「印刷所と紙がブルジョアジーから没収されているから、出版の自由は偽善ではなくなっている。りっぱな建物、宮殿、邸宅、地主の家についても同様である。ソヴェト権力は、こういうりっぱな建物を何千となく搾取者から一挙にとりあげた」(全集第28巻、p262より抜粋)。
日本共産党元参議院議員の聴濤弘氏は近著で、十月革命は地主の土地の没収や8時間労働制・全般的社会保障の導入などを実現する「ブルジョア民主主義革命」だったと主張しています(「ロシア十月革命とはなんだったか」本の泉社、p76)。
民主主義革命ならば、当時のロシアには民主主義が確立していたのでしょうか。
民主主義の大前提である、人々の生存権はどうだったのでしょうか。
当時のロシアは、経済が破たんしており相当数の人々が失業し、飢餓状態でした。
革命期のロシアについては、長谷川巌「ロシア革命下ペトログラードの市民生活」(中公新書)が詳しい。
ペトログラードでは革命期に社会秩序が崩壊し、犯罪が蔓延していきました。生存権の確立とは程遠い。
1918年には内戦が激化します。
8時間労働制や社会保障制度など言葉だけで、実体は何もない。ロシアの現実と無縁の宣伝に過ぎない。
そもそも社会保障制度があれば、飢餓状態になるはずがない。
失業者は働き場がないから8時間も労働できない。
衛生状態が悪化し、赤痢やコレラが流行し、暴力事件が頻発しているのが当時のロシアだったのです。
土地や住んでいた邸宅を没収された地主、貴族はその後、どうなったのでしょうか。
放浪して餓死した方は少なくなかった。
聴濤弘氏はそもそも、レーニンの「プロレタリア民主主義論」を御存知ないとしか思えません。
ボリシェヴィキはブルジョアジーと地主の邸宅を一挙に没収した
レーニンはプロレタリア民主主義について、論文「プロレタリア革命と背教者カウツキー」で詳述しています。
上記によれば、レーニンはブルジョアジーとレッテル貼りをした人たちに紙を印刷所の使用権を剥奪しました。
ブルジョアジーと地主の邸宅を何千となく一挙に没収したのです。これは私有財産制を保障するブルジョア民主主義ではありえない。
レーニンはプロレタリア民主主義の立場から、搾取者を暴力的に抑圧することを正当化しました。以下です。
「ロシアでは、官僚機関は全く破壊され、一物も残さず破壊しつくされ、旧裁判官は全部追放され、ブルジョア議会は解散された。
そしてとくに労働者と農民とにはるかに近づきやすい代議制度が与えられ、官吏は彼らのソヴェトと取り換えられるか、彼らのソヴェトが官吏のうえにすえられ、彼らのソヴェトは裁判官の選挙人とされた」(全集第28巻、p263-264より)。
レーニンはこのように認識していたのでしょうが、官僚機関が完全に破壊されたとは考えにくいですね。うまく身を処して生きのびた役人もいたはずです。
現実がこの記述どおりなら、1918年頃のソ連の裁判所はソヴェトを通じてボリシェヴィキの完全な支配下にあった事になります。
ともあれ、レーニンのプロレタリア民主主義論では、裁判所はソヴェトに従属すべき組織です。
レーニン「階級としての搾取者を暴力的に抑圧せよ」
さらにレーニンは次のように断言しています。
「独裁の欠くことのできない標識、独裁の必須の条件は、階級としての搾取者を暴力的に抑圧することであり、したがって、この階級に対して「純粋民主主義」を、すなわち平等と自由を破壊することである」(全集第28巻、p271)。
階級としての搾取者、すなわち地主、貴族、富農やロシア正教会関係者を暴力的に抑圧する事が、プロレタリア民主主義であるとレーニンは考えていたのです。
レーニンとボリシェヴィキの暴力を強く批判したカウツキーの理論は、「純粋民主主義」であるからマルクス主義と無縁である旨、レーニンはこの論文で繰り返し述べています。
住居が邸宅であれ、突然暴力的に没収されたら怒らない人がいるでしょうか。
住居から追放されたら、寝泊まりする場所がなくなってしまいます。酷寒のロシアで、長く生きられるはずもない。
地主や貴族、富農がボリシェヴィキに抵抗するのは、自らが生きのびるためだったのです。
レーニンのプロレタリア民主主義論は、愛弟子スターリンに継承されました。
ソ連はスターリンにより変質させられた、などと志位和夫氏らは宣伝しています。
レーニンの「プロレタリア革命と背教者カウツキー」や、富農撲滅を唱える諸論文を志位和夫氏、聴濤弘氏らは一体どのように読んでいるのでしょうか。
レーニン全集を真面目に読めば、レーニンの教えをスターリンが忠実に実行したから、多くのボリシェヴイキ幹部に支持されたのだと考えるべきです。
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