも子供が生まれた頃、富小路公子と深い関係を持っていました。沢山と尾藤は、富小路と生涯、深い関係にありました(p146、p474)。この二人は、富小路が生んだ二人の男の子を自分の子と確信しています(p147, p471)。

渡瀬義雄は、自分の子ではないと考えています(p55)。

富小路は二度の結婚をしています。最初の夫は渡瀬義雄です。富小路公子は渡瀬に無断で昭和28年に入籍届けを出し、二人の子供も渡瀬の籍に入れていました(p68)。手切れ金として、昭和34年に5千万円を渡瀬家から受け取りました(p79-80)。

鈴木タネは長男は尾藤の子ではないかと睨んでいます(p367)。次男は違う男の子とみています(p368)。ひょっとしたら、富小路自身も子供の父親が誰だかわからないのではないでしょうか。

25歳のときに二度目の結婚をします(p181)。二番目の夫富本寛一との結婚生活は二年だけです。この結婚は財産目当てだったのではないでしょうか。離婚の慰謝料として、田園調布の500坪の屋敷を取ってしまいました(p200)。

それでも富本寛一は、富小路が悪女であることに気づいていません(p245-246)。学生時代ラグビー部だった富本は、人が嘘をつくということを知らないのでしょう。

さらに富小路は晩年、14歳年下の社員とも深い関係でした(その二十三 小島誠の話)。小島は富小路に自分以外の男がいたとは思っていません(p410)。晩年の富小路は、3人の男を弄んでいたことになります。

富小路はとんでもない詐欺師なのですが、周囲にいた人でさえ、それがわからない人はいくらでもいました。二番目の夫だけではありません。子供の頃から知っていた宝石職人は「清く正しく生きたことは間違いない」と言っています(p314)。

職人肌の真面目な人間や、嘘をついたことがないような人間は、身近な人間が詐欺師であることを見抜けないものでしょう。

詐欺師として生き抜くなら-太く、短く-


詐欺行為をする際には、自分の話には嘘などこれっぽっちもないという顔をしないといけないのでしょう。真剣な顔をして大法螺を吹けば、信じてしまう人はいくらでもいるものなのでしょう。

詐欺師でも嘘に嘘を重ねていくと、次第に自分の話のうち、どこまでが真実でどこまでが虚偽なのか区別がつかなくなってしまうのかもしれません。富小路は子供の頃一緒に算盤塾に通った友人、丸井牧子に「算盤ならったことないわよ」と言いました(p34)。

富小路の場合、男性や顧客を虚言で弄びつつ生きてきた結果、真実と虚言の区別がつかなくなってしまったのではないでしょうか。

富小路の次男義輝は、自分が小さいとき、母が「雲が虹のように輝いているわ。ね。輝、傍に行ってみましょうよ」(p513)と語っていたと述べています。二階から飛び降りたら怪我をしてしまうことに母は気づかなかったそうです。

義輝は母が、虹色に輝く雲を見たから、前後の考えもなくその雲に乗ろうとしてビルの更衣室から飛び降りたのではないかと考えています(p514)。

詐欺師として生き抜くなら、「太く、短く」を覚悟して生きねばならないのでしょうね。長期的な人生計画をたてて目標を少しずつ実現しつつ生きていくような人は、優秀な詐欺師にはなれませんね。











2013年6月6日木曜日

死人の髪の毛を抜く老婆と神のサイコロ-芥川龍之介「羅生門」より思う-

人生の陥穽と大切な傍役―前世の縁か―



人生に陥穽はいくらでもありますね。周囲から見れば、順風満帆そのものの人生を送っていた人が、思わぬ陥穽にはまり込み、いわば「転落人生」のようになってしまった。

勤めていた会社の倒産。夫婦関係の破綻。突然の大病。

齢を重ねた人なら、多少はそんなことを見聞あるいは実際に経験しているものです。陥穽にはまりこんだ人は、その後どうなっていくのでしょうか。

思わぬことをきっかけに陥穽から脱出できる人はいます。きっかけは様々です。

全くの赤の他人の言動が、陥穽にはまりこんだ人を再出発させることになったのなら、赤の他人はその人にとって、人生の大切な傍役だったのでしょう。前世で縁があったのかもしれません。

せねば、餓死をするじゃて-老婆が下人に与えた生きる勇気-


芥川龍之介「羅生門」を、陥穽にはまりこんだ人、過酷な運命とたたかう人と、その人を再生させる使命を与えられた人生の傍役の物語と読めないでしょうか。

物語の舞台は平安朝の京都、朱雀大路にあるという羅生門です。登場人物は羅生門の下で、行き所がなくて途方にくれている下人と、羅生門の上に転がっている死体の髪の毛を抜く老婆です。

下人は永年使えていた主人から暇をだされてしまい、羅生門で雨やみを待っていました。このままでは、飢え死にするだけです。

下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっと「手段を選ばないとすれば」という局所へ逢着しました。

しかし下人には、盗人になるよりほかに仕方がないということを積極的に肯定するだけの勇気がでずにいました。

下人の人生を転換させたのは、羅生門の楼上で、死人の髪の毛を抜いて鬘にしようとしていた、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆でした。

老婆はつぶやきます。自分が髪を抜いた女など、蛇を四寸ばかりずつに切って干したものを干魚だと言っていくさをやっている連中に売っていた。

それをやらなければ餓死するだけだった。流行病で死んだこの女も、自分の行為を大目に見てくれるだろう、と。

下人は老婆の話を聞き、迷わずに盗人になる決意をし、老婆の着物を剥ぎ取って楼から降り、真っ暗闇の京都の街に消えていきました。

盗人になった下人がその後どうなったかなど、わかりようもありませんが、老婆の呟きは下人に乱世を生きぬく勇気を与えてくれたのです。

もし下人が羅生門でなく、別のところで雨やみを待っていたら餓死していたかもしれません。神が下人を生かすべく、サイコロをふったのかもしれませんね。










2013年6月5日水曜日

悪霊の力も利用して生きる-山田太一「異人たちとの夏」(新潮社)より思う-

離婚した中年男のもとに訪れた異界の住人



順風満帆に生きていくことは、難しいものです。思いもよらぬ困難が、突然生じるものですから。

40代後半にもなれば、誰しもそれを実感しているのではないでしょうか。

若い頃から勤めていた会社が不況でリストラになってしまった。

仕事の方は何とかやっているが、夫婦関係がうまくいかず離婚することになった。

健康だけが取り柄と思っていたのに、突然深刻な病になってしまった。

こんな調子で、40代後半にもなれば誰しもいろいろな困難が、ふとしたきっかけで訪れてきてしまうのかもしれません。

諸困難を何とか乗り越えることができれば、苦境から脱することができれば、新たな人生を歩めるのでしょうけれど、どうしようもなくいつまでも乗り越えられないときもあります。

そういうときこそ、異界の住人により魂が試されているとき、なのかもしれません。

泥沼に落ち込んだような状況でもがいているうちに、全く見ず知らずの他人の言動をきっかけに、少しずつ先が見えてきて、泥沼から抜け出せるかもしれません。

山田太一「異人たちとの夏」(新潮社)の主人公原田英雄は、47歳で離婚した脚本家です。原田は離婚して財産のほとんどを妻に渡したので、仕事場のマンションの一室に住んでいます。

ひとりっきりの人生を、原田は送ることになりました。原田は12歳のときに両親を交通事故で亡くして、叔父に育てられました。何の因果か、35年後に再び原田はひとりっきりになってしまったのです。

そんな原田の前に、異界の住人、35年前に亡くなった両親が、亡くなった頃の姿で訪れてきます。亡くなったとき、父親は39歳でしたから、47歳の原田よりずっと若い。

年下の父親とは奇妙ですが、親が若くして亡くなればそうなるのです。

もうひとり、同じマンションに住んでいる33歳の若い女ケイこと藤野桂が、限りなく静かなある夜に原田のところを訪れます。

下らない生命を大事にしたらいい-悪霊により困難を乗り越えた


この物語は映画化されていますから、御存知の方は多いでしょう。主人公は風間杜夫。片岡鶴太郎と秋吉久美子が両親役でした。名取裕子がケイ、悪霊の役です。

どの俳優もそれぞれ良い芝居をしていたと思いますが、あえて言えば私には片岡鶴太郎の父親が印象に残りました。江戸っ子寿司職人の雰囲気がよく出ていました。

原田はテレビドラマの脚本家ですから、相当な所得が今後も入ってくるでしょう。そんな原田ですが、元の奥さんが仕事仲間と浮気をしていたのではないかと苦しんでいました。

美しい年下のケイという悪霊に惹かれたのは自然の成り行きともいえるでしょう。

しかし、原田はケイが悪霊であることに気づきます。

異界の住人ケイは原田に「下らない生命を大事にしたらいい」と別れ際に言います。

この言葉は素敵ですね。ちっぽけで下らない命でも大事にし、生きて行けば良いのです。

ケイは原田に好意などこれっぽっちも持っていなかったとありますが、貴重な言葉を残してくれているではないですか。

生きとし生けるものは必ず死を迎えます。

異界が存在するならば金持ちも貧乏人も、艶福家もさえない中年男も、浮気女も貞女もいずれは霊になるのです。

原田は、悪霊の力をも利用して人生の困難をひとつ、乗り越えたのでしょう。生への強力な意思を持つ人ならば、悪霊の力も利用できるのでしょう。












明治人の心意気を思う―岩崎京子「鯉のいる村」(新日本出版社)―より

明治のボタン商人の夢


子供の頃読んだ本の中の登場人物の生きざまが、ふとよみがえってきた経験はありませんか。誰しも、生きていく中で様々な人と出会い、すれ違っていきます。

小説の登場人物の言動が、読者である私たちの生き方、身の処し方に大きな影響を及ぼしうるものでしょう。私たちは小説や映画の登場人物とも、すれ違っているのでしょう。

岩崎京子「鯉のいる村」(新日本出版社1969年刊行)の中に、ボタン商人の話「ぼたん」があります。語り部は小学校高学年くらいのさち子です。女の子のお祖母さんはボタン園経営の家で育ちました。

語り部が私より少し年上とすると、ボタン園の家で育ったお祖母さんは生きていれば120歳くらいの方でしょうね。明治30年生まれくらいとすると、ボタン園を経営していたお祖母さんのお父さんは江戸時代から明治の初めころに生まれた方ということになります。

明治の日本は、現代の私たちからは想像もできないくらい、貧しかったのです。厳しい時代でした。当たり前ですが、当時は社会保障など何もありません。商売に失敗し、倒産してしまえば一家全員が直ちに路頭に迷ってしまいます。

ボタンはある時期には米国やカナダにも輸出できて大流行したそうですが、ある時期から虫害や葉が枯れてしまう病気がひどく、売れなくなってしまいます。

ボタン園は大損をしてしまいました。そんな中で、お祖母さんはボタンの苗を一つ持ってこの家にお嫁にきたそうです。少女だったお祖母さんにボタンの苗をくれたのが、ボタン園に出入りし、お父さんと商売をしていた腕利きのボタン商人、りんちゃんでした。

そのボタンこそ、ずっと後に名花と称えられる「さくらさがね」だったのです。お祖母さんにボタンを渡してから数十年後に、中気で片足をひきずりつつもボタン商人を続けていたりんちゃんは、語り部の家の庭に植えられている「さくらさがね」らしきボタンを見つけました。

りんちゃんは思わず叫びます。

「さくらさがねだ。さくらさがねだ。おまえ、こんなとこにいたのか」

私はりんちゃんのこの言葉が、心中に残りました。りんちゃんはさくらさがねを漸く見つけたその日に亡くなってしまいます。

天職を全うすべく生きる明治の日本人の心意気ともいうべきものが、この物語の行間にみなぎっているようです。

















2013年6月4日火曜日

夢を失わないで生きよう―森村桂さんのメッセージ―

いつか、りんごの片われに出逢える



夢を失わずに生きていこう。努力すればいつの日にか、自分の夢は必ず実現できる。夢と目標をもって人生と世界に挑戦しよう。

中学生や高校生の頃、誰しもこんな気持ちをもった経験はあるはずです。


何事もチャレンジしていこう。一度しかない人生、精一杯生きずにどうする。森村桂さんのそんな気概を、中学生の頃愛読者だった私は森村さんの作品の文中から感じ取りました。

1970年代から80年代にかけて、森村桂さんは若者に大人気でした。

9年くらいまえに、訃報を新聞記事で読みました。

夫のM.一郎こと三宅一郎さん著「桂よ。わが愛その死」(海竜社)は、森村ファンの一人として衝撃的でした。

晩年の森村さんは、大変な御病気だったのです。三宅さんは本当に精一杯、看病されたと思います。「桂よ。わが愛その死」の第五章の題名は「狂える桂よ」です。

それでも森村桂さんは、最期まで自分なりの夢を追い続けたのではないでしょうか。

七転八倒をしつつ努力しても結局のところ、満たされない夢。さしたる理由のない偶然から、奇妙な夢を持つようになってしまう人々。森村さんを利用した人も「夢」を持っていた。

三宅さんの言う「悪い桂」も様々な「夢」を追っていたことでしょう。

様々な「夢」を追う人々の生きざまを、森村さんは「りんごの片われ」である三宅一郎さんの筆を通して、最後に語って下さったのではないでしょうか。








2013年6月3日月曜日

罪もまた意味がある―遠藤周作「生き上手 死に上手」(文春文庫)から―

善と悪は背中あわせ


何かを精一杯やっても、結果は全く駄目で徒労に終わってしまった。こんなことなら、何もやらないほうがよかった。失敗だ。愚行だった。なぜこんな愚かな言行をしてしまったのだろう。

そんな気持ちになると、やりきれないですね。

遠藤周作「生き上手 死に上手」(文春文庫p29)は、かつて冒した愚行も、かつて自分の身に起こった出来事も‐たとえそれがそのまま消えてしまうように見えたものでも、決して消えたのでなく、ひそかに結びあい、からみあい、そして人生に実に深い意味を持っていた旨述べています。

善と悪は背中あわせになっている。悪もまた善になりうる。罪もまた意味があり、決して我々の人生にとって無駄はない旨、遠藤は語っています(p30-31)。

悪魔に対応した「善魔」も世の中にいると遠藤は語ります。こちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多い。それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足している。こういう人のことを善魔というそうです(p22)。

どれも、自分の生き方と照らし合わせ、咀嚼して考えてみたい金言ですね。










2013年6月2日日曜日

遠藤周作「深い河」より―偶然は神がふるサイコロ―

人生楽ありゃ苦もあるさ


人生楽ありゃ苦もあるさ、は水戸黄門の主題歌の歌詞ですね。

自分の人生を振り返るとき、人生の節目のようなものに気づくものです。あのとき、自分はこの道を選択したが、別の道を選択したらどうなっていただろう。

人生の節目とも言うべきものの存在には、齢を重ねないとわからないのかもしれません。

節目では、誰しも自分なりに選択をしているのでしょうけれど、その選択決定は単に周囲にいただけの、さほど関連のない人がちょとした気分で選択した行動に依存していたのかもしれません。

疎遠な他人の気分感情が結果として、自分の選択行動そして自分の人生に大きな影響を及ぼしうる。

人生をドラマや映画に例えるなら、自分は主役です。本来さして関係はないはずなのに、主役の重大な選択に影響を与えた人が、誰の人生でもいるものなのでしょう。何の変哲もない台詞をはいただけの人が、実際にはドラマの重要な傍役になっているかもしれません。

人生に意味のないものなどひとつもない。遠藤周作が読者に発した重要なメッセージの一つはこれでしょうね。神がふる偶然という名のサイコロ。それには何かの意味があるのでしょう。

「深い河」(講談社文庫)の登場人物の一人、基督教徒の大津にとって、成瀬美津子は極めて重要な傍役だったのでしょう。成瀬美津子がそうなったのは、コンパのとき美津子が後輩から「大津という奴、からかってみませんか」(文庫p54)と言われたのがきっかけでした。

後輩のこの一言がなければ、大津も美津子も、随分違う人生を歩んでいたかもしれません。

普段は大津と殆ど付き合いがなさそうな、後輩も大津の人生の重要な傍役だったのです。後輩のひとりは近藤という名前のようです(文庫p56)。美津子は近藤と性関係はありましたが、それ以上の存在ではなかったようです。

自分にとって、ちっぽけな存在であったようで実は大事な役割を果たした傍役は誰だったのか。これを問いかけていくことが、神との対話の一部なのでしょうか。

際限なく降りかかる人生の苦難を乗り越えるためには、人生というドラマの全体像を主役が把握せねばなりませんから。