日本共産党の50年問題とは
昭和25年頃、日本共産党は大混乱しました。72年前です。
コミンフォルムという、当時の世界共産党の組織が突然、野坂参三さんの平和革命論を批判したのですから。
今から考えれば、ソ連共産党、中国共産党は金日成と朝鮮労働党による韓国への軍事侵攻時、
日本共産党に在日米軍基地への武装闘争、テロを徹底的にやらせて米軍が朝鮮半島に参戦できないようにしたかった。
それだけの話だったのですが、当時の日本共産党員はソ連や中国の腹の内を知りようもない。
宮本顕治さんも知らなかったでしょう。
それでも宮本顕治さんはいち早く、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)に同調して野坂さん批判を始めたのです。以下は、宮本さんが当時書いた論文の一部です。
山添拓議員、わたなべ結さんら若い日本共産党員は32年テーゼと宮本顕治さんの昔の論考を読みましょう
日本革命の「平和的発展の可能性」を提起する事や、議会を通じての政権獲得の理論は根本的な誤りだそうですから、日本革命とは武装闘争、暴力革命だという話です。
山添拓議員、わたなべ結さんら若い日本共産党員は、この論文を御存知ないでしょうね。そんな変な論文は見たくない、というお気持ちが強いかもしれません。
何で宮本顕治さんがそんなことを言ったのか、という疑問を持つ方は、32年テーゼを考えてください。これは50年問題の18年前、昭和七年に出ています。
労働者、農民が武装し、プロレタリア赤衛軍を結成して帝国主義戦争を内乱に転化せよ、という中身でした。
当時の宮本さんとしては、32年テーゼこそ日本革命の道筋を解明した綱領だ、という発想でしょう。宮本さんは武装闘争、内乱が民主主義革命だという理論家だったのです。
長く獄中にいた方ですから、32年テーゼからの発想の転換ができにくかったのです。
この翌年にソ連、中国から認められて出てきた51年綱領は、暴力革命路線を採択していました。今の日本共産党はこれを極左冒険主義と酷評しています。
宮本顕治さんは、中央の指導部から排除されていましたが、自分が主張していた路線が採択されて嬉しかったでしょうね。
昭和28年8月の赤旗紙面で、宮本さんは51年綱領をかがやかしい新綱領、と絶賛しています。
宮本顕治さんは第十六大会で、若い頃の極左冒険主義革命理論を他人の理論のように宣伝
金日成が中国共産党員として、満州で山賊行為をやって日本軍に追われ、ソ連に逃げたことを朝鮮労働党と在日本朝鮮人総連合会は隠ぺいしています。
宮本顕治さんは日本共産党第十六回大会(昭和57年7月27日)の冒頭発言で、ソ連、中国などの介入により分裂した党の一翼に極左冒険主義が起こった、と語りました。
この時、宮本さんは極左冒険主義に反対した潮流もあったと語っています。
こういう文脈だと、昭和25年当時宮本さんが極左冒険主義に断固反対したように思えてしまいます。実際は、御自身が極左冒険主義者だったのですけれどね。
宮本顕治さんは、レーニン、スターリンの手法をよく学んでいました。歴史修正主義者です。
日本共産党の50年問題の頃、臨時中央指導部の下で国政選挙を頑張った方もいたーこれは分派の所行なのか
昭和25年頃の日本共産党中央は混乱しましたが、昭和26年8月にはソ連共産党、中国共産党から徳田球一さん、野坂参三さんの下に結集せよという指令が下り、51年綱領が提起されました。
これにより、昭和26年秋には当時の日本共産党中央は皆、51年綱領を支持しました。
それでは昭和26年から28年頃の日本共産党員全員が暴力革命論を信じ、連日連夜武装闘争、火炎瓶づくりに専心したかというとそうではありません。
51年綱領を中央幹部が支持しても、全国の一般党員にそれが直ちに徹底されるわけではない。
暴力革命論とは変だな、と思いつつも総選挙ですから頑張った日本共産党員もいたのです。京都の谷口善太郎さんのように国会議員だった方もいました。
全国各地で立候補したのでしょう。
私は四十年ぐらい前、50年問題を体験した方から当時の思い出話を伺いました。昭和57、58年頃の事です。
昭和57、58年頃には、若かりし時に50年問題を体験した日本共産党員がまだお元気だったのです。
この方は50年問題を、悪夢だった、絶対に起こるはずがないと思っていた事が起きた、と語りました。
昭和27年と言ったか、28年と言ったか忘れましたが総選挙がありました。この時、全国の一般党員は地を這うようにして選挙活動に取り組んだそうです。
結果は惨敗。故人となったその古参党員の方は、私に全敗したと言ったかもしれませんが忘れました。谷口善太郎さんも落選しています。
一方で武装闘争、一方で選挙活動とは実に変な話でしたが。
これも臨時中央指導部の指導下で行われた選挙活動ですから、現在の日本共産党の史観では、分裂した一方の側が行った選挙活動ということになりませんか。
谷口善太郎さんらは分派活動の一環として総選挙に立候補したという結論になってしまいませんか。
50年問題の頃に全国の日本共産党員が行った選挙活動は、臨時中央指導部の下で行ったから分派活動だという結論になるとしか、私には思えません。
臨時中央指導部の指導で行った武装闘争は分派の所行だが、選挙活動は日本共産党の活動だという結論が出ますか。
日本共産党京都府委員長の渡辺和俊さんは、谷口善太郎さんら当時の日本共産党員が行った選挙活動も、分派の所行とお考えなのでしょうか。
渡辺和俊さんは、SNSでは議論をしないそうです。京都の日本共産党が出している何かの文献で、見解を表明していただきたいものです。
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