虚栄心から嘘と阿諛追従が生まれるが
「嘘は方便」といいます。社会で生き延びていくためには、誰しも多少の嘘をつかねばならないものでしょう。営業マンであれば、自社の商品の問題点を知っていてもそれに目をつぶり、我が社の製品こそ最高です、とお客さんにいわねばなりません。
どんな会社でも、上司を正面から批判することは難しいものです。理不尽な業務命令を出す上司をときには、阿諛追従せねばならない。
誰しも小さな嘘、虚勢を張ることがあるときには必要になるのでしょうが、とんでもない大嘘をつきまくる人、虚栄心の権化のような人に接すると嫌になりますね。ぞっとするような経験をした人は少なくないことでしょう。
芸能界やテレビ局、あるいは政界には、虚栄心が強い人が多いのでしょう。そうでなければ、生き延びられない社会なのでしょう。
虚栄心が強い人は、処世術にも長けており、嘘と阿諛追従をうまく使い分けて生きていけるものなのでしょう。虚栄心がさほど強くない人でも生き延びていくためには嘘をつき、阿諛追従をせねばならない局面がありえます。
生き延びていくための嘘、阿諛追従は正当化されるものなのでしょうか。この問いに対する答えを、キリスト教徒は歴史の様々な局面で出さねばならなかったのでしょう。これは、現代人も同じではないでしょうか。
ペテロの妥協と取引により弟子たちは生き延びた
遠藤周作の「キリストの誕生」(新潮文庫, p13-14)、「私のイエス」(祥伝社黄金文庫,p159-161)に示されているペテロとその弟子による、大祭司カヤパとの妥協論は興味深いものです。
遠藤によれば、イエスが神殿警備隊に逮捕され、大祭司カヤパの邸に引っ張られていったあと、逃亡した弟子たちはエルサレムから近い場所で隠れていました。
ペテロとその弟子は逃げ隠れしている仲間たちを代表して大祭司カヤパの邸に行き、ある妥協をしました。ペテロとその弟子は大祭司カヤパを議長とするユダヤ衆議会の裁きを受け、イエスを否認することを「激しく誓った」と遠藤は説きます。
これにより、ユダヤ衆議会はその後当分、イエスの弟子たちの存在を黙認し、咎めもせず、放任することになりました。ペテロの「誓い」と妥協のおかげで弟子たちは助かり、その代わりイエスは全員の罪一切を背負わせられる「生贄の子羊」となりました。
史実がそうであるなら、ペテロの狡猾な妥協と取引、処世術により、原始キリスト教団は存続できたのではないでしょうか。
歴史にもしも、は禁物なのかもしれませんが、ペテロが狡猾に立ち回らず、ユダヤ衆議会と真っ向から対決していたら、イエスの弟子たちは一体どうなっていたのでしょうか。
江戸時代の厳しいキリシタン弾圧にもかかわらず日本に残った宣教師たちや、隠れキリシタンも同様の問いに直面したのでしょう。
現代の私から見れば、踏み絵を踏めば人が助かるなら、いくらでも踏めば宜しいとイエスは言って下さるとしか思えませんが、当時の宣教師や隠れキリシタンにはそう思えなかったのでしょう。
エルサレムの弟子集団は消えた‐灰燼に帰したエルサレム‐
ペテロがどこで、どのような死に方をしたかを確実に知る資料はないそうです(「キリストの誕生」p204)。福音書や伝承から、ペテロはローマで殉教したと考えられます(同書p204)。
イエスの死後、ペテロとイエスの従兄弟ヤコブを指導者としてエルサレムでキリストの再臨を待ち続けたエルサレムの弟子集団は、ローマ軍によるエルサレム攻撃後、消滅したとあります(同書p229)。
ペテロが必死で守ろうとしたエルサレムの弟子集団は、圧倒的なローマ軍の侵攻により壊滅してしまったのかもしれません。ペテロらも崇めていたエルサレムの神殿と神の都、エルサレムはローマ軍により灰燼に帰してしまいました(同書p225)。
ローマ軍により破壊し尽くされたことをどこかで伝え聞いたであろうイエスの弟子たちは、どんなにか虚しかったことでしょう。
ユダヤ衆議会と必死で妥協、取引をして生き延び、イエスの教えを少しでも広めようとしてきたはずなのに、全てが無となった、というような思いにかられてしまったかもしれません。
イエスを十字架にかけたユダヤ衆議会も、圧倒的なローマ軍の軍事力を前にしては無力だったのです。「割礼を受けていない異邦人も信徒として認めるべきである」と主張し、イエスの弟子集団と対立したポーロも、ローマでみじめな、哀れな死に方をしました(同書p202)。
人生と世界の謎を解けなかったがゆえに次の世代へ
敬虔な信徒たちがこんな悲惨な目に遭っているのにも関わらず、神はなぜ沈黙しているのか。救世主たるキリストはなぜ再臨しないのか。
遠藤は、解き難いこの二つの謎を突きつけられることにより、原始キリスト教団は信仰のエネルギーを与えられたと考えます。
人生と世界の謎を解くことができなかったゆえに、原始キリスト教団はその信仰を衰えさせることなく次の世代にバトンを渡すことができたと遠藤は述べています(同書p232)。
悩み、苦しみそしてもがきが信仰の源泉なのでしょう。
自分のあり方はこれで良いのかと悩み、苦しむことこそ、人として大事なことなのかもしれません。誰しも多少の虚栄心と処世術は必要なのでしょうが、そんな生き方で本当に良いのか。
毎日雑事に追われる現代の私たちは、その場限りの処世術を弄して生き延びているのかもしれませんが、原始キリスト教徒が直面したであろう苦しみを、時には想像してみたいものです。
処世術に悩みつつも、自分の生き方はこれで良いのだろうかという私たちの悩みと苦しみを何かに記し残していけば、後世に思いが伝わるのかもしれません。
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