2021年9月18日土曜日

昔の日本共産党は暴力革命集団だったー暴力革命論の時代、日本共産党は中国共産党から学んで武装闘争

 昔の日本共産党は、暴力革命論を採用していました。

戦前の日本共産党の最高の理論的到達と言われる32年テーゼは、内乱を起こせと主張していますから、暴力革命論です。

51年綱領も、日本の変革を平和的な手段で行えると考えるのは間違いと明記していますから、暴力革命論です。

この件は、本ブログでも何度か説明してきました。

黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 日本共産党の暴力革命論について―宮本顕治氏は51年綱領(暴力革命論)の積極面を第七回大会報告で認めていた(昭和33年7月)― (blueribbonasiya.blogspot.com)

twitterを拝見しますと、日本共産党支援者は勿論、同党の議員、職員の方々は殆ど皆、宮本顕治さんが一貫して平和革命論者だったと信じているようです。

田村智子議員、宮本徹議員、山添拓議員はそのような呟きをしています。

小原隆治早大教授(政治学者)のtwitterもそんな印象です。

小原教授は政治学者なのですから、日本共産党の歴史について見解を表明するなら宮本顕治さんの論文を図書館などで読むべきではないでしょうか。

早大の図書館なら、古い「前衛」や昔の赤旗の縮刷版があるでしょう。

昭和25年の日本共産党の50年問題の際にも、宮本顕治さんが平和的変革を主張したから暴力革命論者だった徳田球一、野坂参三両氏から排除されたと思い込んでいる方が実に多い。

宮本顕治論文「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」を読みましょう

本ブログで何度も紹介してきましたが、宮本さんは昭和25年5月に「共産党・労働者党情報局の『論評』の積極的意義」(「前衛」1950年5月号掲載)という論文を発表しています。

この論文で宮本さんは日本革命の平和的発展の可能性を提起することや、議会を通じての政権獲得の理論は根本的な誤りと断じています。

この論文は、共産党・労働者党情報局ことコミンフォルムによる野坂参三批判(昭和25年1月)に同調して出されたものです。

宮本さんは徳田、野坂両氏から排除されましたが、暴力革命が必要だという点では完全に一致していたのです。

昭和25年6月頃日本共産党は一時的に分裂ー昭和26年10月頃に臨時中央指導部の下に団結

小山弘健「戦後日本共産党史」(三月書房昭和33年刊行)等によれば、日本共産党中央はコミンフォルムによる野坂批判後、混乱して分裂します。

昭和25年6月に、徳田派の中央委員が非公然活動に入りました。少し前に徳田派は、8人の臨時中央指導部を任命しました。

日本共産党は、臨時中央指導部側(所感派。徳田・野坂派と最近の日本共産党は言う。河田賢治さん、谷口善太郎さんも加入)と国際派(宮本顕治さん、春日庄次郎さん、山田六左衛門さんら)に大別して分裂しました。

国際派、の中にもいろいろな集団がありましたが。

昭和25年6月25日、朝鮮人民軍が南進しました。朝鮮戦争開始です。

国際派は「全国統一委員会」「全国統一会議」という組織を作って臨時中央指導部に対抗しました。

昭和26年8月にコミンフォルムから「臨時中央指導部に元に団結せよ」という指令が出されます。

これにより、全国統一委員会の側は昭和26年8月から10月にかけて解散し、臨時中央指導部の下に日本共産党は再結集していきます。

この時代の日本共産党幹部にソ連、中国の権威に逆らえる方はいません。

日本共産党は中国共産党の「鉄砲から政権が生まれる」革命理論から学んで武装闘争

昭和26年10月の第五回全国協議会で「新綱領」(51年綱領)が採択されました。

小山弘健氏によれば、臨時中央指導部に反対してきた党員たちは、復帰条件として新綱領と第四回全国協議会規約の承認及び、分派としておかした誤りの告白と謝罪、その克服を強要されました。

宮本顕治さんもこの時期に、臨時中央指導部から自己批判を強要されたと考えられます。

小山弘健氏によれば、「国際派」の方々は、臨時中央指導部に自己批判書を提出したそうです。この自己批判書は、日本共産党の「五十年問題資料集」には掲載されていません。

昭和26年10月頃に分裂状態をなくした日本共産党は、昭和27年頃に武装闘争を活発に行いました。

小山弘健さんの本によれば、昭和27年2月の「内外評論」(球根栽培法)という冊子に「中核自衛隊の組織と戦術」という小論があります。

日本共産党は武力革命を次の三つの段階に分けました。

第一段階では軍事委員会の指導で中核自衛隊を組織する。

第二段階では中核自衛隊の指導下で、大衆を抵抗自衛組織に組織する。

第三段階では抵抗組織を人民軍にし、武力革命に突入する。

実に物騒な話ですが、中国共産党の「鉄砲から政権が生まれる」論を日本に適用するとこうなるのです。

この時期の日本共産党は、中国共産党からの革命理論を良く学んだと考えられます。徳田氏らは臨時中央指導部を北京から指導したのですから。

昭和27年5、6月頃に日本共産党は各地で火炎瓶闘争を実施しました。吹田事件、枚方事件などです。

宮本流日本共産党史観では、日本共産党が団結を回復したのは昭和30年7月の第六回全国協議会ですが、これは武装闘争は自分たちとは一切関係ないことにするためです。

昭和30年8月、宮本顕治さんは51年綱領(新綱領)をアカハタ紙面で称賛

宮本顕治さんと志田重男さんが主導して行われた第六回全国協議会決定は、新綱領の規定が全て正しいと主張しています。


宮本さんは昭和30年8月の「アカハタ」で、新綱領(51年綱領)を称賛しています。かがやかしい新綱領が示した道が正しかったそうです。


宮本顕治さんがかがやかしい新綱領、とやらに導かれて行った武装闘争が正しかったと断言していたことを、日本共産党議員や支援者の方々は重く受け止めていただきたいですね。

昔の日本共産党は物心両面で中国共産党の世話になった

武装闘争の時代の日本共産党は、中国共産党に物心両面で世話になりました。

国谷哲資さんの論考「北京追憶 若者が体験した戦後日中関係秘史」によれば北京機関には、日本共産党員が2000人程度所属していました。



北京での滞在費用はソ連共産党、中国共産党の負担ですから。

5、6年もしくはそれ以上、中国に滞在した日本共産党員の生活費用を、中国共産党が負担したのです。

今の価格で考えれば、数億円になりそうですね。もっとかもしれません。

日本共産党はこの時期中国共産党に干渉された、などと怒るのは適切ではない。物心両面で世話になったと礼を言うべきです。




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