2020年2月17日月曜日

日本共産党のスパイ査問事件(昭和8年12月23、24日)について―袴田里見判決文(亀山幸三「代々木は歴史を偽造する」経済往来社昭和51年刊行)より思う―

「宮本は小畑の右腕をつかみてねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷き自分は小畑の腰を抑えたり。小畑はくそ力を出して跳ね返さんとし苦しそうな声で呻きおりたるか突然静かになり、一同あぜんとした。


そこへ秋笹が階下より上り来た。

この有様を見て騒ぎ出し、自分も小畑の脈を取りて見たるにすでに脈は切れていたるをもって、

まごまごしていると駄目になると言いながら薬缶の水を頭よりうちかけ

秋笹は小畑に対し人口呼吸を試みたるも終にその効なかりき。

そこで木島を除き宮本、秋笹、逸見、および自分の4名にて会合を持ち...」(原文は旧仮名遣いなので、私が現代風に書き換えました)。

袴田里見はこの本が出た時点では、日本共産党の副委員長でした。

リンチ査問事件として知られているこの事件は、昭和8年12月23日から24日にかけて生じています。

スパイとみなされ、査問されたのは小畑達夫、大泉兼三です。

査問をした側は宮本顕治、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔の4人です。途中から木島隆明も協力しました。

査問の場所は東京都渋谷区幡ヶ谷本町2丁目207番地の民家でした。

秋笹正之輔は小畑が査問現場から逃げようとしたときは見張り役でした(敬称略)。

大泉兼三は警察のスパイだったことがわかっています。

この時期の日本共産党はテロリスト集団そのものです。

大泉兼三はテロリストを逮捕、投獄すべく身を挺して日本国家を守った方でした。

殴打や蹴飛ばすなどの拷問で小畑達夫は疲労困憊


判決文によれば、なぜ最初から本当の事をいわないのかと宮本、袴田、秋笹は小畑を打つ、殴る、蹴るなどしました。

小畑は査問時、両手を後ろに廻し、針金と縄で縛られていました。

足も針金と縄で同様に縛られていました。

査問中、小畑は硫酸の瓶を腹部に押し付けられ、流れるぞと脅かされました。あまりにも凄惨な査問の様子が浮かんできます。

日本共産党は、小畑達夫が特異体質の持ち主で静かに査問をしていたところ急死したと主張しています。

しかし宮本顕治らが逃げようとした小畑を抑えつけたことは否定していません。

袴田里見の供述に説得力


袴田里見の訊問・後半調書は平野謙「『リンチ共産党事件』の思い出」(三一書房昭和51年刊行)に掲載されています。

第十二回尋問調書で、袴田里見は次のように述べています(以下は私が現代風の表現にしました)。

「その瞬間小畑が起き上がろうとしたので木島はその両手で小畑の両足をつかんでうつぶせに倒し、

宮本はその片手で小畑の右腕をつかんで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷きました。

逸見は前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭がいったのでその頭越しに、すなわち小畑の頭にかぶせてあったオーバーの上から両手で小畑の喉を抑えて、

小畑が絶えず大声をはりあげてわめくのでその声を出させないためにその喉を締めました。

その時私は小畑の腰のところを両手でおさえつけていたのであります」

小畑が死亡にいたる経過を、袴田里見は生々しく語っています。どういうわけか、宮本顕治は具体的な反論をしませんでした。

小畑は特異体質た、という程度です。小畑の死体に相当な傷があったことは確かです。

査問で疲れ切っていた体で逃げようとしたところ、4人の男にうつぶせの姿勢で抑えつけられ、背中に膝を載せられて腕をねじ上げられたらかなり苦しい。

疲れ切った体でプロレスや柔道の締技をかけられてしまった状況と似ています。

直接の死因が、窒息死なのか、あるいは心臓発作や臓器不全なのかは私にはわかりません。

この事件が国会で取り上げられた当時、日本共産党職員として反論する側だった兵本達吉氏によれば、宮本顕治氏はこの問題を扱う部署の会議にも出なかったそうです。





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