昔の日本共産党は武装集団だった
昔の日本共産党(国際共産党日本支部)は、ソ連から拳銃と資金を受取り武装して内乱を起こそうとしていました。
特別高等警察は内乱を防ぐべく、武装集団の日本共産党内にスパイを送っていました。
この時期に中央幹部だった宮本顕治(当時25歳)、袴田里見(当時29歳)、秋笹正之輔(当時30歳)、逸見重雄(当時34歳)、木島隆明(年齢不詳)、小畑達夫(当時26歳)各氏はスパイは近くにいるに違いない、という気持ちにさいなまされていたでしょう(年齢は松崎いたるさんの本より抜粋)。
小畑さんと同時期に査問された大泉兼蔵氏(当時35歳)は実際にスパイでした。
宮本顕治さんらが行った過酷な査問の末、小畑達夫さんは亡くなりました。
この事件について、殆どの日本共産党員はリンチ、過酷な査問など特別高等警察の捏造で、小畑達夫さんは特異体質だから突然死したと信じていると考えられます。
そう信じている日本共産党員の皆さんは、この事件に関する宮本顕治さん、袴田里見さんの文献を読んだのでしょうか。
日本共産党員は宮本顕治さんの論考を読むべきだ
ある事件についての史実を調べる時、その事件に参加した方の手記や、発言の記録を参照するべきです。
その方がその事件のごく一部しか体験していないなら、手記や発言の記録に思い違い、聞き違いが生じうる。
またその事件の全体を把握しうる地位にいた方の場合、何らかの思惑により自分の役割を誇張もしくは矮小化する場合もあります。
その事件に参加した方々の手記や発言記録を可能な限り多く集め、読み込んで行くことにより史実が徐々に明らかになると考えられます。
日本共産党(国際共産党日本支部)が昭和8年12月23日から24日に起こしたスパイ査問事件については、査問する側だった宮本顕治さんと袴田里見さんの公判調書、訊問調書と手記が出版されています。
今の日本共産党員がこの事件について語るなら、少なくとも次を読むべきでしょう。
宮本顕治論考「スパイ挑発との闘争」と「宮本顕治 公判記録」(昭和51年新日本出版社刊行)
平野謙「『リンチ共産党事件』の思い出』(昭和51年三一書房刊行)に掲載されている袴田里見さんの訊問・公判調書。
これらを読めば、小畑達夫さんがどのように亡くなっていったかについて宮本顕治さんと袴田里見さんの間で、大きな違いはないことがわかります。
この件について、本ブログは以前にも論じています。下記です。黒坂真のブログ 被拉致日本人救出のために Rescue Abducted Japanese by North Korea: 宮本顕治氏はスパイ査問事件(昭和8年12月23、24日)について論文でどう語ったかー「スパイ挑発との闘争ー1933年の一記録ー」より (blueribbonasiya.blogspot.com)
宮本顕治さんの公判調書の該当部分を、以下現代語訳します。出典は上記の公判記録です。
宮本顕治さんは小畑さんの手足を縛っていたことを認めている
次に小畑の死に関して
私は夜間徹夜で三名を一通り訊問して疲れたので当日は木島と共に同書の炬燵(こたつ)に入って寝た。
眠る前の状景は小畑は座敷の押し入れと窓際の中央あたりに手足を縛られ、足を投げ出し、腰をしたにしていた。
何かによりかかっていたようなことはない。同人が押し入れに入っていた時に壁に穴をあけ逃げようとしたので座敷へ出されたのである。
大泉は座敷の真ん中へ転がしてあった。二人とも押し入れから出してあった事に間違いない。
私がひと眠りしたとき、物音で目を覚ますと小畑は手足が自由になっていて起き上がろうとしていた。それに袴田が飛びかかっていき、逸見もそこへ来て袴田は足の方、逸見は頭の方にいた。
私も駆け寄って小畑の右手を小畑の横に座って両腕を抱きかかえる形で止めており、木島も来て向かい側で暴れる小畑の手を止めようとしていた。
小畑は手足を動かし声をたてようとするので逸見は声をたてさせまいと口のあたりを押さえた。
その時小畑は風呂敷か外套を頭からかぶされていたが、そのまま暴れたので皆で小畑を押さえつけた。
そのうちに小畑は声をたてなくなり、静かになった。
私は彼が観念したかと思ったのであるが、そこへ秋笹が上がってきて小畑を起こした。手ごたえなくこれはいかんと皆を難詰したのである。
被せた風呂敷を取り除いてみると顔色が既に変わっていたのであって、これは瞬時の出来事である。
それで秋笹が人工呼吸をしたが効果なく、逸見が脈を取ったが既になかった。自分は柔道の手で活をいれたがそれも駄目であった。
それで彼の死を知ったのである。(黒坂による訳はここまで)。
宮本さんは、小畑さんの手足を縛っていたことを認めています。以下は宮本さんの公判調書の抜粋です。
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