武装闘争の理論家、宮本顕治
若者は旧世代に挑戦するものです。
どんな分野でも、若者の前には旧世代が壁のように立ちはだかっていますから。それは、青年期の息子が父親に反抗するようなものです。
若者から見れば旧世代は、現実に安住してしまい、求めるべき理想を忘れてしまった連中なのでしょう。
そんな若者たちも、理想を求め現実と悪戦苦闘しているうちに、世の中の仕組みを理解していくものです。
しかし、四十を過ぎた分別ざかりの中年が現実を見ないでいつまでも空理空論に拘泥しているようではどうにもなりませんね。軽率な人間と言われても仕方がないでしょう。
日本共産党の党首をおよそ50年務めた宮本顕治は、四十を過ぎてからも大真面目に武装闘争と暴力革命の必要性を喧伝していました。
駅前で「原発をなくせ」などという宣伝をしている今日の日本共産党員は、こんな史実を一切知らないことでしょう。
日本革命の「平和的発展の可能性」を提起することは、根本的な誤り
宮本顕治は、日本共産党の理論雑誌「前衛」掲載論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(49号、1950年5月、p7)で上述のように断じていました。
「日本革命」とは、日本の政治経済の仕組みをソ連のようにすること、日本のソビエト化です。
宮本顕治によれば、「議会を通じての政権獲得の理論も同じ誤りであることは論をまたない」そうです。日本をソビエト化することは、この時代の日本共産党員の夢でした。
日本をソビエト化するためには共産党員たるもの、重武装して警察や米軍と戦わねばならない、という真に物騒な「理論」を、宮本顕治は大真面目に信奉し発表していたのです。
第二次大戦後すぐの時期には、ソ連から帰ってきた野坂参三による「愛される共産党」「平和革命」論で日本共産党は国民の一定の支持を得ていました。
野坂参三の「理論」が突然、ソ連の指導下にあった世界共産党の後継団体、共産党情報局から「誤り」と批判されてしまいました。
大慌てで当時の日本共産党指導部は、「平和革命」論の路線転換を検討し始めました。
野坂参三は「私の自己批判」(「前衛」47号掲載)で、「議会を通じて人民政権の樹立が可能であるということは原則的に誤り」と述べています。
「アカハタ」には1950年2月6日にこの論文が掲載されたようです(「日本共産党五0年問題資料集1」、新日本出版社1957年初版、p18-22掲載)。
野坂はこの論文で「『国会を通じて政権に近づく』という考えは、権力や国会にたいするマルクス・レーニン主義的な原則からの逸脱であって、本質において、社会民主主義への偏向であるといえる」と述べています。
ソ同盟共産党を中心とする国際プロレタリアートの輝かしい活動とその成果から深く学ぶことによって、世界革命運動の一環としての責任を果たしうる(宮本顕治、同論文p11)
駅前で宣伝をしている今日の日本共産党員が、宮本顕治のこんな「理論」を聞いたら、腰をぬかしてしまうかもしれません。
駅前の宣伝なぞ、宮本顕治流に言えば「日本革命の平和的発展の可能性を提起している」行為ですから、「根本的な誤り」です。
日本革命すなわち日本をソビエト化するためには、徹底的な武装闘争と暴力革命しかありえない。
今こそ火炎瓶と手榴弾を作って警察と戦え!山村に解放基地を作れ!
この類の愚論が、ソ連と中国から厳しい指導と批判を受けた結果、当時の日本共産党員がたどり着いた結論だったのです。
現在80代前半以上になる日本共産党員なら、この時代に宮本顕治らの「論文」を読み、「指導」を受けて実際に武装闘争を断行した方がいるはずです。
在日朝鮮人の日本共産党員にそういう方が多かったのです。
火炎瓶を投げた経験がある老共産党員がいるはずです。その後のいろいろな経緯により、除名ないしは除籍されてしまっているかもしれませんが。
同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党
「同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党」という表現は、前述の宮本顕治の論文に出てきます。
「プロレタリア国際主義」「国際プロレタリアート」「ソ同盟」という奇妙な語を、今日の若い日本共産党員は全く知らないことでしょう。80歳前後の日本共産党員なら知っているかもしれません。
聴濤弘さんのような方なら、当時から「アカハタ」や「前衛」をしっかり読んでいたでしょうから「プロレタリア国際主義」「国際プロレタリアート」についてご存知でしょう。
実にもったいぶった表現ですが、宮本顕治の言いたいことは、自分たちはソ連や中国の言うとおりにすればよい、というだけの話です。
ソ連の最高指導者はスターリン、中国は毛沢東ですから、スターリンと毛沢東への絶対的服従こそ共産党員の第一の任務だ、ということです。
北朝鮮の「党の唯一思想体系確立の十大原則」のような水準の話でしかありません。
「マルクス・レーニン・スターリン主義」など、今の日本共産党員にとって奇妙な事この上ない表現かもしれませんが、宮本顕治と当時の日本共産党員は大真面目にこうした言葉を用いていたのです。
下部党員に真実を隠蔽するために
論文の末尾で、宮本顕治は次のように述べています。
「われわれは、党を、マルクス・レーニン・スターリン主義の原則とプロレタリア国際主義にもとずき、政治的・思想的・組織的に強めねばならぬ」
宮本顕治も、金日成と同様にスターリンの忠実なる下僕だったのです。論文執筆当時の宮本顕治は42歳くらいです。軽率な人間とはこういう人のことを言うのでしょう。
この論文のこれらの記述は、今日の日本共産党員から見ればあまりにも愚かなものですから、宮本顕治もまずいな、と思ったのでしょう。
1988年9月発行の宮本顕治著「五十年問題の問題点から」(新日本出版社)ではこれらの部分が削除されています。
「日本共産党五0年問題資料集1」(新日本出版社1957年初版、p27-35)には全文が掲載されています。
駅前で宣伝をしているような日本共産党員には、「武装闘争の理論家であり、スターリンの忠実な下僕だった宮本顕治」は隠しておかねばならない史実の一つなのでしょう。
なぜスターリンと毛沢東は日本共産党に暴力革命路線への転換をさせたのか-大韓民国の滅亡と朝鮮戦争‐
なぜスターリンと毛沢東は日本共産党に暴力革命路線への転換をさせたのでしょうか。野坂参三が共産党情報局から批判された1950年2月は、朝鮮戦争開戦(1950年6月25日)の直前です。
朝鮮戦争は、スターリンと毛沢東の承認を受けて、金日成と北朝鮮の南侵により始まりました。スターリンと毛沢東は、米軍が朝鮮戦争に介入しうることを予見していたのでしょう。
そこで下僕たる日本共産党に武装闘争をやらせ、米軍基地襲撃や米軍のための物資補給を妨害させようと企んだのでしょう。
大韓民国を滅亡させるためには、米軍の朝鮮戦争参戦を防がねばなりません。
当時の日本共産党や在日朝鮮人の力で、それが完全に実現できるとスターリンや毛沢東が判断したかどうかはわかりません。
日本共産党員や在日朝鮮人が火炎瓶や手榴弾を警察や米軍に投げても、逮捕するのは難しくありませんから。多少の騒ぎにはなるでしょうけれど。
火炎瓶を警察官に投げたあと、何をどうすれば日本がソ連のようになるのでしょうね。聴濤弘さんにお尋ねしたいですね。
ひょっとしたら、要人暗殺を考えていたのでしょうか。
大韓民国の滅亡にかけた青春―在日朝鮮人文世光―
現在、80代前半以上になる日本共産党員や在日朝鮮人には、当時の指導部(現在生きていれば百歳位の方々)の指令を受けて、「日本革命」とやらのためにとんでもない暴力行為を断行した人がいくらでもいます。
この人たちの青春は、主観はどうあれ客観的には、「大韓民国の滅亡にかけた青春」だったのです。
同じようなことを、金正恩の指令により在日朝鮮人の若者がやるようなことはない、と私は思いたいのですけれどね。
朴グネ大統領のお母さん、陸英修女史を銃撃して殺害したのは在日朝鮮人の文世光でした。