殆どの日本共産党員は、昭和25年からの50年問題の際に宮本顕治さんが武装闘争に反対して徳田球一さん、野坂参三さんと対決したと信じています。
しかし宮本顕治さんは、昭和25年5月の「前衛」に掲載した論考「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」で野坂参三さんの平和革命論を暴力革命論の見地から徹底批判しています。
この件、本ブログでは何度か論じてきました。
黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 唱和25年頃、宮本顕治さんは極左冒険主義者だったー野坂参三さんの平和革命論を徹底批判ー (blueribbonasiya.blogspot.com)黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 不破哲三さんも、昭和26年秋には臨時中央指導部の指導下で日本共産党が分裂を解消したことを認めているー不破哲三「日本共産党史を語る」(新日本出版社刊行, p203)より (blueribbonasiya.blogspot.com)
黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 昭和25~30年頃の日本共産党員は、臨時中央指導部(今の日本共産党は徳田・野坂分派と規定)こそ党中央とみていたー「日本共産党の八十年」(p107。日本共産党中央委員会発行)より (blueribbonasiya.blogspot.com)
黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 昔の日本共産党は暴力革命集団だったー暴力革命論の時代、日本共産党は中国共産党から学んで武装闘争 (blueribbonasiya.blogspot.com)
黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 日本共産党の暴力革命論について―宮本顕治氏は51年綱領(暴力革命論)の積極面を第七回大会報告で認めていた(昭和33年7月)― (blueribbonasiya.blogspot.com)
田村智子議員は、今でも昔の日本共産党が平和革命、議会を通じての民主的改革とやらを一貫して追求してきたと信じていそうですね。以下、敬称を省きます。
徳田球一、野坂参三、伊藤律、志田重男、紺野与次郎、西沢隆二らが宮本顕治、志賀義雄らを排除
「日本共産党の八十年」(日本共産党中央委員会刊行。p105)によれば、昭和25年4月末の第十九回中央委員会総会が終わった後、徳田球一が上記の人々を自宅に集め、宮本、志賀を排除して非公然の組織と指導体制を作る方針を申し合わせました。
これをもって、今の日本共産党は徳田・野坂分派が旗あげされたと主張しています。
昭和25年6月7日、徳田らは中央委員会の解体を宣言し、椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部を指名しました。
臨時中央指導部とは、以下の方々です(「五十年問題資料集2」より)。
河田賢治、谷口善太郎も臨時中央指導部に入っていたのです。紺野与次郎がなぜこの中に入らなかったのかはわかりません。
「日本共産党の八十年」によれば、徳田・野坂分派が臨時中央指導部をマッカーサーの弾圧への対応と装ったこともあって、多くの日本共産党員は臨時中央指導部を考えました(同書p107)。
この後、宮本顕治ら排除された方々は昭和25年9月に「全国統一委員会」という組織をつくります。
宮本顕治ら排除された中央幹部は、昭和26年秋には臨時中央指導部の指導下に入った
「日本共産党の八十年」によれば、全国統一委員会には十余りの府県党組織といくつかの地区組織、大衆団体グループが参加しました(同書p109)。
昭和26年8月10日に、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が臨時中央指導部側が正しいという論考を発表しました。
この論考に、宮本顕治らは屈服し、「全国統一会議」(全国統一委員会は昭和25年10月に解散)という組織を解散して臨時中央指導部の指導下に入りました。
「日本共産党の八十年」はこの辺りを曖昧にしています。宮本顕治が全国統一会議解体後、何をしていたのかが記述されていないのです。
昭和26年秋からは、日本共産党国会議員団も「徳田・野坂分派」となった
昭和26年秋からは、臨時中央指導部が名実ともに党中央となったのですから、この時期の日本共産党国会議員団や日本共産党の影響下にある団体は皆、臨時中央指導部(今の日本共産党の解釈では、徳田・野坂分派)の指導下に入りました。
この時期の日本共産党員は皆分派だ、とは変な話ですが、今の日本共産党の歴史解釈だとそういう結論になります。
川上貫一議員も勿論、徳田・野坂分派とやらの有力な一員でした。河田賢治、谷口善太郎、紺野与次郎は言うまでもありません。
私は四十年ぐらい前、この時期に日本共産党の一般党員だった方(故人)から、50年問題は悪夢だった、決して起きるはずがないと信じていたことが起きたのだから、と伺いました。
四十年ぐらい前(昭和57年頃)には、昭和25年からの五十年問題の体験者がまだお元気だったのです。
この方によれば、昭和27年の総選挙の際、全党員が地を這うようにして頑張りました。これは勿論、臨時中央指導部の指導下です。惨敗だったそうです。
この時期の日本共産党は強力な武装闘争を断行しましたが、全党員が四六時中武装闘争を行っていたわけではない。
自分は武装闘争など嫌だが、選挙運動は頑張る、という方も相当数いたのです。今の日本共産党の歴史観では、この時期の選挙運動も徳田・野坂分派の所業ということになりますね。
宮本顕治は臨時中央指導部の指導下で東京一区衆議院候補者になった
宮本顕治が昭和26年秋から、臨時中央指導部からどのように指導されていたのはか不明です。昭和29年秋ぐらいまで無視されていたかもしれません。
「宮本顕治の半世紀譜」(新日本出版社昭和58年刊行)には、以下が出ています。
「宮本顕治の半世紀譜」によれば、宮本顕治は昭和29年11月上旬に党主催演説会の弁士として岩手県に入っています。
12月11日には、東京都党員決起大会(浅草公会堂)で一区衆議院予定候補者として決意表明をしました。
これらは、「日本共産党の八十年」には記されていません。同書には、昭和30年1月頃に、志田重男が宮本顕治に会見を求め、党の統一と運動の転換について協議を持ちかけてきたと記されています(p121)。
現実には、昭和29年冬には臨時中央指導部から宮本顕治に、何らかの打診があったと考えられます。臨時中央指導部が宮本顕治を、東京一区の候補者として認定しているのですから。
昭和30年1月9日、宮本顕治は臨時中央指導部主催による「55年赤旗びらき」(渋谷公会堂、参加者八百名)に参加し、郷土民謡を歌ったそうです。
日本共産党の資料を見ていけば明らかなように、宮本顕治も、昭和26年秋からは徳田・野坂分派とやらの一員でした。
たつみコータローさん、わたなべ結さんは山田六左衛門を御存知ですか
この時期、一貫して臨時中央指導部に反対した方は、臨時中央指導部から除名処分になった方々ぐらいではないでしょうか。
大阪の山田六左衛門はそうだったかもしれません。春日庄次郎と共に、第七回大会頃から「構造改革論」を唱えた方です。
たつみコータローさん、わたなべ結さんは、山田六左衛門を御存知なさそうです。山田六左衛門は確か、大阪の参議院選挙の候補者にもなっていますよ。