2020年9月12日土曜日

宮本顕治氏はスパイ査問事件(昭和8年12月23、24日)について論文でどう語ったかー「スパイ挑発との闘争ー1933年の一記録ー」より

 宮本顕治氏は、上記論文を昭和20年12月に執筆し、「月刊読売」1946年3月号に掲載されました。

「赤旗」昭和50年12月11日に、この論文が再掲載されています。

スパイとレッテルを貼られた小畑達夫さんが、拷問の末査問者に殺されたのか、査問者は拷問など一切していないのに、小畑さんが特異体質だったから急死したのか。

宮本顕治氏と日本共産党は勿論、後者を主張しています。

不破哲三「日本共産党の歴史と綱領を語る」(平成12年新日本出版社刊行、p18)は、二人のスパイのうち一人が調査の途中、急性の心臓死を起こしたと述べています。

この件では、小畑達夫さんがどのように亡くなっていったのかが鍵です。査問者らは、小畑さんがこの世を去っていく現場を目撃していました。

私見では小畑さんの亡くなり方、最期の数分について、査問現場にいた宮本顕治氏と袴田里見氏の間で見解の相違は殆どない。

まずは宮本氏の上記論文から、小畑さんの最期について記した部分を以下、抜粋します。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた

「査問が一段おちついたところで、前夜査問にあたっていたわれわれは、こたつにはいってうとうとしていた。

逸見と同志袴田が、両名に補足的な訊問をやっていたようであった。

時刻はひるすぎであっただろう。突如私は深い眠りから急な物音によって呼びさまされた。

見ると、小畑が拘束されていた手足の紐をたちきって、窓際によろうとしているのに、同志袴田と逸見が気がついて小畑にとりつこうとしている。

二人は、大泉の訊問をしていて小畑から少し目をはなしていたらしい。

事態の重大性を直感し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍らへよった。

小畑は、大声をあげ、猛然たるいきおいでわれわれの手をふりきって、あばれようとする。

私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。

逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせてかけていた。

私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。

すると、そのうち小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑から離れ、事態が混乱におちいらなかったことをほっと一安心した状態であった。

そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。

すると、顔色が変わり、生気をうしなっている」。

宮本顕治氏と袴田里見氏の見解の主な相違点

宮本氏のこの描写と、袴田氏が予審でした話との主な違いは以下の二点です。

第一は、逃げようとした小畑氏の抑え方です。

小畑氏が査問現場から逃げようとしたとき、宮本氏は自分は小畑氏の手を抑えていただけと主張している。小畑氏は仰向けだったと宮本氏は述べている。

予審調書によれば袴田氏は、小畑氏が逃げようとしたので足をつかみ、小畑氏はうつぶせになっていた。

宮本氏が馬乗りになって膝を小畑氏の背に押し付け、右腕をねじ上げたそうです(下記)。

第二は、逸見重雄が倒れた小畑氏の喉を締めたか否かです。宮本氏は、逸見氏が頭上から風呂敷のようなものをかぶせていたと述べています。

袴田氏は小畑氏がオーバーを頭に被せられており、その上から逸見氏が両手で小畑氏の喉を押さえて大声を出せないようにしたと述べています。

小畑氏が最期に大声をあげたことについては、両者は概ね一致しています。

二人の話のうちどちらを信じるかという問題ですが、宮本氏の主張どおりなら査問者は大した圧力を小畑氏にかけていない。

しかし仰向けで脚と手を抑えられているなら、脚で袴田氏を蹴飛ばせそうです。

仰向けで手を抑えられていても振り払うのは難しくない。

宮本氏には柔道の心得がありました。

仰向けになっている人を抑えるなら、縦四方固め、横四方固め、上四方固めなどの技を使うはずです。

よほどの体力差がない限り、仰向けの人を抑え込むためには手と足を抑えているだけでは不十分です。

袴田氏のいうように小畑氏がうつ伏せにされて背中を足で圧され、片手を巻き上げられてさらにもう一つの手と足も抑えられているなら動けないでしょう。

逸見氏が小畑氏の喉を締めたなら窒息しそうです。

想像してみれば、かなり苦しい姿勢と思えます。

小池晃書記局長にyou tubeで、小畑達夫さんの死亡について死体解剖検査記録から説明して頂きたい

小畑氏が窒息死したのか、心臓発作をおこしたのか、私にはわかりません。これは司法解剖の結果の鑑定書から専門家が判断するべきでしょう。

両方かもしれません。

私は袴田氏が、真実を述べていると考えています。

医師の小池晃書記局長が、現代医学の観点から死体解剖検査記録をどう読むか、御自身のyou tubeで解説して頂きたいものです。



血液流動性暗赤色、粘膜、漿膜の溢血点が多い。諸臓器のうっ血とは(上は中田友也医師の「前衛」掲載論考より)

立花隆さんらによってこの事件が論じられていた頃、雑誌「前衛」に中田友也医師が「小畑達夫は外傷性ショック死ではないー死因についての医学的考察ー」という論考を発表しています。

中田医師は、小畑氏の死体解剖検査記録を分析し、特徴的所見として次を指摘しています。

(A)血液流動性暗赤色、粘膜、漿膜の溢血点が多い。諸臓器のうっ血が強い。

(B)肥満、胸腺実質残存、舌根、咽頭の琳巴臚胞の発育、脾臓臚胞、皮下脂肪の発育

(C)肥満、心肥大、脂肪組織の発育良

「(A)があるからといって、窒息死と即断してはならないことです。

この(A)の徴候は急死死体にみられる一般的所見であって決して窒息死だけにみられる特異的なものではないので、窒息死と判断するためにはその手段、方法が明らかになっていなければなりません」(中田論文より抜粋)

私には死体解剖検査記録のこれらの記載がどんなことなのか、よくわかりません。

窒息死の場合には、死体に(A)が見られるのでしょうね。

小畑氏が窒息死した手段、方法は袴田氏の話から明らかだと思えます。

小池晃医師がこの記載では窒息死ではありえない旨、you tubeで説明して下さったら良いのですが。

この記載の状態は、窒息死ではなく心臓発作を起こして亡くなった方の死体によくみられるのでしょうか。

喉を締められ、胸部を圧迫されて窒息状態になり、心臓発作を起こすことはありえないのでしょうか。

インターネットに「法病理学講義ノート」(青木康博先生。名古屋市立大学大学院医学研究科法医学分野)が出ていました。

青木先生作成のファイル(第10章 窒息)によれば、窒息死の所見(急性死の3徴)は、以下です。急性死一般にみられる所見だそうです。

(その1)諸臓器のうっ血(その2)溢血点(その3)暗赤色流動性血液

青木先生はこれらが急性窒息の際に、著明に出ると記されています。小畑達夫氏の死体解剖記録にも、同様の記述があるようです。

急性心臓死でもこれらが出るのかもしれません。

袴田里見氏の第十二回訊問調書より(平野謙「『リンチ共産党事件』の思い出」三一書房昭和51年刊行に、資料として掲載。現代語に書き換えました)

査問現場から小畑氏が逃亡しようとしていることにに気づいた袴田氏は次のように行動しました。

「そこで私は、これは大変だと思って抱きしめるようにして矢庭に組み付き、座敷の中へ引き戻そうとすると手足の自由になった小畑は、私に自分から組み付いてくると同時にウォーというような大声を張り上げました。

そこで私も、殆ど夢中で同人を引き戻し略図のDの所へ一緒に倒れたのであります。

そのとき私はあおむけに、小畑はうつぶせして倒れたのでありますが、倒れた小畑の頭の傍らに逸見が座っており、またこの騒ぎに寝ていた宮本、木島の両名が起き上がってきました。

その瞬間、小畑が起き上がろうとしたので木島はその両手で小畑の両足をつかんでうつぶせに倒し、宮本はその片手で小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷きました。

逸見は前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭がいったので、その頭越しに、すなわち小畑の頭にかぶせてあったオーバーの上から両手で小畑の喉を押さえて小畑が絶えず大声を張り上げてわめくので、その声を出させないためにその喉をしめました」

なお、小畑氏、大泉兼蔵氏を査問したのは以下の五人です。

宮本顕治(当時、党中央委員)

逸見重雄(当時、党中央委員。戦後は法政大学教授。仏領インドシナ、ベトナムの研究者)

秋笹正之輔(当時、党中央委員候補。後に獄中で病死)

袴田里見(当時、党中央委員候補)

木島隆明(当時、党東京市委員長)

袴田氏、秋笹氏は査問の二日目に宮本氏、逸見氏により中央委員に昇格されたそうです。

大泉兼蔵氏がスパイだったことは明らかですが、当時、中央委員を務めていました。

亀山幸三「代々木は歴史を偽造する」(昭和51年経済往来社刊行)より。




0 件のコメント:

コメントを投稿