2021年10月24日日曜日

不破哲三さんも、昭和26年秋には臨時中央指導部の指導下で日本共産党が分裂を解消したことを認めているー不破哲三「日本共産党史を語る」(新日本出版社刊行, p203)より

不破さんは昭和5年(1930年)生まれです。この本によれば不破さんは日本共産党の五十年問題の頃、東京大学学生で日本共産党員でした。

五十年問題とは簡単に言えば、日本共産党が昭和25年1月にコミンフォルム(当時の世界共産党とも言うべき組織)から批判され、大混乱に陥って一時的に分裂した事態のことです。

若き不破さんは、日本共産党中央幹部の混乱と対立の実情を殆ど何も知らなかったことでしょう。

スターリンの指令により日本共産党は昭和26年秋には再び団結した

昭和25年に日本共産党は一時的に分裂します。

日本共産党の文献では、分裂状態が概ね終わったのは昭和30年7月の第六回全国協議会以降ということになっています。

しかし当時を知る元日本共産党員の本などによれば、日本共産党中央は昭和26年秋頃には臨時中央指導部(徳田、野坂分派と今の日本共産党は規定)の下で団結を回復しています。

これは昭和26年8月にコミンフォルムが臨時中央指導部の側を是としたからです。コミンフォルムを指導していたのはスターリンとソ連共産党です。

当時の日本共産党員はスターリンを心から尊敬していました。スターリンの指令は絶対的でした。

中国革命を成功させた毛沢東と中国共産党を尊敬の対象でした。勿論在日朝鮮人の日本共産党員は、金日成に心酔していました。

不破さんは上記の本(p203)でコミンフォルムのこの介入は間違った判断だったと述べていますが、これにより全国統一会議に参加していた党員、党組織は臨時中央指導部の側に合流する以外なくなったと告白しています。

不破さんが所属していた日本共産党の東京大学細胞も、この時期に臨時中央指導部の指導下に入ったそうです(同書p203)。

当時の日本共産党中央は全員、暴力革命論者になった

いろいろな対立はあっても、結局党中央幹部が全員、51年綱領、暴力革命論は正しいと認めたのですから、一般党員が武装闘争に身を投じて行ったのは当たり前です。

朝鮮の同志は米国の侵略と戦っている、自分たちは朝鮮の同志に連帯し、火炎瓶闘争で米日反動勢力と戦おう、という気持ちだったのではないでしょうか。

在日朝鮮人の日本共産党員は皆、そんな気持ちだったのでしょう。

本ブログやtwitterで私は繰り返し述べてきましたが、宮本顕治さんは昭和25年5月の「前衛」に出した論考で議会を通じての政権獲得の理論は誤りと断言しました。

宮本さんは野坂さんの平和革命論を徹底批判したのですから、暴力革命論の51年綱領を支持したのは当然です。

宮本さんは昭和30年8月に51年綱領を輝かしい新綱領、と称賛しました。不破さんはこれを百も承知のはずですが、上記の本では一切言及していません。

日本共産党は都合の悪い史実を隠ぺいします。若い日本共産党員は宮本顕治さんの昔の論文を入手しにくい。

昭和30年まで在日の共産主義者が日本共産党員だったことを知っている若い日本共産党員など、稀有でしょうね。


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