善と悪は背中あわせ
何かを精一杯やっても、結果は全く駄目で徒労に終わってしまった。こんなことなら、何もやらないほうがよかった。失敗だ。愚行だった。なぜこんな愚かな言行をしてしまったのだろう。
そんな気持ちになると、やりきれないですね。
遠藤周作「生き上手 死に上手」(文春文庫p29)は、かつて冒した愚行も、かつて自分の身に起こった出来事も‐たとえそれがそのまま消えてしまうように見えたものでも、決して消えたのでなく、ひそかに結びあい、からみあい、そして人生に実に深い意味を持っていた旨述べています。
善と悪は背中あわせになっている。悪もまた善になりうる。罪もまた意味があり、決して我々の人生にとって無駄はない旨、遠藤は語っています(p30-31)。
悪魔に対応した「善魔」も世の中にいると遠藤は語ります。こちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多い。それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足している。こういう人のことを善魔というそうです(p22)。
どれも、自分の生き方と照らし合わせ、咀嚼して考えてみたい金言ですね。
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