昔の野坂参三さんは平和革命論者で、宮本顕治さんは暴力革命論者だった
今の日本共産党は、野坂参三さんは極悪人、宮本顕治さんは英雄という史観を普及しています。
野坂さんが帰国直後「愛される共産党」を訴える平和革命論者だったことなど、若い共産党員は知らないでしょうね。
宮本顕治さんが暴力革命論者だったことも、全く知らないでしょう。
昔から共産党は、最高指導者の無謬性宣伝を重視します。
わが党は一貫して正しい政策と見解を訴えてきた。それができたのは、科学的社会主義の理論と思想を体得した最高指導者がいたからだ、という理屈です。
日本共産党の場合、昔からの幹部は殆ど皆、除名されてしまいました。
今の日本共産党の立場なら、徳田球一さんも野坂さんと同様に除名されるべき人物です。
今の日本共産党は、昭和25年に起きた日本共産党の「五十年問題」とその後の武装闘争を、徳田球一さんと野坂参三さんらがソ連、中国の指示に従って分派を結成し行ったものと宣伝します。
徳田さん、野坂さんらに排除された宮本顕治さんは一貫して正しい主張をしてきたという史観を、志位さんは何としても普及するしかない。
宮本さんが暴力革命論者だったことを、志位さんは内緒にしたいでしょうね。
「日本共産党の八十年」と宮本さんの昔の論文を読みましょう
近年の日本共産党の文献と宮本顕治さんが昭和25年頃から出した論考を真面目に読めば、「武装闘争は徳田・野坂分派によるものだからわが党とは無縁だ」宣伝が成り立たないことがわかってきます。
本ブログではこれを繰り返し指摘してきました。
まず第一に、昭和25年から30年頃の日本共産党中央幹部で、ソ連、中国から提起された暴力革命論に反対した方はいません。
宮本顕治さんは昭和25年5月の「前衛」掲載論考「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」で野坂さんの平和革命理論を徹底批判しています。
宮本さんによれば、日本革命の「平和的発展の可能性」を提起する事や、議会を通じての政権獲得の理論は根本的な誤りです。
宮本さんのこの論考は、「日本共産党五〇年問題資料集1」(新日本出版社刊行)に掲載されています。この資料集も、入手しにくいでしょうけれど。
国際派だった志賀義雄さんは、昭和25年9月に臨時中央指導部の下に結集したそうです(「日本共産党の八十年」p109)。
第二に、宮本さんらは昭和26年10月頃には臨時中央指導部の下に団結していたという史実を指摘したい。
「50年問題」で日本共産党は大別して「所感派」「臨時中央指導部」(徳田・野坂分派と今の日本共産党は規定)と宮本顕治さんらの「国際派」に分かれて分裂します。
昭和26年8月にスターリンとソ連共産党が臨時中央指導部を正統派と認めたので、宮本さんらの組織「全国統一会議」は解散しました。
これは、「日本共産党の八十年」(p112)にも明記されています。
この時期の日本共産党員は、スターリンとソ連共産党、毛沢東と中国共産党を盲信していました。
シベリア抑留から帰ってきた元日本兵士の話を聞こう、という日本共産党員など殆どいなかったと考えられます。宮本百合子は例外でした。
宮本顕治さんらは臨時中央指導部を昭和26年秋には党中央と認め、51年綱領も正規の綱領と認めていたのです。
第三に、この時期の日本共産党の一般党員は殆ど皆、臨時中央指導部を党中央とみていました。
これも、「日本共産党の八十年」(p107)に明記されています。同書によれば、全国の党組織と党員の多くが臨時中央指導部に引き込まれました。
第四に、宮本さんが暴力革命論を明記した51年綱領を「かがやかしい新綱領」「新綱領が示した道が正しかった」と高く評価していた史実です(昭和30年8月の「アカハタ」掲載論考)。
内乱を訴えた32年テーゼを信奉していた宮本顕治さんが、暴力革命を主張する51年綱領を高く評価するのは当然です。
日本共産党職員や一般党員のtwitterを見ると、殆どの方は臨時中央指導部を分派と考え、日本共産党は武装闘争、暴力革命論と無関係と信じています。
山添拓議員、宮本徹議員、田村智子議員は恐らくそう信じているでしょう。殆どの日本共産党国会議員は、昔の宮本顕治さんの論考を読まない。
臨時中央指導部こそ党中央と信じ、武装闘争に身を投じた昭和27~28年頃の一般党員は分派活動に参加した乱暴者という話を信奉しています。
金日成神話を信奉する朝鮮労働党員、在日本朝鮮人総連合会の皆さんと日本共産党員は、似た思考方式を持っています。
宮本顕治さんは、武装闘争の熱がまだ冷めやらぬ昭和30年8月に、新綱領が示した道が正しかったと断言していました。
この件、志位さんは何としても内緒にしたいでしょうね。そのうち、不破さんの中国共産党礼賛も個人の所業という話になりそうです。
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